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G.ドゥルーズ, 鈴木 雅大訳
スピノザ―実践の哲学
平凡な日常に危機的なほどの倦怠をおぼえると無性に哲学書が読みたくなる。
はっきりいってスピノザに全く関心なかったが、
古本屋にて半額で落掌したので積読にしていた本。
しかし、100ページほど読んでみたらすごく面白かった。
ドゥルーズという人は、哲学の入門書を書かせたら
右にでる人がいないくらい紹介がうまい。
というよりも、ドゥルーズにはスピノザが憑依している。
現代に生まれ変わったかと思うくらい
スピノザ哲学のエッセンスを生々しく再現させている。
ドゥルーズという人は、ハリウッドの映画監督みたいなサービス精神をもっていて、
哲学史に埋もれた概念を劇的にリメイクして、壮大なスペクタクルとでもって展開してくれる。
ハリウッドの監督がCGでハッタリをかますのとおなじような
詐欺師のようなハッタリを哲学の上でかましてくれるので、笑える。
無論、プロットは強引である。牽強付会な解釈で哲学史を切りまくっている。
スピノザはニーチェ以前に『善悪の彼岸』を語った人だそうだ。
ただ、今日、岩波文庫の『エチカ』を書店で買ってパラパラ読んだが
相当体系的にかかれていて難解。読める自信がないので、
ドゥルーズが語っているスピノザのすばらしさを紹介したい。
★ スピノザの「悪」
スピノザの哲学の過激さは、「悪」の定義にある。
なんとなれば、宗教に拠らずに「悪」を定義するという離れ業を演じたのだ。
「悪」というのは、『人間の構成関係を破壊してしまうもの』だとスピノザは言う。
わかりやすく喩えれば、「悪」というのは食中毒であるという。
アダムが禁断の実を食べて、不幸になったのは、
神の禁止した実を食べたからではなく、食中毒になったからである。
禁断の実を食べる行為が「悪」だったのではなく、
その実が、アダムの体質に合わずに、消化不良を惹き起こし
不幸の原因となったのが「悪」だというのだ。旧約聖書の強引な解釈である。
人間にとって消化不良を原因となるものこそが「悪」なのである。
つまりは、人間の構成関係を分解したり破壊したりするものこそ「悪」だとスピノザはいうのだ。
人殺しでも、盗みでも、放火でも、犯罪行為の本質に「悪」が存在するわけではない。
そんな行為でも、人間の構成関係を破壊しないかぎり「悪」ではないのだ。
『いかなる行動も、それ自体だけをとれば<いい>わけでも<わるい>わけでもない』
以上がスピノザの倫理学のエッセンスである。
まあ、こんな過激なことをいうので存命中には
スピノザは蛇蠍の如く嫌われていたらしい。
★文学作品におけるふたつの『実母殺し』 どっちが「悪」か?
スピノザは『往復書簡集』において文学作品を例にとって「悪」を検証した。
アイスキュロスのオレステスの母殺し(クリュタイメストラ暗殺)と
皇帝ネロの母殺し(アグリッピーナ暗殺)の比較である。
この2作品で「悪」の違いを論ずるという、面白い説明を試みている。
皇帝ネロの母アグリッピーナ殺しは、皇帝のステージママたる母を
ネロが厭わしく思ったことすべての原因だった。
(ラシーヌの『ブリタニキュス』にはこの葛藤がよく描かれている。)
しかし、皇帝ネロの母殺しという行為が、
直接的に構成関係を破壊した母アグリッピーナの像としか結びついていないため。
母殺しが、皇帝ネロの「忘恩や無慈悲、不孝」を示すだけとなり、
結果、ネロは周囲との構成関係を破壊してしまった。
やがて極度の人間不信から、ネロは臣下を殺しまくり、暴君と化す。
一方、オレステスは、母クリュタイメストラを暗殺するが
彼女は、自分の夫であるアガメムノンを殺していた。
よって、オレステスの母殺しという行為は、母の像ではなく、
直接的に父アガメムノンの像に結ばれているので、
永遠の真理たるアガメムノン特有の構成関係と結び付くのである。
その証拠に、母殺しの後も、オレステスと周囲との構成関係は保たれたままである。
(ちなみに、アイスキュロスの三部作でも最終的にオレステスは母殺しを免罪される)
ネロの「母殺し」は、彼の周囲との構成関係を壊したので『悪』であるが、
オレステスの「母殺し」は仇討ちであり彼の周囲との構成関係を分解していないので
「悪」ではなく、よって断罪もされないというのである。
「母殺し」という行為自体は「悪」でも何でもない。
『いかなる行動も、それ自体だけをとれば<いい>わけでも<わるい>わけでもない』
というテーゼをスピノザは『実母殺し』という究極のケースを持ち出して説明している。
とりあえず、「実母殺し」という剣呑なテーマでもって
スピノザというのはこういう天地を引っくり返すような
牽強付会な哲学を説いているので
ドゥルーズは『実践の哲学』とまであがめたてているのである。
平凡な暮らしをしているとこんなふうに「悪」のことを絶対考えないから、
気分転換というか、頭のリフレッシュとして読むことができる。
しかしながら、思春期のガキがスピノザやらニーチェを読んで
『善悪の彼岸』を越えてしまっては、困るのである。
『なぜ人を殺してはいけないの?』なんて大人に質問するような
小賢しく哲学的なガキがたくさんいるそうである。
そんなガキはNHKの『中学生日記』にしか存在しないと思ったら、
未成年者による陰惨な殺人事件も目立つので、たくさんいるらしい。
「家族が悲しみにくれるから」なんて答えじゃ納得いかないらしい。
(スピノザのもう一つのテーマは「悲しみ」であるらしい。
しかしながら、「悲しみ」の定義までは読んでいないので、理解できたら改めて紹介したい。)
ほとんど快楽殺人を嗜好しているような感情の欠落した子供もたくさんいるみたい。
子供に『悪』とはなにかを?を教えるのは予想以上に難しいのだろうと思う。
もしも私が、中学生の道徳の授業をでも任されたとして、教壇から、
スピノザ曰く「君たちの周囲との構成関係を分解するものが<悪>なのだよ!! つまり食中毒だよ!!」
なんて教えても、そもそも感情のない生徒にはあんまり説得力がないだろう。
スピノザの実践の哲学も、けして実用の哲学ではないことがしみじみわかるだけだ。
結局、周囲の構成関係を一変させるような
死刑も無期懲役刑も、それが屁でもない凶悪で無感情なガキには無意味である。
刑罰だけでは、そういう凶悪犯予備軍のガキへの抑止力にはならない。
そうなると、もう、被害者の家族による仇討ちを法的に認め、何らかの慰めにするしかなくなる。
スピノザの哲学が難解なのと同じくらい、凶悪なガキの扱いも難解なのだ。
なんて思った。
最近モームの『サミング・アップ』をよんでいたら彼もスピノザが大好きだと述べていた。
『人間の絆』というモームの代表作のタイトルはスピノザの『エチカ』から採ったそうである。
スピノザ―実践の哲学 (平凡社ライブラリー (440))
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