信州読書会 書評と備忘録

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カテゴリー:キリスト教文学

2013年07月25日

オコナー短編集 オコナー 新潮文庫

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オコナーの「川」について。


ベビーシッター、コニンさんが
あるご家庭のお坊ちゃんハリーに
洗礼を施すために川に連れて行くというお話。



聖書を引用、参考にしつつ
キリスト教の奇跡を信じる善良な人と
信仰心の失われた現代の
埋めがたい溝をグロテスクなユーモアで書いた作品。



ハリーという坊やは、コニンさんにペヴェルと
名前を偽るクレヨンしんちゃんみたいな子。



この子は聖書の一説に従って、コニンさんの家を豚にがす。
この子をいじめる、コニンさんの三人の息子が、
カフカの作品に出てくるいたずら好きな脇役に似ている。


フラナリー・オコナー全短篇〈上〉 (ちくま文庫)

フラナリー・オコナー全短篇〈下〉 (ちくま文庫)



以下余談で、最近気がついた話です。


2006年に村上春樹が受賞した、オコナー賞というのは
フランク・オコナーというアイルランドの作家の業績を
記念して作られた、国際短編賞です。




なので、フラナリー・オコナーとは別人です。


フランク・オコナーは、岩波文庫から短編集出ています。







実は、調べていて分かったのですが
フランク・オコナーは、リバータリアリズムの始祖である
アイン・ランドの旦那です。


アイン・ランドは、FRB元議長のアラン・グリーンスパンが
『思想的母』と仰いだ女性作家だそうです。



1998年のランダムハウス/モダンライブラリーの
「アメリカの一般読者が選んだ20世紀の小説ベスト100」には、
『肩をすくめるアトラス』が第一位、『水源』が第二位に選ばれています。


日本では、最近知名度が上がってきました。
アインランドは、アメリカで非常によく読まれているそうです。



日本では、2000年代にようやく邦訳が出ました。
副島隆彦さんや藤森かよこさんがが熱心に紹介しています。


水源―The Fountainhead




肩をすくめるアトラス


リバータリアリズムは、アメリカで熱心な支持者のいる思想です。

ネオコンとは真逆の、民衆思想です。


クリントイーストウッドの映画作品が、
リバータリアリズムの影響の元に製作されていると
副島隆彦さんが指摘しています。



私も時間があれば読んでみたいで紹介したいと思います。



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posted by 信州読書会 宮澤 at 10:15| Comment(0) | TrackBack(0) | キリスト教文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

沈黙 遠藤周作 新潮文庫

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★あらすじ
島原の乱以後、ポルトガル船の渡航が禁止された日本で、
潜伏司祭のフェレイラが、宗教奉行の井上筑後守の命による
穴吊りの刑によって棄教した。(井上も一度洗礼を受けている)



イエズス会の司祭ロドリゴとガルペは、
マカオから棄教した「転んだ」日本人、キチジローの案内で
消息を絶ったフェレイラを捜すべく、トモギの貧しい漁村に潜入し、
村民たちに匿われながら、洗礼や告悔など司祭の職務に従事する。



しかし、奉行所の手入れがあって村からモキチとイチゾウ、キチジローが
長崎奉行所に連行され、踏絵を踏まさせられる。さらには、そこに唾するように命ぜられる。
唾を吐くことを拒否したモキチとイチゾウは水磔に処され、みじめな殉教を遂げる。


危険を感じたロドリゴはガルペと別れて、山中を放浪し、
福音書を諳んじたりやイエスの顔を思い浮かべながら、信者のいる村を捜す。
そして、モキチやイチゾウを前に無情に「沈黙」する神を疑いはじめる。


偶然、山中でキチジローに出あい、彼の密告でロドリゴは連行されてしまう。
ガルペも囚われており、棄教を迫られるが、拒否し信者とともに海で溺れ死ぬ。


井上筑後守は、なんとかロドリゴを棄教させようとする。
なぜなら、司祭の棄教は最も信者の気持ちを挫くからである。
そこで、ロドリゴを棄教して寺に住むフェレイラと再会させる。



フェレイラは穴吊りの刑で棄教したのではなく、
穴吊りの刑で同じく苦しむ信者に神が沈黙しているのが耐えられずに、棄教したのだった。
フェレイラは日本において神は実体を失っているので布教も無駄だと、ロドリゴを説得する。


ロドリゴは踏絵を踏んで棄教する。


「私が踏まれるにため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつため
十字架を背負ったのだ。」というイエスの声が聞こえ、鶏が鳴く。


ロドリゴは、死んだ岡田三右衛門という男の名と、その妻子を引き継いで
別の人間として余生を過ごす。


★感想
分量がそれほどでもないにもかかわらず、かなり読むのに時間がかかった。
いろいろ考えさせられた。それだけ問題が凝縮された難解な小説なのだと思う。



まず、私にはイエズス会、潜伏耶蘇、聖書についての知識が少ない。
感想も、あまり調べた上でのものではないので、勝手な知識に頼るしかない。


ロドリゴの信仰の揺らぎは、聖書のイエスの言葉への疑念としてはじまる。


棄教者で裏切り者のキチジローはユダになぞらえられるが、
キチジローは棄教したにもかかわらず、信仰を放棄してはいない。
ロドリゴは彼に対して寛大になれないのだが、さりとて良心が彼を憎ませない。



イエスが裏切り者ユダにむかって「去れ、行きて汝のなすことをなせ」いった言葉に
ロドリゴはイエスの薄情を感じて、従うことが出来ない自分を発見するのだ。



棄教した者が、宗門奉行のスパイにさせられることや、
「俺を弱か者に生まれさせておきながら強か者の真似ばせよとデウスさまは仰られる。
それは無法無理というもんじゃい。」というキチジローの言葉には、信仰の現実がある。
そうした現実に、キリストが沈黙で応える不条理をロドリゴは理解できない。


福音書に描かれるイエスの姿には励まされながら、ロドリゴは棄教をこらえるが、
ロドリゴは、イエスと違って預言者でもないし救世主でもない。
彼は、死後イエスのように復活する立場にないし、奇跡も起こすことができない、一信徒である。



その上、圧制者たる井上筑後守は、福音書のヘロデやピラトがイエスに行ったように
やたらめったら圧倒的な暴力で棄教を迫るわけではない。



井上は温和な老人であり、司祭を殉教させずに、みじめに棄教させることで、
殉教者の栄光を奪い取って、求心力を低下させるという政治的な手段を採用している。


穴吊りという過酷な拷問に耐えうる信徒はたくさんいて、殉教させることは
逆に弾圧の不当性を証明してしまうことを、井上は知っているのである。


こうした情況は、福音書の記述の範囲を超える、まさしく現実的な情況である。


殉教者を前にしてのキリストの沈黙は、イエズス会の三位一体を崩壊させる。
イエスがキリストではないというということを証明してしまうのだ。
よってロドリゴは、聖職者たちが教会で教えている神と、自分の主は別なものだと知り、
司祭としては棄教し、「ただの人間、イエス」を自分だけの信仰の拠り所にして生きた。
日本のキリスト教徒の現実を前に、教条的なキリスト教徒は屈せざるを得なかった。
つまりは、神の存在と信仰は別々に問題にされなければならなくなった。



以上のように、『沈黙』という小説を、私はとりあえず理解せざるをえなかった。



別に、弱いものや裏切り者が本当のキリスト教徒だといっているわけではないと思う。
現実的な情況の中で、人はそれぞれのイエスを見出すということなのではないだろうか。
奇蹟も復活もありえない世界でのキリスト教のあり方を追求した作品であると思う。
神は否定できても、「痛みを分かつ人間イエス」まで否定できない。
これが日本人のキリスト教信仰の拠り所になると、遠藤周作は訴えたのではないか。



遠藤周作の聖書解釈は不勉強で実際よくわからない。
しかし、福音書の引用もかなり恣意的で、
ロドリゴの聖書に対する混乱は、遠藤周作自身の混乱とも思えた。どうなのだろうか?



福音書ごとにイエスの描かれ方が違うのだが、
復活後のイエスが弟子たちに人間的なやさしさをみせる
『ヨハネによる福音書』の影響が一番強い気がした。



ただ、作者がロドリゴに言わせた以下の言葉は心うたれた。


「罪とは人が、もう一人の人生の上を通過しながら、自分がそこに残した痕跡を忘れることだった。」



マーチン・スコセッシ監督はアカデミー作品賞受賞の『ディパーテッド』以後、
遠藤周作原作の『沈黙』を映画化するという話があったが・・・
その後どうなったのだろう。


沈黙 (新潮文庫)



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タグ:遠藤周作
posted by 信州読書会 宮澤 at 08:45| Comment(0) | TrackBack(0) | キリスト教文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ポロポロ 田中小実昌 河出文庫

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★あらすじ
北九州の港町の教会堂で牧師をしている主人公の父は、
かつて、廃娼運動をして右翼にステッキで目を突かれたり、
震災後、リンチされる朝鮮人を庇ったりして、殺されそうになったことがある
過激なプロテスタントである。


昭和十六年、真珠湾攻撃のはじまった冬もなお、家族と一人の信徒は
憲兵隊や特高に圧迫されながら、小さな祈祷会を行っている。


そこでは信徒が「ポロポロ」という奇妙な祈りをひたすら捧げるだけである。
主人公の私は、父方の祖父の命日に、家に誰かがきたのを感じる。
しかし誰だかわからないままである。
それが祖父ではなかったかと、主人公とその父は話し合うが、
それもポロポロという言葉の前に崩れ去ってゆく。



★感想
迫害された信仰が無力感までぶち当たった時に、
唱えられる祈りを主題として、独自の宗教観を提示した短編。


父や、信徒の一木さんが唱える「ポロポロ」という言葉は、
「信仰をもちえないと(悟るのではなく)ドカーンとぶちくだかれたとき
ポロポロがはじまるのではないか」と主人公は考える。


さらに「クリスチャンと日本武士は同居しない」と、
明治以降のキリスト教のあり方を批判している。





過酷な現実を前に、祈りの言葉を失った父が
ただただ「ポロポロ」と唱える姿に
はからずも、戦時中の無気味な雰囲気が浮かび上がる。


ポロポロ (河出文庫)


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posted by 信州読書会 宮澤 at 08:44| Comment(0) | TrackBack(0) | キリスト教文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月15日

アメン父 田中小実昌 講談社文芸文庫


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★あらすじ

1908年にアメリカのシアトルで、洗礼を受け、
広島呉市に独立教会を創設して
バプティスト派の牧師として一生を過ごした父親
田中遵聖をめぐる回想。
著者自身も、シアトルに出かけて小説は終わる。





★感想
『ポロポロ』は、戦時下での独立教会の信仰の風景を小説にしていて、迫力があった。


『アメン父』は長編小説と銘打たれているが、半ばエッセイのようなもの。
ただ、父親の生涯を追ったというよりは、父の信仰の核心に迫っているので、
キリスト教論として側面において読み応えはある。なによりも読みやすく書かれている。


十字架もない独立教会の集会場でアサ会という伝導会のようなものを開く
「大マジメ」な父の姿が、敬意と愛情のまなざしでもって描かれている。



著者は、父親の過去を母から聴き、父に関する資料は、
教会を継いだ妹の夫伊藤八郎氏からコピーを貰っている。
そこに、小説家としてのキリスト教への想いを重ねて父親の信仰を思索している。


父は、教会も十字架も洗礼にも重きを置いたのではなく、
聖書を物語として読んで、救済を望んだわけでもなかった。
ただ、キリスト教と自分との関係についてずっと考えていたらしい。




主は先立てり、いつも主は先立っている。将来、神の国がやってきたり、神の国がだんだん大きくなってゆくのではない。神の国をたずさえてイエスはせまりいる。イエスが神の国なのだろう。そして、ニンゲンたちが努力して、あるいは信仰により神の国をきずきあげるのではなく、神の国が先立っている。


と著者は述べる。




きよらかさや、聖なるものへの憧れで、信仰が成り立つわけではない。
主の先立った世界において、アーメンと叫ぶことにしか、信仰はなかった。


というふうにして、著者は父親の信仰の核心として結論づけている。
『神の国が先立っている』に対して人間の営為でどうなるものではないのだ。





★個人的な感慨として


自分はキリスト教徒ではないのだが、新約聖書には関心があってたまに読む。
読むきっかけとなる出来事は、私的なことなので書かないが、確かにあった。





新約聖書を読んで、いままでおぼえなかった引っかかりを、感じるようになった。
特に文学や映画作品を読んで、信仰との関連でものごとを観るようになった。
『主は先立てり』という言葉に関して思うところはかなりある。
たくさんあるのだが、三つだけ、作品鑑賞で感じたことを列挙しておきたい。





・イーストウッドの『ミリオンダラー・ベイビー』について。


この映画は劇場で観て、心打たれたシーンは以下の部分だった。


主人公の女性ボクサーが半身不随になった後に、
イーストウッド扮する老トレーナーが、平素はただ習慣として通っていた教会に行って、
神父に信仰について相談したところ、「神を信じるな」といわれたシーンである。
トレーナーとしてひとりの人間を破滅させたことについて思い悩み、
救いを求めて、教会に出かけて、こういわれるのである。
たぶん、『主は先立てり』の世界で、神に解決を求めるのはナンセンスなのだ。
結果、老トレーナーは、自分の判断だけで、女性ボクサーを安楽死させる。





・モーパッサンの『脂肪の塊』について

主人公の売春婦ブールが、宿屋で足止めにされた間に、久しぶりに教会に礼拝にゆく。
そのすぐ後で、プロシアの司令官に人身御供をさせられるという屈辱に遭う。
ブールの信仰が、現実には何の役にも立たないという皮肉が描かれている。
しかし、『主は先立てり』の世界では、信仰に現世利益がなくてもあたりまえである。
少なくとも、自然主義者のモーパッサンはそういう認識で作品を描いている。



・ゾラの『居酒屋』について
ジェルヴェーズが、姑のクーポーばあさんの祝名節に午餐会を催す。
(フランスのカトリックでは365日に各聖人の名が割り当てられているので、
誕生日よりも祝名節を祝うそうである。最近、ある小説の注で知った。)


親戚一同が集まって席につくと、13人しかいない。
13は不吉な数だということでジェルヴェーズは真青になる。(こういう感覚は、日本人は理解不能)


そこで、たまたま歩いていた乞食みたいな爺さんを午餐会にむりやり列席させ14人にする。
しかし、この午餐会を境にしてジェルヴェーズの運命は転落してゆく。



以上の三つは、私は聖書を読んでいなかったら認識し得ないことだった。



というわけで、何がいいたいかというと、西欧社会ではキリスト教というのは、
生活の根底にまで、根付いて染付いている。生活習慣といってもいい。
社会全体が『主は先立てり』という暗黙の了解で暮らしているのである。
決して、みんなが救いや聖なるものへの憧れでキリスト教を信仰しているわけではない。



『主は先立てり』というのは日本でいうと、
盆暮れの習慣が、無視できないのと同じようなものであると思った。
仏教徒や神道者でなくとも、信仰を深く考えたことがなくとも
人は知らず知らずに信仰によって意味づけられた世界に住んでいる。





例えば、一年中が起伏のない毎日の繰り返しで、それが死ぬまで続くとしたら、
自分が果たして、通常の神経を保って生きていけるか自信がない。そう自覚した。


盆暮れでも、冠婚葬祭でも、なんかしら親族と合ったり、
先祖に故人について思い巡らす時間がなければ、
自分自身の存在を見失って虚しいと思う。
たとえ、そういう習慣が、無意味でくだらないものだと思っても。である。




無神論者というのは、こういうものを一切無視して生きられる人だろう。
『主は先立てり』という認識は、人間の意思で乗り越えられないもの手ごたえであり、


『アメン父』の父は、そこにむかってアーメン、アーメンと唱えていたのだと思う。

アメン父 (講談社文芸文庫)


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posted by 信州読書会 宮澤 at 13:42| Comment(0) | キリスト教文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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