信州読書会 書評と備忘録

世界文学・純文学・ノンフィクションの書評と映画の感想です。長野市では毎週土曜日に読書会を行っています。 スカイプで読書会を行っています。詳しくはこちら → 『信州読書会』 
Facebookページ
『信州読書会』 
YouTubeチャンネル
YouTubeチャンネル「信州読書会」
*メールアドレス
名前

 

カテゴリー:哲学

2013年06月15日

仏弟子の告白 中村元訳 岩波文庫



sponsored link






ブッダの弟子達の告白を詩としてまとめたもの。
『四十詩句の集成』という詩篇に収められた
ブッダの弟子であるカッサパによる告白。



わたしは、坐臥所から下って托鉢のために都市に入っていった。
食事をしている一人の癩病人が近づいて、かれの側に恭しく立った。


かれは、腐った手で、一握りの飯を捧げてくれた。
かれが、一握りの飯を鉢に投げ入れてくれるときに、
かれの指もまたち切られて、そこに落ちた。


壁の下のところで、わたしはその握り飯を食べた。
それを食べているときにも、食べおわったときにも、
わたしには嫌悪の念は存在しなかった。





私の親戚にお寺に、観音堂がある。
毎年夏に、そこで小さなお祭りがあり、
準備を私も少し手伝っていた。



女性のハンセン氏病の人が、毎年夜、お参りに来るのを知っている。
ただ、今年は、その女性を見かけなかった。


築60年くらいのボロボロの観音堂だった。
最近、改装して明るくなったのである。


裸電球のみの暗がりのなか、人気のなくなった遅い時刻に、
視力の弱い彼女が、母親に付き添われてやってきて、
観音様に、両肘を合わせて拝む姿を思い出した。


仏弟子の告白―テーラガーター (岩波文庫 青 327-1)


sponsored link


posted by 信州読書会 宮澤 at 14:11| Comment(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

死に至る病 その二 キェルケゴール 岩波文庫

sponsored link








先日に引き続き、『死に至る病』にふれての感想を。


自己とは反省である、――そして想像力(ファンタジー)とは反省であり、
すなわち自己の再現であり、したがって自己の可能性である、
強烈なる想像力のないところには強烈なる自己もまた存在しない(P49)




とキルケゴールは述べる。
「想像力というのは、自己の反省を基盤としていて、自己の再現である。」
ということになる。


話は変わるが、
私が一般に「純文学」と信じて読んでいる小説は、
想像力が、作者自身の体験に裏打ちされている。
言い換えれば、作者の体験の再現を担保にされた想像力によって描かれたものだ


そういう小説に、心動かされ感動する。
あるいは感情移入を起こさせる小説を「純文学」だと思って読んでいる


少なくとも純文学の「芥川賞」の小説は、
作者の体験の再現を担保になっていた想像力かどうかが、
重要な判断基準になっている文学賞だと信じている。


ところで、キルケゴールは「想像」と「空想」を対立概念として捉えている。


空想的なるものとは一般に人間を無限者へと連れ出すところのものである。
その際それは人間を単に自己から連れ去るだけなので、
人間が自己自身へと還帰することをそれによって妨げる。



「作者の純粋な空想によって描いた物語と言うのは、それがいかに読んでいて愉しくあっても、
読者が自己自身に立ち戻る契機に与えてはくれない」ということになる
無限の空想が野放図に広がった物語というのは
キルケゴールのいう『絶望』の状態に読者を落とし込むのではないか。



『かくて例えば感情が空想的になるとすれば、自己は漸次稀薄になりまさるだけである。
ついにそれは一種の抽象的感情に堕するにいたり、人間はもはや現実的なものに対して
感受性を動かすことなく、むしろ非人間的な仕方でたとえば抽象的な人類一般といったふうな
あれこれの抽象体の運命に多感な思いを注ぐことになるのである』(P49)



「空想というのは自己を稀薄にする」とキルケゴールは言うのだ。


ついでに、ライトノベルとその周辺の作品に現われる「セカイ系」という空想的な物語について。


東浩紀の『ゲーム的リアリズムの誕生』の定義に従うならば「セカイ系」の物語とは、
『主人公と恋愛相手の小さく感情的な人間関係(「きみとぼく」)を、
社会や国家という中間項の描写を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」といった
大きな存在論的な問題に直結させる想像力』によって描かれた物語だそうだ。
「セカイ系」とはまさしく「抽象的な人類一般に多感な思いを注ぐ」非人間的な物語である。
(ちなみに、連合赤軍の主張する「革命」や「殲滅戦」は、「セカイ系」の萌芽だろう)


実際、私も「セカイ系」のアニメを観れば作品世界に少なからず心を領される。
視覚的刺激が強いせいもある。そういう意味で、アニメの技術は確かにすごいと思う。
「エロ」も「暴力」も生々しいが、『一種の抽象的感情に堕する』ことでやり過ごせる。
なので、何時間でも無批判に浸っていられる夢のような物語である。


だが観終わった後の、むなしさというか、
観続けることでしか、そのむなしさを払拭できない麻薬性というのは、怖い。


空想によって自己が漸次希薄になるのが怖いのだ。
空想によって自己が連れ去られるというのは、やはり怖い。
だから避けているのだと思う。関心はあっても。

死に至る病 (岩波文庫)



sponsored link


posted by 信州読書会 宮澤 at 13:54| Comment(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

死に至る病 キェルケゴール 岩波文庫 その一


sponsored link








ごくたまに、哲学書を無性に読みたくなることがある。
真理に直接に迫ろうとする哲学者の魂魄に触れたくなる日が、ときどきあるものだ。


本書は『「死に至る病」とは絶望のことである。』と言う命題をめぐった
キルケゴール(1813〜55)の著作であり、実存主義への道を開いた歴史的な労作である。


読んだきっかけは、カミュの『シーシュポスの神話』で取り上げられていたことと、
キルケゴールがキリスト教に深い関心を寄せていたことを知ったからだ。


この哲学書に関する前提や、哲学史的な意義はあまりよく知らないし、
キルケゴールの入門書を読んでいないので、心に触れた文章を上げて
それに触発されて、思いついたままの勝手な感想を書きたい。



人間は絶望していることが稀なのではなくて、
真実に絶望していないことが稀なのである



とキルケゴール(以下キルケさんと表記)は語る。


「基本的に人間は絶望をかかえている。」ということらしい。
ただ、絶望を意識しない人と、意識する人がいる。


絶望を意識した人だけが、自分自身になれるそうだ。
無限に反省して絶望を意識することにおいて人間はようやく自己自身になれるという。
そういう反省のない人は、自己がなく、致命的な絶望の中にいてなおそれを意識しない、
喩えるならば、病気なのに、病気に気がついていない患者であるそうだ。



こういうわけであらゆるもののうちで、最も美しく最も愛らしい
女性の青春さえも、絶望でしかない



とキルケさんは述べる。



美しい女性の青春には、自己がないというのだ。
キルケさんすごいことをいう…。
(このへんはキルケさんのレギーネという女性との恋愛の挫折が深く影を落としているらしい。)


彼女は病に気がつかない病人ということになる。
絶望を意識していないだけで、絶望状態真っ只中だというのだ。
毎晩、寝床で反省して『チクショウ!!』と叫ぶような
人間でないと自己自身になれない。ある意味、そういうことだろうか?



人生を謳歌している人に、強烈に釘刺す、はた迷惑な哲学書である。
(もっとも、そういう迷惑のない哲学書じゃ存在価値もないが。)
が、たまに無性に読みたくなる。また機会があったら感想を書きたい。


死に至る病 (岩波文庫)



sponsored link



posted by 信州読書会 宮澤 at 13:52| Comment(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

スピノザ 実践の哲学 ジル・ドゥルーズ 平凡社ライブラリー

sponsored link








G.ドゥルーズ, 鈴木 雅大訳
スピノザ―実践の哲学
平凡な日常に危機的なほどの倦怠をおぼえると無性に哲学書が読みたくなる。





はっきりいってスピノザに全く関心なかったが、


古本屋にて半額で落掌したので積読にしていた本。





しかし、100ページほど読んでみたらすごく面白かった。


ドゥルーズという人は、哲学の入門書を書かせたら


右にでる人がいないくらい紹介がうまい。


というよりも、ドゥルーズにはスピノザが憑依している。


現代に生まれ変わったかと思うくらい


スピノザ哲学のエッセンスを生々しく再現させている。





ドゥルーズという人は、ハリウッドの映画監督みたいなサービス精神をもっていて、


哲学史に埋もれた概念を劇的にリメイクして、壮大なスペクタクルとでもって展開してくれる。


ハリウッドの監督がCGでハッタリをかますのとおなじような


詐欺師のようなハッタリを哲学の上でかましてくれるので、笑える。


無論、プロットは強引である。牽強付会な解釈で哲学史を切りまくっている。





スピノザはニーチェ以前に『善悪の彼岸』を語った人だそうだ。


ただ、今日、岩波文庫の『エチカ』を書店で買ってパラパラ読んだが


相当体系的にかかれていて難解。読める自信がないので、


ドゥルーズが語っているスピノザのすばらしさを紹介したい。





★ スピノザの「悪」


スピノザの哲学の過激さは、「悪」の定義にある。


なんとなれば、宗教に拠らずに「悪」を定義するという離れ業を演じたのだ。





「悪」というのは、『人間の構成関係を破壊してしまうもの』だとスピノザは言う。


わかりやすく喩えれば、「悪」というのは食中毒であるという。





アダムが禁断の実を食べて、不幸になったのは、


神の禁止した実を食べたからではなく、食中毒になったからである。


禁断の実を食べる行為が「悪」だったのではなく、


その実が、アダムの体質に合わずに、消化不良を惹き起こし


不幸の原因となったのが「悪」だというのだ。旧約聖書の強引な解釈である。





人間にとって消化不良を原因となるものこそが「悪」なのである。


つまりは、人間の構成関係を分解したり破壊したりするものこそ「悪」だとスピノザはいうのだ。





人殺しでも、盗みでも、放火でも、犯罪行為の本質に「悪」が存在するわけではない。


そんな行為でも、人間の構成関係を破壊しないかぎり「悪」ではないのだ。





『いかなる行動も、それ自体だけをとれば<いい>わけでも<わるい>わけでもない』





以上がスピノザの倫理学のエッセンスである。


まあ、こんな過激なことをいうので存命中には


スピノザは蛇蠍の如く嫌われていたらしい。





★文学作品におけるふたつの『実母殺し』 どっちが「悪」か?


スピノザは『往復書簡集』において文学作品を例にとって「悪」を検証した。





アイスキュロスのオレステスの母殺し(クリュタイメストラ暗殺)と


皇帝ネロの母殺し(アグリッピーナ暗殺)の比較である。


この2作品で「悪」の違いを論ずるという、面白い説明を試みている。





皇帝ネロの母アグリッピーナ殺しは、皇帝のステージママたる母を


ネロが厭わしく思ったことすべての原因だった。


(ラシーヌの『ブリタニキュス』にはこの葛藤がよく描かれている。)





しかし、皇帝ネロの母殺しという行為が、

直接的に構成関係を破壊した母アグリッピーナの像としか結びついていないため。
母殺しが、皇帝ネロの「忘恩や無慈悲、不孝」を示すだけとなり、
結果、ネロは周囲との構成関係を破壊してしまった。


やがて極度の人間不信から、ネロは臣下を殺しまくり、暴君と化す。





一方、オレステスは、母クリュタイメストラを暗殺するが


彼女は、自分の夫であるアガメムノンを殺していた。





よって、オレステスの母殺しという行為は、母の像ではなく、


直接的に父アガメムノンの像に結ばれているので、


永遠の真理たるアガメムノン特有の構成関係と結び付くのである。


その証拠に、母殺しの後も、オレステスと周囲との構成関係は保たれたままである。


(ちなみに、アイスキュロスの三部作でも最終的にオレステスは母殺しを免罪される)





ネロの「母殺し」は、彼の周囲との構成関係を壊したので『悪』であるが、


オレステスの「母殺し」は仇討ちであり彼の周囲との構成関係を分解していないので


「悪」ではなく、よって断罪もされないというのである。





「母殺し」という行為自体は「悪」でも何でもない。





『いかなる行動も、それ自体だけをとれば<いい>わけでも<わるい>わけでもない』





というテーゼをスピノザは『実母殺し』という究極のケースを持ち出して説明している。





とりあえず、「実母殺し」という剣呑なテーマでもって


スピノザというのはこういう天地を引っくり返すような


牽強付会な哲学を説いているので


ドゥルーズは『実践の哲学』とまであがめたてているのである。





平凡な暮らしをしているとこんなふうに「悪」のことを絶対考えないから、


気分転換というか、頭のリフレッシュとして読むことができる。





しかしながら、思春期のガキがスピノザやらニーチェを読んで


『善悪の彼岸』を越えてしまっては、困るのである。





『なぜ人を殺してはいけないの?』なんて大人に質問するような


小賢しく哲学的なガキがたくさんいるそうである。

そんなガキはNHKの『中学生日記』にしか存在しないと思ったら、

未成年者による陰惨な殺人事件も目立つので、たくさんいるらしい。




「家族が悲しみにくれるから」なんて答えじゃ納得いかないらしい。

(スピノザのもう一つのテーマは「悲しみ」であるらしい。

しかしながら、「悲しみ」の定義までは読んでいないので、理解できたら改めて紹介したい。)

ほとんど快楽殺人を嗜好しているような感情の欠落した子供もたくさんいるみたい。





子供に『悪』とはなにかを?を教えるのは予想以上に難しいのだろうと思う。





もしも私が、中学生の道徳の授業をでも任されたとして、教壇から、


スピノザ曰く「君たちの周囲との構成関係を分解するものが<悪>なのだよ!! つまり食中毒だよ!!」


なんて教えても、そもそも感情のない生徒にはあんまり説得力がないだろう。


スピノザの実践の哲学も、けして実用の哲学ではないことがしみじみわかるだけだ。





結局、周囲の構成関係を一変させるような


死刑も無期懲役刑も、それが屁でもない凶悪で無感情なガキには無意味である。


刑罰だけでは、そういう凶悪犯予備軍のガキへの抑止力にはならない。


そうなると、もう、被害者の家族による仇討ちを法的に認め、何らかの慰めにするしかなくなる。





スピノザの哲学が難解なのと同じくらい、凶悪なガキの扱いも難解なのだ。


なんて思った。




最近モームの『サミング・アップ』をよんでいたら彼もスピノザが大好きだと述べていた。

『人間の絆』というモームの代表作のタイトルはスピノザの『エチカ』から採ったそうである。


スピノザ―実践の哲学 (平凡社ライブラリー (440))


sponsored link




posted by 信州読書会 宮澤 at 13:25| Comment(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。