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東 浩紀 ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2
現在「オタク」という一群のコアな消費者によって支えられ、
一般的にも、また海外でも消費され、認知されつつある
「ライトノベル」「ゲーム」「アニメ」の先進性を説いた新書。
東浩紀の著作はデビュー当時から読んでいるが、どんどん関心がなくなってきた。
この本の読んだ感想は、ん〜、論理的な砂上の楼閣という気がしないでもない。
とにかく、この本が敵視しているのは、現在の「文学」である。
社会的に認知された「芥川賞」「直木賞」の小説よりは、
「ライトノベル」「ゲーム」「アニメ」のほうが、すごいといいたげである。
?と思うところは、かなりたくさんあったが、「自然主義リアリズム」について述べておきたい。
★「自然主義リアリズム」VS「まんが・アニメ的リアリズム」
大塚英志の『キャラクター小説の作り方』と柄谷行人『日本近代文学の起源』を
踏まえて、日本における「自然主義リアリズム」を正岡子規が俳句革新によって
提唱した「写生」からはじまると定義している。
見たまま書く、事実をそのまま書くという
「自然主義リアリズム」に支えられていて、従来の「文学」は市場で売れている。
それに対して、「ライトノベル」「ゲーム」「アニメ」は
メタフィクションを導入して、全く異なった原理や価値のもと
文学なんかよりは何倍も大きな市場で売られている。
メタフィクションの導入は「まんが的・アニメ的リアリズム」であると
大塚英志にならって名付けられている。
私たちはいま、文学的想像力の基盤として自然主義リアリズムとまんが・アニメ的リアリズムという、ふたつの異なったメタジャンル的な環境を目の前にしていると言える。全社は明治期にヨーロッパから導入され、後者は戦後に国内で生まれた。そしていま、このふたつのリアリズム=環境は、日本の小説市場を大きく二分し、それぞれまったく異なった原理で生産され、消費され、それぞれが複数のジャンルを内部に抱えている』と著者は、対立構造を図式化する。 その後の論考は、売れているものをなぜ、文学的でないといって排斥するのか?
「まんが・アニメ的リアリズム」のほうが表現の可能性があり、市場も大きいのに
なんで、差別されなければならんのだという怒りを様々な論理にかえてぶちまけている。
「文学」おそらく日本の「純文学」に対する著者の憎悪が垣間見える。
★★問題点
「自然主義リアリズム」といえば、それがフランスからの輸入されたものである限り、
どうしても本家のゾラやモーパッサンの作品に触れなければ定義できない気がするが、
田山花袋の『蒲団』のメタフィクション性に少し触れて、
あとは、『日本近代文学の起源』の無批判な引用で定義終了である。ええっ〜!!
それは、あんまりじゃないかという気がする。
「自然主義リアリズム」の定義づけが、「写生」じゃ
19世紀の文学がなんだったのかという話になってしまう。
「自然主義リアリズム」が
「風景のスケッチと新聞の三面記事的事件をとりいれること」であるというくらいの
矮小的な定義に則って議論が進むので、その後に展開される饒舌な論理は永遠に
「まんが・アニメ的リアリズム」のほうに、軍配が上がりつづける結果になる。
これじゃあ、勝敗のあらかじめ決まった八百長相撲と一緒である。
★★★「自然主義リアリズム」とは?
私がゾラやモーパッサンの作品を読んで思ったのは、
「自然主義リアリズム」というのは、宗教や封建制度に支えられた
社会システムへの露骨な批判を取り入れて小説のプロットを作る手法だということ。
そのために、当時の社会科学的な見地を導入して物語を構成し、叙述している。
社会科学的じゃないから、メタフィクションを導入しないのだ。
たぶん、メタフィクションを取り入れると三人称の堅固な構成が崩れるんだと思う。
メタフィクションというのはあまりに野放図に作者の想像力を拡散させてしまうものだ。
導入すると、三人称の作品世界が、延々と終わらないファンタジーになってしまう。
そうならないための小説規範を、社会科学に裏打ちされたリアリズム求めたのだ。
三人称というのは、社会科学的な視点に成り立たないと獲得できない。
他人の人生をモデルにして、描くのだから社会科学的な取材がどうしても必要になる。
そして、野放図な想像力を極力排除して、社会科学的な真実を三人称の中でリアルに展開する。
これが、自然主義リアリズムではないだろうか。
ゾラが、当時科学的だった、ベルナールの『実験医学研究序説』を、小説理論に転用して
「時代と環境と遺伝が人間を決定する」という信念のもとに作品を書いたのは有名である。
ゾラが、仮に、メタフィクションを取り入れたら、
三人称で描かれた個々の登場人物が社会科学的に実在する可能性の担保がなくなり、
物語の信憑性が希薄になる。だからメタフィクションを避けたのだと思う。
三人称の作品世界をあくまでも社会科学的に描くのが「自然主義リアリズム」なのだ。
そして唯一、ゾラにとって許されているメタフィクション。それは聖書に描かれた物語だ。
自然主義小説の登場人物にとって、メタフィクションというのは聖書に描かれたことなのだ。
つまり「主は先立てり」である。これは正確には、メタフィクションではなく作品世界の外部である。
この作品世界の外部を想像力で乗り越える、いかなるメタフィクションも存在しえない。
なぜならば、信仰の問題であるから。この世には、現実の世界と天国しかないという信仰。
「ソルジェニーツィン試論」もそうだが、東浩紀の文学へのキリスト教の影響の無視は、目にあまる。
ソルジェニーツィンは、まず誰よりも敬虔なロシア正教徒であるのに、
それを無視して論じてしまう批評家である。
★★★★結論
本書で取り上げられている『涼宮ハルヒの憂鬱』をDVD借りて観てみた。
(この歳になると、アニメを借りるのに羞恥心をかなりおぼえる…)
まあ、アニメだった。昔観たアニメと同じだった。
いろいろな作品の真似を器用にとりいれているなぁというのはわかった。
しかし、『涼宮ハルヒの憂鬱』を「純文学」に対置して論じるのは無理がある。
「まんが的・アニメ的リアリズム」の歴史や手法は、
映画や演劇の歴史や手法と比較しなければ、見えてこないと思う。
映画や演劇のほうが、メタフィクションの導入が顕著だし、
映像技術的な問題において「映画」と「アニメ」「ゲーム」は重なり合う。
また、映画や演劇は、オリジナル作品でない限り、原作の解釈の問題があるので、
そこにおいてようやく「文学」「戯曲」と「まんが」「ライトノベル」が比較されるくらいだろう。
たぶん、著者は、「映画」や「演劇」よりもなぜか
日本においてはるかに、社会的地位が高いと思われている「純文学」の前に
敢えて「ライトノベル」「ゲーム」「アニメ」の対峙させることで、
一般の読者にわかりやすい対立図式を作りたかったのだと思う。
そのほうが問題が鮮明になって、新書としては売れるだろう。
要するに、煽っている。でも、本気で煽っているのかよくわからない。
文学主義の大学教育制度やマスコミ関係者を啓蒙しようとしているのだろうか?
そこのところが、全くわからない。
『ノーベルまんが・アニメ賞』を制定すれば、
この本にかかれているすべての問題は解決するのじゃないかな。
私がアニメを借りる際に感じる羞恥心もなくなるし。
まんが、アニメに社会的評価を与える場所がないのが問題なのだろう。
それを、訴えた書物としては意義があると思う。
スーザン・ソンタグや80年代以降の吉本隆明の仕事には及ばないが、
それらに近い意義がある。好意的に言えばの話だが。
ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2 (講談社現代新書)
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