信州読書会 書評と備忘録

世界文学・純文学・ノンフィクションの書評と映画の感想です。長野市では毎週土曜日に読書会を行っています。 スカイプで読書会を行っています。詳しくはこちら → 『信州読書会』 
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2013年06月15日

草野球の神様 ビートたけし 新潮文庫

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商店街の自営業者の弱小草野球チーム『所沢ブラボーズ』に
野球通のホームレスがコーチとして加わる。


彼によって「野村ノート」を地でいく野球理論を叩き込まれると、
弱小チームのメンバーは覚醒し、連戦連勝の快進撃をはじめる。


かくして、彼は“草野球の神様”と呼ばれるようになる。
はたして彼の正体は…。


★感想
草野球チームが強くなるという、少年野球漫画なみのプロットに
草野球のひねくれた必勝理論と過去の名選手にまつわる
興味深い逸話をまじえることで、大人の興味を引く読み物にしている。



・草野球の神様のコーチング
1. 勝敗にかかわらず、試合後は30分反省会をする。
2. 相手に野球をやる喜びを与えることで、油断させ、負けさせる。
3. 2ストライクまでボールを見る。流し打ちを心がける。
4. 打ったら全力疾走。
5. 捕球したら確実に投げられる場所まで走る。



この通りやって、さらに汚いトリックプレー駆使して、
チームは見違えるように強くなる。
その過程が生き生き描かれていて、読ませる。


野球をやる喜びにおぼれるのが一番危険だ、
勝つには野球をやる嬉しさを抑えなければならない。
という“草野球の神様”の説教があるのだが、
いかにもビートたけしが、好んで言いそうな逆説である。
カリスマの人生訓めいている。こういう逆説が好きな人にはたまらない。


「野球」を「お笑い」に変えても成り立つ意味深な逆説ではある。


作中、いたずらばかりするバカ一号、二号という、脇役が出てくるが、
これを読んだときに、カフカの『城』の測量技師Kの助手である
あるアルトゥールとイェレミアースにかなり似ていると思った。
そういう意味で、密かに実存主義的な趣向を凝らした作品だと思う。買いかぶりか。

草野球の神様 (新潮文庫)


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posted by 信州読書会 宮澤 at 14:04| Comment(0) | 日本文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

蝶々の纏足・風葬の教室 山田詠美 新潮文庫


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★『風葬の教室』あらすじ


都会から田舎の小学校に転校して来た本宮杏は、やがていじめを受ける。
かわいい彼女が体育教師、吉澤先生のお気に入りとなったことに
嫉妬したクラスメートの美恵子が、いじめの張本人であった。


杏は陰湿ないじめの数々に耐えられず自殺しようとするが、
遺言をしたためた夜に、姉が、同じようないじめにあって、
周囲を軽蔑し欲望の赴くままに生きると決意することで、
いじめを克服し、立派な不良少女になったのという話を聴く。


その話にカタルシスを得て、勇気づけられ、杏は自殺を思いとどまる。
かくして、彼女は周囲のダサいものすべてに中指を立てて生きはじめる。

★感想
山田詠美を初めて読んだ。ジュブナイルとしては巧い。

中学生時代の教室の嫌な雰囲気は思い出した。
周囲は醜かったが、自分もそれに劣らず醜かった。
中学生というのは、人生で一番醜い生き物である。


新約聖書に以下のようなイエスの言葉がある。

<死にたるものにその死にたるものを葬らしめよ>
すなわち「過去に過去を葬らせよ」という意味である。


読者に、過去の醜い出来事をやたらに追体験させる小説というのは、
つまるところ、小説の著者が未だに過去にかかずらっていることを証明している。



大人であるというのは、かっこいい振る舞いをできることではなく
過去を一顧だにしない強さとともに生きることだと思う。
創造の営みは、そういう強さとともにあるべきではなかろうか?


なんて思った。


蝶々の纏足・風葬の教室 (新潮文庫)


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posted by 信州読書会 宮澤 at 14:03| Comment(0) | 日本文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

朝霧 青電車 その他 永井龍男 講談社文芸文庫

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★「朝霧」あらすじ
学生時代の友人の父君X氏。
彼の耄碌よる奇矯な行動を描く。


★感想
戦争前の東京の光景が描かれている。
X氏は、元教員。今は退職している。

すべての教え子のみならず、
彼らの近所に住む人のことまで、
名簿によって憶えている。

よって、彼らが死ぬと面識がなくても葬式に出かける。
そのため葬式爺さんと陰で呼ばれている。
生活上の秩序を重んじ、それが乱れると狼狽する。


要するに、もう現実と幻想の境がなくなるまで耄碌している。
その様子をふんだんなエピソードで読ませる


永井龍男の、40代の作品。
まだ初期の作品なので『青梅雨』の諸作品より
切れ味は鈍い気がする。

朝霧・青電車その他 (講談社文芸文庫)


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posted by 信州読書会 宮澤 at 14:03| Comment(0) | 日本文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

くっすん大黒 町田康 文春文庫


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★あらすじ
妻に逃げられた無職の男、楠木正行が、友人で大学生の菊地と
洋品店でバイトしたり、映画製作の手伝いをしたりする。



★感想

5年ぶりぐらいに再読。こんな話だったっけと驚いた。
面妖な人びとが次々と出てきてコントみたいである。
亀を焼いて爆発させたのが面白かった。

30歳前後で男前のお兄さん。
素人なのに芸人っぽい面白さを持っている先輩。
たよりないが、でもみんなから愛されている。
こういうジャンルの人間が身の回りにいるものだ。

たとえば大泉洋。愛すべき人。まさしくそういうジャンルの人だ。
主人公の楠木正行も、そういうジャンルの人だ。

しかし、現実では、昔、人気もので面白かったはずの先輩が、
数年ぶりに飲み会で再会してみたら普通の人に退化していて
がっかりさせられるというか、感傷的な気分にさせられることがある。


くっすん大黒 (文春文庫)



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ラベル:町田康
posted by 信州読書会 宮澤 at 14:02| Comment(0) | 日本文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

クレチェトフカ駅の出来事 ソルジェニーツィン 岩波文庫所収


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★あらすじ
1941年ソ連各地がドイツ軍に侵攻された時代。


クレチェトフカ駅の輸送本部士官ゾートフは、
貨物列車の運行状況を管理している。
まじめなスターリン主義者であり、前線で戦えずに
後方勤務をしていることを後ろめたい気持ちを抱いている。
彼の妻と子供は、ドイツ包囲下の街にいて消息不明である。


当直室に、列車に乗り遅れたというトヴェリーチノフという
モスクワで俳優をしていた知的な老人が現われる。

ゾートフは雑談しているうちにこの老人に好意を抱くが、
「スターリングラード」という地名を知らないために、
逃亡ドイツ将校ではないかという一方的な疑念を抱き、彼を拘留する。
しかし、不当逮捕でなかったかかとその後ゾートフは思い悩む。


★感想
主人公のゾートフは、資本論の第一巻を大事に隠し持ち読んでいるゴリゴリの共産主義者で
スターリンを強く崇拝している愛国心の塊のような人間である。

スターリンを聖人まで崇め、職務に従順であったために
善良な老人を逮捕せざるを得なかった役人の哀しみを描いている。


戦時下、祖国防衛のためには、スターリンを信じて
不幸を堪え忍ぶことでしか生きられないかった。


必然的なものには屈せざるをえないという人間の悲惨をゾートフという役人が象徴している。
それは、この物語を描いていたときに政治的立場と作家的良心が
分裂せざるを得なかったソルジェニーツィンの悲惨と同じものである。
社会主義リアリズムで現実を描くほどに、スターリンの政治体制の矛盾が
主人公によって象徴されてしまうという危うさにこの作品には満ち満ちている。


政治に断罪された主人公を描いた『イワンデニーソヴィチの一日』ほうが、
ソルジェニーツィンの精神が自由闊達に表現されるのは、皮肉なことだ。


三単一の規則(一日の出来事、一つの場所、一つの筋)を遵守して描いていて
ソルジェニーツィンの古典的な手法へのこだわりが看取できる。


さらに、ロシアの女性たちや駅の光景の細かい描写などから
19世紀の自然主義作家にも相通ずるような
ソルジェニーツィンの観察眼の鋭さを感じとることができる。
作品構成の確かさと、描写の的確さに私は深く感動させられた。

ブルジョワのいなくなった国で、社会主義リアリズムを駆使すると
必然的に政治体制の批判に至ってしまうという矛盾を、
ソルジェニーツィンは心ならずも証明してしまった。




意味が人間を裏切るという哲学的問題を、この作品は孕んでいる。

ソルジェニーツィン短篇集 (岩波文庫)


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posted by 信州読書会 宮澤 at 14:01| Comment(0) | ロシア文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

アメリカの夜 阿部和重 講談社文庫


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★あらすじ
映画学校を卒業してアルバイト生活を送る中山唯生。
主人公の私は、とりあえずそう名付けた中山唯生の
脳内独白と、彼の巻き起こした事件を語る。

★感想
久々に読み直したら、かなり笑った。
中山唯生の独白がすべてパスティーシュで構築されていて、
引用された諸作品のことを知っている読者には、かなり面白く読める。


プロットがあるので、高橋源一郎の『さようなら、ギャングたち 』よりも読みやすい。
青春の煩悶とドラマを、パスティーシュでもって叙情的に描いたことがすごい。
ただ、これは、田中康夫の『なんとなく、クリスタル』のように
たくさん注をつけて出版すべき小説のような気もした。


主人公が、現実と虚構を混同して生きていることに、自覚的だという意味で
アナトール・フランスの『シルヴェストル・ボナールの罪』に似ている。

こういう作品を、また書いてほしい。
もう書かないのかな。書かないだろうな。
魅力的なパスティーシュがなければ、平凡なプロットしか残らない作家だと思うけど。

アメリカの夜 (講談社文庫)



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ラベル:阿部和重
posted by 信州読書会 宮澤 at 13:59| Comment(0) | 日本文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

まぶた 小川洋子 新潮文庫


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★表題作「まぶた」あらすじ
15才の少女である主人公のわたしと
50過ぎの独身中年男性の逢瀬をスケッチした短編


★感想
どこの国なのかわからない設定だった。
町で最高のシーフードレストランでふたりはデートするのだが、
外国の港なのか、瀬戸内海の漁港なのか、さっぱり不明。


出てくる登場人物は、白人っぽい気もする。
でも、描写された小道具は日本のものである。
具体的な固有名詞が排除されていて寓話仕立てなのだが、
そのためか、イメージがさっぱり浮かばず読んでいて途方に暮れた。
いままで読んできた小川作品でもっとも、トホホな男性が描かれていた。


デートの後の会計でクレジットカードが取引停止になっていて、
ふたりが店の裏口からたたき出される場面は、結構好きだ。

道徳も社会も人間性も知的さも何もない世界にイメージの構築だけで
ストーリーを作っているところに作者の窒息しそうなほどの苦しさを感じた。
モノクロのホラー小説。題名は『見えない海』にしたほうがいいと思う。

まぶた (新潮文庫)



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posted by 信州読書会 宮澤 at 13:58| Comment(0) | 日本文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

嘘つき男・舞台は夢 コルネイユ 岩波文庫 その二


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★『舞台は夢』あらすじ
家出息子のクランドールを捜す父プリマダンは、
魔術師、アルカンドルに息子の安否を尋ねる。


すると、アルカンドルは、プリマダンの目の前に
舞台を出現させ、クランドールの家出の遍歴を見せる。


かくしてクランドールが主人公となった
悲喜劇が繰り広げられ、彼は悲劇的な死を遂げる。


殺された息子を見て悲しむプリマダンに
実は、クランドールは有名な劇団の俳優になっており、
あなたの観たのは、すべてその劇団の芝居であると種明かしする。要するに夢オチ。


★感想
ギリシア悲劇の時代から、演劇は五幕物がオーソドックスである。
五幕という形式の規範性こそが、演劇に高度なプロットを発達させた。


私の戯曲への興味は、第一に五幕の形式の展開である。
『舞台は夢』は、いままで読んだことのないような斬新な展開だった。


なにしろ、第一幕がプロローグ、第二・三・四幕は喜劇、第五幕は悲劇という構成で、
「劇中劇」(メタフィフィクション)が二つも挿入されているという実験的な演劇であったのだ。


第二・三・四幕はイタリア経由のスペイン民衆劇の模倣。
第五幕は、コルネイユが得意だった古代ローマ悲劇の模倣である。
そうしてその二つの劇中劇が、結末でただの演劇だと種明かしされる。
この斬新さは、二十世紀の演劇に通じる実験性がある。コルネイユ恐るべし。
ただ、形式の斬新さに比べて、内容の面白さは正直なところ微妙であった。


★バロックと古典主義について
訳者井村順一氏の解説で演劇のおける『バロックと古典主義』について説明している。
この説明がなかなか勉強になったので簡単にまとめて紹介したい。


・「バロック」とは?
流動の感覚を基本的性格とし情念に優位をあたえる非合理主義的文学であり、
「だまし絵」的趣向、変装、取り違えなど錯覚を乱用するという特徴をもつ。


・「古典主義」とは?

(常識と言う意味での)理性を基礎におき、悲劇、喜劇のジャンルの峻別や、
三単一の規則(一日の出来事、一つの場所、一つの筋)を要求する。
また、「真実らしさ(荒唐無稽であってはならない)」
「(周囲の状況への)適合性(例えば反道徳的な言動や残酷な場面を許さない)」を重視する特徴をもつ。


<「バロック」は劇中劇(メタフィクション)の導入>


<「古典主義」は劇中劇(メタフィクション)の否定>
というふうに捉えることができる。


以上の「バロックと古典主義」の定義から私が思ったのは、
「まんが、アニメ」と「純文学」の対立は表現形式の違いを無視すれば、
演劇における「バロック」と「古典主義」の対立とほぼ同義である。
キルケゴールの述べる「空想」と「想像」の対立とも問題圏が重なる。
作品への「メタフィクション」の導入めぐったところに対立があるのだ。


コルネイユは「バロック」と「古典主義」どちらも描いた。
二つの概念が混在した時代に生きていたからだそうである。
ただ、バロックで描くと喜劇、古典主義で描くと悲劇とならざるをえなかった。



メタフィクションの導入は作品のジャンルを規定するということである。


嘘つき男・舞台は夢 (岩波文庫)


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ラベル:コルネイユ
posted by 信州読書会 宮澤 at 13:57| Comment(0) | 戯曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

侏儒の言葉・文芸的な、余りに文芸的な  芥川龍之介 岩波文庫

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芥川龍之介 侏儒の言葉・文芸的な、余りに文芸的な

芥川最晩年の評論的断章。
谷崎潤一郎との「話」らしい話のない小説に関する論争の引き金となった。



現在にも通ずる論考が満ちていて、刺激的な本だが、
芥川の参照にする小説や作家ついての予備知識がなくては、
何の話かさっぱり理解できないという不親切な本でもある。


『三十八 通俗小説』という断章があり、
そこで、芥川が「通俗小説」を定義している。
ただし、この「通俗小説」というのは「探偵小説」や「大衆文芸」を含んだものではないと
芥川が自ら注記している。なので、後々「純文学」と呼ばれるようになった
小説の中での「通俗小説」のことを指していると思われる。



いわゆる通俗小説とは詩的性格を持った人々の生活を比較的俗に描いたものであり、
いわゆる芸術小説とは必ずしも詩的性格を持っていない人々の生活を比較的詩的に書いたのものである。
両者の差別はだれでも言うようにはっきりしていないのに違いない。
けれどもいわゆる通俗小説中の人々は確かに詩的生活の持ち主である。これはけっして逆説ではない




芥川らしい嫌味な逆説だが、それに対してまで
『これはけっして逆説ではない』とエクスキューズをつけていて、
用意周到というか、気の毒なほどに神経過敏である。


『通俗小説中の人々は確かに詩的生活の持ち主である』

という指摘は無視しえない。
クラシックを聴いたり、映画を観たりするような詩的性格を持った登場人物の
詩的生活を描いた小説は、芥川の定義では『通俗小説』ということになる。

現在の「純文学」と一般に呼称される小説のうちで、「通俗小説」の陥穽を遁れた小説を探すのは難しい。
同じく『詩的性格を持たない人々の生活を比較的詩的に書いた』小説を探すのも難しい。

ただ、芥川は、志賀直哉を「通俗小説」の陥穽を遁れた作家として評価しているのが本書でわかる。


侏儒の言葉・文芸的な、余りに文芸的な (岩波文庫)


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posted by 信州読書会 宮澤 at 13:57| Comment(0) | 日本文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

父帰る・屋上の狂人 菊池寛 新潮文庫

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父帰る/屋上の狂人 (新潮文庫 草 28-2)


★「父帰る」あらすじ
20年前に妻子を捨てて出奔した父が、旅芸人を廃業して帰ってきた。
自殺まで企てた昔を忘れたかのように喜び迎える母。
しかし、一家の辛苦をなめ弟妹を育ててきた長男賢一郎は父を拒み喧嘩になる。


★「屋上の狂人」あらすじ
屋根の上に登りたがる白痴の長男を見かねて、
父は、巫女に頼んでお祓いをしてもらう。
巫女は、狐を追い出すために煙でいぶせというので、
みんなで長男をいぶしていると、帰宅した次男がそれを見咎める。
次男は、巫女を蹴り倒し、兄を守ろうとする



★感想
菊池寛は、一幕物の民衆劇を多数制作している。
アイルランド劇の影響が大きいそうだ。


肉親の情を描いていて泣ける。要するに芸能。
無駄な饒舌が一切ない。
簡素であるだけに劇的効果が上がる戯曲の好例。


情緒に訴えるために方言が駆使されている。



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posted by 信州読書会 宮澤 at 13:56| Comment(0) | 戯曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ゲーム的リアリズムの誕生 東浩紀 講談社現代新書

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東 浩紀 ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2

現在「オタク」という一群のコアな消費者によって支えられ、
一般的にも、また海外でも消費され、認知されつつある
「ライトノベル」「ゲーム」「アニメ」の先進性を説いた新書。


東浩紀の著作はデビュー当時から読んでいるが、どんどん関心がなくなってきた。
この本の読んだ感想は、ん〜、論理的な砂上の楼閣という気がしないでもない。


とにかく、この本が敵視しているのは、現在の「文学」である。
社会的に認知された「芥川賞」「直木賞」の小説よりは、
「ライトノベル」「ゲーム」「アニメ」のほうが、すごいといいたげである。


?と思うところは、かなりたくさんあったが、「自然主義リアリズム」について述べておきたい。



★「自然主義リアリズム」VS「まんが・アニメ的リアリズム」


大塚英志の『キャラクター小説の作り方』と柄谷行人『日本近代文学の起源』を
踏まえて、日本における「自然主義リアリズム」を正岡子規が俳句革新によって
提唱した「写生」からはじまると定義している。



見たまま書く、事実をそのまま書くという
「自然主義リアリズム」に支えられていて、従来の「文学」は市場で売れている。

それに対して、「ライトノベル」「ゲーム」「アニメ」は
メタフィクションを導入して、全く異なった原理や価値のもと
文学なんかよりは何倍も大きな市場で売られている。
メタフィクションの導入は「まんが的・アニメ的リアリズム」であると
大塚英志にならって名付けられている。



私たちはいま、文学的想像力の基盤として自然主義リアリズムとまんが・アニメ的リアリズムという、ふたつの異なったメタジャンル的な環境を目の前にしていると言える。全社は明治期にヨーロッパから導入され、後者は戦後に国内で生まれた。そしていま、このふたつのリアリズム=環境は、日本の小説市場を大きく二分し、それぞれまったく異なった原理で生産され、消費され、それぞれが複数のジャンルを内部に抱えている』と著者は、対立構造を図式化する。



その後の論考は、売れているものをなぜ、文学的でないといって排斥するのか?
「まんが・アニメ的リアリズム」のほうが表現の可能性があり、市場も大きいのに
なんで、差別されなければならんのだという怒りを様々な論理にかえてぶちまけている。
「文学」おそらく日本の「純文学」に対する著者の憎悪が垣間見える。



★★問題点
「自然主義リアリズム」といえば、それがフランスからの輸入されたものである限り、
どうしても本家のゾラやモーパッサンの作品に触れなければ定義できない気がするが、

田山花袋の『蒲団』のメタフィクション性に少し触れて、
あとは、『日本近代文学の起源』の無批判な引用で定義終了である。ええっ〜!!
それは、あんまりじゃないかという気がする。


「自然主義リアリズム」の定義づけが、「写生」じゃ
19世紀の文学がなんだったのかという話になってしまう。

「自然主義リアリズム」が
「風景のスケッチと新聞の三面記事的事件をとりいれること」であるというくらいの
矮小的な定義に則って議論が進むので、その後に展開される饒舌な論理は永遠に


「まんが・アニメ的リアリズム」のほうに、軍配が上がりつづける結果になる。
これじゃあ、勝敗のあらかじめ決まった八百長相撲と一緒である。


★★★「自然主義リアリズム」とは?


私がゾラやモーパッサンの作品を読んで思ったのは、
「自然主義リアリズム」というのは、宗教や封建制度に支えられた
社会システムへの露骨な批判を取り入れて小説のプロットを作る手法だということ。
そのために、当時の社会科学的な見地を導入して物語を構成し、叙述している。


社会科学的じゃないから、メタフィクションを導入しないのだ。
たぶん、メタフィクションを取り入れると三人称の堅固な構成が崩れるんだと思う。

メタフィクションというのはあまりに野放図に作者の想像力を拡散させてしまうものだ。
導入すると、三人称の作品世界が、延々と終わらないファンタジーになってしまう。
そうならないための小説規範を、社会科学に裏打ちされたリアリズム求めたのだ。




三人称というのは、社会科学的な視点に成り立たないと獲得できない。
他人の人生をモデルにして、描くのだから社会科学的な取材がどうしても必要になる。
そして、野放図な想像力を極力排除して、社会科学的な真実を三人称の中でリアルに展開する。
これが、自然主義リアリズムではないだろうか。


ゾラが、当時科学的だった、ベルナールの『実験医学研究序説』を、小説理論に転用して
「時代と環境と遺伝が人間を決定する」という信念のもとに作品を書いたのは有名である。


ゾラが、仮に、メタフィクションを取り入れたら、
三人称で描かれた個々の登場人物が社会科学的に実在する可能性の担保がなくなり、
物語の信憑性が希薄になる。だからメタフィクションを避けたのだと思う。

三人称の作品世界をあくまでも社会科学的に描くのが「自然主義リアリズム」なのだ。


そして唯一、ゾラにとって許されているメタフィクション。それは聖書に描かれた物語だ。
自然主義小説の登場人物にとって、メタフィクションというのは聖書に描かれたことなのだ。
つまり「主は先立てり」である。これは正確には、メタフィクションではなく作品世界の外部である。
この作品世界の外部を想像力で乗り越える、いかなるメタフィクションも存在しえない。
なぜならば、信仰の問題であるから。この世には、現実の世界と天国しかないという信仰。


「ソルジェニーツィン試論」もそうだが、東浩紀の文学へのキリスト教の影響の無視は、目にあまる。
ソルジェニーツィンは、まず誰よりも敬虔なロシア正教徒であるのに、
それを無視して論じてしまう批評家である。




★★★★結論
本書で取り上げられている『涼宮ハルヒの憂鬱』をDVD借りて観てみた。
(この歳になると、アニメを借りるのに羞恥心をかなりおぼえる…)
まあ、アニメだった。昔観たアニメと同じだった。
いろいろな作品の真似を器用にとりいれているなぁというのはわかった。


しかし、『涼宮ハルヒの憂鬱』を「純文学」に対置して論じるのは無理がある。
「まんが的・アニメ的リアリズム」の歴史や手法は、
映画や演劇の歴史や手法と比較しなければ、見えてこないと思う。


映画や演劇のほうが、メタフィクションの導入が顕著だし、
映像技術的な問題において「映画」と「アニメ」「ゲーム」は重なり合う。
また、映画や演劇は、オリジナル作品でない限り、原作の解釈の問題があるので、
そこにおいてようやく「文学」「戯曲」と「まんが」「ライトノベル」が比較されるくらいだろう。


たぶん、著者は、「映画」や「演劇」よりもなぜか
日本においてはるかに、社会的地位が高いと思われている「純文学」の前に
敢えて「ライトノベル」「ゲーム」「アニメ」の対峙させることで、
一般の読者にわかりやすい対立図式を作りたかったのだと思う。
そのほうが問題が鮮明になって、新書としては売れるだろう。


要するに、煽っている。でも、本気で煽っているのかよくわからない。
文学主義の大学教育制度やマスコミ関係者を啓蒙しようとしているのだろうか?
そこのところが、全くわからない。

『ノーベルまんが・アニメ賞』を制定すれば、
この本にかかれているすべての問題は解決するのじゃないかな。
私がアニメを借りる際に感じる羞恥心もなくなるし。
まんが、アニメに社会的評価を与える場所がないのが問題なのだろう。


それを、訴えた書物としては意義があると思う。
スーザン・ソンタグや80年代以降の吉本隆明の仕事には及ばないが、
それらに近い意義がある。好意的に言えばの話だが。


ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2 (講談社現代新書)


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posted by 信州読書会 宮澤 at 13:55| Comment(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

死に至る病 その二 キェルケゴール 岩波文庫

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先日に引き続き、『死に至る病』にふれての感想を。


自己とは反省である、――そして想像力(ファンタジー)とは反省であり、
すなわち自己の再現であり、したがって自己の可能性である、
強烈なる想像力のないところには強烈なる自己もまた存在しない(P49)




とキルケゴールは述べる。
「想像力というのは、自己の反省を基盤としていて、自己の再現である。」
ということになる。


話は変わるが、
私が一般に「純文学」と信じて読んでいる小説は、
想像力が、作者自身の体験に裏打ちされている。
言い換えれば、作者の体験の再現を担保にされた想像力によって描かれたものだ


そういう小説に、心動かされ感動する。
あるいは感情移入を起こさせる小説を「純文学」だと思って読んでいる


少なくとも純文学の「芥川賞」の小説は、
作者の体験の再現を担保になっていた想像力かどうかが、
重要な判断基準になっている文学賞だと信じている。


ところで、キルケゴールは「想像」と「空想」を対立概念として捉えている。


空想的なるものとは一般に人間を無限者へと連れ出すところのものである。
その際それは人間を単に自己から連れ去るだけなので、
人間が自己自身へと還帰することをそれによって妨げる。



「作者の純粋な空想によって描いた物語と言うのは、それがいかに読んでいて愉しくあっても、
読者が自己自身に立ち戻る契機に与えてはくれない」ということになる
無限の空想が野放図に広がった物語というのは
キルケゴールのいう『絶望』の状態に読者を落とし込むのではないか。



『かくて例えば感情が空想的になるとすれば、自己は漸次稀薄になりまさるだけである。
ついにそれは一種の抽象的感情に堕するにいたり、人間はもはや現実的なものに対して
感受性を動かすことなく、むしろ非人間的な仕方でたとえば抽象的な人類一般といったふうな
あれこれの抽象体の運命に多感な思いを注ぐことになるのである』(P49)



「空想というのは自己を稀薄にする」とキルケゴールは言うのだ。


ついでに、ライトノベルとその周辺の作品に現われる「セカイ系」という空想的な物語について。


東浩紀の『ゲーム的リアリズムの誕生』の定義に従うならば「セカイ系」の物語とは、
『主人公と恋愛相手の小さく感情的な人間関係(「きみとぼく」)を、
社会や国家という中間項の描写を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」といった
大きな存在論的な問題に直結させる想像力』によって描かれた物語だそうだ。
「セカイ系」とはまさしく「抽象的な人類一般に多感な思いを注ぐ」非人間的な物語である。
(ちなみに、連合赤軍の主張する「革命」や「殲滅戦」は、「セカイ系」の萌芽だろう)


実際、私も「セカイ系」のアニメを観れば作品世界に少なからず心を領される。
視覚的刺激が強いせいもある。そういう意味で、アニメの技術は確かにすごいと思う。
「エロ」も「暴力」も生々しいが、『一種の抽象的感情に堕する』ことでやり過ごせる。
なので、何時間でも無批判に浸っていられる夢のような物語である。


だが観終わった後の、むなしさというか、
観続けることでしか、そのむなしさを払拭できない麻薬性というのは、怖い。


空想によって自己が漸次希薄になるのが怖いのだ。
空想によって自己が連れ去られるというのは、やはり怖い。
だから避けているのだと思う。関心はあっても。

死に至る病 (岩波文庫)



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posted by 信州読書会 宮澤 at 13:54| Comment(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

死に至る病 キェルケゴール 岩波文庫 その一


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ごくたまに、哲学書を無性に読みたくなることがある。
真理に直接に迫ろうとする哲学者の魂魄に触れたくなる日が、ときどきあるものだ。


本書は『「死に至る病」とは絶望のことである。』と言う命題をめぐった
キルケゴール(1813〜55)の著作であり、実存主義への道を開いた歴史的な労作である。


読んだきっかけは、カミュの『シーシュポスの神話』で取り上げられていたことと、
キルケゴールがキリスト教に深い関心を寄せていたことを知ったからだ。


この哲学書に関する前提や、哲学史的な意義はあまりよく知らないし、
キルケゴールの入門書を読んでいないので、心に触れた文章を上げて
それに触発されて、思いついたままの勝手な感想を書きたい。



人間は絶望していることが稀なのではなくて、
真実に絶望していないことが稀なのである



とキルケゴール(以下キルケさんと表記)は語る。


「基本的に人間は絶望をかかえている。」ということらしい。
ただ、絶望を意識しない人と、意識する人がいる。


絶望を意識した人だけが、自分自身になれるそうだ。
無限に反省して絶望を意識することにおいて人間はようやく自己自身になれるという。
そういう反省のない人は、自己がなく、致命的な絶望の中にいてなおそれを意識しない、
喩えるならば、病気なのに、病気に気がついていない患者であるそうだ。



こういうわけであらゆるもののうちで、最も美しく最も愛らしい
女性の青春さえも、絶望でしかない



とキルケさんは述べる。



美しい女性の青春には、自己がないというのだ。
キルケさんすごいことをいう…。
(このへんはキルケさんのレギーネという女性との恋愛の挫折が深く影を落としているらしい。)


彼女は病に気がつかない病人ということになる。
絶望を意識していないだけで、絶望状態真っ只中だというのだ。
毎晩、寝床で反省して『チクショウ!!』と叫ぶような
人間でないと自己自身になれない。ある意味、そういうことだろうか?



人生を謳歌している人に、強烈に釘刺す、はた迷惑な哲学書である。
(もっとも、そういう迷惑のない哲学書じゃ存在価値もないが。)
が、たまに無性に読みたくなる。また機会があったら感想を書きたい。


死に至る病 (岩波文庫)



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posted by 信州読書会 宮澤 at 13:52| Comment(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

嘘つき男・舞台は夢 コルネイユ 岩波文庫 その一


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★『嘘つき男』 あらすじ

法律を修めてパリへ戻ってきた貴族の息子ドラントは、
クラリスとリュクレースという貴族の令嬢を、
口説き落とすために、嘘をつきまくる。
ドラントは、すったもんだのあげくリュクレースと結ばれる。

★感想
コルネイユの喜劇。1644年制作。
貴族の息子ドラントとその召使クリトンの関係が、
モリエールの『ドン・ジュアン』の
ドン・ジュアンとスガナレルの関係にそっくりである。
どちらの召使も、主人の無軌道な行動に四六時中ハラハラさせられ通しである




とはいっても、コルネイユのほうが20年早いので、
モリエールがコルネイユに影響を受けたとも考えられる。
しかし、この作品をモリエールの性格喜劇の先駆として
位置付けるのは誤りである、と訳者解説では釘を刺している。ほお〜。



コルネイユは、高尚な悲劇作家が地なので、
主人公のドラントの嘘は、モリエールのドン・ジュアンの嘘よりも
想像力の質において、はるかに雄大でお品がよろしい。
要するに、古代悲劇のコロスの合唱のようなハッタリに満ちた嘘をつく。



ドラントは、水上での宴席や、秘密結婚の経緯、友人との決闘について
途方もない嘘を創作するが、どれも騎士道的な高尚さと貴族的な高貴さに溢れている。
コルネイユはイエズス会の敬虔なクリスチャンであったそうだ。


なので、『嘘つき男』は題名の通り、ドラントの嘘だらけだが、
モリエールのようなスケベなシーンは一切ない。


その代わり、男を値踏みするクラリスとリュクレースの
女同士の明け透け会話などに、俗っぽい面白みがあった。


プロットの論理的構造は、かなり緻密。
展開が強引な理に落ちていて、読んでいて頭が痛くなった。


デカい嘘をつくには、人間の器もデカくなくてはいけないという個人的な感慨はおぼえた。


嘘つき男・舞台は夢 (岩波文庫)


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ラベル:コルネイユ
posted by 信州読書会 宮澤 at 13:52| Comment(0) | 戯曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

アルルの女 ドーデー 岩波文庫


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アルルの女 (岩波文庫)



★あらすじ
平穏な農村の青年フレデリは、アルルの町の女に恋をする。
結婚寸前まで行くが、彼女の身持ちの悪さが発覚して大混乱になる。
アルルの女に未練たらたらのフレデリは恋煩いで精神に変調をきたしたため、
彼の家族は、彼が死ぬよりはましかと思い、しぶしぶアルルの女との結婚を許す。



しかし、名誉を重んずる家風に従って、これ以上家族に迷惑をかけてはいけないと思い、
中途半端な意志で、フレデリは、無理に幼馴染のヴィヴェットと婚約を決意する。


すると、婚約の日の当日、フレデリはアルルの女の情夫にばったり会ってしまい、
彼の会話を盗み聞きしたことで、女への嫉妬の炎が燃え盛り、懊悩の末、自殺する。



★感想
モーパッサン・ゾラに続く自然主義作家ドーデーの戯曲。真っ当な悲劇。


『水車小屋だより』の一挿話を戯曲化したもので、ビゼーが音楽をつけた。
アルルの女は一度も登場しない。思い切り悪者になっている。

一族の名誉と、フレデリの自由恋愛の相克を描いているが、
家族はかつて、自由恋愛を断念した人たちばかりである。
彼らの人生には、その断念への深い後悔の影がさしているだけに、
フレデリの苦悩が、より鮮明に浮かび上がっている。
フレデリはヴィヴェットとの婚約によって、強引に苦悩を解決しようとして失敗する。



注目に値するのは一家の不幸を一身に背負っているフレデリの白痴の弟の存在である。
彼は、一族の運命の星まわりに安定をもたらし、ある種の信仰対象となっている。
彼が、急にまともになることで、フレデリが自殺するという皮肉な結末になっている。



一族の平和と安定には、バランスが存在するという前提で描かれている。
ギリシア悲劇で言えば、神託が前提となっているようなものである。
結婚問題を境に、登場人物たちの関係のバランスが多いにくずれ、
それぞれの人生の真実が明らかになる。それが、自然主義の手法で描かれる。


こう考えると、自然主義というのは人間の運命に関する
とりわけ信仰や迷信のような、自然の不可視な法則性を
科学的に取り上げて、作品中に取り込んでゆく手法だといえる。
要するに因果応報をもって物語の綾を織り成している。


今もってなお、人を魅了する斬新でインチキ臭い手法だと思う。


よって、スピリチャルカウンセラーや占い師というのは、
まずなによりも自然主義者である。(かなり強引な断言!!)


人物設定等は、スタインベックの『二十日鼠と人間』に似ていると思った。




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posted by 信州読書会 宮澤 at 13:51| Comment(0) | 戯曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

それでもはボクはやってない 


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痴漢冤罪の審理の過程を描いた映画。
被害者の証言と、状況証拠だけで裁かれる
痴漢裁判の不当性を訴えた作品である。



★感想(以下ネタバレ)
「主人公がドアに挟まっていた上着を取ろうとしていた」ことを
駅員室に伝えにきた女性が、目撃者を捜すビラ配りのおかげで名乗り出る。



ここで、万事解決かなと思いながら見ていたが、
彼女が、主人公の無罪を立証するまで至らなかった。おいおい。


結果、映画の結末が『それでもボクはやってない』という
題名どおりのものになってしまった。


普通なら、目撃者が見つかったことで、主人公が
無罪を勝ちとってめでたしめでたしになるのだが、
そうはならず、一審有罪確定で終わる。
痴漢冤罪のフレームアップが主題なのでこういう結末になったようだ。
二審まで描いた、続編が製作される感じもないので、
え〜〜〜!! という結末であった。


現行の司法制度や捜査方法に対する批判的な意義のある映画だとは思う。
司法関係者や警察官、駅員は観るべき映画だと思うが、
一般の観客にとっては、劇的なカタルシスを欠いている。


主人公がどんな人間で、どんな生活をしていて、
有罪になった後どういう人間になったかまで描かないと、
観客としては、なんだか納得いかない気がする。
要するに、法廷劇のみで、背景となる人間ドラマに乏しい。
20人ぐらい客がいたが、2人ぐらい途中で席を立っていった。


なんで元彼女の鈴木蘭々が協力したのかとか、
どうして、主人公は就職しようとしたのかとか
被害者の女子中学生のこととか、もう少し描いてほしかった気がする。
拘置所のおかまと、性犯罪裁判傍聴オタクの存在は面白かったけど。


悲劇的でも喜劇的でもなく、ただ、勉強になりましたという感想。
脚本も良くて、全く飽きなかった。が、観終わったらかなり疲れた。


昔、学校で見させられたいじめや差別撲滅の啓蒙映画などと
一緒に上映するべき啓蒙映画のような気がする。
満員電車に乗るべきではないことがわかった。

あと、駅員室に行ったら終わりです。

追記

政治的な謀略に痴漢冤罪が使われています。怖いですね。



それでもボクはやってない スタンダード・エディション [DVD]


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posted by 信州読書会 宮澤 at 13:50| Comment(0) | 邦画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

こわれがめ クライスト 岩波文庫



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★あらすじ

オランダの僻村の村長兼裁判官アダムは、村の娘エーフェの部屋に夜這いする。
しかし、彼女の婚約者であるループレヒトと鉢合わせする。
慌てて逃げだすが、エーフェ宅の家宝のかめを壊してしまう。
その上、暗闇の中で、アダムはループレヒトに二回殴られる。


翌日、司法顧問官ワルターが村に査察に訪れる。
そこへ、エーフェの母マルテが、こわれがめの件でループレヒトを訴えたので、
ワルターの謁見のもとで、アダムを裁判官として裁判が開かれる。
裁判官のアダムは、ループレヒトに罪をなすりつけようとするが、
つぎつぎと真実が暴露され、窮地に陥る。


★感想
クライスト(1777〜1811)の喜劇。
クライストはすべての事件が起こった後で真実が明るみに出る


ソフィクレスの『オイディプス王』を念頭において制作したそうだが、
法廷劇という点で、アイスキュロスの『慈みの女神たち』に近い。


主人公のアダムは、モリエールの『タルチュフ 』のタルチュフに似ている。
特に、権力を笠に着た嘘つきであるところと、スケベなところが似ている。


喜劇の主人公の性格としてこの二点は、必要十分条件である。
その意味で、民衆喜劇のツボをおさえ、醍醐味を心得た作品であると思う。


『タルチュフ』においては国王が機械仕掛けの神であったが、
『こわれがめ』においては司法顧問官のワルターが、機械仕掛けの神である。
中盤から出ずっぱりのワルターがいなければ、アダムの嘘は解明されないので、
彼が機械仕掛けの神として君臨しているといえる。



一幕物の法廷喜劇なので、単純な構造である。展開は貧弱。
クライスト生前の上演は大失敗だったそうだ。


第12場は異曲があり、岩波文庫に併録されている。
異曲は長く、終りもすっきりしないので、切れ味に乏しい。


しかし、ループレヒトを国内勤務だと偽って民兵に招集し、実はアジアに派兵させ、
エーフェと二度と逢えないようにしようとする場面が強調されている。
結果的に、国家権力の欺瞞を批判的に描いているのは異曲のほうである。



ただ、決定版のアダムが畠を横切って逃げていく場面のほうが、喜劇としては面白い。
まあ、一番惹かれるのは『こわれがめ』という題名である。
落語っぽい題名で、吸引力がある。


全く余談だが、水戸黄門は喜劇の単純なフォーマットを踏まえている。
水戸黄門=機械仕掛けの神、嘘つき=悪代官と言う点で。
しかし、肝心の「スケベ」を担当するのが、
由美かおるの入浴シーンだけというのは解せない。


もっとも毎回、独創的な「スケベ」を創作すると、
町娘が毎度ひどい目にあって、昨今のゴールデンでは忌避されるから、
その部分を、マンネリズムでやりすごしているということだろう。
由美かおるの女優としての自意識がそれを許しているかには、少しだけ興味があるのだが…。


こわれがめ (岩波文庫)


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posted by 信州読書会 宮澤 at 13:48| Comment(0) | 戯曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

シルヴェストル・ボナールの罪 アナトール・フランス 岩波文庫


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★あらすじ

第一部『薪』


学士院会員で老究学者のシルヴェストル・ボナールは、
使用人の老婆テレ―ズと隠棲して暮らしている。
書斎の帝王であり、気難しく誇り高い老人である。趣味は稀覯書の蒐集。


ボナールは『黄金伝』の写本を見るために
老骨に鞭打ってシチリアへ旅に出るが、写本は競売に出されていた。
彼は競売に参加して、なけなしの遺産で写本を
落札しようとするが果たせず、たいそう落胆する。
しかし、その昔、クリスマスの前日に薪を恵んでやった貧乏一家の
夫人が、貴婦人となって現われて、その写本をボナールにプレゼントする。



第二部『ジャンヌ・アレクサンドル』


初恋相手のクレマンティーヌの孫娘ジャンヌ・アレクサンドルが
両親の破産で、女学校の掃除婦をしていることを知ったボナールは、
彼女を、寄宿舎から助け出して、後見人となる。
ジャンヌは、老学者の家に出入りしていた学徒と恋に落ち結婚する。
彼女の持参金を捻出するために、ボナールは大切にしていた蔵書を処分する。





★感想
老学者の日記という体裁の一人称小説。著者の大出世作。
名前だけ知っていて、読む機会のなかったアナトール・フランスだが、


今回初めて読んでみて、その衒学的なユーモアとシニシズムが
彼に傾倒した芥川龍之介、石川淳などに、いかに影響を与えているかがわかった。
ふたりとも、アナトール・フランスをパクり過ぎ!! である。



老学者ボナールが、その過剰な教養で、周囲に機知あふれる掣肘を加えながら
愚かな事件に巻き込まれてゆく姿が、なかなか哀切に描かれている。
それでいて心温まる結末の、素敵な作品で、読み終えてしんみりした。



第一部は1861年から1869年まで、第二部は1874年から1877までの日記である。
この間に1870年の普仏戦争とその敗戦、パリコミューンの時代があるのだが、
その間のことが、この作品ではポッカリと欠落している。





社会の大変化の中で、ボナールがそれらに言揚げせずに、淡々と過ごししたところに
彼のヒューマニストとしての、ひそかではあるが、強い意志が漲っている。
そこに、普仏戦争に取材したモーパッサンら自然主義者へのA・フランスの対抗意識が鮮明となる




ただ結末近くにこう述べられるのみである。


どんなに望んでいた変化でも、変化にはすべてそのうちにさびしさがある。
われわれの捨ててゆくものは、われわれの一部なのだ。
新しい生活に入るためには、古い生活に対して死ななければならぬ。


イーヴリン・ウォーの作品に似たような、古きよき時代
(具体的にはギリシア・ローマの時代)への追憶に溢れている。


訳者解説によると、話の筋自体は、他作品からの盗用が激しいらしいが、
文飾そのものは、極めて高度な着想から導き出されているので許したいとの事。




ボナールの伯父さんであったヴィクトル大尉のことが回想されるが、
その人が、ナポレオン時代の栄光を体現するユーモラスな大人物で、感動的。
幼い日のボナールが飾り窓の人形を欲しがって伯父さんから怒られるシーンは笑った。


この伯父さんは、「少年兵は退却のラッパを吹くな」などと会話が全部、軍隊用語で、
士官の威厳でもって、男らしさとはなにか!! を、幼い日のボナールの脳髄に叩きこむのである。


ボナールは、年とるごとにヴィクトル伯父さんの威厳が我がものになってゆくのを誇らしげに喜んでいる。
こういう伯父さんは、親戚にひとり欲しいものである。いなければ、自分がそういう伯父さんになるしかない!!

シルヴェストル・ボナールの罪 (岩波文庫)


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posted by 信州読書会 宮澤 at 13:46| Comment(0) | フランス文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

林檎の樹 ゴールズワージー 新潮文庫

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★あらすじ
田舎の荒原地帯に、友人と遊山に来たアシャーストは、
農家の子守り娘のミーガン(他訳ではメガン)と出逢い恋に落ちる。


彼女と駆け落ちしようと、準備のために街へドレスを買いに行くが、
そこで、別の友人ハリディとその妹ステラに出逢い、彼女に魅了される
都会的なステラの魅力が、ミーガンを忘れさせてしまう。


アシャーストは農場に二度と帰らず、ステラと結婚してしまう。
ミーガンは、迎えにこないアシャーストに絶望し自殺する。


25年後の銀婚祝いの旅行に妻ステラを伴って、
荒原地帯を再訪したアシャーストは、農家の近くの十字路に墓を見つける。
それは、かつて恋したミーガンの墓だった。彼女は自殺していた。


★感想


エウリピデスの『ヒッポリュトス―パイドラーの恋 』のコロスの合唱に
『黄金なる林檎の樹、美しく流るる歌姫の声』とあり、
それが、小説のエピグラフであり題名はそこから取られている。


しかし、小説は『ヒッポリュトス』のようなアンモラルなエグみは少ない。

都会ずれした愚かな学生が、純粋な田舎娘を結果的に騙したという話だが、
騙したアシャーストが、ヒッポリュトスのような一時の融通の利かない熱情のために
その後良心の呵責をおぼえるという点で、このギリシア悲劇が小説の伏線になっている。
人生の生活様式などははいかに高貴まじめであっても、
その底に流れるものは常に貪欲とそしてただ空しい落莫感だけだ


と書かれている。世のなべての男性の心理を鋭く突いた至言である。

駆け落ちしてミーガンをロンドンに連れていっても、
ふたりが生活するアパートは、アシャーストの求める詩的感興からは程遠い。
それでも、官能揺さぶる春の到来の感触は、アシャーストを恋の盲者にしてしまう。


しかし、都会に戻るとミーガンのことなど恥ずかしくなる。
アシャーストを追いかけて汽車で街に出てきてあたふたと彼を捜すミーガンを、
遠めに眺めながら逃げだす彼は、誰が見ても最低な男だ。無論、ほめ言葉である。


春の自然の官能にうわずった心理を優しく撫ぜるような描写が溢れている。
特に、深夜に林檎の木のしたで逢引しふたりが、お互いの恋を告白する場面は甘く切ない。


林檎の木の下にはジプシーのお化けが出るということで
幼いミーガンは、そのおばけを怖れているのだが、
そのおばけは、結果的にアシャーストだったというオチが上手。



キリスト教徒(イギリス国教会)は自殺すると、
教会の墓地への埋葬を拒否され、十字路の脇に墓を立てられるそうだ。
自殺したミーガンの墓と知ってアシャーストがアフロディーテの復讐を受けた。
という気がつくところに、アリストテレス的な「おぞましいことの認知」がある。



ノーベル賞作家ゴールズワージー49歳のときの作品。
1916年は発表なので、第一次世界大戦中の作品である。


熟練した筆づかいを抑制し、軽いタッチで青春の恋愛を書いたら名作が生まれた。
戦時中にも関わらず…である。まさしく『鈍感力』である。


こういう風にして生まれたベストセラーには、なぜか軽い殺意を覚える。


『林檎の樹』が代表作になったことを恥じていなければ、
ゴールズワージーは本当の悪人だと思う。極悪人。
たぶん極悪人だろう…。イギリスらしい階級意識にまみれた性根からの。


林檎の樹 (新潮文庫)



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posted by 信州読書会 宮澤 at 13:45| Comment(0) | イギリス文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

Pefume パフューム ある人殺しの物語


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Pefume パフューム ある人殺しの物語 


★あらすじ


18世紀フランスの世界中の汚穢が固まったような魚市場で生まれた
私生児ジャン=バティスト・グルヌイユは驚異の嗅覚を持っていた。


絶対音感ならぬ絶対嗅感をもつ彼はやがて香水調合師となるが、
いびつに育ったため愛をしらず、赤毛の少女を街角で殺したのをきっかけに、
フランス中の美女の体臭がエキスとなった天使の香水を作りはじめる。



★感想(以下ネタバレあり)


ドイツの小説家パトリック・ジェースキントのベストセラー小説
『香水―ある人殺しの物語 』の映画化。この小説は世界で1500万部売れたそうだ。

[asin:4167661381:detail]


『ラン・ローラ・ラン』のトム・ティクヴァが監督。


全然期待してなかったけど、原作が良いせいか、かなり面白かった。贅沢な作品。
主人公は、ベン・ウィショー演じるにおいフェチの香水調合師グルヌイユ。


こいつが、『サイコ』のアンソニー・パーキンスと、
嗅覚だけ鋭いが低能のハンニバル・レクター博士を
足して2で割った変態猟奇殺人犯であり、
ベン・スティラーに似たトホホな顔をしている。


★★いい仕事をした役者


・なめし皮職人時代のグルヌイユの親方。顔が怖い。

グルヌイユに、香水調合の手ほどきをするバルディーニ。
ダスティン・ホフマンが演じていたが異様にうまかった。


というか最後までダスティン・ホフマンだと気がつかなかった。
この役は、ドナルド・サザーランドだったら絶対観たくない。


彼がグルヌイユの才能に打ちのめされて階段を上るシーンは、個人的に一番見所だった。
あと、ハンカチに香水を落として、匂いを嗅ぐシーンが麻薬をやっているみたいで笑えた。


・犬 ワンちゃんがいい仕事していた!! どうやって演技指導するんだろう?


・ローラ演ずるレイチェル・ハート=ウッド。馬に乗って逃げる姿だけよかった。


18世紀の下層民を描いた部分は途方もなく汚い。
腐った魚や、ねずみの死骸や、ひきがえる、蛆虫など
大画面で見ていると、ほんとに臭って来る気がした。
吐き気をもよおすが、なぜかどの悪臭も嗅いでみたい衝動に駆られる。
そう考えると、臭いも主人公だとも言える。白人の体臭も主人公。


バルセロナでロケしたそうで、中世の街並がコテコテに描かれている。
セット美術も衣装も、バロック・ロココ趣味が表現されていてこゆい。
豪華な美術だけでも相当な見ごたえがある。
後半の南仏グラースのラズベリー畑も美しい。


その上に、ベルリンフィルの音楽も荘厳で耳朶に心地よい。


見せ場は、中世民衆文化のカーニバルともいえる
750人の集団乱交で、別に官能的でもなく、ただ単に笑えた。
かなりリハーサルして撮影したそうで、なるほど、そんなに下品ではなかった。
ゾリーニの『デカメロン』みたいな陰気な芸術性は皆無である。みんな陽気。



俗説で、赤い縮れ毛やそばかすの女性は色情狂というが、
グルヌイユに殺されて、香水のエキスにされる女性はそんな女性ばかりだった。
フランス革命前夜みたいな、民衆の蜂起を予感させるパワフルな映画であった。


まあ、ほとんどホラー&サスペンス映画。瞳孔ひらきっぱなしで愉しみました。


私は、慢性鼻炎で嗅覚は人に劣るので、臭いに人並以下の関心しかないですが、
目で耳でも十分愉しめるいい映画だなあという感想。
惜しむらくは、会話が全部、英語であったこと。フランス語で撮ってほしかった。





パンフレット参照にしました。香水の薀蓄が満載。読み応えがあって◎
アロマテラピストになりたい人にお薦め。でもないか・・・。


パフューム ある人殺しの物語 [Blu-ray]





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posted by 信州読書会 宮澤 at 13:44| Comment(0) | 洋画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

バンド・オブ・ザ・ナイト 中島らも 講談社文庫

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★あらすじ

印刷会社の営業をやめて、フリーのコピーライターになった
主人公のクスリとアルコール漬けの日々を綴った小説。





★感想
クスリで「大脳皮質がおかされ、モラルや愛情がなくなった」世界が描かれている。
前半、印刷会社の営業時代の話は、読み応えあり。



一応、プロットはある。


ただ、プロットがどん詰まりになったにところで、
ラリった脳内からあふれ出る詩的言語の自動筆記が、
津波のように小説を襲って、すべてのプロットが流される。


これが、10回くらい繰り返される。
ここぞ、というときの踏ん張りのない小説になっている。


『今夜、すべてのバーで』に出てきた内科医の赤河や天童寺さやかのような
主人公をモラルの側に連れ戻す人たちが、作品からきれいさっぱりいなくなっている。
結末に近づくにつれて、登場人物がどんどん惨めに死んでゆく。





解説は町田康。この解説が真摯で泣ける。
ついでに、作中、町田康のライブを観に行くシーンがある。



ユーモラスに描かれている。愉しそうだ。読みやすいし。
みんなで鍋を食べるシーンに惹かれる。雑炊を食べたくなる。



合わせて、平常心ではこういうことはできないだろうということが、
まるで、当たり前のように書かれている。そこが怖い。


オーヴァードーズで死んだパンクロッカーの評伝を読んだような
厳粛な気持ちにさせられる。読みながら何度か、天を仰いだ。
救いがたい孤独が、巧妙に隠蔽されている気がする。読後感は鉛のように重い。



バンド・オブ・ザ・ナイト (講談社文庫)



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posted by 信州読書会 宮澤 at 13:43| Comment(0) | 日本文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

アメン父 田中小実昌 講談社文芸文庫


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★あらすじ

1908年にアメリカのシアトルで、洗礼を受け、
広島呉市に独立教会を創設して
バプティスト派の牧師として一生を過ごした父親
田中遵聖をめぐる回想。
著者自身も、シアトルに出かけて小説は終わる。





★感想
『ポロポロ』は、戦時下での独立教会の信仰の風景を小説にしていて、迫力があった。


『アメン父』は長編小説と銘打たれているが、半ばエッセイのようなもの。
ただ、父親の生涯を追ったというよりは、父の信仰の核心に迫っているので、
キリスト教論として側面において読み応えはある。なによりも読みやすく書かれている。


十字架もない独立教会の集会場でアサ会という伝導会のようなものを開く
「大マジメ」な父の姿が、敬意と愛情のまなざしでもって描かれている。



著者は、父親の過去を母から聴き、父に関する資料は、
教会を継いだ妹の夫伊藤八郎氏からコピーを貰っている。
そこに、小説家としてのキリスト教への想いを重ねて父親の信仰を思索している。


父は、教会も十字架も洗礼にも重きを置いたのではなく、
聖書を物語として読んで、救済を望んだわけでもなかった。
ただ、キリスト教と自分との関係についてずっと考えていたらしい。




主は先立てり、いつも主は先立っている。将来、神の国がやってきたり、神の国がだんだん大きくなってゆくのではない。神の国をたずさえてイエスはせまりいる。イエスが神の国なのだろう。そして、ニンゲンたちが努力して、あるいは信仰により神の国をきずきあげるのではなく、神の国が先立っている。


と著者は述べる。




きよらかさや、聖なるものへの憧れで、信仰が成り立つわけではない。
主の先立った世界において、アーメンと叫ぶことにしか、信仰はなかった。


というふうにして、著者は父親の信仰の核心として結論づけている。
『神の国が先立っている』に対して人間の営為でどうなるものではないのだ。





★個人的な感慨として


自分はキリスト教徒ではないのだが、新約聖書には関心があってたまに読む。
読むきっかけとなる出来事は、私的なことなので書かないが、確かにあった。





新約聖書を読んで、いままでおぼえなかった引っかかりを、感じるようになった。
特に文学や映画作品を読んで、信仰との関連でものごとを観るようになった。
『主は先立てり』という言葉に関して思うところはかなりある。
たくさんあるのだが、三つだけ、作品鑑賞で感じたことを列挙しておきたい。





・イーストウッドの『ミリオンダラー・ベイビー』について。


この映画は劇場で観て、心打たれたシーンは以下の部分だった。


主人公の女性ボクサーが半身不随になった後に、
イーストウッド扮する老トレーナーが、平素はただ習慣として通っていた教会に行って、
神父に信仰について相談したところ、「神を信じるな」といわれたシーンである。
トレーナーとしてひとりの人間を破滅させたことについて思い悩み、
救いを求めて、教会に出かけて、こういわれるのである。
たぶん、『主は先立てり』の世界で、神に解決を求めるのはナンセンスなのだ。
結果、老トレーナーは、自分の判断だけで、女性ボクサーを安楽死させる。





・モーパッサンの『脂肪の塊』について

主人公の売春婦ブールが、宿屋で足止めにされた間に、久しぶりに教会に礼拝にゆく。
そのすぐ後で、プロシアの司令官に人身御供をさせられるという屈辱に遭う。
ブールの信仰が、現実には何の役にも立たないという皮肉が描かれている。
しかし、『主は先立てり』の世界では、信仰に現世利益がなくてもあたりまえである。
少なくとも、自然主義者のモーパッサンはそういう認識で作品を描いている。



・ゾラの『居酒屋』について
ジェルヴェーズが、姑のクーポーばあさんの祝名節に午餐会を催す。
(フランスのカトリックでは365日に各聖人の名が割り当てられているので、
誕生日よりも祝名節を祝うそうである。最近、ある小説の注で知った。)


親戚一同が集まって席につくと、13人しかいない。
13は不吉な数だということでジェルヴェーズは真青になる。(こういう感覚は、日本人は理解不能)


そこで、たまたま歩いていた乞食みたいな爺さんを午餐会にむりやり列席させ14人にする。
しかし、この午餐会を境にしてジェルヴェーズの運命は転落してゆく。



以上の三つは、私は聖書を読んでいなかったら認識し得ないことだった。



というわけで、何がいいたいかというと、西欧社会ではキリスト教というのは、
生活の根底にまで、根付いて染付いている。生活習慣といってもいい。
社会全体が『主は先立てり』という暗黙の了解で暮らしているのである。
決して、みんなが救いや聖なるものへの憧れでキリスト教を信仰しているわけではない。



『主は先立てり』というのは日本でいうと、
盆暮れの習慣が、無視できないのと同じようなものであると思った。
仏教徒や神道者でなくとも、信仰を深く考えたことがなくとも
人は知らず知らずに信仰によって意味づけられた世界に住んでいる。





例えば、一年中が起伏のない毎日の繰り返しで、それが死ぬまで続くとしたら、
自分が果たして、通常の神経を保って生きていけるか自信がない。そう自覚した。


盆暮れでも、冠婚葬祭でも、なんかしら親族と合ったり、
先祖に故人について思い巡らす時間がなければ、
自分自身の存在を見失って虚しいと思う。
たとえ、そういう習慣が、無意味でくだらないものだと思っても。である。




無神論者というのは、こういうものを一切無視して生きられる人だろう。
『主は先立てり』という認識は、人間の意思で乗り越えられないもの手ごたえであり、


『アメン父』の父は、そこにむかってアーメン、アーメンと唱えていたのだと思う。

アメン父 (講談社文芸文庫)


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posted by 信州読書会 宮澤 at 13:42| Comment(0) | キリスト教文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

かもめ・ワーニャ伯父さん チェーホフ 新潮文庫


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★『かもめ』あらすじ


作家志望のトレープレフと女優志望のニーナは、恋人同士である。
田舎に住む伯父の家の庭に、小舞台を組み立て、ニーナ主演で自作の演劇を上演する。



有名な女優であるトレープレフの母、アルカージナと
その愛人である著名文士トリゴーリンは、その演劇を観て欠伸をもよおす。



それを見て、トレープレフは、自尊心を傷つけられて上演を中止する。
その上、その後、彼はトルゴーリンにニーナを寝取られ、自殺未遂をする。


二年後に、トレープレフは、新進作家としてそこそこ名前が売れはじめる。


そして、彼は、夢を追いかけて挫折し、トルゴーリン捨てられたニーナと再会する。
ニーナは、まだトルゴーリンのことを愛していた。
その告白を聴かされて、トレープレフは、自殺する。



★感想
喜劇と銘打たれているが、どう考えても悲劇である。


「かもめ」というのは、理想の象徴みたないもの。
かもめをトレープレフが撃ち落し、トリゴーリンが剥製にした。
そのエピソードが、作品の主題を暗喩している。



トレープレフという青年は、すごいお坊ちゃんである。
劇場否定論者でデカダンな新形式の文学を模索する文学青年である。
自意識過剰で、少し名が売れて、余計に自らの才能に不安になった。


そして人生にも、演劇にも、なにひとつ満足できる志を立てられず自殺する。
今読んでも、なお古びていない人物像が描かれている。
背景に、ロシアの社会情勢の不安が深く影を落としているのも見逃せない。貴族の没落。


★演劇について


登場人物がたくさん出てくるが、解説によると、
すべてチェーホフの短編に出てきた人物が、
再利用されて、この戯曲は構成されたということである。
そして、短編はすべて、チェーホフの実体験から取材したものだそうだ。



劇中、モーパッサンやゾラ、トルストイ、ツルゲーネフついて言及されていて、
それらにチェーホフのグロテスクとも言える自意識の肥大が垣間見える。


1896年の初演は大失敗して、その2年後の1898年、


新進気鋭のスタニフラフスキーの斬新な演出による再演で成功をおさめた。
演劇としては、劇中劇をとりいれて、20世紀演劇につながる先見性を見せている。
トレープレフとニーナの劇中劇の演劇失敗が、青春の挫折として象徴されている。



最近、スーザン・ソンタグの『反解釈 』を読んだら、
「演劇における劇中劇」と「小説における寓話」の登場を
20世紀文学の特徴として、分析していた。



ソンタグの意見を換言すると、自覚的知性が大手を振って作品内に歩き出すと、
作品内に、劇中劇を取り入れて、主人公の自意識を分離しなければならなくなるそうだ。



『女中たち』のジュネも劇中劇を取り入れている。
『三文オペラ』のブレヒトも、そしてベケット、イヨネスコも……。
この辺の作品はソンタグが例にあげていた。




演劇のなかの主人公までもが、劇中劇というメタフィクションで
自分とは違ったキャラクターを演じ、違った運命を生きようとする。



それほどまでに、20世紀の自覚的知性というのは厄介なのである。
メイドカフェやアニメの二次創作が自覚的知性かどうかはわからんが・・・。



90年代に『新世紀エヴァンゲリオン』のブームがあって最終回のメタフィクションが話題になったが、
あの程度のメタフィクションは演劇で、すでにやり尽くされているのが、最近よくわかった。


19世紀のチェーホフですら、100年前にメタフィクションを導入して青春の挫折を描いている。

メタフィクションの批判的な導入をアニメに見いだして、
アフリカの奥地で新発見された滝かなんかのように

オタク擁護の文脈で、大げさにありがたがるのは、ナンセンスだろう。


かもめ・ワーニャ伯父さん (新潮文庫)



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posted by 信州読書会 宮澤 at 13:41| Comment(0) | 戯曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ラストデイズ


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高2なった1994年の4月にカート・コバーンが死んだ。

MTVでカートの追悼番組を見て、ニルヴァーナのファンになり、
最初のバイオグラフィー『病んだ魂―ニルヴァーナ・ヒストリー 』は
書店に予約して購入してむさぼり読んで、影響を受けまくった。
高校時代、わけもわからず汚く髪まで伸ばしたほど。
グランジの影響は、今思い出すと恥ずかしい。



というわけで、青春時代にニルヴァーナには、麻疹のようにいかれたが、
もう自分もカートの死んだ歳より年長になってしまった。
もう、興味もなくなったし、CDも聴かない。感傷もなし。
そういう意味では、私の十代の苦悩は清算されました。



『ラストデイズ』はカートの自殺前の最後の日々に取材した作品。

出来は予想通り、だった。ニルヴァーナのファンほど観ないほうがいい。超早送りで観た。
PVもライブ映像もたくさん出ているので、そっちを観たほうがいい。
衣装は、ライブビデオなどからパクっている。懐かしい気分になった。
キム・ゴードンが出てる。音楽は、サーストン・ムーアが監修。



しかし、生前カート・コバーンは『パルプ・フィクション』に興奮して、
タランティーノに、楽曲提供を申し出たことがあるという。

確かMTVでマークパンサーがそう言っていた。
この逸話を思い出すたびに、カートと映画の相性の悪さを思う。
カート・コベインというのが正しい表記になりつつあるようだ。



ボーイズUメンのPVがテレビに流しっぱなしになるシーンは、
1994年の雰囲気を濃厚に醸し出していた。そこだけは感動した。

ラストデイズ [DVD]


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posted by 信州読書会 宮澤 at 13:40| Comment(0) | 洋画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

アンドロマケー エウリピデス ギリシア悲劇全集8所収 岩波書店


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★あらすじ
トロイ戦争で奴隷となってギリシアにやってきたアンドロマケーは、
ネオプトレモスとの間に息子のモロッソスをもうける。



一方、ネオプトレモスの正妻ヘルミオネーは子供ができない。
側室奴隷アンドロマケーに嫉妬する、正妻ヘルミオネーは、
父親のメネラーオスと謀ってアンドロマケーとモロッソスを殺そうとするが、
ネオプトレモスの祖父ペーレウスに邪魔されて失敗する。



結婚生活に疲れ果てたヘルミオネーは、自殺未遂を犯すが、
そこへ、従兄弟のオレステースがやってきて、
実は、ヘルミオネーと結婚したかったと愛を打ち明けられ、女として慰められる。



よって、ヘルミオネーとオレステースは、駆け落ちする。
一方、旅先でネオプトレモスは何ものかによって暗殺される。
(おそらく、オレステースに暗殺されたと思われる。)


孫のネオプトレモスの死を知らされたペーレウスは、逆縁を嘆く。


そこへ、ペーレウスの妻で、海の女神であるテティスが登場し、
ペーレウスを不死の神として、慰め、アンドロマケーとモロッソスを他国へ亡命させる。


★感想
個人的にアンドロマケーが、ギリシア悲劇で一番好みの女性。
夫と子供を殺され、祖国を焼かれ、奴隷となったアンドロマケーの
悲劇のヒロインっぷりには、惹きつけられるものがある。





機械仕掛けの神が、オチである。エウリピデスのいつものやりくち。
主人公のアンドロマケーが、後半ほとんど出てこない。


ラシーヌの『アンドロマック』のほうが主役として実力があった。
アンドロマケーという題名だが、ペーレウスが主人公のように思える。



ペーレウスとメネラーオスのジジイ同士の口喧嘩が強烈だった。
特にメラネーオスに対するペーレウスの毒舌が圧巻。


妻ヘレネーをパリスに寝取られたことを笑い、
イーピゲネイアの生贄を進言したことを責め、
トロイ戦争での武勲をインチキだと罵る。
立て板に水の罵倒芸。毒舌家のご隠居。


ペーレウスは高齢で、手もプルプルとふるえているのだが、昔の武勲を忘れていない。
啖呵を切りながら、卒倒寸前まで激昂するのである。命がけの口喧嘩。


そんなペーレウスが、最後に神になる。
お年寄りへの慈愛に満ちた悲劇である。

エウリピデスがさまざまな因果をめぐらせて苦しげに劇を作っている。
木に竹を接いだような印象。前半と後半の支離滅裂が痛々しい。


後半、オレステースが出てくるが、悪役である。
オレステースを悪役にしなければならないほど、苦しいのである。

エウリーピデース IV ギリシア悲劇全集(8)




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posted by 信州読書会 宮澤 at 13:39| Comment(0) | ギリシア古典 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ル・シッド論争 コルネイユ名作集所収 白水社


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コルネイユ名作集 (1975年)

●『ル・シッド論争』について

コルネイユの出世作『ル・シッド』に対して


当時のゴリゴリのアリストテレス主義者のである劇作家の


ジョルジュ・ド・スキュデリが、作品に難癖をつけて


歴史的な大論争に発展したという話である。





要するに、コルネイユがアリストテレスの『三単一の法則』を守らないことや、


歴史的事実を歪めて、不道徳な登場人物を主人公にしたということを、


(現在から思えば、全くどうでもいいようなことを、また、今日誰もそんな論争には関心のないことだ・・・)


ジョルジュ・ド・スキュデリがコルネイユの大成功してに嫉妬し、私怨たっぷりに、ねちねちと攻め立てている。



それも匿名で、コルネイユの名前もあげずに、だ。かなり陰険である。




だが、それ以上にコルネイユも自意識過剰な攻撃的な人物であり、容赦ない反撃に出た。
結局、時の宰相リシュリューがアカデミーの名において介入するまでの泥沼の論争になったそうな。




ただ、ジョルジュ・ド・スキュデリによるアリストテレスの権威を笠に着た


罵倒の『ル・シッド』劇評が、最近の自分の書評とは無縁と思われず、


身につまされたというか、なんだかなあ〜と思わず嘆息したほどの


醜さに満ち満ちていていた。自省を覚えさせる。





『ル・シッド』の戯曲自体はそれほどにはおもしろくなくて、短いにもかかわらず、読み終えるのに3日もかかった。


今日はなぜか、あらすじをまとめる気力も起きないうえに、論争のほうが、作品の2倍くらいの長さなので、


まとめて紹介するのに、気が遠くなった。





でもすごい面白い論争なので、改めて何回かに分けて詳しく紹介したい。



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posted by 信州読書会 宮澤 at 13:36| Comment(0) | 戯曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ル・シッド コルネイユ名作集所収 白水社


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コルネイユ名作集 (1975年)


★『ル・シッド』あらすじ


舞台は、ドン・フェルナン国王を戴くカスティリアの町、セビリアである。


スペインの貴族の子弟であるロドリーグとシメーヌは恋人同士であった。





王子の師範役という重大な役職をめぐって、
ロドリーグの父、ドン・ディエーグと

シメーヌの父、ドン・ゴルメス伯爵が出世争いをする。





しかし、ドン・ディエーグが、国王より王子の師範役を任ぜられ勝つ。
敗れたドン・ゴルメス伯爵が、嫉妬から、ドン・ディエーグを暴力で侮辱する。


ロドリーグは、父の恥を晴らし、家の名誉を守るために、


最愛のシメーヌの父であるにもかかわらず、


ドン・ゴルメス伯爵に決闘を挑み、殺してしまう。





シメーヌは国王に、涙ながらに父の死に対するロドリーグへの裁きを求める。





伯爵の葬式にロドリーグが現われて、シメーヌに体面する。





ロドリーグ「私の話を聞きたまえ」


シメーヌ 「私は死にます」


ロドリーグ「待ってくれ」


シメーヌ 「死なせて」





こんな愁嘆場を繰り広げる。





あげく、ロドリーグは、私を殺せとシメーヌに詰め寄る。

「私は死にたいのだ!」と。


しかし、シメーヌは仇討ちできない。ロドリーグへの愛ゆえに。





ちょうどその頃、ムーア人が大艦隊で攻め込んできて。
カスティリアは存亡の危機に立たされる。





愛するシメーヌに永遠に拒否されたロドリーグは、ムーア人を迎え撃つために戦場へ行く。


破れかぶれのロドリーグは、死に物狂いで戦う。死に場所を求めて。


しかし、結果的に、初手柄をあげ、さらに、皮肉なことに

ムーア人の王ふたりを生け捕りにするという快挙を成し遂げてしまう。





その武勲によってロドリーグはムーア人から『ル・シッド』と呼ばれ怖れられるようになる。


(ちなみに、『ル・シッド』とは、ムーア人の言葉で『君主』という意味)





国王は、英雄となったロドリーグに感謝し、ねぎらう。


国王は、シメーヌが内心ではロドリーグの活躍を喜んでいるのに気がつき


シメーヌが代理人をたてさせて、ロドリーグと決闘させることに決める。


そして、勝ったものとシメーヌは結婚するという条件をつける。なんとかまるくおさめようとして。





シメーヌに思いを寄せる男。、ドン・サンシュが仇討ちの名乗りをあげる。しかし彼は決闘未経験。

ロドリーグは決闘において、ドン・サンシュの剣を撃ち落し、圧勝する。

そして、ドン・サンシュに剣を預け、勝った証に、シメーヌに届けろと命令する。





ドン・サンシュが届けたロドリーグの剣を見て、


シメーヌはロドリーグが死んだものと早とちりする。





ショックから、父への仇討ちの義務からひた隠しにしてきたロドリーグへの愛情を
シメーヌは国王に告白し、世をはかなみ、尼寺にこもると言い出す。


しかし、誤解が解け、ロドリーグが生きている判明すると、シメーヌはもはや嬉しさを隠せない。


国王は、もう、これだけいっぱい悩んだのだから父の仇討ちは済んだでしょ、とシメーヌを説得する。





結局、シメーヌは、国王の説得を受け入れロドリーグと結婚。





国王は、新婚のロドリーグにムーア人征伐のため、遠征を命じる。


なんらかの悲劇の前途をほのめかしつつも終劇。





★感想


異様に展開が早いというのが一番の感想。志賀直哉の短編ぐらい早い。


以上のあらすじが24時間のうちに起こったということである。


古典主義の『三単一の法則』をかなり無理して踏襲しみました。


仕方なくプロットをぶち込んだみましたが、破綻を繕えませんという苦しげな作品。





家の名誉と恋愛に引き裂かれたロドリーグの二律背反を描いている。





コルネイユが後に悲喜劇と名付けただけあって、ハッピーエンドである。





脇筋でカスティリアの王女が、ロドリーグを熱愛しているのだが


身分が合わないので、シメーヌの恋路を譲るという


全く、本筋に関わらない筋が入っている。この脇筋は死筋。





本来ならば、ロドリーグは戦果を上げて戦死するか、


王女の腹心の奸計で、暗殺されるというのが悲劇の王道だが、


王道どころか覇道を突っ走るコルネイユは


無理矢理ハッピーエンドに持ち込んだ。





ギリシア悲劇のような三部作ならロドリーグは


王女の絡んだ筋で死ぬとおもわしい。どうだろうか。





しかし、ハッピーエンドだからこそ、かなり当時の劇場をにぎわした。


特に貴婦人からの支持が熱烈であった。

めでたく結ばれるのがいいらしい。


女性はバッドエンドを好まないが、昔からそうだったのだ。だなあ。




★ 『ル・シッド論争』の発端となったスキュデリの<『ル・シッド』に関する批判>について





ジョルジュ・ド・スキュデリの『ル・シッド』へのいちゃもんは以下の3点。





1. 24時間にあまりにも多くの事柄が起こりすぎている。


(伯爵の決闘、死、葬式、ムーア人の襲撃、ドン・サンシュの決闘、ふたりの結婚)





2. 歴史的事実に基づく主題が真実らしくない

   (この「真実らしくない」という言葉はかなりの含蓄があるらしい。)





3. 作品が『エル・シドの青年時代』の剽窃である。





なんだか、現代の饐えた臭いのする文芸評論家でも言いそうな、陰湿ないちゃもんである。


ジョルジュ・ド・スキュデリは三流劇作家であったそうだ。


コルネイユの舞台に女性が殺到するのを見て、気分を害したとしか思えない。


もしかすると、僭越だが、『もてない男』であったのかもしれない。下世話な想像だが。





スキュデリの批判についてはアリストテレスの『詩学』の要約が必要なので


次回、『詩学』の要約を試みたい。





とくに、悲劇における「真実らくない」という批判。


現代でいえば「リアリティーがない」と素人でもいってしまうような


およそ、印象批評でしかない無力な紋切型の言葉だが、


古典主義においては明確な定義があるそうなので、それも合わせて次回紹介したい。


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posted by 信州読書会 宮澤 at 13:35| Comment(0) | 戯曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

詩学 アリストテレス 岩波文庫 その一


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アリストテレース, 松本 仁助, 岡 道男訳 『詩学 』



『詩学』と銘打たれているだけあって、


「詩の作り方」みたない本だと長年にわたり誤解していたが、戯曲の文学理論である。


とりあげられている作品は、ホメロスの叙事詩とギリシア悲劇である。





ちなみにアリストテレスはアレクサンダー大王の家庭教師をしていたらしい。





私は、恥しいことにプラトンを全く読んでいないので、


哲学者アリストテレスの偉業はさっぱりわからない。


ただ、実在したのかが疑わしいほどに頭のよい人であることはわかる。





★『詩学』 第六章『悲劇の定義と悲劇の構成要素について』


第六章は岩波文庫で5ページほどの論考である。


しかし、後世に多大な影響を与えた鋭い考察がある。


「悲劇の定義」と「構成要素」が簡潔にまとめられている。





★《悲劇の定義》 悲劇とは?


『一定の大きさをそなえ完結した高貴な行為、の再現(ミーメーシス)であり、


 快い効果を与える言葉を使用し、しかも作品の部分部分によってそれぞれの媒体を


 別々に用い、叙述によってではなく、行為する人物たちによっておこなわれ、


 あわれみとおそれを通して、そのような感情の浄化(カタルシス)を達成するものである。』





ここでまず、重要なのは、『高貴な行為の再現』である。


しかし、『詩学』では人間にとって『高貴な行為』とは一体なんなのかは触れられていない。


訳注によると『ニコマコス倫理学 』に詳しいとのことである。





コルネイユの『ル・シッド論争』は、まず、「高貴な行為の再現」があったのかが問題となった。


17世紀では人間の理性に照らして、普遍的な高貴さ存在すると考えられていた模様。





そのへんは、アリストテレスがしっかり定義してないのだが、


訳注から類推されることは『ニコマコス倫理学』に中間の徳(中庸)というのが


論じられているそうな。要するに市井の人間の中庸の徳義を哲学的に論じたものらしい。








コルネイユの『ル・シッド』における「高貴な行為」のなさが、


ジョルジュ・ド・スキュデリが、コルネイユの古典主義無視への批判への端緒となった。





父の仇討ちと恋人への慕情に引き裂かれたシメーヌが、最後の最後で父の仇討ちを放棄し、


父を殺したロドリーグと結婚するのは不道徳だとスキュデリはいうのである。





古典主義の理性は、長年こうした不道徳を断罪して劇を構成したのに、


コルネイユは、理性を無視して不道徳に結末をつけずに


ご都合主義的に悲劇をハッピーエンドにしたのが


気に喰わないとスキュデリ声高に叫ぶのである。





例えば、現在のTVドラマや映画みたいに、安易に「不倫」や「性的倒錯」や「近親相姦」を


取り上げないことは(あたりまえだが)もちろんのこと、そういう行為をした人物は


劇中で破滅するというのが、古典主義におけるお約束であり、倫理であるいうことだそうだ。


こういうのを肯定してしまうと、市井の中庸の徳義が崩壊するということで、具合が悪いのである。

誰に具合が悪いといかというと、治世者に具合が悪いのである。





とにかく重要なことは、理性というか中庸の徳義に照らして、観客の倫理観をを乱すことなく

悲劇の結末のカタルシスが選ばれるべきという主張である。これが古典主義の鉄則である。





『コルネイユさん、古典主義の伝統を踏みにじるような不道徳な真似は許しがたいですよ、


ご婦人や町人ふぜいに媚びて人気を博したからっていい気になりなさんな』


そういうことをスキュデリは言っているのである。小うるさいお節介である。





現在でいえば、子どもに見せたくないバラエティー番組をランキングして糾弾する


PTAの「教育上好ましくない」という御宣託にも似た徳義である。





逆をいえば、現在の日本には、小うるさいことをいうPTA的な組織にしか、理性の残滓、


あるいは市井の中庸の徳義がないという、結構、深刻な理性の形骸化が進行しているのである。





現在で市井の中庸を説くのは、保守主義者か宗教家くらいなものである。

しかしながら彼らは、マスメディアの受けは悪い。雑誌媒体では威勢がいいが

影響力の高いTVや新聞なんかではきつい所に立たされている。


だいたいにおいて日本の都市部では、こうした市井の中庸なんぞは忘れ去られている。





正確には忘れ去られていないが、古くからの地元民


(駅前に先祖代々土地を持っているような地主)が


核家族化して流入してきたサラリーマン(賃労働者)と


彼らをターゲットにてマーケティングを展開して利益をあげ、


昔ながらのコミュニティーを破壊してゆく


チェーン店やスーパーに眉を顰める顰め具合に出てくるくらいのものだ。




要するに、封建主義的な差別感情と市井の中庸の徳義は表裏一体である。

私の住んでいる長野なんかはまさしくこんな感じで中庸が保たれている。


しかし、そういう地主階級もなんだか、なしくずしにモラルを失いつつある。そんな気がする。





話が大分それた。なんだか説教臭い熱さをぶちまけてしまった。


新左翼みたいなことをいってしまったが、私は市井の中庸のほうが好きだ。


ただ、その市井の中庸を裏付けるものは地主の傲慢ではなく


宗教の個人的な信仰であるべきだとは思っている。(宗教団体での信仰ではありません)


最近そういう結論に至った。どうでもいい話ですが。

詩学 (岩波文庫)


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posted by 信州読書会 宮澤 at 13:34| Comment(0) | 戯曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

詩学 アリストテレス 岩波文庫 その二


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詩学 アリストテレス 岩波文庫 その二

前回『中庸』について書いたが、その後『ニコマコス論理学』を読みはじめ

なかなか面白かったのでブログ更新が滞ってしまった。まだ読みかけだけども。


ニコマコスというのはアリストテレスの息子で、


彼が、アリストテレスの講義の内容や手稿を編集したということらしい。





ニコマコスは、若くして戦死したそうなので、彼がまとめたかどうかも定かではないそう。


ただ、真相はアリストテレスの弟子による争いが絡むそうである。めんどうな話だ。





★悲劇の構成要素


アリストテレスは詩学の第六章で悲劇の構成要素を六つに分けている。


「筋」、「性格」、「語法」、「思想」、「視覚的装飾」、「歌曲」である。





最も重要なのは「筋」であり、出来事の組み立てとしての「筋」は、


悲劇の目的であり、なによりも重要だと言い切っている。





なぜならば、悲劇は人間の再現ではなく、高貴な行為と人生の再現だからであり、


『筋は悲劇の原理であり、いわば魂である』とまで述べる。





さらには、





『悲劇は行為がなしには成り立たちえないが、性格がなくても悲劇は成り立ちうるであろう』





と、ここまで、大胆に宣言してしまっている。おそるべし。





要するに、登場人物の性格などは、二の次であるということだ。


これは、非常にインパクトのある断言であった。自分にとって。





だいたい、文学作品を読むときには主人公やら脇役やらになんらか感情移入したり、


「ああ、こういうこと思うときがあるなあ」なんて身につまされたりして、


いろいろ考えているときが、自分にとっては一番興奮する瞬間だが、


やはり、根源をたどれば、ある出来事=筋があって


そこにさまざまな人物の感情や思惑が絡み合うときに


登場人物の性格の陰影がくっきり現われてくるからこそ、

そこに感情移入したり反発したりして愉しいのである。





なるほど、「筋」のほうが重要である。





当たり前のことだが、なかなか気がつかないことだ。





翻って、性格を最も重視して考えて書かれた小説が、


結局一人称のちまちました身辺雑記みたいになるのはやむをえないのかもしれない。





作家にとって自分の性格の分析から始めるはるかに楽だし、


案外、自分の性格やら感性というものには、


誰もみんなひそかにうぬぼれを抱いているものである。





だから、とりあえず、




「きょう、ママンがしんだ。もしかすると、昨日だったかも知れないが、私にはわからない。やれやれ」




とかいう書き出しで、さもないことを、やたらに客観視して書いてみたくなるのだろう。





誰とは言わないまでも、そんな気持ちで書いているなあという作家はけっこういる。




(ああ、話がまたそれて、やつあたりの批判っぽくなった。

別に現代の小説が面白かろうがつまらなかろうが、


それに対して批判っぽく述べるのは、やっぱり不健康。やめた。)





とりあえずアリストテレスは「筋」を重視した。




そして、問題を「筋」の中で解決し、感情を浄化するのが悲劇であるとしている。




性格設定だけ先走るような作品は、アリストテレスに照らせば、低調な作品ということができる。

人間の性格というのは、正常であろうが、異常であろうが、結局つまらないものなのである。

アリストテレスが高く評価するのは性格ではなく、「高貴な行為」であることは重要だ。




では、いったい人間にとっての「高貴な行為」というのはなんなのかという

哲学的な問題をアリストテレスは、『ニコマコス論理学』で論じようとしている。




それも、イエス・キリストが生まれる以前に、である。ここが意外とすごいポイントである。

神によらずに、「高貴な行為」を定義づける困難さは、現代人にとって計りしれない。




それについては、『ニコマコス論理学』を読了したら改めて論じたい。




ちなみに、アリストテレスは「思想」とか「語法」に関してはほとんど何も言っていない。
「視覚的装飾」にいたっては衣装係の技術が重要だと述べていた。
この生真面目な記述に、アリストテレスのギャグセンスを感じる。





『悲劇の機能はたとえ上演されなくても、また俳優がいなくても働く』と述べる。





この一文を読んで、金を払ってまで演劇を観たいとは思わないが、


戯曲について語りたいという自分にまとわりつく、うしろめたさが払拭された。





とりあえず、劇場にいかなくても、悲劇については語っていいのだ、と信じたい。です。




次回は、また『ル・シッド論争』について続きを書きたい。


コルネイユとスキュデリに対するアカデミーの裁定が面白かった。


日本でいえば、芸術院が、文芸誌の論争に決着をあたえるようなものである。


日本の芸術院会員も、特養老人ホームじゃないんだから、たまには論争に参加して


あえて居丈高に裁定をあたえてほしい。そういう迫力がほしい。




詩学 (岩波文庫)



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posted by 信州読書会 宮澤 at 13:32| Comment(0) | 戯曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

詩学 アリストテレス 岩波文庫 その三

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★アリストテレスの『詩学』第十五章『性格の描写について』について。





悲劇において『性格』より『筋』を重視するアリストテレスも、


『性格』の描写について次の4つを目標にせよと述べている。





第一、性格はすぐれたものでなければならない。


第二、性格をふさわしいものにする。


第三、性格を(わたしたちに)似たものにする。


第四、性格を首尾一貫して再現する。





この順に、しっかり描写せよと述べている。


簡単に言っているが、これはずいぶん難しいことである。


とりわけ現代においては、『性格』の基準がものすごく難しい。





性格のふさわしさについて、アリストテレスは例をあげているが、





『女性が勇敢な性格をもつことはありうるが、しかし女性があまり勇敢であるとか

利口であるとかいうのは、ふさわしいことではない。』




というのだ。


今こんなこといったら、各方面から総スカンを喰らう可能性がある。


『性格をわたしたちに似たものにする。』といわれても、どんな性格なのか。


アリストテレスに似た性格の人など現代にいるだろうか?





現代文学で、普遍的な『性格』が前提とするのは難しいのである。


しかし、アリストテレスに範をとる古典主義は普遍的な『性格』と


それを裏付ける『理性』が存在し、共有されているということを前提にしている。


この辺の、のんきというか、無邪気とういか、性善説ともいえる人間観がうらやましい。





そして、アリストテレスは、





『劇の出来事になかにはいかなる不合理もあってはならない。それが避けられない場合には、


ソポークレスの「オイディープス王」におけるように悲劇の外に置くべきである。』




と述べる。





『不合理があってはならない』というのは、あんまり異常な出来事、


たとえば『殺戮』とか『陵辱』とかを指していると思われる。


そういうことは、悲劇の舞台で再現しないで、


劇の外で起こったことにしてくれと、アリストテレスは言いたいらしい。





『詩学』の論考が連綿と受け継がれ、伝統にまで高められたからこそ、


フランス演劇の古典主義では、『不合理』は、『理性』に名において厳しく問い詰められる。


言い換えれば、古典主義というのは、表現の首には鈴がついている。自由が利かないのである。





だからこそ、父殺しの犯人であるロドリーグと結婚してしまうシメーヌの性格上の『不道徳』は、
まさに『不合理』として糾弾されるのである。





『ル・シッド論争』についてのアカデミー・フランセーズの裁定について


書こうと思ったのだが、以上のことをやはり前置きとして述べておきたかった。

詩学 (岩波文庫)




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posted by 信州読書会 宮澤 at 13:30| Comment(0) | 戯曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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