sponsored link


中村光夫と三島由紀夫の対談による小説談義。
志賀、川端、横光、堀、安岡、石原、大江に対する言及が面白い。
とくに安岡の作品の主人公について三島は『背が低く』
道化を演じて恥じないのは読者を馬鹿にしていて卑怯だと怒り、
大江に関してはは『少なくとも背が高くなるという可能性を信じている。
自分は絶対ならないけれども誰かがなるだろうということを信じている.』と指摘する。
三島自身の作品については、はじめから背が高すぎるので、低くするほかないと
冷静な自己分析を加える。
日本の読者が作品と作者を切り離せないメンタリティーを
持っているがゆえに小説を書きづらいと指摘は興味深い。
三島は小説を芸に喩えてこう述べる。
『芸というのは、文学における政治学というか、ヴァレリーのいう芸術の政治学というか、そういうものを経過したところからでないと出てこないと思うんです。』
『まだ、芸がおごそかな存在と思われていて、芸というものは本当は悪い人がやるもので、人が悪くなければ芸人にはなれない、芸というもの自体のなかに芸術の政治学があるのだということがわからない。芸というものは政治学がなくてやれるものだというところから、一方では非情にまじめな体験主義者が芸をやろうとするから、とてもこわばってみていられない。もう一方では、おれは芸人だといってすぐストリップや漫才をやるから浅はかで見られない。芸というものはどんな微妙な政治学の上に成り立つものであるかという政治的考察が足りない。中野重治という人はそういうところをよく知っている』 中野重治の『こだわり』まで芸の一部だと言い切るほどの
三島の深いニヒリズムには唖然とさせられる。
永井荷風や谷崎潤一郎を本当の悪人として三島は肯定している。
もともと、文学に対する立場が真逆の中村光夫と三島由紀夫だが
対談もまとまりがあるようでいてほとんどまとまっていないところがいい。
戯曲に関する対話は小説に関する対話以上に刺激的。お薦め。
対談・人間と文学 (講談社文芸文庫)
sponsored link
posted by 信州読書会 宮澤 at 13:18|
Comment(0)
|
対談・鼎談
|

|