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90歳になる主人公が14歳の生娘の娼婦のもとへと通う。
眠ったままの彼女をなでたり、さすったりで主人公は愉しむ。
やがて、主人公は少女への恋わづらいで心ちぢにみだれる。
その少女との顛末を、主人公のさみしい女性遍歴を交えて描いた小説。
★感想
川端康成の『眠れる美女』に着想を得て書かれた小説。
『眠れる美女』の主人公である江口は、眠りつづける売春少女に対して
「まるで生きているようだ」とつぶやくほどネクロフェリアであり、
加えて、花鳥風月の美意識で飾られた世界に沈潜していた。
一方、マルケスの主人公は、眉毛のつながるほど、生命力の溢れた少女売春婦と
性の讃歌を高らかに歌い上げ、老いてなお盛んであり、さらに諧謔を忘れない。
そして、娼家の遣り手ババアであるローサ・カバルカスがよくしゃべる。
それも、ほとんど自由間接話法でしゃべっている。「」なしの会話の応酬。
地の文と会話が混じっているので、やや読みづらい。
でも、自由間接話法を使っているせいで、夢の中に聴こえる声のような
幻想的で鮮やかな会話のやりとりが、小説の中に展開されている。
翻訳で読むと、川端康成よりも古井由吉の小説の話法に似た印象を受ける。
現実と夢の境があいまいで、どのエピソードが現実なのかよくわからないところがあった。
例えば、少女が主人公の自宅ベッドで寝ていて、にわか雨に襲われるシーンが?? だった。
これは、幻想シーンなのだろうか? それとも老人性痴呆症なのか?
わからない。アンゴラ猫の生死もよくわからなかった。
昔馴染みの娼婦、カルシア・アルメンダとゴンドラで再会するシーンも、妄想か?
昔日の婚約相手ヒメーナ・オルティスと90過ぎにして再会して、
彼女が主人公のことを忘れているシーンや(なんか『天人五衰』みたいだな。)
母親のフロリーナの宝石が、全部贋物に替えられていたのが発覚するシーンなど、
後半にボンボンと気の利いた幻想的なエピソードが入れられていて面白かった。
しかし、既視感にまみれたエピソードばっかりのような気もしたけれど、それはご愛嬌。
そういうエピソードが楽しめれば、充分読むに値する。
会話も面白い。
「そこは入り口ではなく出口です」←笑った。
「嫉妬というのは真実以上に知恵が回るものなのよ。」←巧いです。
「カタツムリを泣かせたのは、イザベルだったのよ」←さすがノーベル賞作家です。
あっという間に読ませる。三時間で読んでしまった。
話柄も豊富であり、サービス精神に溢れている。
でも、そんなに感動はしない。あんがい、心に残らない。ああ、あうあうあ。という感じだ。
吉行淳之介の娼婦ものより叙述密度の濃いレベルくらいとしか思えない。
あるいは、晩年のモラヴィアの作品レベル。機知に富んで品がよいのは確かだが。
息子の嫁に、素足で踏まれて喜ぶ、『瘋癲老人日記』の老人のほうが、老いの妄執は深い。
主人公の設定が、やや興趣に欠けるのだと思う。
(ノーベル賞作家にたいしておこがましいが…)
90歳でマザコン、家庭なし、子供なし、財産なし、かつて女性関係に満足したことなし。
朝日新聞の論説委員みたいな虚栄心の強いコラムニスト。
こういう人物が、どんな妄想や幻想を愉しもうが、どうぞご自由に、である。
たとえ、娼家を放火しようが、嫉妬のあまり心臓発作を起こそうが、
あまり感心しない。実際のところ。
この主人公にとって、眠る少女との時間は、読書の時間とあまり変わらない。
どちらも、自分の心をとりもどす時間でしかない。唯一自分に折り合えて素直になれる時間。
孤独の深い病を物語っている。さみしい人だと思った。90歳になるずっと前からさみしかったのだ。
わが悲しき娼婦たちの思い出 (Obra de Garc〓a M〓rquez (2004))
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