信州読書会 書評と備忘録

世界文学・純文学・ノンフィクションの書評と映画の感想です。長野市では毎週土曜日に読書会を行っています。 スカイプで読書会を行っています。詳しくはこちら → 『信州読書会』 
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2013年07月25日

桜の園・三人姉妹 チェーホフ 新潮文庫

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★「桜の園」あらすじ
夫に死に別れ、七歳の息子が川で溺死するという
相次ぐ不幸に見舞われたラネーフスカヤ夫人。
彼女は恋人とパリに出かけ、心の傷を忘れるために
放蕩三昧の日々を過ごすが、恋人に捨てられ、
借金を背負って再びロシアに戻る。
すると、広大な桜の園に象徴される先祖代々の領地は競売にかけられていた。

★感想
没落貴族の悲劇が、喜劇的に取り扱われた戯曲。
貴族的な人物は実は出て来ない。
従僕も貴族も同じ平面で語り合う、社会主義的な作品。
そもそもロシアの貴族は田舎臭いので
会話にエスプリも教養もない。


劇的なことはついぞ起こらないが、
登場人物はみんなとぼけていて、明るくユーモラスである。
その辺が、戯曲の楽しみどころではある。



解説の池田健太郎氏の指摘によると
小説「知人の家で」と「いいなずけ」が下敷きになっているという。
チェーホフのミニマリズムを味わえる。


名訳の誉れ高い神西清訳でチェーホフの哀愁を楽しんでみては。


桜の園・三人姉妹 (新潮文庫)


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ラベル:チェーホフ
posted by 信州読書会 宮澤 at 09:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

闇の奥 コンラッド 岩波文庫


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★あらすじ
アフリカの最奥地の貿易会社出張所に勤める
クルツは、象牙を蒐集することに天才的な手腕を発揮した。
ある日、音信が途絶えると
いつしか彼は、未開の部族の王として君臨していた。
冒険に魅せられたマーロウは、伝説の男クルツに逢いにゆく。
長い旅路のはてに出逢ったクルツは病に倒れており
密林での孤独と恐怖と全能感によって、ひとつの恍惚状態にあった。



コッポラの『地獄の黙示録 』の原作と呼ばれる作品。


クルツはマルローの『王道 』のグラボに影響を与えている。
(グラボは、密林で部族の王になり損ねて奴隷にされていた。)
クルツが、音楽家であったということから、
同じく音楽家であったポール・ボウルズの
『シェルタリング・スカイ 』を連想させる。


密林のなかでニーチェ的な覚醒を遂げた
クルツの「地獄だ! 地獄だ!」という叫びは印象深い。


ジャングルの中を流れる河を遡っていく叙述は息を飲む。
そしてお約束の現地人による毒矢での襲撃。
(出張所に住み込んだロシア人青年はその後どうなったのだろうか?)
マーロウによる独白からなるという形式なので読みやすい。


反近代に目覚めるヨーロッパ人の雛型を示した作品。冒険好きの人はぜひ。



ちなみに私はかつてマルローの『王道』に感化されて
カンボジアのアンコールワットを目指し、初めての海外旅行に独りで出かけたが、
バンコク空港内でさっそく上着を盗まれ、両替所で紙幣を一枚ごまかされ
初日にして怖気づき、タイ国内を3週間ほどうろうろしただけで帰ってきたことがある。


闇の奥 (岩波文庫 赤 248-1)


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posted by 信州読書会 宮澤 at 08:59| Comment(0) | TrackBack(0) | イギリス文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

みずうみ・人形つかい シュトルム 角川文庫


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みずうみ・人形つかい (1968年) (角川文庫)



★「人形つかい」あらすじ
両親に大切に育てられた職人の息子がパウルは、
興行にやって来た人形劇の旅芸人の娘リーザイとつかのまの友達になる。
彼は、人形のカスペルルに魅了され、無理にリーザイに頼んで
見せて貰うが、勢い余って人形を壊してしまい、公演に支障を与えてしまう。


大人に叱られないためにふたりは劇場の地下の空箱の中で一夜をともにする。
(このシーンは途方もなく美しい。)
大人たちは彼らを探し出して寛大に許し、カスペルルは無事に修理される。



12年後徒弟修業中のパウルは、とある街で泣き叫ぶリーザイと再会する。


リーザイの父ヨーゼフが泥棒の濡れ衣を着せられて入獄させられていたのだ。
パウルは彼らを助け、旅芸人から廃業させ、身寄りのないリーザイを妻として
彼女の父とともに故郷に迎え幸福な生活を営む。
ヨーゼフは、人形劇への未練を捨てられず、
ある日再び興行を打つが、ならず者に邪魔されて失敗し、失意の中で亡くなる。


人形劇をとおして、さまざまな感傷的な物語が語られる。
エピソードは、家庭的な愛情に包まれていて、すべてが切なくなるほどに美しい。


周囲の期待感と別れ予感の中で暮せない旅芸人の刹那の輝きがよく表現されている。
旅芸人を敢えて妻に迎えて、世間の偏見に立ち向かいながら
幸福な生活を築き上げるパウルの勇気が感動的だ。


市民社会のささやかな幸福を追求した名作。かなりお薦め。
絶版だが、古本屋の入り口の棚あたりにて50円ぐらいで売られていると思う。
士郎正宗原作 押井守監督の劇場アニメ『イノセンス 』とは何の関係もない。あしからず。

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posted by 信州読書会 宮澤 at 08:58| Comment(0) | TrackBack(0) | ドイツ文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

台所太平記 谷崎潤一郎 中公文庫


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大作家、千倉磊吉の家に奉公した女中たちを回想するという形をとった小説。
サンデー毎日の連載小説。


動物図鑑のように女中達の生態を綴っている。
女中の癲癇発作事件や、女中同士の同性愛事件など
性にまつわる下世話な興味を掻き立てるエピソードが満載だが、
基本的に金満家の家庭内の事件であり
事件を見守る千倉磊吉と妻、讃子は
最後まで狂言回しに徹しているので、
お上品にまとまっている。


ディズニー映画や、ハリウッド映画の「哀愁」など
当時はやりの風俗がひととおり盛り込まれているが、
女中をひとりひとり、エピソードとともに
回顧してゆくという構造によって


日本古来の物語文学の結構を偲ばせるので
風俗が作品を古びさせる瑕疵を回避している。
(ちなみに、女中の名前を本名で呼んでは
親御さんに失礼なので、磊吉は女中に源氏名をつけている。)


教育はないが聡明で美人な、鈴という女中に、磊吉が読み書きを教え
女ぶりを上げさせてゆくくだりなどは、
源氏物語かプリティーウーマンの世界である。
それでも、磊吉は鈴を娘のようにかわいがるのだけであり
嫁入りの決まった鈴に歌を贈るところで物語は終わる。


頽廃したブルジョア生活が臆面もなく綴られている。
大谷崎の開き直りと円熟を存分に味わえる作品。

台所太平記 (中公文庫)


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ラベル:谷崎潤一郎
posted by 信州読書会 宮澤 at 08:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ブラック・ダリア

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エリザベスショート事件という、
ハリウッド女優志望の若い女性の実際の惨殺事件から着想を得た
ジェイムズ・エルロイのノワール小説が原作。



原作が分厚すぎて読んでいないので、
残念ながら、ストーリーがよくわからなかったです。
(L.A.コンフイデンシャルの映画版もそうだった・・・)
エピソードが詰め詰めで入れられていた印象かあります。
あらすじは、パンフレットで確認してようやくわかりました。
いずれ、原作も読んでみたいと思いました。



★気になったこと。
エリザベスの死体が道端で発見されたときの
クレーンを利用した無意味とも思える長回しは何だったんだろう。
やってみたかったとしか思えませんでした。


そのあとの銃撃戦は派手でかっこよかったです。
ストライプのスーツを着た太った黒人が走って逃げるのがかわいかった。

ずっとケイが犯人だと信じて観てましたが見事に裏切られました。


ケイ役のスカーレット・ヨハンソンは
絵に描いたような金髪美人で品があって色っぽかったけれど、
右頬にニキビかほくろがあって気になりました。
肌も荒れ気味で気になった。ちょっと残念だった。


マデリン役のヒラリー・スワンクがちょいブスなのも残念。
角度によって頬がこけて見えました。32歳ならしかたないか・・・



マデリンのお母さんが、バルコニーから出てきて喋るシーンは
「ファントム・オブ・ハラダイス」のようなオペラ感満載でした。


このお母さんの演技は、ヒラリー・スワンクを喰ってました。
小屋の入り口でエリザベスをバットで殴るシーンも戦慄的。
このお母さんがファントム・オブ・パラダイスの主役の人と
共同作業でエリザベスの頭を万力にかけるシーンは、
ホラー映画っぽくてよかったです。『悪魔のいけにえ』みたい。


マデリンとバッキーが出逢うオシャレなレズビアンバー。
あのショータイムをぜひ一度生で観たい!と強く願わずにいられませんでした。


セックスとバイオレンスにデ・パルマっぽい欲望のギラつきが感じられて
脂っぽくて、悪玉コレステロールがいっぱいで、おなかパンパン
胃にもたれましたという映画。ともかく飽きさせません。お薦めです。

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posted by 信州読書会 宮澤 at 08:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 洋画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

行人 夏目漱石 新潮文庫


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★あらすじ
大学講師の一郎は、孤独癖があり神経衰弱の傾向があった。
妻の直をはじめ家族の誰とも心打ち解けられない。
弟の二郎に、妻が自分のことをどう思っているか訊くように頼むほどである。


やがて二郎は、嫂をめぐって兄と齟齬をきたし、家を出る。
しかし、二郎は神経衰弱の高じた兄を心配し、
兄の旧友Hに一緒に旅行にいって兄の心のうちを探ってくれと頼む。
旅先からHから兄の不可解な言動を報告する手紙が届く。


『明暗』以外の主要な漱石作品は読んでいる私だが、『行人』は最も感銘を受けた。
感銘を受けた性質が面白かったというよりも、
身につまされて何度も中断して考えさせられるので、
容易に読み進めえないといった具合だ。


「構成のゆるみ」が随所にあるという江藤淳の指摘がある。
確かにエピソードが煩雑でまとまりがないが、
これは新聞連載小説であり、断章ひとつにも、感興を惹くエピソードを交えて


読者を飽きさせないようにするのが漱石一流のビジネスであり、
構成のまとまりとか芸術的達成とか求めがたいと思う。
芥川がだらだら新聞小説を連載できたかというと、
彼の芸術至上主義はそれを許さないだろう。


二郎の視点から長野家のメンバーがそれぞれ描かれているが、
それは、二郎が息子であり、弟であり、兄であり、義弟であり、叔父であるという
役割を演じるこの大所帯の中での要であるからだ。
前半は、何よりも二郎が主人公の小説であり、
Hの手紙に至ってようやく二郎の主観を挟まない一郎の姿が描かれる。


一郎はどうやっても、主人公ではない。


こう考えると、一郎が離婚したりとか自殺したりとかいった
安易な結末をつけるのを嫌がったよりも、
主人公でない一郎の性格をこれ以上突き詰めると小説の構成が乱れるので、
無理矢理結末を持ってきて、未解決のモチーフを次回作に持ち越したといえる。


そう考えれば、『こころ』は一郎を自殺させた話といえる。
一郎がすでに自殺したK、二郎が先生で、嫂の直が先生の奥さんというふうに
設定に改めた『行人』の続編的なバリアントと『こころ』はみえるだろう。


もっと『行人』の感想を細部に触れて書きたいのだが、
長くなるので最後に、私が最も印象に残ったことについて


父が景清の謡から、盲目の老女の話をはじめ、女の秘めたる執念を語り、
それに関して一郎が女と男の情念の違いを批評したあげく、
二郎を部屋で詰問するくだりは、小説の構成として実に鮮やかだと感嘆した。


行人 (新潮文庫)



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ラベル:夏目漱石
posted by 信州読書会 宮澤 at 08:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

オウムと私 林郁夫 文春文庫


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オウムと私 (文春文庫)


医師でありオウム信者であり地下鉄サリン事件実行犯である林郁夫の獄中手記


地下鉄サリン事件の際、私は高校受験を控えた中学三年生だった。
どういう状況や経過を経てこういう事件が起こったかということに関しては、
高校二年くらいから小林よしのりの『ゴーマニズム宣言』を読みはじめて知り、
その後、理論的というか現代思想との関係として
大学時代に社会学者の大澤真幸の『虚構の時代の果て―オウムと世界最終戦争 』など読んだ。
実際の信者を取材記録した森達也の『A 』『A2 』をビデオで観た。
以上を観たり読んだのは、知的好奇心と下世話な興味とでしかないが。



その後、一度だけ私的な必要に迫られて毎晩聖書を読んだ時期があり、
キリスト教については、短期間だが恃む気持ちで考えたことがある。
そのせいか、キリスト教徒であった正宗白鳥や、西欧文学に触れた時の感じ方が随分変わった。



医師として社会人経験のある林郁夫氏が、
なぜ、お粗末で付け焼刃的なオウムの教義や麻原の存在に捕らわれていったかが、
この手記では明らかにされている。


麻原と彼との師弟間の葛藤についての記述に大半を割いている。


麻原帰依に至った経緯は
具体的には、麻原が重病患者の意識を回復させたという奇跡を目の当たりにしたとか
林の心の迷いや葛藤を見抜いて、麻原がズバリと指摘したのが、原因であるようだ。


本書で、一番気にかかった点は、昭和天皇の死に際しての心理的動揺と
オウムへの入信が彼の中ではかなり密接に結びついている点である。
「私は昭和天皇を個人的に尊敬していました」と彼は述べ、続いて


昭和六十四年一月七日、崩御の発表がありました。
病気の経過は長く、その日の来ることは覚悟していたものの、
その悲報を聞いて、それまで自分の中にあったなにかが、
フッと、消えてしまったような空虚な思いがしました。
その思いは父の死の思い出とも重なって、その後もなかなか拭い去ることができませんでした。
(中略)私の育ってきた一つの時代が終わってしまったような、さみしさを感じていました。



彼自身が意図的に真似したかどうか判りかねるが


すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。
その時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終わったような気がしました。
最も強く明治の影響をいけた私どもが、その後に生き残っているのは
畢竟時勢遅れだという感じが烈しく私の胸を打ちました。



という夏目漱石の『こころ』の「先生」の遺書にそっくりである。
昭和天皇崩御の二週間後の1月23日(彼の誕生日)に彼はオウムへ入信する。
『こころ』の先生が自殺するように、入信によって彼は、現代社会での精神的な自殺を遂げた。



尊師の命令と一社会人としての良心との葛藤の中で
やむを得ずに様々な犯罪に関与してサリン事件にいたる過程が
感情を抑圧した筆致でたんたんと描かれている。


取調べで徐々に刑事の情にほだされ、「私がやりました」というくだりは、壮絶である。


医師という面で見れば、彼も殉職した営団地下鉄職員と
なんらかわらない職業倫理観を持っていたことが本書でわかる。


彼は犯罪者であるが、私たちの身近な隣人いてもおかしくない普通の人物でもある。
この意味を考えさせられると共に、殺伐とした現代社会に生きる人間にとっての
宗教の意味を真に考えさせられる本である。

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posted by 信州読書会 宮澤 at 08:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 自伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

鎖を解かれたプロメテウス シェリー 岩波文庫


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★あらすじ
人類に火を与えたためにジュピター(ゼウス)の怒りを買い、
岩に鎖でつながれたプロメテウス。
彼を支持する太陽神オケアノスの娘たちパンテアとイオネーと
対話を交わし、女神アシアと愛を語らい愛に目覚める。
寛大な愛によって、王座を追われたジュピターと和解し
(というかアシアとの愛にかまけてどうでもよくなったのか?)
ヘラクレスに鎖を解かれる。
様々な神による愛の讃歌によって終わる。


★感想
イギリスのイケメンロマン派詩人シェリーによる
アイスキュロスの『縛られたプロメーテウス』の続編。



新約聖書にならい、プロメテウスの受苦が
イエスの受難と重ねあわされてる。
ダンテの『神曲』の影響も濃い。


戯曲ではなく詩。なので、ほとんどストーリーの展開はなし。
登場する神々が多すぎて何の話かもよくわからなかった。



コロスの合唱が中心の詩篇といっていいかも。
プロメテウスもほとんど出番なし。
とりあえずプロメテウスが女神らにもてもてだった印象はある。
キリスト教徒になったプロメテウスが
デルゴルモンというもうひとりの悪役の出現によって
王座を奪われたジュピターの苦悩を理解して
愛によって許すみたいな話だったと思う(たぶん)
アイスキュロスにあったプロメテウスの力強さユーモアは一切ない。


ロマン派的な錯綜としたイメージの森の中で
暗く湿った、寒々とした世界観が表現されている。
作品自体に日照不足という印象が強い。

ロマン派の詩想に育まれた、もやもやっとした愛が
ひたすら歌いあげられているところが、
読んでいて心地よいといえば心地よい。のか?わからん。


鎖を解かれたプロメテウス (岩波文庫)



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posted by 信州読書会 宮澤 at 08:53| Comment(0) | TrackBack(0) | イギリス文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

蛙 アリストファネス 筑摩世界文学大系4


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筑摩世界文学大系〈4〉ギリシア・ローマ劇集 (1972年)



★あらすじ
ヘラクレスを騙って旅するディオニュソスとその召使クサンティウスの珍道中の劇。
ふたりは無銭飲食してアイアコスにつかまり鞭打たれるが、屁の河童。
途中、蛙のコロスが出てきて
「ゲゲゲゲゲッゴ、グヮアッコ、グヮアッコ」と鳴く。


やがて冥界へとくだると
そこへ、悲劇の一等の座をめぐって争って喧嘩しながら
アイスキュロスとエウリピデスが登場。


地獄の神プルートンの前で、ディオニュソスは
アイスキュロスとエウリピデスのレフェリーを買って出て、口喧嘩を裁く。


エウリピデスはアイスキュロスを
「プロメテウスみたいな野蛮人をうれしそうに描く大法螺吹き!」と罵る。


アイスキュロスはエウリピデスを
「たんぼの女神の息子。不倫の恋の輸入者で市民を毒した」と罵る。
(クリュタイメストラとアイギストスの不倫を描いた自分のことは棚に上げて…)
やがて、ふたりはお互いの作品のプロロゴス(第一幕)を罵りあう。


エウリピデスはアイスキュロスの『コエーポロイ』の
各行に二十ずつ欠点があると罵る。



アイスキュロスはエウリピデスのプロロゴスの浮薄さを
「油壷をなくした!」というギャグを6回くりだして揶揄する。
その上、エウリピデスの作品を散々引用して茶化した詩を披露する。


勝負は判定に持ち込まれディオニュソスはお互いの詩句を秤にかけて競わせる。
アイスキュロスが勝ち、彼はディオニュソス観客の待つ現実の世界へと連れ戻される。
アイスキュロスは、地獄での悲劇の一等の座は
ソフォクレスに譲るようにと捨て台詞を吐く。終り。




★感想
ひどい作品です。シュールでかなり笑えます。
全編ギリシア悲劇のパロディーで成り立っています。



解説によるとアリストファネスはイギリスでかなり評価が高いそうです。
研究書や翻訳も沢山出ているそうで。
私は読みながらベケットの作品を思い出しました。


『ゴドーを待ちながら 』『勝負の終わり 』は
明らかにアリストファネスの影響を受けて作られていると思います。
アリストファネスを尊重するイギリスの土壌がベケットを生んだと思います。
そういえば今年はベケット生誕100年でした。


面白いんですけど、悲しい気持ちになります。
大切な物をけがされたみたいな。


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posted by 信州読書会 宮澤 at 08:52| Comment(0) | TrackBack(0) | ギリシア古典 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

七彩 ロベール・ブラジヤック 国書刊行会


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1945:もうひとつのフランス 3 七彩



七彩 ロベール・ブラジヤック 池部雅英訳 1945もうひとつのフランス 国書刊行会

★あらすじ
学生時代にパリで出逢い、恋人同士だったパトリスとカトリーヌ。
カトリーヌは、ファシズムに惹かれ安定した生活力のないパトリスに
危険を感じて別れ、仕事の同僚フランソワと結婚する。


パトリスは失恋の傷みから、外人部隊に入隊し10年過ごす。


1937年のニュルンベルクでのナチス党大会を観て
パトリスは完全なファシストになる。


10年ぶりにパトリスはパリに戻り、カトリーヌに再会する。
カトリーヌは、パトリスへの恋情に火がつき苦しむ。
フランソワは今なおパトリスを愛している妻に絶望し
パトリスと同様に外人部隊に入隊し、スペイン戦争のフランコ側に参加し負傷する。


★感想
対独協力作家で戦後銃殺されたブラジヤックの七章からなる作品。
反ユダヤ人のパンフレットを多数制作したことでも断罪され悪名高い。



物語→手紙→日記→省察→対話(戯曲)→資料→独白と
すべての章の形式を変えて描くという手の込んだ構成になっている。
(手は込んでいるが、個人的には無意味な気がした。)


「省察」の部は『30歳論』というべき格言に満ちていて興味深い。一例を引くと




青春の陶酔、歓喜、苦悩の追求がドラマとなる最初の時が30歳だ




30では幸いにして、金は追い返すことのできる一介の仲間にすぎない


スペイン戦争をフランコ側にたって記述している点で
国際義勇軍側に立ったアンドレ・マルローの『希望』と対照をなす作品。


ブラジヤックはファシスト作家であるが、
決してファシズムに希望を持っていたわけではないことがわかる叙述もある。


もっぱら、ファシズムの雰囲気のなかでのみ生活した人間がいったいどうなるのかが判明するのはこれらゲルマンのナチ少年団員やイタリアのファシスト少年団員が成人になったときだろう。たぶん結果はあまり芳しくないだろう


愛した男が二人ともファシストになったカトリーヌの独白も哀しい。



いまの世の男たちは悲劇作品の王様たちよりももっと自分のものにするのが難しい



祖国に尽くすことがファシストになることだった作家の悲劇的な作品。
もっとも小説自体はそんなに悲劇的ではないが…。



個人的には、女性にもてないジルが主人公の作品という気がした。


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ラベル:ブラジヤック
posted by 信州読書会 宮澤 at 08:51| Comment(0) | TrackBack(0) | フランス文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ペルサイ アイスキュロス ギリシア悲劇全集2所収 岩波書店

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★あらすじ
ペルシアの王、クセルクセースによるギリシア大遠征
サラミース海戦における歴史的な大敗を描いた悲劇。


ギリシアの3倍の大艦隊を率いながら、
情報作戦の罠にはめられてペルシアの大艦隊は壊滅。名うての将校はすべて討死。
陸路で敗走するペルシアの兵士も、吹雪に見舞われ全滅するが、
クセルクルースだけは、幸運にも帰国する。



★感想
ペルシアの長老からなるコロスが冒頭
出撃する数々の大将の名を武勲とともにながなが歌い上げる。
敗戦を伝える使者が、彼らの討ち死にの様を、同じ長さで報告し、
またもや、コロスが誉れ高き死者の名を哀悼ともに次々と歌い上げる。


この2回の転調したリフレインの壮大さが悲痛であり圧巻である。



クセルクセースのボンクラぶりは悲壮を越えて失笑もの。
息子を心配するあまり、思わず墓場から甦ってしまう
親父で先代のダーレイオスにも失笑を禁じえない。



この親父も、生存中、マラトーンの戦いを指揮して敗北しており、
(指揮官としてはまるでダメだが、人望が厚いのだけが取り柄)
親子ともども戦争に弱いという救われない家系である。



創業者の親父(商売は堅実だが資金繰りが下手)の遺言を無視して
本業以外に手を出して(たぶん証券取引とか)シャレにならない大損を計上。
支店を次々閉鎖し、支店の従業員をやむをえずリストラした上に
なお、会社を倒産寸前の危機に陥れる二代目バカ息子みたいな話である。
無論彼は責任をとらない。腹を切るわけでもなく古参の役員と涙に暮れるだけ。
こんな、放蕩息子をやさしく迎い入れる母アトッサは、ひとしお哀れである。


このボンクラなペルシア人親子の顛末を大まじめに悲劇に仕立て上げたところに
ギリシア人、アイスキュロスの並々ならぬ皮肉のセンスを感じとることができる。


アイスキュロス II ギリシア悲劇全集(2)


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トロイ戦争は起こらない ジロドゥ 筑摩世界文学大系84所収


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筑摩世界文学大系〈84〉近代劇集 (1974年)


ジロドゥ 鈴木力衛、寺川博訳



★あらすじ
トロイの王の次男坊パリスは
ギリシアの絶世の美女エレーヌ(ヘレネー、メレネスの妻)を誘拐。
怒ったギリシア勢がエレーヌを奪還するためトロイ沖に軍勢を進める。
エクトール(ヘクトール)は、トロイ戦争を回避するために、
エレーヌをギリシアに帰らせることを画策する
王プリモス、王妃エキューブ、妹のカッサンドル、ポリクセーヌ、妻アンドロマックと
家族会議を開き、とりあえずエレーヌをギリシアに帰すことにきめるが、
交渉に来たギリシアのユリッス(オデュセウス)の部下を手違いで殺してしまい
結局、戦争になるところで劇は終わる。


★感想
トロイ方の家族会議が中心の近代喜劇。
この家族会議の饒舌が楽しみどころである。


コロスの合唱がないと劇の音楽性が消えることがよくわかる。
音楽的な熱狂のないところに悲劇はない。
そんなことをニーチェも指摘している。



トロイには戦意高揚のための軍歌がないという設定となっている。
家族会議はソフィスト的な饒舌に溺れ、一向に要領を得ない。



ブラジヤックが『七彩』において、
ファシズムは軍歌を歌うことで生まれる同志愛によって、
育まれるという意味のことを書いていた。



軍歌を封殺することが、
戦争回避の可能性につながることを
私に教えてくれた喜劇。


ジロドゥの意図がどういうものであったかは私の非知浅学ゆえ不明。

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posted by 信州読書会 宮澤 at 08:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ポリュークト コルネイユ コルネイユ名作集所収 白水社


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コルネイユ名作集



★あらすじ
アルメニア総督フェリックスの娘、ポーリーヌの婿になった
ポリュークトは、友人ネアルクの勧めによってキリスト教の洗礼を受ける。



時のローマ皇帝デシーは、帝国統一のため
古ローマの神々信仰を奨励し、キリスト教に大迫害を加えていた。


かつてポーリーヌは、ローマの騎士セヴェールを愛していたが、
地位も財産もない彼との結婚をフェリックスが拒んだために
ポリュークトに嫁いだのであった。


ペルシアとの戦争で、敵の捕虜となったデシー皇帝を救い出し
名誉の戦死を遂げたといわれたセヴェールは、
敵をも賞賛させた武勲により、ペルシアで捕虜として厚遇され、故国に凱旋を果たす。


セヴェールはデシーの寵臣となって、アルメニアへ視察に訪れ、
かつての恋人ポーリーヌに再会するが、
フェリックスは、娘との結婚を拒んだことを
根に持ったセヴェールに仕返しされることを怖れる。


折しも、神殿でジュピター(ゼウス)を敬う祭儀が執り行われ、
キリスト教に入信したポリュークトとネアルクは
異教徒の祭儀として、祭壇をぶち壊しにした。
フェリックスは激怒し、ネアルクを処刑、皇帝の寵臣セヴェールの手前、
ポリュークトの処置を迫られ、ポーリーヌのために
彼の改宗を説得するが果たせず、ポリュークトを処刑するが、
罪の意識からフェリックスは、娘のポーリーヌともどもキリスト教に入信する。
セヴェールは彼ら殉教者に心を打たれ、皇帝の意向に背き彼らを許す。

★感想
ブラジヤックの『七彩』の各章に『ポリュークト』の一節が
エピグラフとして律儀に掲げられていたので読みました。



ブラジヤックは周到な考証に基づいたコルネイユの評伝を書いているそうで、
コルネイユ研究にあたっては、現在でも看過できない一冊になっているそうです。


ちなみに、彼はアイスキュロスの『テーバイ攻めの七将』の題材にもなった
エテオクレスとポリュネイケスの兄弟葛藤の悲劇を
戦後のフランスにおける対独協力派とレジスタンスの反目に置き換えて
『兄弟の戦い』(本邦未訳)として作品化しているそうです。
(以上は福田和也の『奇妙な廃墟 』のブラジヤックの稿を参照。)




『七彩』と『ポリュークト』の影響関係は
残念ながら私の力量では端的にまとめることができません。


『ポリュークト』は自己犠牲を厭わない気品の高い登場人物しかでてこない
清潔この上ない悲劇であり、個人的にはやや感興は薄かったですが、
キリスト教殉教者の悲劇としては、完成度の高いものだと思いました。



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ラベル:コルネイユ
posted by 信州読書会 宮澤 at 08:48| Comment(0) | TrackBack(0) | フランス文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

蝿 サルトル 新潮世界文学 47 所収

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新潮世界文学 47 サルトル



サルトル, 白井 浩司訳 新潮世界文学 47 サルトル (47) 所収

アイスキュロスの『供養する女たち(コエーポロイ)』に依拠しながらも
実存主義で読み直し、再構築したサルトルの処女戯曲(1942年初演)


「蝿」とは復讐の女神たち、エリニュエスのことである。
もちろん、エリニュエスはコロスとして「ぶんぶんぶんぶんぶんぶん」と合唱。
(『オレステスと蝿』とかわかりやすいタイトルにすべき!! 不親切な気がする。
アリストファネスの『蛙』に対抗した題名なのかな。)


★あらすじ
あらすじは『供養する女たち』と概ね同じであり、
トロイ戦争から帰還した父アガメムノンを暗殺した
アイギストスと実母クリュタイメストラへの
オレステスによる仇討ち劇として物語は展開する。


しかし、人物設定やシーンにかなりの異同がある。
まず、オレステスは友人ピュラデスではなく、
彼の家庭教師で奴隷の師傳を伴い、コリント人と偽ってアルゴスに帰郷。


オレステスは村上春樹の小説の主人公みたいな、
親友がいない、自分に立てこもった、性格の暗いブルジョワ青年である。
彼はアルゴスの正当な後継者という自覚のない弱気な青年として登場。


エレクトラは憎しみのために怒れる洗濯女として登場。
オレステスの仇討ちを夢に見ているが、実際に再会してみてやや彼に失望する。
なぜなら、オレステスにはまったく憎しみの感情がないのである。


ユピテル(ゼウス)も人間の姿をして初っ端から登場し
帰郷したオレステスに影法師のようにつきまとう。



15年前のアガメムノーン暗殺に際して神々はアルゴスに蝿を遣わす。
街は「後悔」の象徴である蝿におおわれており、
アイギストスもクリュタイメストラも民衆も、
暗殺への後悔のために顔色が悪く、やつれている。


彼らは、その罪を引き受け、15年間に喪に服しており、
後悔することは、すでにこの国の秩序にまでなってしまっている。


暗殺を望まないオレステスはエレクトラと再会し、
仇討ちは止めて一緒に他国へ逃げようと説得するが拒絶される。


そして、オレステスは仇討ちの目的を
「後悔」の蝿におおわれて、それが秩序にまで至ったアルゴスを解放し、
オレステス自身がすべての人々の「後悔」を引き受けることで
秩序を転覆させ、すべてに対して「自由」を開くためと結論する。



忽如として、誇り高い人物にオレステスは生まれ変わる。
そして、とうとう暗殺の決行を決意する。
(「自由」を手に入れるための暗殺=アンガージュマン(参加)というのが
サルトルによるアイスキュロスを読み替えの眼目である。)


オレステスとエレクトラはふたりで城に乗り込みアイギストスを暗殺する。
クリュタイメストラの暗殺は、オレステスひとりによって舞台の外で実行される。
(クリュタイメストラが乳房を見せてオレステスに許しを乞う場面はない。)



殺害後、ふたりはアポロンの神殿に立てこもるが、
復讐の女神エリニュエスが彼らをとりまき罵る。



恐怖におびえるエレクトラは後悔の喪に服していたときの方が、
生きているが楽だったことに気がつき、洗濯女でいるほうがよかったと
ヒステリーを起こしはじめて、オレステスに八つ当たりしはじめる。
後悔から解き放たれ絶望と実存に向かい合うのが耐えられないと告白。
彼女も自由ではなく、結局は奴隷として旧秩序を愛していたことを暴露し逃亡。



ここに至って、ユピテル(ゼウス)はオレステスにむかって、
ねちねちと実母殺しの罪を責めはじめ、彼が狂気に陥るようしむける。
(このへんはアイスキュロスの原作ならって進行)
神殿を出ても、荒れ狂う民衆がオレステスを殺すと脅迫する。



しかし、オレステスは神ゼウスからも神託からも自由になれると確信し、
アルゴスの正当な後継者として戴冠はするが、王座にはつかず、
民衆の苦悩を引き受け生きていくことを宣言する。
秩序の崩壊に怒り狂う民衆の中に、オレステスが身を投じるところで劇は終わる。



★感想
長くなってしまったが、『蝿』に感じた特異性は2点。
『蝿』がアイスキュロスの『供養する女たち』と最も違うのは、


@ゼウスが人間の姿で登場し、神はすでに絶対的な存在ではないこと。


A怒れる民衆を劇に入れることで、大衆社会の到来を描いていること。


この2点は、私が感じたサルトルのオリジナリティーである。


オレステスを実存主義者として描いたサルトルの手腕は
かなり強引といえるが圧巻である。すさまじい執念を感じる。


白井浩司の解説によると
アイギストスには対独協力者、アルゴスの民衆には占領下のフランス国民
オレステスにはレジスタンスの面影が読みとることができるという。



いわれてみれば、確かにそうだが、
アポロンの神殿から民衆のもとにくだってゆくオレステスの一歩は
ファシストの一歩とかぎりなく足どりが似ているように思えるのは気のせいか。


「狂気」ではなく「自由」を手に入れたオレステスに
その後どんな運命が待ち構えていたのだろうか?


ちなみに『蝿』の初演は興行的に失敗だったそうである。



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ラベル:サルトル
posted by 信州読書会 宮澤 at 08:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

冷めない紅茶 小川洋子 福武文庫


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冷めない紅茶 (福武文庫)


★あらすじ
事故死した中学の同級生の葬式でわたしとK君と10年ぶりに再会する。


後日、彼のアパートに招かれ、彼と彼の奥さんとの交流が始まる。
その奥さんは、中学校時代の図書館司書であった。
しかし、わたしは司書時代の彼女のことが、すぐには思い出せない。


ある日私は、家で返却していない中学の図書館の本をみつける。

中学卒業間際に、返却の催促を彼女から電話で受け取っていたことを思い出す。
それを母校に返却しに行って、図書館が何年か前に消失して死者が出たことを知る。
グラウンドにKと奥さんが亡霊のように歩いているのをみかける。


その後、再び、Kの家に遊びに行くが、奥さんは出かけている。
彼女が帰ってこないので、わたしは帰ることにする。


帰り道で迷い、自分が葬式帰り道、Kと会話した坂道にいることに気がつく。
喪服を着ているのではないかと確かめようとするが、暗くて見えない。


★感想
すばらしい作品だと思う。文学作品でなくて文芸作品として。
庄野潤三の『静物』の世界観に近い。自覚的な作為に安定感がある。
喪失感を感傷的に弄ばずに、あくまでも即物的な描写に留めている。
一語一語の選択に、強い意志が漲った俳句的な作品である。



冒頭に熱帯魚の死についての描写があるが、
この作品自体に、水槽の熱帯魚を眺めるような幻惑的な雰囲気が満ちている。


たぶん、筆者は、終日横になっていても退屈しない人だと思う。


以前、小川洋子さんが「通販生活」にでていた。
通販という離人的な営みがこれほど似合う人も珍しい。




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posted by 信州読書会 宮澤 at 08:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

沈黙 遠藤周作 新潮文庫

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★あらすじ
島原の乱以後、ポルトガル船の渡航が禁止された日本で、
潜伏司祭のフェレイラが、宗教奉行の井上筑後守の命による
穴吊りの刑によって棄教した。(井上も一度洗礼を受けている)



イエズス会の司祭ロドリゴとガルペは、
マカオから棄教した「転んだ」日本人、キチジローの案内で
消息を絶ったフェレイラを捜すべく、トモギの貧しい漁村に潜入し、
村民たちに匿われながら、洗礼や告悔など司祭の職務に従事する。



しかし、奉行所の手入れがあって村からモキチとイチゾウ、キチジローが
長崎奉行所に連行され、踏絵を踏まさせられる。さらには、そこに唾するように命ぜられる。
唾を吐くことを拒否したモキチとイチゾウは水磔に処され、みじめな殉教を遂げる。


危険を感じたロドリゴはガルペと別れて、山中を放浪し、
福音書を諳んじたりやイエスの顔を思い浮かべながら、信者のいる村を捜す。
そして、モキチやイチゾウを前に無情に「沈黙」する神を疑いはじめる。


偶然、山中でキチジローに出あい、彼の密告でロドリゴは連行されてしまう。
ガルペも囚われており、棄教を迫られるが、拒否し信者とともに海で溺れ死ぬ。


井上筑後守は、なんとかロドリゴを棄教させようとする。
なぜなら、司祭の棄教は最も信者の気持ちを挫くからである。
そこで、ロドリゴを棄教して寺に住むフェレイラと再会させる。



フェレイラは穴吊りの刑で棄教したのではなく、
穴吊りの刑で同じく苦しむ信者に神が沈黙しているのが耐えられずに、棄教したのだった。
フェレイラは日本において神は実体を失っているので布教も無駄だと、ロドリゴを説得する。


ロドリゴは踏絵を踏んで棄教する。


「私が踏まれるにため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつため
十字架を背負ったのだ。」というイエスの声が聞こえ、鶏が鳴く。


ロドリゴは、死んだ岡田三右衛門という男の名と、その妻子を引き継いで
別の人間として余生を過ごす。


★感想
分量がそれほどでもないにもかかわらず、かなり読むのに時間がかかった。
いろいろ考えさせられた。それだけ問題が凝縮された難解な小説なのだと思う。



まず、私にはイエズス会、潜伏耶蘇、聖書についての知識が少ない。
感想も、あまり調べた上でのものではないので、勝手な知識に頼るしかない。


ロドリゴの信仰の揺らぎは、聖書のイエスの言葉への疑念としてはじまる。


棄教者で裏切り者のキチジローはユダになぞらえられるが、
キチジローは棄教したにもかかわらず、信仰を放棄してはいない。
ロドリゴは彼に対して寛大になれないのだが、さりとて良心が彼を憎ませない。



イエスが裏切り者ユダにむかって「去れ、行きて汝のなすことをなせ」いった言葉に
ロドリゴはイエスの薄情を感じて、従うことが出来ない自分を発見するのだ。



棄教した者が、宗門奉行のスパイにさせられることや、
「俺を弱か者に生まれさせておきながら強か者の真似ばせよとデウスさまは仰られる。
それは無法無理というもんじゃい。」というキチジローの言葉には、信仰の現実がある。
そうした現実に、キリストが沈黙で応える不条理をロドリゴは理解できない。


福音書に描かれるイエスの姿には励まされながら、ロドリゴは棄教をこらえるが、
ロドリゴは、イエスと違って預言者でもないし救世主でもない。
彼は、死後イエスのように復活する立場にないし、奇跡も起こすことができない、一信徒である。



その上、圧制者たる井上筑後守は、福音書のヘロデやピラトがイエスに行ったように
やたらめったら圧倒的な暴力で棄教を迫るわけではない。



井上は温和な老人であり、司祭を殉教させずに、みじめに棄教させることで、
殉教者の栄光を奪い取って、求心力を低下させるという政治的な手段を採用している。


穴吊りという過酷な拷問に耐えうる信徒はたくさんいて、殉教させることは
逆に弾圧の不当性を証明してしまうことを、井上は知っているのである。


こうした情況は、福音書の記述の範囲を超える、まさしく現実的な情況である。


殉教者を前にしてのキリストの沈黙は、イエズス会の三位一体を崩壊させる。
イエスがキリストではないというということを証明してしまうのだ。
よってロドリゴは、聖職者たちが教会で教えている神と、自分の主は別なものだと知り、
司祭としては棄教し、「ただの人間、イエス」を自分だけの信仰の拠り所にして生きた。
日本のキリスト教徒の現実を前に、教条的なキリスト教徒は屈せざるを得なかった。
つまりは、神の存在と信仰は別々に問題にされなければならなくなった。



以上のように、『沈黙』という小説を、私はとりあえず理解せざるをえなかった。



別に、弱いものや裏切り者が本当のキリスト教徒だといっているわけではないと思う。
現実的な情況の中で、人はそれぞれのイエスを見出すということなのではないだろうか。
奇蹟も復活もありえない世界でのキリスト教のあり方を追求した作品であると思う。
神は否定できても、「痛みを分かつ人間イエス」まで否定できない。
これが日本人のキリスト教信仰の拠り所になると、遠藤周作は訴えたのではないか。



遠藤周作の聖書解釈は不勉強で実際よくわからない。
しかし、福音書の引用もかなり恣意的で、
ロドリゴの聖書に対する混乱は、遠藤周作自身の混乱とも思えた。どうなのだろうか?



福音書ごとにイエスの描かれ方が違うのだが、
復活後のイエスが弟子たちに人間的なやさしさをみせる
『ヨハネによる福音書』の影響が一番強い気がした。



ただ、作者がロドリゴに言わせた以下の言葉は心うたれた。


「罪とは人が、もう一人の人生の上を通過しながら、自分がそこに残した痕跡を忘れることだった。」



マーチン・スコセッシ監督はアカデミー作品賞受賞の『ディパーテッド』以後、
遠藤周作原作の『沈黙』を映画化するという話があったが・・・
その後どうなったのだろう。


沈黙 (新潮文庫)



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ラベル:遠藤周作
posted by 信州読書会 宮澤 at 08:45| Comment(0) | TrackBack(0) | キリスト教文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ポロポロ 田中小実昌 河出文庫

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★あらすじ
北九州の港町の教会堂で牧師をしている主人公の父は、
かつて、廃娼運動をして右翼にステッキで目を突かれたり、
震災後、リンチされる朝鮮人を庇ったりして、殺されそうになったことがある
過激なプロテスタントである。


昭和十六年、真珠湾攻撃のはじまった冬もなお、家族と一人の信徒は
憲兵隊や特高に圧迫されながら、小さな祈祷会を行っている。


そこでは信徒が「ポロポロ」という奇妙な祈りをひたすら捧げるだけである。
主人公の私は、父方の祖父の命日に、家に誰かがきたのを感じる。
しかし誰だかわからないままである。
それが祖父ではなかったかと、主人公とその父は話し合うが、
それもポロポロという言葉の前に崩れ去ってゆく。



★感想
迫害された信仰が無力感までぶち当たった時に、
唱えられる祈りを主題として、独自の宗教観を提示した短編。


父や、信徒の一木さんが唱える「ポロポロ」という言葉は、
「信仰をもちえないと(悟るのではなく)ドカーンとぶちくだかれたとき
ポロポロがはじまるのではないか」と主人公は考える。


さらに「クリスチャンと日本武士は同居しない」と、
明治以降のキリスト教のあり方を批判している。





過酷な現実を前に、祈りの言葉を失った父が
ただただ「ポロポロ」と唱える姿に
はからずも、戦時中の無気味な雰囲気が浮かび上がる。


ポロポロ (河出文庫)


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posted by 信州読書会 宮澤 at 08:44| Comment(0) | TrackBack(0) | キリスト教文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

妊娠カレンダー 小川洋子 文春文庫

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★あらすじ
妊娠した姉が子供を産むまでの過程を大学生の妹の日記を通して描いた芥川賞受賞作品。
妹は、防腐剤のたくさんついたグレープフルーツでジャムを作り、姉に喰わせる。


★感想
姉妹の両親はすでに病死している。虫のすぎる設定。
家族関係を予めカッコで括る操作を施すことが、
短絡的なプロットの進行に、多いに役立っている。



姉は精神科に通っていてやや情緒不安定。虫のよい設定。


妊娠が進むに連れて、姉は、自分の感覚に立てこもり、わがままになる。


妹の悪意が姉に投げかけられるたびに
姉のわがままの輪郭が鮮明になる。


そして、義兄にも悪意をなげかけることで
今度は、妹の悪意の輪郭が鮮明になる。


こういう仕掛けになっていることで、姉妹のバランスはよくなり、


作品としての安定感が確実なものになる。鉄壁のパターンである・


それなりに小川洋子の作品に興味を持って読み出した。


『博士の愛した数式』『冷めない紅茶』と読んできて、
とても安定感のある作品を書く作家だと感心した。


同時に、作品設定のカッコの括り方がずいぶん大胆だなとも思う。
彼女の創作しているのは、悪意が満ちていても、意外と居心地のよい密室である。



カッコに括って割を食う登場人物がワンパターンである。
『博士の〜』の別れたダンナ。『冷めない〜』のサトル
そして『妊娠カレンダー』の義兄。社会的な人物が作品内で最も排除されている。


この端役の人形みたいな男たちの『プロジェクトX』はいつはじまるのだろう。


いつ、物語は三人称にたどり着き、作品世界に社会性が生まれるのだろう。


いつ、小川洋子の作品の主人公たちは逃れられない宿命に泣き叫ぶのだろう。疑問だ。

妊娠カレンダー (文春文庫)




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ラベル:小川洋子
posted by 信州読書会 宮澤 at 08:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

二十日鼠と人間 スタインベック 新潮文庫


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★あらすじ
南カリフォルニアの農場を渡り歩くふたりの労働者ジョージとレニー。
レニーはうすのろの大男で、小動物を溺愛している。
そんなレニーの庇護者として振舞うジョージは、
レニーがいなければ自分が孤独に耐え切れず、
賭博と女で金を全部遣ってしまうことを知っている。


いつか農場を手に入れることを夢みて、金を貯めるため、ふたりはある農場に職を見つける。
しかし、農場の親方の息子カーリー夫妻のいざこざにまきこまれ、


カーリーの妻をレニーはそのバカ力で殺してしまう。
ジョージは、カーリーがレニーをリンチする前に、レニーを自らの手で射殺する。



★感想
戯曲形式で書かれた悲劇的な小説。
悲劇的なというのは、アリストテレスが『メーデイア』を評して述べた。
「自分が何をする知りそのことに気づいていながら行為する」という意味で。



ジョージは、カーリー夫妻に出会ったときにすでに、悲劇を予感している。
ジョー・ペシみたいな乱暴者カーリーと、その淫乱な妻によって
なんらかの暴力的な事件が起こることをすでに知っている。



ジョージすでに神託が下されたことを理解している。
レニーが誰かを殺すという事実を知っていながら気づかないふりをしているだけである。
レニーが、カーリーの妻の首をへし折るまでの事件を目の当たりにして
結構冷静なのは、その証拠である。
レニーをカールソンから盗んだ拳銃で射殺するまで、ジョージは自覚的である。
遁れがたい宿命に自分で始末をつけたので、悲劇である。


しかしながら、ジョージがあまりに『ブロークバック・マウンテン』な人なので
その辺に敢えて筆を進めないスタインベックに不満が残るが…。
スリムはその辺のことまでわかっていながら黙っていたということなのだろうか。
そう考えると、一番得したのはスリムでしかない。ここは、農場の政治的な問題だ。
実は、もう一章描いて、農場の人びとのその後まで書かなければ、読者に不親切な作品である。


ハツカネズミと人間 (新潮文庫)


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posted by 信州読書会 宮澤 at 08:42| Comment(0) | TrackBack(0) | アメリカ文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

プロジェクトX 挑戦者たち あさま山荘 ― 衝撃の鉄球作戦

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プロジェクトX 挑戦者たち 第4期 Vol.9 特集 あさま山荘 ― 衝撃の鉄球作戦(第1部&第2部収録)


好奇心で借りてしまった・・・。
NHKのドキュメンタリーなのでさしたる期待はしていなかったのだが、
意外な面白さに満ちていた。この回は番組至上最高の視聴率をとったらしい。


あさま山荘事件でモンケーンという鉄球をクレーンで操作した
地元のクレーン職人さんの兄弟が出ていた。鉄球兄弟と呼ばれているらしい。



その方たちは義兄弟のお二人で、お兄さんが県警から
クレーン車を一台出してくれと電話で要請を受け
突入日に、防弾処置を施したクレーン車を使って
あさま山荘の三階部分を破壊したのである。


この鉄球兄弟のお兄さんは当時24歳のクレーン職人で、
立てこもった連合赤軍のメンバーとほぼ同じ年である。
この時点ですでに連合赤軍が労働者の代表でもなんでもない構図が鮮明になっている。




しかしながら、この人の現在の風貌に、かなり痺れた。
当時の写真にも痺れたが。工員帽子を斜にかぶってキマっている。
なんせ、小田実にそっくりで、(毒蝮三太夫も少し入っている)
連合赤軍メンバー以上に革命家の雰囲気漂う風貌なのである。


あまり口数も多くなく、赤軍派に対して
人に迷惑かけてふざけたやつらだと思っていました、と訥々と語るのだが、
その風貌も語り口もおよそNHKの番組にそぐわない過剰さを発散していた。



ご本人は、たぶん「ギターを持った渡り鳥」ならぬ、
「クレーンを操る渡り鳥」といったお気持ちなのだろう。
小林旭みたいな人なのである。弟さんを宍戸錠に見立てたのだろうか。
その風貌、自意識ともに、まったくNHK的でなく、
観ているこっちがハラハラするのである。NHKの間尺に合わないのである。


事件が終わって、家に帰ると奥さんに「腹が減った、メシにしてくれ」と
まるで事件なんか起こらなかったようにさらりといってしまう方なのである。
翌日も普通に仕事に出たそうだ。前日は狙撃されて目の前の防護ガラスにひびが入ったのに。


彼のヒロイックな自意識に違和感がないのは、この方がまさに小林旭を演じているからだ。


日活無国籍アクションの世界を生きている方なのである。役者である。
ご兄弟で再現シーンを演じる姿に、マイトガイを感じたのは私だけではあるまい。
その方が、最後のほうで、人質の方の手紙を読んで、
目に涙を浮かべているのを観て、ジーンときてしまった。
その意外とつぶらな眼は、小林旭の眼にそっくりであった。



クレーン車というのは、「機械仕掛けの神」である。
ギリシア悲劇の「機械仕掛けの神」もクレーンでできていた。



大江健三郎も『「浅間山荘」のトリックスター』なんて短編を書かずに
『「浅間山荘」のデウス・エクス・マキーナ』を書けばいいのに。マジで思う。


いずれにしても、大江健三郎の想像力からは絶対に出てこない、
すごいクレーン職人さんだった。まあ、お兄さんはクレーンを運転しただけだが。
たぶん、小林旭に憧れるクレーン職人が、赤軍派を撃破したのだと思う。
マルクス・レーニン主義がマイトガイのヒロイズムの前に解体したのである。ちがうか?





「大江健三郎は偉大の一歩手前なんですよ、その一歩が果てしなく遠い」
という意味のことを福田和也氏がしゃべっていた気がするが、
実際その通りだと『プロジェクトX』をみながら考え込んでしまった。


一応、あさま山荘事件の銃撃戦だけを扱った大江健三郎の
『洪水はわが魂に及び』の最終章を確認のため読んでみたが、
『同時代ゲーム』や『懐かしい年への手紙』の「黒い水が出た!」みたいに
「機械仕掛けの神」がでてきましたよ!』とかって、
大江特有の太字ゴチックが現われるかと思ったが、
そういう記述は、やっぱりなかった。


この回の『プロジェクトX』のエンディングは小林旭の『熱き心に』で〆てほしかった。
プロジェクトX 挑戦者たち 第4期 Vol.9 特集 あさま山荘 ― 衝撃の鉄球作戦(第1部&第2部収録) [DVD]



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posted by 信州読書会 宮澤 at 08:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 連合赤軍関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月15日

くまのプーさん「クリストファー・ロビンを探せ!」


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3歳の姪っ子が、不機嫌だったので、借りてきてみせてみた。
しかし、難しかったらしく最後まで観てくれなかった。
もったいないので私が全部観ておいた。確かに3歳児には難解である。
一緒に借りてきたアンパンマンは食い入るように観ていたのに・・・である。



・くまのプーさんについて

ディズニーアニメなのだが、ディズニーがキャラクター権利使用のライセンスを得て
年間くまのプーさんだけで30〜60億ドル売り上げているらしい。

ちなみに、くまのプーさん営業部長の売上は、
なんと!! ミッキー、ミニー、ドナルドダック、グーフィー、プルート
各キャラクターの営業利益を合計したものに匹敵するという。
この売上に匹敵するライバル社の営業はキティちゃんだそうだ。
おそるべし、キティ営業部長。



原作はイギリスで、原作者ミルンの息子クリストファーロビンの大事にしていた
くまのぬいぐるみからこの「くまのプーさん」は生まれたそうである。

以上の情報はWIKIに詳しいのでそっちを読んでほしい。
かなり詳しく書かれていてへぇ〜だった。版権をめぐる泥沼の訴訟とか・・・。



そんなことよりも、うちの姪っ子がくまのプーさんより
アンパンマンのほうが好きなことに、いろいろ考えさせられた。
なによりも姪がショックを受けたのはプーさんの声が、
吹き替えも原語も完全に「おっさんの声」であることだ。これは、まずいと思う。
「プーさんてこんな声なの?」とがっかりしたように姪っ子に詰め寄られて、
夢を壊してしまったような罪悪感をおぼえた。

・くまのプーさんの世界
原作はイギリスで、舞台の100エーカー森もサセックス州の森がモデルだが
ディズニーによってアメリカ化されたことで、
アニメの舞台は完全にアメリカ南部になっている。
よって、ほとんどフォークナーのヨクナパトーファサーガと
同じような前近代的な世界にされている。

要するにくまのプーさんをはじめとする動物キャラクターが、開拓民みたいにされている。
というか、ほんとは、ほとんど黒人農奴みたいな感じにされていて、レイシズムの匂いがぷんぷんする。

森の描き方がほとんどフォークナーの世界である。
あと、イーヨーというロバが出てくるのだが、
これはアイスキュロスの『縛られたプロメテウス』の
牝牛イーオーからパクったんじゃねえかという発見があった。



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posted by 信州読書会 宮澤 at 14:49| Comment(0) | 洋画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

美しさと哀しみと

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川端康成の『美しさと哀しみと 』を原作とした
シャーロット・ランプリング主演の1985年のフランス映画。
この時期のシャーロット・ランプリングは、
大島渚監督の『マックス・モン・アムール 』という
オランウータン主演の映画に出たり
元ボクサーミッキーローク主演の『エンゼル・ハート 』に出たりと
迷走の度合いを深めていた。
デビュー作からずっとそのフィルモグラフィーは、
ファンを裏切りつづけている。つれない人だ。

この映画を観て、シャーロット・ランプリングは、結局
芸術ポルノ映画で脱ぎっぷりのいい脇役以外の
なにものかであったのか? と思わざるを得なかった。

『美しさと哀しみと』のビデオも
『エマニエル夫人』の隣に並んでいた。

彼女は、最近のインタビューによると
一度も整形手術を受けたことがないそうである。

1985年の時点で、彼女の美貌には、もうすでに老いが、充分侵食しているが
なんと、その顔が直木賞作家の石田衣良にそっくりである。
そんなことを発見した自分に対して、私は激しい自己嫌悪に陥った。
整形して、似ないようにするのが礼儀というものだ。もちろん石田衣良のほうが・・・。

内容は、川端康成の原作そのまま。忠実ともいえる。
でも、結局のところ、この作品の監督、ジョイ・フルーリーは、
シャーロット・ランプリングがミリアム・ルーセルの腋毛を
剃毛するシーンを撮りたかっただけなのだと思う。

そういう間違った製作動機は嫌いじゃないが、やはり観るに耐えない。
ちなみにこの監督はこの作品一本で消えた。芸術の国フランスらしい厳しさである。



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ラベル:川端康成
posted by 信州読書会 宮澤 at 14:48| Comment(0) | 洋画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

トロイ


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『イリアス』は梗概しか読んでいないのだが、『イリアス』『オデュセイア』を原作とし
アキレスとヘクトールの対決に焦点を当ててトロイ戦争を描いた映画。
それぞれの役はブラピとエリック・バナが演じていていて、まあまあよい。

まあ、ギリシアの神々の戦いへの介入というものを
一切、無視して作られた映画なので、ホメロスおよびギリシア悲劇のような
神々と人間が混在する世界のカオスがなく、性格描写の平板さは、やや、やりきれない。
要するに、気まぐれな神々に翻弄される人間の運命が描かれていないので退屈。

なんだかトロイ戦争が近代戦みたいにされている。
そういう意味で、アカイア勢のトロイア上陸作戦のシーンは
ノルマンディー上陸作戦を描いた
『プライベートライアン』と本質的にはかわりがない。
ただ、戦闘シーンはアメフトのような肉弾戦である。結構迫力あり。

・役者について


ヘレネ→   ただのスーパーモデル。期待はずれ、はなはだしい。がっかり。
       顔立ちは整っているが、男を狂わせる天衣無縫の妖艶な魅力は
       1ミクロンたりともない。こてこてしたイタリア人の女優を使うべき。

アンドロマケー → マイケル・カヤニコス監督の『トロイの女』の
          ヴァネッサ・レッドグレイプのほうが数倍よい。

アガメムノーン → 完全に悪役にされている。ただの因業オヤジ。絵面が汚い。
          アガメムノーンがアメリカ巨大企業の会長みたいにされている。
          たとえば、アイアコッカみたいな企業戦士。
          もう、かんべんしれくれよ!! まったく!! という印象。

パリス → やさ男でよかった。イメージどおりかも。坊ちゃん。
      昔アップルにいた、スカリーみたいな企業戦士の印象。

パトロクロス → この人はやさ男じゃまずいんじゃないか?

プリアモス → ピーター・オトゥール。無意味に贅沢なキャスティング。
        だが、なんだか頼りない。もったいない。

カサンドラー、ヘカベー → 出て来ない。美の競演はこの映画の主題ではない。残念。

ギリシア悲劇が好きな人間にはお薦めできない映画ではある。
アメリカ人が製作するのはやっぱり無理。

問題なのは、トロイ戦争が企業の買収合戦みたいなっていることだ。
働きすぎのエスタブリッシュメントたちの派閥闘争になっている。

こう考えると、パゾリーニの退屈な芸術性のほうが
ギリシア悲劇の映像化としては、はるかに心に残るものがある。
少なくとも、ギリシアの神々を顕在させる雰囲気を作ろうとしている。

ただ、ブラピが好きな人には、この映画は必見である。
肉体美を誇っている。アキレス腱に矢が刺さって痛そうだった。


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posted by 信州読書会 宮澤 at 14:47| Comment(0) | 洋画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

夢の女 永井荷風 岩波文庫

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★あらすじ
三河の没落武家の娘、お浪は16で奉公に出されるが、
奉公先の旦那に手込めにされて、そのまま妾となり、一女をもうける。

しかし、旦那は病死。本妻に手切れ金を渡されて縁切りされる。
泣く泣く娘のお種を養子に出して、お浪は実家に戻るが、
老耄した父が詐欺にあい一家は莫大な借金を負う。


借金返済のため、お浪は深川州崎の遊郭に身を沈める。
何年かして、お浪は美貌ゆえに立派な華魁となる。
しかし、小田辺という商人を廓狂いで破滅させて、
部屋で自殺させてしまい悪評で客足が遠ざかる。


失意の日々を過ごすうちに豪放磊落な相場師利兵衛に見初められ、
身請けされて、待合を営むようになる。


待合は繁盛し、お種を妹として迎え、故郷の両親と妹のお絹を呼び寄せ、
つかのまの幸福な日々を過ごすが、年頃のお絹に関心を示す客がいることに
気がついたお浪は、お絹にも客を取らせてしまう。

やがて、利兵衛は外に女を囲い、お浪と別れる
お絹は、若い俳優と出奔、そのショックで父は発狂し、
往来で馬車に轢かれて死ぬ。



★感想
モーパッサンの『女の一生』を元ネタとしたとおぼしい荷風25歳の作品。
お浪という可憐な女性を、これでもかとひどい目に合わせているのであるが、
繊細な江戸情緒が哀歓を催す文飾で綴られているので、読んでいて心地よい。


モーパッサンのほうが、相当にえげつない設定を露悪的に書くが、
荷風は、例えばお浪が遊郭に売られたあとの辛い日々を
大胆に省略するなど、それなりに配慮している。


最終部分でお浪が、永代橋を渡り、遊郭に売られて初めてこの橋を
渡った時分を思い出すシーンが、なかなか美しかった。
だが、お浪が、妹のお絹を売春婦にしてしまう変節ぶりには寒気を感じる。

優しいお浪の心が、その核心において知らぬ間に残酷な運命によって歪められており、
それがクライマックスの父の発狂と事故死の遠因となるのだが、
こういった因果応報を25歳で描いた早熟ぶりは、信じられない。

ただ、モーパッサンの自然主義を、その根幹にあるキリスト教倫理観との対決抜きで
江戸情緒の中に移植するというのは、やはり無謀であり、徒労であると思った。

お浪の悲惨な運命と倫理観の崩壊の原因が、結局は武家の没落に集約されてしまっている。

外国文学の無理やりの輸入が、日本の近代文学の宿命であることを
証明した作品であると思えば、なかなか無残な読み物である。

ゆえに、晩年の永井荷風の孤独と偏屈もそれなりに頷けるものがある。


夢の女 (岩波文庫)


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ラベル:永井荷風
posted by 信州読書会 宮澤 at 14:45| Comment(0) | 日本文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

俺にさわると危ないぜ

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★ あらすじ
カメラマンのマイトガイがキャビンアテンダント松原智恵子と出会う。
松原智恵子の亡き父親は旧陸軍幕僚で、沖縄の民間人から巻き上げた金塊を
どこかに隠したままである疑惑があった。


金塊の在り処を探す暴力団が、松原智恵子を誘拐する。
沖縄出身のブラックタイツ団とマイトガイが三つ巴の戦いを繰り広げながら
松原智恵子の行方を捜す。はたして金塊の在り処は?




★ 感想
エログロナンセンスが渾然一体となった60代日活作品。
長谷部安春がはじめてメガホンを取った作品ということである。
DVDでは、特典として長谷部監督のインタビューがあるらしいが、
私はビデオで見たので、観られなかったのが残念でたまらない。



当時のヒット作『007』のパロディーをやっているらしい。
ブルース・リーのカンフー映画のパロディーである千葉真一主演の
『直撃地獄拳 大逆転』をはじめて観たときの印象に近い。



どういうことかというと、当時パロディーされた元ネタを知らないだけに
この作品の『007』のチープなパロディーに過ぎない部分が、
今改めて観てみると、アバンギャルド!!
と錯覚させるような歴史的倒錯をかかえているということである。



それよりも、今でも松原智恵子が大好きな私としては、
彼女が『昼顔』のカトリーヌ・ドヌーブばりに、縛られて下着姿にされて
顔じゅうに白いペンキをスプレーされているシーンはショックだった。
ひどいことするなあと思いつつも、見入ってしまった。
しかし、あんなきれいな女優に、そういうことをしちゃいけない、と思う。
葛藤を抱きつつも、私の中のハードボイルドな部分がそう命じた。


マイトガイのコミカルな演技のぎこちなさがキムタクそっくりである。
テレビCMにでてコミカルなことをしているキムタクみたいだった。
いや、もっと正確に言えばシュールでコミカルな状況に巻き込まれて、
ハニカミながらとまどうキムタクみたいだった。なんか、下品。媚びてる。
あんなにクールなマイトガイが、下品なハミカミを演じていて、ガッカリ。

マイトガイやキムタクを、おもちゃにして、喜ぶ演出家の安易な想像力は
客をなめきっているとしか思えない。こういうのを勘違いという。不愉快。

ゆえに、この初監督作品の後、長谷部安春は1年以上仕事を干されたらしい。
いまだったら考えられないが、当時はまだ良識があったんだと思う。
でも、オープニングの爆撃シーンの花火はとてもよかった。
ジャケットのマイトガイが長井秀和みたいである。


俺にさわると危ないぜ [DVD]

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posted by 信州読書会 宮澤 at 14:45| Comment(0) | 邦画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

アウレリャーノがやってくる 高橋文樹 


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★あらすじ
岩手の美少年、アマネヒトは上京して「破滅派」というWEB同人誌に参加する。
「破滅派」の同人たちの奇矯な振る舞いが描かれ、
文学主義丸出しの青春群像がコミカルに展開。
アマネヒトは同人の女性を妊娠させてしまう。


★感想
広津和郎の『同時代の作家たち 』(岩波文庫)に
『奇蹟派の道場主義 ――葛西善蔵、相馬泰三――』というエッセイがある。

『奇蹟派』という私小説系の同人誌があり、
その同人の中心的作家であった葛西善蔵と相馬泰三の小説家としての屈折ぶりを、
広津和郎がうんざりしながら回顧したエッセイである。





『奇蹟』の作家、とくに葛西善蔵と相馬泰三は、
文壇に出てからお互いの交友関係を遠慮会釈もなく書きあったそうだ。

その状況を、高みの見物で面白がった宇野浩二は
『奇蹟派は面白い。めいめい道場を持っているから』
と拍手喝采したそうである。



宇野の『道場』という言葉は、葛西や相馬といった連中が、
触るものみな傷つける勢い創作活動に励んでいる点を指す。

彼らは、友情を持ってたずねてきた者が帰ってゆく後から
いきなり背中から一太刀浴びせるような辛辣さでもって創作した。

エッセイには、その辛辣ぶり実例として広津和郎が、相馬泰三によって


小説のモデルとして描かれ、怒り狂った事件の顛末が描かれていている。
以下、その事件を簡単にまとめて紹介したい。


地方新聞で連載した小説『荊棘の道』を単行本にしたい、と
相馬泰三から相談された広津は、新潮社の佐藤義亮に口添えし、
作品はめでたく出版の運びとなるが、出版されて広津が、


新聞書評のため、はじめて『荊棘の道』を読んでみると、
あろうことか、広津や、『奇蹟』の同人がモデルとされており、
相馬の手によって捏造された事実によって、モデル皆が中傷されていた。

相馬は、出版記念会で葛西を始めとする同人から吊るし上げられ、
祝賀会はモデル問題問責会となる。


しかし、やさしい広津は、自らも被害者ではあるにもかかわらず
皆のなだめ役にまわり、逆に大勢からやり込められている相馬に同情し
その晩一晩中、彼の背中をなでさすりながら、慰めてやったそうである。
そんなことがあって、出版記念会のあと、相馬は出奔してしまう。

そして、広津は
「来月の『新潮』に短編小説を書いたから是非きみに読んでもらいたい」
と書かれた相馬からの葉書を受け取る。






やがて『新潮』に掲載された相馬の短編を読み、あの温厚な広津が、激昂する。






短編には、『荊棘の道』出版の経緯が、そのまま描かれており、
さらにヒドいことに、広津をモデルとした文芸評論家に、
『その出版社顧問の第二流批評家』と注釈がつけられていた。
親切を二度仇で返された広津は、怒りで震えがとまらなかったという。



まあ、ずいぶん長くなったが、どうしてこんなこと書いたかというと、
『アウレリャーノがやってくる』という小説に出てくる『破滅派』という
WEB同人誌がどうやら実在し、どうやら登場人物の方々も実在しているのを
『破滅派』のサイトを見て、私が知ってしまったからである。
小説内で読み応えのある挿話、太宰が入水した玉川にみんなで出かけるくだりも、


どうやら実際の出来事であることが、そのサイトでよくわかる。
まあ、興味のある方は小説読んでから『破滅派』のサイトをググッてみて下さい。

(ただ、『破滅派』というサイトが、この作品のための著者単独の仕掛けだとしたら
それはそれで、壮大かつナンセンスなトリックである。まあ、そんなことないだろうが。)
つまりは、『破滅派』が『奇蹟派』みたいで凄いなと感心した。


まあ、この小説内の同人も描き方には、相馬泰三ほどの悪意はないとしても、
同人との交友をそのまま小説にするというのは、とんでもないことだと思う。
なにが、とんでもないかはうまく表現できないが、やはりとんでもない。

あと、小説自体はペダンティックな部分が結構、笑えた。
この作品への選評は、かなりの充実ぶりだったと思う。
私ふぜいが、あの選評で論じられた感想以外に書くことはない。
ただ、阿部和重の選評が、私にとって一番納得いくものだった。



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posted by 信州読書会 宮澤 at 14:43| Comment(0) | 日本文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『内村鑑三』 正宗白鳥 日本の文学11 中央公論社


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日本の文学〈第11〉正宗白鳥 (1968年)何処へ 微光 光秀と紹巴 今年の秋 牛部屋の臭い 内村鑑三 自然主義盛衰史 他



井伏鱒二の『風貌|姿勢』という本に『正宗さん』という、
正宗白鳥に関するゴシップを羅列したエッセイがある。

正宗白鳥の揮毫した書は、すべて「鳥」の字が「烏」(カラス)に
なっているという話がある。志賀直哉も「哉」の字のタスキを
わざとかけなかったらしい。完全無欠を誇示するのではなく、
謙譲の気持ちを保とうとする精神から発したものらしい。

まったく、頭の下がる心がけである。このエッセイとも評論ともつかない、いかにも正宗白鳥らしい本は、
内村鑑三の姿を、いつまでも心の中でたどるようないじましさにあふれている。

そして、内村の思い出を語ることが、彼の孤独な青春時代を回顧になっている。



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posted by 信州読書会 宮澤 at 14:42| Comment(0) | 日本文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『東光金蘭帖』 今東光 中公文庫



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文壇交遊録としては、かなり面白い。消えてしまった作家の貴重な逸話多数。
中公文庫の復刊シリーズ。ただ、文庫のくせに1300円もする。


尾崎士郎の章で、名前を伏せて
福本イズムで有名な福本和夫を罵倒している。
それも唐突に。いったいなんだったのだろう。不思議。


福本和夫は、ルカーチと交友のあった変な日本人で、一緒に記念撮影もしている。
最近、リバイバルして著作集や研究書などが出ている。
自伝なんか読むと、いい加減な人で結構面白い。

福田和也が、週刊新潮の連載において『アドルノ伝』の新刊書評しながら
ルカーチが、『魔の山』のナフタのモデルであったことにふれていて、
へえ〜〜と唸ってしまった。だとすると、ルカーチって気持ち悪かったんだと思う。

今東光が、正宗白鳥を嫌っているのが意外だった。
まあ、川端康成の『文芸時評』を読むと
川端も相当に正宗白鳥を嫌っているのがわかる。


東光金蘭帖 (中公文庫 (R・21))



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ラベル:今東光
posted by 信州読書会 宮澤 at 14:41| Comment(0) | 日本文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

南国土佐を後にして



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★あらすじ
ダイス賭博で下獄していたマイトガイ(小林旭)は、刑期が明け、
未亡人の母と恋人ルリ子待つ故郷の土佐へと戻り、
天才的なダイス賭博の技術を封印し、堅気として出直す決意をする。

しかし、ルリ子は死んだ父の借金100万円のせいで、
金貸しのチンピラ内田良平と結婚するはめになっていた。



内田良平は、ルリ子が、未だにマイトガイに心寄せているのに嫉妬し、
マイトガイの前科を暴いて就職活動を邪魔する。


前科者ということが知れて就職できないマイトガイは、
母親さえ養いない身のふがいなさを倦んで、職を求め再度上京する。
特攻隊で戦死した兄の婚約者である南田洋子の経営する待合に身を寄せ、
就職活動を再開する。南田洋子は昔の恋人の面影をマイトガイに見て尽す。



しかし、マイトガイは南田洋子の妹、中原早苗に好かれて、
またまた就職活動を妨害される。


そんなおり、ルリ子がマイトガイを追って上京してくる。

ルリ子を追いかけてきた内田良平に、今晩中に100万円返済しろと迫られ、
マイトガイは、仕方なく賭場に出かけ、金子信雄相手に奇跡的な勝利を上げ100万円を作る。

100万円渡したついでに、内田良平とその一味をボコボコにする。
明け方、マイトガイはルリ子との結婚をお預けにして別れ、去ってゆく。




★感想


森進一の『おふくろさん』事件で最近フィーチャーされた故川内康範原作、脚本。
『渡り鳥シリーズ』の原型となった作品である。監督は齊藤武市。1959年公開。

いや、かなりいい映画で、魅入ってしまった。



マイトガイがテーブルに並べた5個のダイスワンシェイクで
拾って、振って縦に立てるシーンがあるのだが、
これが、なんとすばらしいことに吹き替えなしのマジ演技である。




マイトガイの自伝『さすらい』(新潮社)によると、2テイク目で成功し、

あまりに驚いた西村晃と二本柳寛はセリフを忘れたという。
ふたりが素で呆気に取られているのがそのまま使われている。


そのほかにも、南田洋子のお座敷での踊りとか、(南田洋子がきれいだった)


ダイスでオール6を出した後の金子信雄のとぼけきった表情とか
中原早苗の『ジョージさんきっとお姉さんを好きになってしまう』というセリフとか


いろいろと心に残るシーンがあった。川内康範の脚本はかなりすばらしい。

だが、やはりなんといっても狂気の博徒と化したマイトガイが
ペギー葉山の歌う『南国土佐を後にして』を止めさせ

オール1を出して、去ってゆくシーンが感動的。
マイトガイのどうしようもない孤独に涙した。

堅気になり母親孝行しようとして、苦労したにもかかわらず、故郷から疎外され、
前科者として生きざるを得ないマイトガイに私は感情移入しっぱなしである。


ラストで、マイトガイがルリ子に「まだ行かなきゃいけないところがある」といって
別れを告げるのだ、のんきな私はただ単に、どこかに旅にでるのかと思っていた。


実際は、主人公は警察に向かって去っていったということである。
『さすらい』でマイトガイ自身が、そう述べていた。

そうなのか!! と私はビックリするとともに、自分の不見識に恥じた。

あれは自首したんだ。とおもうとラストは鮮烈である。
そんな救いのない結末だからこそ、マイトガイのラストの笑顔が眩しい。

あと、案外、自分が情にもろいことを再確認した。

南国土佐を後にして [DVD]


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ラベル:小林旭
posted by 信州読書会 宮澤 at 14:40| Comment(0) | 邦画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

直毘霊 (なおびのみたま)本居宣長 西郷信綱訳 


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日本の名著 (21) 本居宣長


以前に小林秀雄の『本居宣長』を読んで以来、
和歌と日本文学の関係について、
ずっと、考えて書いてみたいとおもっていた。

『直毘霊』は宣長のライフワークである『古事記伝』の序文であり、
ポレミックな儒教批判を展開し、日本の神の道を説いた小文である。


まあ、短いし、現代語訳なのですらすら読めたが、
これを論ずると柄谷行人の『神神の微笑』論と
同じような結論しか正直書けないのが苦しい。


要するに、外来思想は日本の神々によって変容を強いられて、
もとの姿をとどめるのは不可能ということを言っているのである。


儒教は、道徳や倫理が崩壊している国での人為的な制度であり、
そこで生まれた、聖人の思想などは、支配制度の方便でしかない、
と宣長は批判する。


一方、皇国の神は、天皇の先祖であり、理屈ではなく、
おおらかな御心で、天下を治めてきたのであり、


儒教のように、さかしらに、言挙げしないことで、下剋上もなく
充分用足りて来たのであるから、それがりっぱな神の道であると
大体こんなようなことを、宣長は主張している。


神の道というのは、人為的なものを排除しきって見つかる残余であり、
決して理論付けできないが、さりとて熱狂的な信仰の対象でもなく、
四季とともに移り変わってゆく自然のようなのものだ、と宣長は言いたいらしい。


だからこそ、自然の変化に事寄せて歌を詠むということが、
神の道に通じる尊い行為であり、日本文学の精髄であると、
まあ、勝手に敷衍すれば、まあ、こんなことを宣長はいいたげである。



外国人からすれば、日本文学といえば、まず、和歌と俳句であり、
現代の小説なんかは、まあ、西洋の真似でしかないなと
どうせ、おもわれているに決まっているのである。


ただ、和歌や俳句は、外国人に簡単に理解しがたい部分がある。
今の西欧化された生活の中で暮す現代日本人にとっても
すでに、わかりづらいのと同じように。



どう考えても、日本文学の強烈なオリジナリティーは
和歌と、俳句にしかないだろう。とわたしは思っている。残念ながら。

まあ、俳句は、外国でも形式的には流行るが、和歌は、輸出不可能な部分がある。


あの、無味乾燥さ、意味内容の不可解さ、
それでいて調べだけが、ついつい出てくるような口当たりのよさ
あれは、潜在的に日本人の美的感性と思想性を宿しているだけに
なかなか、翻訳できる物ではないと思う。


なんで、そうなのかは、思うところあるのだが、又改めたい。



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posted by 信州読書会 宮澤 at 14:38| Comment(0) | 日本文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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