信州読書会 書評と備忘録

世界文学・純文学・ノンフィクションの書評と映画の感想です。長野市では毎週土曜日に読書会を行っています。 スカイプで読書会を行っています。詳しくはこちら → 『信州読書会』 
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カテゴリー:洋画

2013年07月25日

レディー・イン・ザ・ウォーター

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舞台はコープ・アパートというさまざまな人種の人々が住むアパート。
管理人のクリーブランドは、アパートの真ん中にあるプールで
ストーリーという女性に逢います。彼女は水の精で、邪悪な怪物のせいで
「青の世界」に戻れなくなってしまいます。
そこで、住人みんなで協力して
彼女を青の世界に戻してあげるという
御伽噺みたいな話。



以下はネタばれ


私はシャマラン作品は「シックスセンス」「サイン」しか
観てないで、前作の「ヴィレッジ」に比べてどうだとか
言えないのですが、楽しめました。
最初の30分は、水の精ストーリーを演じるブライス・ダラス・ハワードが


ミルコ・クロコップに似てて、
ポスターみたいな美人じゃなくて興ざめしてました。
しかし、どうでもいいアパートの住民が
グダグダのまま物語りに巻き込まれていく段になって
引き込まれました。



ラストは、超端役の右腕だけを鍛えている変な男が、
実は守護者で、スクリクトとかいう狼をモップで
追っ払うシーンには笑いました。



あと映画評論家が
「ホラー映画で嫌われ者の端役が最初に殺されるシーンと一緒だ」
といいながらスクラントに襲われて、そのままどうなったかわからないところとか
最後にスクラントがサルみたいなモンスター3匹
(サインにでてきた宇宙人みたいなモンスター)に
新日のプロレス乱闘みたいにポコポコ殴られて、
森の中に引っ張られていく哀愁いっぱいのシーンとかに
私は大爆笑しました。

といっても映画館は三人しか観客がいなかったので
一緒に笑う声もなく、声を立ててまでは笑えませんでしたが。



「サイン」もそうなのですが、ところどころ爆笑させるシーンがあって、
多分そこで笑えない人にはつまんない映画なんでしょう。
基本的にコメディーだと思って観るべきだと思いました。
すべての徴候がそのまま説明もなく解決もなくラストを迎えます。
カタルシスの中途半端さが一部の人をして
激怒させているようです。


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posted by 信州読書会 宮澤 at 10:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 洋画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

父親たちの星条旗 映画版

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クリント・イーストウッド監督『父親たちの星条旗』を観てきました。

原作の『「硫黄島の星条旗 」 ジェイムズ ブラッドリー, ロン パワーズ, 島田 三蔵訳』
を読んでから観にいったので、残念ながら原作の確認という形での鑑賞になりました。
期待していた戦闘シーンは、『プライベートライアン』ほどではないけれどかなり迫力がありました。
スピルバーグと共同制作ということで、戦闘シーンの雰囲気は、スピルバーグっぽかったです。



原作のエピソードはかなり忠実に盛り込まれていて、(盛り込みすぎかもしれないが、
上陸2日目に米軍の戦艦に特攻機が体当たりして炎上するシーンがなかった。)
硫黄島の戦闘シーンと、生還した3名のその後の人生がバランスよく交互に物語られて
扇情的なシーンもなくさすが、イーストウッドという仕上がりではありましたが、
私が今まで見てきたイーストウッドの作品の中では、残念ながら評価が低いものになりました。



生還したあとの3人の人生というのはどうしても、戦闘シーンに圧倒されてしまい、印象が薄いです。
硫黄島から帰らなかった人々が本当のヒーローだとしたら、
硫黄島で戦った勇敢な兵士たちをもっと描いたほうがよったんじゃないかと思いました。
余談ですが、エンドロールの実際の写真はすばらしかったです。

そして、やっぱりクリント・イーストウッドが出てこないのが残念。
少なくとも「ミスティックリバー」のショーンペンみたいな役者が出てこないと、
イーストウッドの出演のない監督作品は、弱いなと感じてしまいます。

硫黄島のシーンと、帰還兵の人生を2時間でまとめるのは難しいし 
戦争の意義を描かなかったという点で
「バンド・オブ・ブラザーズ」と比較してしまえば、見劣りする映画でした。



追記
スピルバーグが関わってるとなると、
イーストウッドのリバタリアリズムに反するなあ

という気がしました。


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posted by 信州読書会 宮澤 at 09:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 洋画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ブラック・ダリア

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エリザベスショート事件という、
ハリウッド女優志望の若い女性の実際の惨殺事件から着想を得た
ジェイムズ・エルロイのノワール小説が原作。



原作が分厚すぎて読んでいないので、
残念ながら、ストーリーがよくわからなかったです。
(L.A.コンフイデンシャルの映画版もそうだった・・・)
エピソードが詰め詰めで入れられていた印象かあります。
あらすじは、パンフレットで確認してようやくわかりました。
いずれ、原作も読んでみたいと思いました。



★気になったこと。
エリザベスの死体が道端で発見されたときの
クレーンを利用した無意味とも思える長回しは何だったんだろう。
やってみたかったとしか思えませんでした。


そのあとの銃撃戦は派手でかっこよかったです。
ストライプのスーツを着た太った黒人が走って逃げるのがかわいかった。

ずっとケイが犯人だと信じて観てましたが見事に裏切られました。


ケイ役のスカーレット・ヨハンソンは
絵に描いたような金髪美人で品があって色っぽかったけれど、
右頬にニキビかほくろがあって気になりました。
肌も荒れ気味で気になった。ちょっと残念だった。


マデリン役のヒラリー・スワンクがちょいブスなのも残念。
角度によって頬がこけて見えました。32歳ならしかたないか・・・



マデリンのお母さんが、バルコニーから出てきて喋るシーンは
「ファントム・オブ・ハラダイス」のようなオペラ感満載でした。


このお母さんの演技は、ヒラリー・スワンクを喰ってました。
小屋の入り口でエリザベスをバットで殴るシーンも戦慄的。
このお母さんがファントム・オブ・パラダイスの主役の人と
共同作業でエリザベスの頭を万力にかけるシーンは、
ホラー映画っぽくてよかったです。『悪魔のいけにえ』みたい。


マデリンとバッキーが出逢うオシャレなレズビアンバー。
あのショータイムをぜひ一度生で観たい!と強く願わずにいられませんでした。


セックスとバイオレンスにデ・パルマっぽい欲望のギラつきが感じられて
脂っぽくて、悪玉コレステロールがいっぱいで、おなかパンパン
胃にもたれましたという映画。ともかく飽きさせません。お薦めです。

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posted by 信州読書会 宮澤 at 08:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 洋画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月15日

くまのプーさん「クリストファー・ロビンを探せ!」


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3歳の姪っ子が、不機嫌だったので、借りてきてみせてみた。
しかし、難しかったらしく最後まで観てくれなかった。
もったいないので私が全部観ておいた。確かに3歳児には難解である。
一緒に借りてきたアンパンマンは食い入るように観ていたのに・・・である。



・くまのプーさんについて

ディズニーアニメなのだが、ディズニーがキャラクター権利使用のライセンスを得て
年間くまのプーさんだけで30〜60億ドル売り上げているらしい。

ちなみに、くまのプーさん営業部長の売上は、
なんと!! ミッキー、ミニー、ドナルドダック、グーフィー、プルート
各キャラクターの営業利益を合計したものに匹敵するという。
この売上に匹敵するライバル社の営業はキティちゃんだそうだ。
おそるべし、キティ営業部長。



原作はイギリスで、原作者ミルンの息子クリストファーロビンの大事にしていた
くまのぬいぐるみからこの「くまのプーさん」は生まれたそうである。

以上の情報はWIKIに詳しいのでそっちを読んでほしい。
かなり詳しく書かれていてへぇ〜だった。版権をめぐる泥沼の訴訟とか・・・。



そんなことよりも、うちの姪っ子がくまのプーさんより
アンパンマンのほうが好きなことに、いろいろ考えさせられた。
なによりも姪がショックを受けたのはプーさんの声が、
吹き替えも原語も完全に「おっさんの声」であることだ。これは、まずいと思う。
「プーさんてこんな声なの?」とがっかりしたように姪っ子に詰め寄られて、
夢を壊してしまったような罪悪感をおぼえた。

・くまのプーさんの世界
原作はイギリスで、舞台の100エーカー森もサセックス州の森がモデルだが
ディズニーによってアメリカ化されたことで、
アニメの舞台は完全にアメリカ南部になっている。
よって、ほとんどフォークナーのヨクナパトーファサーガと
同じような前近代的な世界にされている。

要するにくまのプーさんをはじめとする動物キャラクターが、開拓民みたいにされている。
というか、ほんとは、ほとんど黒人農奴みたいな感じにされていて、レイシズムの匂いがぷんぷんする。

森の描き方がほとんどフォークナーの世界である。
あと、イーヨーというロバが出てくるのだが、
これはアイスキュロスの『縛られたプロメテウス』の
牝牛イーオーからパクったんじゃねえかという発見があった。



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posted by 信州読書会 宮澤 at 14:49| Comment(0) | 洋画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

美しさと哀しみと

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川端康成の『美しさと哀しみと 』を原作とした
シャーロット・ランプリング主演の1985年のフランス映画。
この時期のシャーロット・ランプリングは、
大島渚監督の『マックス・モン・アムール 』という
オランウータン主演の映画に出たり
元ボクサーミッキーローク主演の『エンゼル・ハート 』に出たりと
迷走の度合いを深めていた。
デビュー作からずっとそのフィルモグラフィーは、
ファンを裏切りつづけている。つれない人だ。

この映画を観て、シャーロット・ランプリングは、結局
芸術ポルノ映画で脱ぎっぷりのいい脇役以外の
なにものかであったのか? と思わざるを得なかった。

『美しさと哀しみと』のビデオも
『エマニエル夫人』の隣に並んでいた。

彼女は、最近のインタビューによると
一度も整形手術を受けたことがないそうである。

1985年の時点で、彼女の美貌には、もうすでに老いが、充分侵食しているが
なんと、その顔が直木賞作家の石田衣良にそっくりである。
そんなことを発見した自分に対して、私は激しい自己嫌悪に陥った。
整形して、似ないようにするのが礼儀というものだ。もちろん石田衣良のほうが・・・。

内容は、川端康成の原作そのまま。忠実ともいえる。
でも、結局のところ、この作品の監督、ジョイ・フルーリーは、
シャーロット・ランプリングがミリアム・ルーセルの腋毛を
剃毛するシーンを撮りたかっただけなのだと思う。

そういう間違った製作動機は嫌いじゃないが、やはり観るに耐えない。
ちなみにこの監督はこの作品一本で消えた。芸術の国フランスらしい厳しさである。



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ラベル:川端康成
posted by 信州読書会 宮澤 at 14:48| Comment(0) | 洋画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

トロイ


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『イリアス』は梗概しか読んでいないのだが、『イリアス』『オデュセイア』を原作とし
アキレスとヘクトールの対決に焦点を当ててトロイ戦争を描いた映画。
それぞれの役はブラピとエリック・バナが演じていていて、まあまあよい。

まあ、ギリシアの神々の戦いへの介入というものを
一切、無視して作られた映画なので、ホメロスおよびギリシア悲劇のような
神々と人間が混在する世界のカオスがなく、性格描写の平板さは、やや、やりきれない。
要するに、気まぐれな神々に翻弄される人間の運命が描かれていないので退屈。

なんだかトロイ戦争が近代戦みたいにされている。
そういう意味で、アカイア勢のトロイア上陸作戦のシーンは
ノルマンディー上陸作戦を描いた
『プライベートライアン』と本質的にはかわりがない。
ただ、戦闘シーンはアメフトのような肉弾戦である。結構迫力あり。

・役者について


ヘレネ→   ただのスーパーモデル。期待はずれ、はなはだしい。がっかり。
       顔立ちは整っているが、男を狂わせる天衣無縫の妖艶な魅力は
       1ミクロンたりともない。こてこてしたイタリア人の女優を使うべき。

アンドロマケー → マイケル・カヤニコス監督の『トロイの女』の
          ヴァネッサ・レッドグレイプのほうが数倍よい。

アガメムノーン → 完全に悪役にされている。ただの因業オヤジ。絵面が汚い。
          アガメムノーンがアメリカ巨大企業の会長みたいにされている。
          たとえば、アイアコッカみたいな企業戦士。
          もう、かんべんしれくれよ!! まったく!! という印象。

パリス → やさ男でよかった。イメージどおりかも。坊ちゃん。
      昔アップルにいた、スカリーみたいな企業戦士の印象。

パトロクロス → この人はやさ男じゃまずいんじゃないか?

プリアモス → ピーター・オトゥール。無意味に贅沢なキャスティング。
        だが、なんだか頼りない。もったいない。

カサンドラー、ヘカベー → 出て来ない。美の競演はこの映画の主題ではない。残念。

ギリシア悲劇が好きな人間にはお薦めできない映画ではある。
アメリカ人が製作するのはやっぱり無理。

問題なのは、トロイ戦争が企業の買収合戦みたいなっていることだ。
働きすぎのエスタブリッシュメントたちの派閥闘争になっている。

こう考えると、パゾリーニの退屈な芸術性のほうが
ギリシア悲劇の映像化としては、はるかに心に残るものがある。
少なくとも、ギリシアの神々を顕在させる雰囲気を作ろうとしている。

ただ、ブラピが好きな人には、この映画は必見である。
肉体美を誇っている。アキレス腱に矢が刺さって痛そうだった。


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posted by 信州読書会 宮澤 at 14:47| Comment(0) | 洋画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

アメリカン・ハードコア 続き


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このドキュメント映画にいやというほど描かれているのは、
よれよれのTシャツ、色褪せたジーンズという小汚い姿の若者が
3コードから成る3分程度の曲にのせて、ひたすらシャウトするというライブである。
観客がダイブとモッシュを繰り広げ、一緒に歌うという
暴力的なパフォーマンスばかりであり、みな自暴自棄になって血塗れている


貴重な映像が多いにもかかわらず、彼らから受ける印象は痛々しさだけである。
一歩間違えば、中学生が修学旅行の旅館で枕なげしていたら
本気で殴りあいになってしまったような居心地の悪さがある。
(特に、ヘンリー・ロリンズが客を殴ってるシーンなんかはひどい)


そしてハードコアの楽曲の特徴は、とにかく速い、そして短いことである。
カロリーゼロ。シンプルで攻撃的なのであるが、映像で見てものれない。


ハードコア・シーンというものは、この映画のなかで
ヴィック・ボンディが的確に述べているように、
組織的な左翼活動の存在しない80年代のアメリカにおける
唯一の共同体主義の改革の実践であった。


それぞれのバンドは手作りの音源を手売りし、地方都市の郊外のガレージや教会でライブをし、
バンド仲間の人脈をたよりにツアーしてまわるという
人民戦線のような連帯と助け合いの理念をもとに
活動を繰り広げ、全米を席巻してゆくのである。


重要なのは、それは、商業主義的ロックへのアンチではなく、
郊外に住み、職にあぶれ、希望も抱けない若者たちが、
ハードコア・シーンを形成するということによって、
一瞬だけポジティブになり、主体的に生きたと錯覚したことである。
関係者のインタビューには「やってやった」感が、満ち溢れている。


そういう意味で、アメリカン・ハードコアの理念は、
「遅れてきた実存主義」とも受け取れる。

とにかく、彼らは希望のない社会状況の中で自分の生きてゆく位置を明らかにした。
ただし、あまりにも悲観的に社会状況をとらえたため、未来志向の建設を信じない。
自らを予測不能のカオスに投げ込むことの可能性を追及するあまり自己破壊に至った。

しかし、凡百のアメリカンドリームをつかんだ成り上がりの物語を
彼らが明確に拒否していることには、すがすがしさがある。


人間が生涯を暮らすにはあまりにも抽象的な郊外という
場所において、ドラッグと犯罪とセックスに溺れる以外に
どこにも救いを見出せない若者にとって、ハードコアは唯一の「声」であり、
鬱屈する少年たちの自己解放が、どこにたどりつくか
まったくもってわからないことが、すべての達成なのである。


ハードコアの歌詞は、そのまま現状への怒りと無力感をぶちまけている。
貧富の差を押し広げながら軍事的にも経済的に拡大してゆく
レーガン政権時代の輝かしさの一方で、矛盾のように溢れ出す
不況やインフレや言論の抑圧から生まれる社会不安を
ストレートに訴えるには、3分間の演奏時間で充分である。

どのバンドも、リー・マービン主演のB級アクション映画『殺人者たち』に出演していた
悪役俳優時代のレーガンの映像をコラージュしたフライヤーを作成し、
ライブ会場に張るという知的なアイロニーに富んだ風刺をしたことが映画で語られているが、
彼らは、70年代的な反体制の胡散臭さを知っているからこそ
こうした知的アイロニーを駆使した戦略をとっているのである。


彼らの一部は、DIY(Do It Yourself)を唱え、自己責任を観客に訴えている。
仲間が、ドラッグや犯罪に手を染めても、俺だけはやらない、という自己責任である。
まあ、これじゃアメリカ建国以来の伝統であるピューリタリズムへの回帰でしかないんで、
当然こういうことをポジティブに訴えだした頃には、ハードコア・シーンも


暴力とドラッグで、ぐちゃぐちゃになっており、ギグは、毎回暴動化して、警察沙汰となる。
ダメな奴はやっぱりダメというどうしようもなさを確認して、
シーンを支える中心的なバンドに倦怠感がひろがる。


結局、シーンの担い手たる彼らが、音楽性を転換させたり、解散したりたりして
ハードコア・シーンからの撤退を表明して消えてゆく。
このような転向が、雪崩のように巻き起こり、レーガンの二期目続投が決まった84年を境に
ハードコア・シーンはとめどもなく崩壊してゆく。


まあ、以上のようなことがこの映画では描かれている。
自分でも何を書いているかわからなくなった。
牽強付会な解釈だと思う。こんなブログでまとめきれない複雑さがこの映画にはある。


ただ、一連の流れを見て思うのは70年代後半から80年代前半の
日本の新左翼運動崩壊と状況的に似ているといえなくもないことである。
80年代前半で培われたハードコア・シーンは、その後、オルタナティブ・ロック
として蘇生し、90年代には世界規模の影響力をもつにいたる。

日本ではオルタナに対応したサブカル・シーンをさがすと、
世界的影響力を持っているのが、残念ながらアニメとマンガというジャンルしかない。

だからこそ、日本においては新左翼運動の延長線にアニメ・マンガがおかれる傾向がある。
しかし、それが唯一の世代体験みたいに主張する評論家のしたり顔と党派性は気に喰わない。

それはそれとして、社会不安募る今の日本でこそ観る価値のある作品だと思う。


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posted by 信州読書会 宮澤 at 14:32| Comment(0) | 洋画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

アメリカン・ハードコア



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ニルヴァーナのカート・コバーンの伝記『病んだ魂』において綴られている
アメリカのハードコアシーンに、いまだに払拭しきれない興味があり観た。

自分自身のことを書けば、高校時代、当時はまだ面白かったMTV経由で
ニルヴァーナを頂点とするオルタナティブロックのムーブメントに触れて傾倒し、
『病んだ魂』やニルヴァーナのCDのライナナーツから得た知識から、
80年代ハードコアシーンのCDをぽつぽつと買いはじめた経緯がある。


ただ、大学に入ると映画や小説(それも三島由紀夫)にもっぱらの関心がシフトしたので
ハードコア自体には、それほど関心は無くなってしまった。
よってそんなに詳しくならないうちに、そんなに聴かなくなってしまった。


まあ、グレン・グールドがクラシック評論家の一面を持つように
カート・コバーンには、ハードコア評論家みたいな側面があり、
かなり偏見に満ちたハイセンスで、愛情の深い批評活動を断片的にだが、していた。
一方、商業主義的なロックには、えげつない罵声を浴びせるので、
その部分に、どうしようもなく影響されてしまった恥ずかしい思い出がある。

そういうわけで、それ以前は、プリンスやガンズやエアロスミスを聴いていたが、
それらのCDを友人にただであげてしまうくらいに急進的にのめり込んだ。
ただ、そういうのを聴いている連中を心底軽蔑し始めたことは、始末が悪い。


そのくらいに、ハードコアへのめり込み方が、半端ではなく、
ほとんど思想的感化ともいえるくらいであったことである。
極左活動にのめり込むくらいの勢いであったことは確か。
そのくらいに政治意識というか若気の至りからくる憤りを
煽り立てるなにかが、ハードコアにはあると思うし、
ハードコアに出逢ってなかったら、自分なんかはもしかしたら


しょうもないアニメおたくとか、コミケの通う同人とかになって萌えていたと思う。
そういう意味で感謝している。(なんの感謝かはよくわからない)

ハードコアやオルタナが唯一絶対の審美的価値基準になりえたというのが
90年代の日本の状況であったということは強ち誇張ではないはずである。(ここは独断)

カートは、ブラック・フラッグのロゴを腕にタトゥーするほど好きで、ニルヴァーナの楽曲の特徴を
『ブラック・サバスとブラック・フラッグに犯されたナックとベイシティーローラーズ』
と、これまたわけのわからない譬えで形容している。

大宮のアルシェという駅ビルの5階にハードコアロック専門店があり、
そこで、ブラック・フラッグの『ダメージド』を購入した思い出がある。



格差社会が露骨になった80年代前半のレーガン時代に揺籃した
アメリカのインディーズハードコアシーンを
関係者の証言と当時の貴重なライブフィルムで回顧したドキュメント映画。
いろいろ思い出して、なんだか感想が書きづらい。

前置きを書いているうちに熱い思いがこみあげてきて、
長くなってしまったので、感想は改めて書きたい。


アメリカン・ハードコア [DVD]



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posted by 信州読書会 宮澤 at 14:31| Comment(0) | 洋画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

イギリスから来た男

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★あらすじ
娘を音楽プロデューサーのピーター・フォンダに殺されたテレンス・スタンプの復讐劇。


★感想
スティーブン・ソダーバーグ監督作品。
この監督はハリウッドに魂をまるごと売りながらも
根っこのところでヨーロッパ芸術映画への憧憬をかくせない、
永遠の純文学青年みたいなところがあってでわたくしはきらひである。
よってこの作品も、実に貧乏くさい。

複雑なカットバックが、芸術映画っぽい
かたっくるしい雰囲気を出している。

テレンス・スタンプが主演。

娘想いの父親を演じると、この怪優も
イーストウッドとそっくりで
あまりオリジナリティーがない。


ルイズ・ガズマンはプエルトリコの川谷拓三である。
テレンス・スタンプを脇で喰っていた。
なんか、小学校時代のできの悪い同級生みたいで親しみをおぼえる。

『バニシング・ポイント』のバリー・ニューマンも出ているらしいが
誰がいったいバリー・ニューマンなのか最後までわからなかった。
カーチェイスをしていた人だったのだろうか、
老け過ぎて顔が変わっていて、わからない。


テレンス・スタンプのかつての主演映画『夜空に星のあるように』が
回想シーンでそのまま引用されている。
若き日のテレンス・スタンプがギターを弾いているラストシーンが、この映画の中で一番せつない。
引用が原作よりいいのは困りもんである。


回想シーンに出てくる幼い娘が、『悪魔の首飾り』の毬を持った少女みたいである。

ソダーバーグの懐古趣味に、無理やり付き合わされたような気分でうんざり。

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posted by 信州読書会 宮澤 at 14:29| Comment(0) | 洋画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ビフォア・サンライズ 恋人までの距離


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★あらすじ
アメリカ人の青年ジェシーとフランス人の女性セリーヌは
ユーロトレインの車内で、知り合い、意気投合する。


途中下車して、ジェシーが翌朝の9時30分の飛行機に搭乗するまでの
一夜をウイーンを散歩しながら過ごし、ふたりは淡い恋に落ちる。


早朝の別れ際に、6ヶ月後に再会することを約束し、
ふたりはそれぞれ、帰途の眠りにつく。



★感想
9年後の再会の映画『ビフォア・サンセット』を先に観ていたので、
先ず、イーサン・ホークとジュリー・デルピーの若さに驚く。


占い師に『人生のもどかしさを受け入れなさい』と忠告されるような
ジュリー・デルピーの、意固地なところが痛々しかった。


知性のあふれる女性ゆえに、9年後もなんだか
人生のもどかしさの中で生きており、お気の毒である。


電車の中で『マダム・エドワルダ』を読んでいる時点で、不幸な女性だと思う。



その後、イーサン・ホークに向かって、占い師に対する態度が気に入らない
と突っかかってゆくあたりは、占い師の忠告が図星ゆえの、八つ当たりという感じもした。


イーサン・ホークが占い師を馬鹿にしたのは、ジュリー・デルピーに対する
フォローのような気がしたのだか、そういう風に受け取れない
意固地なところがとこが、なんだかなあという感じである。


もっとも、これは私が男性の立場で見ているからだろう。


河岸で倒れこんでいる詩人の詩句を、
ミルクセーキを当てはめただけじゃないかと揶揄する


イーサン・ホークの態度のほうが、問題じゃないかと思った。


イーサン・ホークが自分を13才の少年のように感じるといい、
太陽を背に庭に水を撒いている時に、死んだ祖母の幻に出逢ったという話を
まじめにするのだが、こういう話は子供っぽいと誤解を受けるであろうから
平素はなかなか、人には語りがたいものだと思う。



そういう話を、茶化さずに語れるところに彼の誠実さとロマンティシズムを感じ、
ジュリー・デルピーの前で、無理に大人っぽく振舞わないところに、
えらく感心してしまった。アメリカ人にもこういう素直でいい奴がいるらしい。

まあ、でも、半年後に来ないわけですよ。かの人は。


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ドリーマーズ


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★あらすじ
パリに留学してきたカリフォルニア出身のボンクラ学生マシューは
友達も作らずシネマテークに入り浸る日々を過ごしていた。


しかし、マルロー文化相にシネマテークの支配人ラングロアが解任され、
シネフィルによってシネマテークは封鎖される。


その騒動のさなかに、マシューはイザベルとテオという
シネフィルのおしゃれ双子姉弟に出会い、映画議論を戦わせ仲良しになる。



親父がゴダール似の大村崑、お袋がアンナ・カリーナという
イビツな家庭に育ったそのおしゃれ双子は、やはり退廃しており、
マシューは、彼らの両親の長期旅行を機に、自宅に招かれ三人で


無軌道きわまるぐちゃぐちゃの共同生活を営む。



★感想
エッフェル塔の“カメラストーラ”から始まるあたりは
『暗殺の森』を思い出して思わず息を呑んだが、
3人でルーブル美術館をかけっこし始めたあたりから2倍速で観た。



『ショック集団』『勝手にしやがれ』『はなればなれに』
『クリスチナ女王』『フリークス』などなどの名場面が引用され、
シネフィル特有の映画ミニクイズがちりばめられているが
おびただしい引用のどれひとつとして、センスがない。



ベルトルッチがボケたせいなのか、観客をなめているせいなのか正直不明。



最後にイザベルがガス管を加えて川端康成みたいに死ぬのかと思いきや、
『少女ムシェット』のラストシーンが引用され相当に鼻白む。


テオが、ジャン=クロード・ブリアリに似ていて良かったが、
イザベル役のエヴァ・グリーンは外タレエジプト人フィフィ似ていて萎える。


ベルトルッチは『ゴダールの映画史』を真似したかったのだと思う。
それだけは痛いほどよくわかったが、もうコイツは終わってるなと思った。


しかし巨匠が晩節を汚しても、腐してはいけないのがもっともな節度ではある。
観客は殿のご乱心をやんわりと諌めるような寛大さと忍耐を試される。
そういう意味で、ベルトルッチファンの踏み絵となるような駄作。

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Pefume パフューム ある人殺しの物語


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Pefume パフューム ある人殺しの物語 


★あらすじ


18世紀フランスの世界中の汚穢が固まったような魚市場で生まれた
私生児ジャン=バティスト・グルヌイユは驚異の嗅覚を持っていた。


絶対音感ならぬ絶対嗅感をもつ彼はやがて香水調合師となるが、
いびつに育ったため愛をしらず、赤毛の少女を街角で殺したのをきっかけに、
フランス中の美女の体臭がエキスとなった天使の香水を作りはじめる。



★感想(以下ネタバレあり)


ドイツの小説家パトリック・ジェースキントのベストセラー小説
『香水―ある人殺しの物語 』の映画化。この小説は世界で1500万部売れたそうだ。

[asin:4167661381:detail]


『ラン・ローラ・ラン』のトム・ティクヴァが監督。


全然期待してなかったけど、原作が良いせいか、かなり面白かった。贅沢な作品。
主人公は、ベン・ウィショー演じるにおいフェチの香水調合師グルヌイユ。


こいつが、『サイコ』のアンソニー・パーキンスと、
嗅覚だけ鋭いが低能のハンニバル・レクター博士を
足して2で割った変態猟奇殺人犯であり、
ベン・スティラーに似たトホホな顔をしている。


★★いい仕事をした役者


・なめし皮職人時代のグルヌイユの親方。顔が怖い。

グルヌイユに、香水調合の手ほどきをするバルディーニ。
ダスティン・ホフマンが演じていたが異様にうまかった。


というか最後までダスティン・ホフマンだと気がつかなかった。
この役は、ドナルド・サザーランドだったら絶対観たくない。


彼がグルヌイユの才能に打ちのめされて階段を上るシーンは、個人的に一番見所だった。
あと、ハンカチに香水を落として、匂いを嗅ぐシーンが麻薬をやっているみたいで笑えた。


・犬 ワンちゃんがいい仕事していた!! どうやって演技指導するんだろう?


・ローラ演ずるレイチェル・ハート=ウッド。馬に乗って逃げる姿だけよかった。


18世紀の下層民を描いた部分は途方もなく汚い。
腐った魚や、ねずみの死骸や、ひきがえる、蛆虫など
大画面で見ていると、ほんとに臭って来る気がした。
吐き気をもよおすが、なぜかどの悪臭も嗅いでみたい衝動に駆られる。
そう考えると、臭いも主人公だとも言える。白人の体臭も主人公。


バルセロナでロケしたそうで、中世の街並がコテコテに描かれている。
セット美術も衣装も、バロック・ロココ趣味が表現されていてこゆい。
豪華な美術だけでも相当な見ごたえがある。
後半の南仏グラースのラズベリー畑も美しい。


その上に、ベルリンフィルの音楽も荘厳で耳朶に心地よい。


見せ場は、中世民衆文化のカーニバルともいえる
750人の集団乱交で、別に官能的でもなく、ただ単に笑えた。
かなりリハーサルして撮影したそうで、なるほど、そんなに下品ではなかった。
ゾリーニの『デカメロン』みたいな陰気な芸術性は皆無である。みんな陽気。



俗説で、赤い縮れ毛やそばかすの女性は色情狂というが、
グルヌイユに殺されて、香水のエキスにされる女性はそんな女性ばかりだった。
フランス革命前夜みたいな、民衆の蜂起を予感させるパワフルな映画であった。


まあ、ほとんどホラー&サスペンス映画。瞳孔ひらきっぱなしで愉しみました。


私は、慢性鼻炎で嗅覚は人に劣るので、臭いに人並以下の関心しかないですが、
目で耳でも十分愉しめるいい映画だなあという感想。
惜しむらくは、会話が全部、英語であったこと。フランス語で撮ってほしかった。





パンフレット参照にしました。香水の薀蓄が満載。読み応えがあって◎
アロマテラピストになりたい人にお薦め。でもないか・・・。


パフューム ある人殺しの物語 [Blu-ray]





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posted by 信州読書会 宮澤 at 13:44| Comment(0) | 洋画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ラストデイズ


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高2なった1994年の4月にカート・コバーンが死んだ。

MTVでカートの追悼番組を見て、ニルヴァーナのファンになり、
最初のバイオグラフィー『病んだ魂―ニルヴァーナ・ヒストリー 』は
書店に予約して購入してむさぼり読んで、影響を受けまくった。
高校時代、わけもわからず汚く髪まで伸ばしたほど。
グランジの影響は、今思い出すと恥ずかしい。



というわけで、青春時代にニルヴァーナには、麻疹のようにいかれたが、
もう自分もカートの死んだ歳より年長になってしまった。
もう、興味もなくなったし、CDも聴かない。感傷もなし。
そういう意味では、私の十代の苦悩は清算されました。



『ラストデイズ』はカートの自殺前の最後の日々に取材した作品。

出来は予想通り、だった。ニルヴァーナのファンほど観ないほうがいい。超早送りで観た。
PVもライブ映像もたくさん出ているので、そっちを観たほうがいい。
衣装は、ライブビデオなどからパクっている。懐かしい気分になった。
キム・ゴードンが出てる。音楽は、サーストン・ムーアが監修。



しかし、生前カート・コバーンは『パルプ・フィクション』に興奮して、
タランティーノに、楽曲提供を申し出たことがあるという。

確かMTVでマークパンサーがそう言っていた。
この逸話を思い出すたびに、カートと映画の相性の悪さを思う。
カート・コベインというのが正しい表記になりつつあるようだ。



ボーイズUメンのPVがテレビに流しっぱなしになるシーンは、
1994年の雰囲気を濃厚に醸し出していた。そこだけは感動した。

ラストデイズ [DVD]


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posted by 信州読書会 宮澤 at 13:40| Comment(0) | 洋画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月13日

インサイド・マン


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★あらすじ

マンハッタンの信託銀行にペンキ職人を装って犯罪グループが銀行強盗に押し入る。

従業員と客40人くらいを人質に取り立てこもる。

人質と犯人は、覆面姿で同じ黒いつなぎを着ているので、区別がつかず、

全員が開放されるが、最後まで人質に紛れ込んだ犯罪グループを割り出せない。

人質全員を、犯罪者として疑うというゴリ押しの尋問も実らず、一般市民を装う犯人を割り出せない。

その上、銀行の預金はまったく奪われていないために犯罪が成り立たない。

事件は、超法規的に解決する。




★感想

ジョディーフォスターが出ているし、監督はスパイク・リーなので観た。

スパイク・リーがすばらしいのは当たり前としても、ジョディー・フォスターはほとんどカメオ出演で残念。



人質に差し入れたピザに、盗聴器を仕掛けて、ロシア語みたいな会話がキャッチされるが

アルメニア大統領、エンバー・ホジャ(実在するのかどうかはネットで調べたが不明)の演説だった。

その演説を解読するために連れてこられた、アルメニア大使館員の女性が、クールで魅力的だった。

彼女は、タバコを吸いながら、デンゼル・ワシントンを手玉に取り、駐車違反のかなりの罰金を帳消しにしてもらう。

そこだけ、強烈なインパクトがあった。



★ネタバレ

人質事件は、銀行頭取の自作自演。

この頭取が、ナチスの資金を戦後どさくさにまぎれて掠め取って銀行を創業した。

貸し金庫に、ナチスにコラボした書類があるので、わざわざ犯罪グループを雇って、

その書類を奪回したという話である。まあ、無理がありすぎる話ではあった。



★「立てこもり」について

立てこもりも、引きこもりも最近の話題ではあるが、

人質と犯罪グループが同じ格好をしていたら、

警察にとっては、これほど難しいことはない。



最近、長時間の立てこもり事件があったが、なぜあれだけ犠牲が出て

射殺しないのかが問題になっていた。

ニュースで歴代の立てこもり事件をダイジェストして、

日本では、立てこもり犯を射殺できない歴史的な経緯があることが説明されていた。



その歴史的な経緯の背景になった事件として紹介されたのが

「瀬戸内シージャック事件」「あさま山荘事件」「三菱銀行人質事件」なのだが、

最近の映像では、「あさま山荘事件」の犯人ももうモザイク無しである。

坂口弘も吉野雅邦も坂東国男も、逮捕直後の映像がそのままテレビに映っていて、驚いた。



「瀬戸内シージャック事件」で犯人を射殺したスナイパーが、人権派の弁護士に

殺人罪で訴えられて、日本では犯人射殺はタブーになった。



「あさま山荘事件」は世論の動向には配慮して(その頃はまだ、左翼に看過し難い支持基盤があった)

犯人を射殺しなかった。



「三菱銀行人質事件」では突入した複数の警察官に同時発砲させて、

犯人射殺の責任をあいまいにするという

なかなか高度な政治判断に基づく解決を選択した。



こんな経緯があって、日本では立てこもり犯をなかなか射殺できない事情があるそうだ。



「インサイド・マン」の話に戻ると、もうアメリカ映画自体が
勧善懲悪を信じられないということを示した映画ではある。

アメリカの政治なんか全部やらせだし。

自作自演の銀行強盗を語るには2時間は短い。結末は尻切れトンボ。


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posted by 信州読書会 宮澤 at 13:08| Comment(0) | 洋画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

バベル


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★あらすじ
羊を襲うジャッカルを駆除するためにライフル銃を購入したアラブ人一家。
その末っ子が、遊びで観光客のバスを撃ったところ、
乗客のアメリカ人観光客が重傷を負う。


テロリストによる銃撃と誤解され、モロッコとアメリカの外交問題に発展する。
この事件に関わる様々な人間模様が描かれる。



★グランド・ホテル形式
典型的な『グランド・ホテル形式』
ホテルの宿泊客の人間模様を描いた映画『グランド・ホテル』から生まれた
同じ場所、事件をめぐってリレータッチで複数のプロットを同時進行させるという形式。


というか、グリフィスの『イントレランス』ほど予算がかからない、


案外リーズナブルなご都合主義の形式だという気が個人的にはしている。
利点は、スターを大量投入してカメオ出演させられる顔見世的な演出が可能。


ロバート・アルトマン監督が得意とした形式である。


『クラッシュ』『マグノリア』『パルプ・フィクション』なども『グランドホテル形式』と言える。
欠点は、個々の物語のテーマが深まらないまま、映画が終わること。


個人的には好きな形式ではない。アルトマンの作品も好きじゃないし。
『バベル』もそれぞれの物語が、投げっぱなしになっていて劇的効果が薄い。
旧約聖書の『バベル』の逸話にならって多言語の世界の憂鬱を描いている。


確かに人間の愚かさと、それ故に生み出される苦悩が提示されていた。
しかしながら、苦悩や愚かさのどん詰まりで、ほかの物語にスライドされるので、
『問題を筋の中で解決する』と言うアリストテレスの提唱した古典主義的な
悲劇の約束を無視してしまっている。よってご都合主義と平板さが目にあまる。


ブラッド・ピットがなぜモロッコに夫婦で旅に出たか(それも幼い子供を置いて)とか
チエコが刑事に渡した手紙の内容とか、暴走したサンティアゴの消息とか
こうしたことに理由も結末もつけないのは、ご都合主義としか言いようがない。


観客が「深く考えさせられた」なんて感想を抱かざるを得ない
押し付けがましさ五ツ星のやっかいな映画である。


こういう映画は、観客を深く考えさせているのでなく、適当な社会問題を
それらしく、投げっぱなしにして、回収しきれていないので
観客が、物語に思いをはせて、結末をつけるお手伝いをしなければならないのだ。
そういう意味で、中途半端、面倒、不親切な作品だと私は思う。



★菊地凛子
演じたチエコは『17歳のカルテ』のアンジェリーナ・ジョリーと役柄がかぶる。
母の死と自らの障害によって心が屈折し、孤独から周囲と暴力的に衝突し、性的好奇心いっぱいの少女。
こういう役柄でアンジェリーナ・ジョリーもアカデミー助演女優賞を受賞している。
チエコだけを描いた作品じゃないと、ちょっと厳しい。せっかくの熱演が報われない。
彼女の苦悩の原因がよくわからなかった。もう少し時間がほしいところ。


★二階堂智
間宮刑事役なのだが、ソニー生命のライフプランナー(保険外交員)かと思っていた。
確か、この人はソニー生命のCM「新しい兄弟編」にでていた俳優である。
「息子の小さな成長にも真剣に向き合ってくれる人」というキャッチコピーが似合う。
猟銃自殺特約の支払いをめぐって、チエコの母親が他殺である可能性を嗅ぎ取り
死の真相に迫る探偵的な設定だったら、面白いのにと思った。


★ブラッド・ピット
電話しながら泣いているシーンはよかったが、彼が絡む話が一番弱かった。
救助ヘリが着てから、アラブ人青年のバスガイドに金を渡そうとして断られるのだが、
ああいうところで、札びらをおおっぴらに渡すアメリカ人のデリカシーのなさが
日本人には理解できない。封筒に入れてそっと部屋に置いてくるべきだろう。


もっとも、留学中の夏目漱石もイギリスでは礼金の渡し方に関する文化がなく、
語学の家庭教師に、直接財布から月謝を手渡さなければならないことに
心理的な抵抗を感じていたらしい
確かそんな話を、どこかで読んだ気がする。
(うろ覚えなので正確かどうかわかりません。すみません。)
文化的な違いなのだろう。そんなところがバベルなんだろう。か?



『ハンニバル・ライジング』を観た後で、辛かった。


問題となったクラブシーンも目がちかちかしてキツイ。

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posted by 信州読書会 宮澤 at 13:06| Comment(0) | 洋画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ハンニバル・ライジング


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★あらすじ
幼い頃に、ハンニバルの妹ミーシャを惨殺した
ナチス・ドイツ将校とリトアニア逃亡兵への復讐劇。
すなわち、ハンニバル・レクターの『成り上がり 青春編』



★感想
細部を語ると長くなり、なおかつ、虚しいのでやめる。
とりあえず「日本が舞台」というのは宣伝的誇張、ほとんど詐欺。
それを期待して観にいく人は、西洋人のステロタイプな日本文化への理解を
目の当りにして、激怒すると思うので、予め注意してほしい。



★内容としては
アゴタ・クリストフの『悪童日記』+スピルバーグの『ミュンヘン』
そこにタルコフスキーの『僕の村は戦場だった』を足してもよい。
かなり陰惨、気が滅入る。



★『ハンニバル・レクター』をめぐる映画ジャンルの変遷について

『羊たちの沈黙』がサイコサスペンスだったのに対して、この作品は完全にホラーアクション。
監督のピータ・ウェーバーは『ゴシック・リベンジ・ウェスタン』と称している。のだそうだ!!


ハンニバルが単独の主人公になってしまったので、推理小説の要素は全部消えた。
目に付くのは、5人を執拗に追いかけて念入りに処刑するハンニバルの歪んだ情熱のみ。


ハンニバルの知的で優雅なダンディズムが、謎解きに絡むことはなくなった。


元精神科医、ダンテ研究家、ウイリアム・ブレイクの愛好家という (なんか大江健三郎みてえだな)
シリーズを彩ってきた知的で、ペダンティックな性格が影をひそめると、
ハンニバルは、単なる親日家の猟奇殺人犯でしかない。


彼が、本作品によってとうとう
ジェイソン、ブギーマン、レザーフェイスという歴代ホラー映画の猟奇殺人犯まで
格下げされたことは、さみしいかぎりである。


○映画のジャンルが変わったことで失われたハンニバルの役割
ジャック・デュボア著『探偵小説あるいはモデルニテ 』という研究書がある。
ここには探偵小説における「探偵」と
アクション小説における「裁き手(超人)」の
基本的役割と存在条件の違いが明確に定義づけられている。


この定義は『羊たちの沈黙』と『ハンニバル・ライジング』における
ハンニバルの役割と存在条件の違いとしてそのまま応用できるので引用する。


★探偵小説の「探偵」=『羊たちの沈黙』におけるハンニバルの役割、存在条件

・特定の技能によって資格付けられた専門家      =元精神科医
・ 事件に対して外在的である(遊戯性)       =収監中のディレッタント
・不在の犯罪者の究明            =女装変態殺人鬼の捜索
・部分的な司法行為             =FBIへの協力
・法を真実とみなす             =クラリスとの司法取引と彼女への献身





★アクション小説の「裁き手」=『ハンニバル・ライジング』のハンニバルの役割、存在条件

・あらゆる事件に通じている素人        =天才的な解剖学研修医、ムラサキの辣腕用心棒
・ 事件に巻き込まれている(情熱)      =睡眠時のフラッシュバックで極度の心悸亢進。
・ 眼前の敵との闘争             =ナチス・ドイツ将校らの殲滅
・ 全体的な司法行為             =戦時下犯罪の犠牲者である妹の仇討ち
・ 法を善とみなす              =レディ・ムラサキへの協力を要請できる


以上のように、ジャンルとしてアクションに退行した枠組みに入れられ、
「裁き手」としての役割と存在条件をもとに活躍せざるをえないハンニバルとなった。
よって、『羊たちの沈黙』にあったような謎解きも
魅力的なペダントリーもなくなり、映画が紋切型の平板なアクションに堕している。
ドイツ将校らをひたすらに処刑していくシーンを連発して、見せ場を作るしかないのだ。

こうなるとただただ、ハンニバルが気の毒。(正確には、アンソニー・ホプキンスが気の毒。)
彼の最大の魅力たる、探偵的な役割が消えうせた。要するに、行動に余裕がない、優雅さもない。
モデルニテ(移ろいやすい現代性)もへったくれない。
むしろ、ハンニバルが歴史ロマンに身を投じる、真面目な悲劇の英雄になってしまった。


さらには、映画作品が、三人称の事件解決から、一人称のモノローグになってしまった。


なもんで、ハンニバルが自白剤をあおって、失われた記憶を呼びさますなんて余裕のない捜索方法が必要となる。
薬物に頼ったみじめな精神分析である。自力本願。後年のハンニバル・レクター剣呑さからは想像できない。トホホ。


映画の結末は、アリストテレスが悲劇における「あわれみを誘うもの」と分類した
「知らずに実行し、実行したあとで取り返しのつかないことを認知すること」という
『オイディプス王』と同様のどんでん返しをもって、オチが付けられている。



ネタバレだが、ハンニバル自身が妹の殺害に深く関与していたという真実を認知して終わる。


非常に問題なのは、隠されていた真実を認知して悶えるハンニバルに
観客は、まったくもって「あわれみを誘われない」ことだ。



あ〜、そうだったんだ。だから人肉愛好家になったんだ〜。
ぐらいの納得しかできないから、そこが大失敗。


まあ、ハンニバルにあわれみをおぼえて、泣かされてしまったら余計失敗だが・・・。


★その他、気になったシーン。
肉屋のポール・モマンがバルザックに似ていて笑った。そこだけ印象に残った。
グロシーンのオンパレードだったが、劇場が最も動揺したのは、ハンニバルの親指縫合シーン。
顔を伏せた女性客の動作が、さざ波のように確認できた。かなり意外な現象だった。

ハンニバル・ライジング 完全版 プレミアム・エディション [DVD]


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posted by 信州読書会 宮澤 at 13:05| Comment(0) | 洋画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

フライトプラン


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★あらすじ

アパートから転落事故死した夫の遺体を

ベルリンからニューヨークに運ぶために

自分が設計した航空機に乗った

航空機技師、ジョディー・フォスターは、

密室状態の客室で愛娘を見失う。



機長やCA,航空保安官に娘の捜索を頼むが、

なぜか娘の搭乗記録すらなかった。

みんなは彼女が妄想の中にいる病人だ、と冷たい眼差しで見遣る。

娘は、夫と一緒に転落死していると機長に知らされるが、

そんなはずはないと怒り狂って捜しまくり、飛行機を爆破する。



★感想

私としてはかなり楽しめたのだが、

アマゾンのレヴューの評価がかなり悪い。



★アリストテレスの三単一の法則 (※「三一致の法則」とも呼ばれる)

アリストテレスの提唱した『三単一の法則』を用いて

『フライトプラン』の脚本は描かれている。

一つの場所、一つの時間、一つの筋という約束の中で

演劇が展開するという古典主義の手法である。



・一つの場所 = 航空機の中

・一つの時間 = ベルリン〜ニューヨークまでの時間

・一つの筋  = 消えた娘を捜し出す



エリア・カザンらが創設したアクターズスタジオのメソッドを裏付ける

主要な演劇理論「スタニスラフスキーシステム」は、

アリストテレスの三単一の法則に則った戯曲の中で、最もその力を発揮する。



要するに、俳優が、戯曲の登場人物の人生を、

彼の過去から現在にいたる精神形成の過程まで

理解したうえで再現することで劇的効果をあげる手法である。



テネシー・ウィアムズの『欲望という名の電車』では、

自らを大農園の貴婦人と偽るブランチの奇矯な振る舞いの原因は、

過去に受けた恋愛のトラウマ(恋人が同性愛者だった。)にあった。



ブランチの現在の性格が過去の因果によってできあがっている。

その性格を作り出した事件を、三単一の法則に従った演劇の中で

登場人物や観客に「ハッ!!」と認知されるというというところに、

悲劇的な醍醐味を求めたものである。



長くなったが、別にジョディー・フォスターはアクターズスタジオ出身ではない。

しかし、この人の役作りの実力が十全に発揮されるのは、

やはり三単一の法則に則った脚本の中で

メソッド的な演技をやったときに限られると思う。



この映画の前半で、ジョディー・フォスターは、

夫の死という現実を受け入れられない女性の悲しみと

それによる精神的な破綻を演劇的に表現している。



だが、後半になって、いきなり誘拐犯が出てくるので、

前半の精神的破綻を演じきった一連の演技が無意味になる。

よって、脚本として破綻してしまっている。

木に竹を接いだような無理矢理の展開になってて、

後半のミステリーの解決はご都合主義が目にあまった。



まあ、結局のところ誘拐犯がハンニバル博士じゃなかったということが、

みんなを激怒させているんじゃないかと思う。

あるいは、ハンニバルが夫の棺桶の中から出てきて娘の捜索を手伝うとか・・・。

そういう展開が、ほしいよねってことなのだろう。



ジョディー・フォスターだけが、いくら迫真の演技を見せても、

その演技を受ける懐の深い俳優が出てこないと、

つまりは、アクターズスタジオ系の俳優をもう一方の対立軸に出さないと、

(例えばアンソニー・ホプキンスとデ・ニーロとか、エドワード・ノートンとか)

ジョディー・フォスターの一人相撲に終わってしまう。熱演が空回り。



そういう失敗例としてこの映画はなかなか興味深い。

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posted by 信州読書会 宮澤 at 13:04| Comment(0) | 洋画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

プライドと偏見


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★原作と比較して

・ベネット家が貧乏。

豚やアヒルを飼っていて、原作よりもベネット家が小汚くなっていた。

アヒルとともにエリザベス追いかけるベネット夫人が哀れだった。

豚の睾丸が大きく映し出されているのだが、無意味なインパクトがあった。



・ダーシー家やダ・バーグ家の大邸宅

これは、原作以上に立派になっていて眼福の至りである。

生涯オースティンが見なかったであろうと推察され、原作でも筆の及ばなかった

豪華な調度品や彫刻が、映画にしっかり描かれていることは、皮肉な気もする。




・2時間でまとめると

やはり、無理がある。

ロンドンでウィカムを捜すダーシーを描いてほしかった。

そのシーンがないとダーシーの男気がよくわからない気がする。



★キャスト

エリザベス→ 原作のほうが気が強い女性だった感じがする。

         キーラ・ナイトレイはあごが出ているのが欠点だが、

         そんなところがエリザらしい気もする。そばかすがあればなおいい。



ジェーン→ もう少し美人の女優を使ってもよかったのではないか?優雅さに欠ける。



ベネット→ ドナルド・サザーランドは『1900年』の変態ファシスト役のイメージが

       頭にこびりついていて、あの顔でベネット役ができるのか疑問だった。

       そんなに悪くなかったが、やはり絵面が汚くてなんだかなあという印象。

       もう少し、知的で紳士の似合う俳優を使ってもいいんじゃなかろうか。



ベネット夫人、コリンズ、キャサリン・ダ・バーグ→原作どおりのはまり役。



ビングリー妹→ 原作の中でも、もっとも高慢で性格が悪いが、そのとおりだった。

          個人的には一番好みだった。



ダーシー → まあ、よかったのかな。もっと高慢でもよかった気もする。



ビングリー → なぜか、横浜フリューゲルスにいたエドゥーを思い出した。

          フリーキックが巧そうな顔をしている。




★感想

原作ではカードゲームに興じたり、ダンスしたりしながら、ベネット家での

恋の駆け引きがあるのだが、全部省略されている。それが残念。



しかし、舞踏会のシーンなんかはなかなかよかった。

でも結局、後半は耐え切れずに2倍速で飛ばしてしまった。


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posted by 信州読書会 宮澤 at 13:03| Comment(0) | 洋画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ロスト・イン・トランスレーション



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★あらすじ
サントリーの「響」のCMに2億円で出演し、東京に撮影にきた俳優(ビル・マーレイ)と
カメラマンの夫に同伴して来日したアメリカ人女性(スカーレット・ヨハンソン)が
新宿のパークハイアットホテルのバーで出会い、淡い恋に陥る話。



★感想
最近、『吉本隆明対談選 』を読んでいたら、
昔ネスカフェのCMに出ていた阿川弘之について大西巨人が言及していて面白かった。
ネスカフェ風の「違いのわかる男」として阿川弘之の立場にあたる西洋の作家は、
例えばイギリスでいえば、イーヴリン・ウォーにあたるのだろうが、
ウォーがネスカフェのCMにでるだろうか、おそらく無礼なことをいうな、
と言って断るだろう、と大西巨人は皮肉っていた。



なんでこんなことを思い出したかというと、この映画のワンシーンに
アメリカ人の若い女優(キャメロン・ディアスがモデルらしい)が、
ホテルにイーヴリン・ウォーの偽名で泊まっているというエピソードあったからだ。


その知的ぶる若い女優を、ウォーが男性作家なのを知っているのかしら、と
これまた哲学専攻という設定のスカーレット・ヨハンソンが鼻でせせら笑うのだが、
これが、ろくなプロットもないこのグダグダ映画の結構、重要な伏線になっている。



この映画は、まさしく「違いのわかる男」たる知的紳士気取りのアメリカ俳優が、
東京にやってきて現代日本の消費社会や知的生活の空洞に触れて
うんざりし、嫌悪感にやるせなくなるというシーンが満載である。
なんだか日本社会を馬鹿にしきっている気がして、嫌な後味を残す映画だ。


現代の空虚な東京を批判する視線が、
アメリカ社会の自己批判の視線にもつながることに
監督のソフィア・コッポラが、気づいているのかが不安である。


アメリカ人が、旧主国のイギリス人の伝統を笠に着て、
東京の文化的な愚劣さを批判するのはナンセンスだ、と
私は思わず愛国精神丸出しで激怒してしまった。



そういうことをしたいなら、ハリウッド俳優ビル・マーレイでなくて
イギリスのシェイクスピアの舞台にでもでている俳優を使うべきだろう。


サントリーだってウイスキーの宣伝にはそういう俳優を選ぶんじゃないか?
(というか『ゴーストバスターズ』にでてたビル・マーレイがこんな文化人ぽい俳優になったのにビックリ。)
しかし、ソフィア・コッポラがこの映画でアカデミー賞脚本賞を受賞。ええっ!!


まあ、そんなところに目をつぶれば、
スカーレット・ヨハンソンが新宿のカラオケボックスで歌うシーンなどがあり面白かった。
カラオケが下手くそで、なんとなくかわいかった。
しかし、後半は二倍速で飛ばて観た。おしゃれアイテムのような映画。

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ビフォア サンセット


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イーサン・ホークとジュリー・デルピー主演の映画です。
9年後に再会したアメリカ人とフランス人の男女の会話を90分撮りあげたもの。



ある50代の中年紳士に酒場で薦められて観ました。
中年男性の過去の甘い思い出を、古傷が疼くがごとく刺激するようです。



小説家になって名をなしたアメリカ人イーサン・ホークが、
小説のプロモーションで、フランスの小さな書店に来ます。



その小説のモデルとなった、フランス人女性(ジュリー・デルピー)が、
その書店に現れて、イーサンホークが帰国のために空港へ行くまでの
二人の短い再会の時間を描いています。



ふたりで9年間の空白を会話で埋めていくのですが、なかなか生々しい会話でした。


ジュリー・デルピーが、こんなにしゃべっているのをはじめてみました。
東欧へ旅行に行って、共産主義国は物欲がなくてすがすがしいと語りながら、
左翼ちっくな一面をひそかに炸裂させる環境保護団体勤務のジュリー・デルピーは、
正直、あまりタイプではないです。

観光客用の遊覧船でセーヌ川を下るシーンが素敵でした。
カフェで、イーサン・ホークがジュリー・デルピーにタバコをもらうシーンが印象的でした。




じつは、9年前のふたりの運命的な出会いを描いたこの作品の
前編にあたる『ビフォア・サンライズ 恋人までの距離 』の存在を
恥ずかしながら知りませんでした。



ラストで、やけぼっくいに火がつかなくてよかったです。
えっ、これで終わり!! って感じでした。


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ディパーテッド


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スコセッシの映画は「アビエイター 」を観にいって途中で退出したのと、
「私のイタリア映画旅行 」をDVDで借りて途中で放棄した以来です。



編集のテンポはいいし、音楽もまあまあだし、会話も饒舌だし、
「グッドフェローズ」や「カジノ」のころのスコセッシにやや回復した映画でした。



2時間以上見続けることができてよかったです。
当初はたぶん途中で帰るかなと思っていましたが、最後まで観られました。



マフィアの潜入捜査官と警察側の内通者の攻防を描いています。
ジャック・ニコルソンの怪演もあってかマフィアに肩入れして観てしまいました。
全般的にジャック・ニコルソンがやりすぎなんですが、さっさと話が進んでいくので
いやらしい感じがあまりしなかったです。『魔の山』のペーペルコルンみたいでした。
ジャック・ニコルソンVSマーティン・シーンがなかなかの見ものです。
マーティン・シーンがビルから落とされたときもザマミロと思って観てました。




ディカプリオもマット・デイモンも嫌いな俳優なので、感情移入できないですが、
プロットがしっかりしているので、まったく気にならなかったです。
携帯電話の使い方がすごく巧いので感心しました。



なんというか、ラシーヌの『アンドロマック』みたいなもので、連立方程式が解けるみたいに
ラストに向って全員死んでゆくという陰惨な悲劇になっています。



生き残るアンドロマック役の精神分析女医のべラ・ファーミガがTV向けの女優でいまいち。
もっと妖艶でスタイルのいい美人をつかってほしかったです。
なんか片岡礼子に通じる景気の悪い、
こういっちゃ失礼ですが、老けた小動物みたいな女優でがっかりでした。



香港映画「インファナル・アフェア 」のリメイクだそうです。
「インファナル アフェア」は観ていないので、レンタルしようと思ったら
DVDはみんな借りられていました。しかたなくビデオで借りましたが。
『ディパーテッド』を観るとオリジナルも観たくなる映画です。



みんな裏切り者なので、見終わってのカタルシスは乏しいです。
特に、主人公のディカプリオの最期は、おいおい、って感じです。
ディカプリオのファンはたぶん怒り狂うと思います。



マーク・ウォールバーグが最後に頑張りますが、
あんたががんばってもなぁ〜という、腑に落ちないラストです。
マーク・ウォールバーグが、ディカプリオをつるし上げるシーンが一番印象的でした。
デシカプリオがホーソーンを引用して「家族の興亡がなんたらかんたら」とのたまってました。
ディカプリオが精一杯、知的に振舞っているシーンでした。
それを「次はシェイクスピアの引用か? 欧米か?」と腐すマーク・ウォールバーグの
タカ アンド トシみたいなつっこみと、感情的な放屁がかっこよかったです。





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ラベル:スコセッシ
posted by 信州読書会 宮澤 at 12:33| Comment(0) | 洋画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

世にも怪奇な物語 第3話 『悪魔の首飾り』


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★あらすじ(正確かどうかは自信なし)
英国の俳優トビー・ダミットは、聖書の贖罪を西部劇化するという企画のためにイタリアに招待される。
彼はアル中で幻覚に悩まされ、赤い鞠を持った少女を何度か見る。


ダミットは、幻覚症状のせいか明るい場所でとりみだす。
TVやパーティーなどライトのあたるところでは奇矯なふるまいをみせる。


イタリアでのダミットの唯一の願いはフェラーリに乗ることだった。
パーティーが終わるとすぐさま、フェラーリをブッ飛ばし、
酩酊したまま深夜の暴走ドライブを楽しみ、道に迷う


やがてハイウェイさしかかると、道路は寸断されていた。



ダミットは、ハイウェイの向こうにいる赤いボールを持った少女に笑顔に誘われて
寸断された道路の向こう側に向かって、猛スピードでフェラーリを疾走させる。



しかし、道路上には鉄の棒が渡されていて、ダミットの首が刎ね飛ぶ。
フェラーリは闇の中へ消える。少女は、道路に転がった首を持ち去る。

最終部分の動画






★感想
フェリーニっぽく、映画界のブルジョワ的頽廃がよく描かれている。
頽廃の中で、テレンス・スタンプは、ハムレットなみの精神崩壊を
巧みに演じて光っている。ただ、期待したほどではなかった。


なんかテレンス・スタンプがヘルムート・バーガーっぽかった。
ブルジョワの頽廃を演ずる男優は
なべてヘルムート・バーガーにたどりつくのが摂理である。



だが、パーティーの舞台でテレンス・スタンプが、『マクベス』第五幕第五場の
「人生は歩く影だ〜」という有名なセリフを叫ぶシーンは素敵だった。






Life's but a walking shadow; a poor player,
That struts and frets his hour upon the stage,
And then is heard no more: it is a tale
Told by an idiot, full of sound and fury,



人生は歩く影法師にすぎない。大部屋役者ほどの存在感。
舞台で自分の出番がくれば、大声で色めきたっても、
袖に入れば、それっきり、誰も覚えてない。おとぎ話だ。
怒号に満ちた、ひとりのきちがいのわめきでしかない。
(以上、超意訳)


以上のセリフを獅子吼してテレンス・スタンプ卒倒していた。



↑2分12秒からマクベスの一節を朗読するテレンスさん。


Wikiによるとフォークナーの代表作『響きと怒り』は
このセリフの“sound and fury”に依るらしい。




まあ、ポーが原作というよりもハムレットが原作といった趣の映画だった。



不思議な後味は、フジテレビの『世にも奇妙な物語』にそっくりだった。
タモリが出てこないのが、さみしいくらいである。

世にも怪奇な物語 HDニューマスター版 [DVD]

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posted by 信州読書会 宮澤 at 12:28| Comment(0) | 洋画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

少女ムシェット 


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ロベール・ブレッソン監督作品なんですが、どうしようもなく陰惨な映画でした。
父がアル中、母が寝たきりで、乳飲み子の世話や家事をしながら学校にいったり、バイトしたりの
14歳のムシェットという少女が、森の中で密猟者アルセーヌに暴行されて、母も死んで、
なおかつ村人からも疎まれて、みずうみに遊ぶようにして転げ落ちて自殺するという話です。



ムシェット演ずるナディーヌ・ノルティという少女は、ネットで調べてもこの作品しか出てません。
この作品が遺作なのですかね。
撮影後死んだとしか思えない、ただならぬ薄幸っぷりをみせつけています。



ナディーヌ・ノルティーが、大人から叩かれたり、無表情に涙をこぼしているのを見て
誰かに似ているなあ〜とずっと思っていたんですけど、思い出しました。
『ケープ・フィアー』や『ナチュラル・ボーン・キラーズ』に出てた
ジュリエット・ルイスに雰囲気が似てます。



顔つきが幼いわりに、くちびるがやけにポッテリしていて、
目つきが反抗的かつ淫蕩。手足が長くて発育不全。
こういう少女は、うわべだけ良心的な大人からなぜか無意識の敵意を浴びて、
オヤジの無遠慮でスケベな視線にさらされる。ジュリエット・ルイスもそんな感じでした。
本人も、周囲の敵意をを自覚するから、なおグレるという悪循環に陥るあばずれ度の高い少女です。
なもんで、ムシェットが学校でも女教師に叩かれたり、
近所のおばさんにいやな目で見られたりするのに説得力がありました。



こういう感情移入できない少女の陰惨な物語を撮りあげるブレッソンの狂気が怖かった。
原作はジョルジュ・ベルナノス。『田舎司祭の日記』と同じなんですね。
学生時代映画を一生懸命観てたときに、ブレッソンの『スリ』とか『ラルジャン』を我慢してみてました。



この前、トルストイの年表を見て、『にせ利札』を読んだことを思い出したんですけど、
何でこんなマイナーなの読んだんだろうと、まったく思い出せずにいました。
『少女ムシェット』を観ながら、『にせ利札』は『ラルジャン』の原作だったと、ハタと気づいた次第です。
どっちもすごい省略した編集で、セリフも最小限で変な迫力があったから思い出したようです。
『ラルジャン』があまりに面白かったので原作を読んでいたようです。すっかり忘れていました。



『少女ムシェット』のほうが『ラルジャン』よりも暴力描写が多くて、
5分に1回は登場人物が殴られたり、倒れて後頭部を打ったり、耳や鼻から血を流していました。
暴力描写で初期のビートたけしの映画がよくブレッソンと比較されていたのを思い出します。



最後のウサギ狩りのシーンは圧巻でした。ルノワールの『ゲームの規則』と並びます。



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ラベル:ブレッソン
posted by 信州読書会 宮澤 at 12:12| Comment(0) | 洋画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

トロイアの女


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トロイアの女 [VHS]


レンタルビデオ店のクラシックコーナーにひっそりと並んでいたので観ました。
エウリピデス原作でサルトルの仏語訳で有名な『トロイアの女』の映画版です。
荘厳に見せようとするあまりチープさが逆に目立っていました。
演劇をそのまま映画化した感じで独創性ナッチングです。



監督はミカエル・カコヤニスというギリシア人でアメリカで製作されました。
この監督は『エレクトラ』『イフゲニア』も映画化しています。
へカベは、キャサリン・ヘップバーン、その他の役を演ずるのは、はじめて観た女優ばかり。

アンドロマケ役のバネッサ・レッドグレイブが一番きれいでした。

女優の美の競演以外みどころなし。というかマイナーな女優ばっかでがっかり。
あまりにも退屈なので、早送りでみました。

ギリシア悲劇の映画化といえばパゾリーニの『王女メディア 』『アポロンの地獄 』が有名ですが、
パゾリーニくらいのスキャンダラスな毒気がないと見ごたえがないなと思いました。

『王女メディア』のマリア・カラス迫力があったような気がしますが、
相当前に見たので内容はほとんど憶えてません。
感傷的な誇張かもしれません。



最後のほうで『人は生まれた場所で死ぬ』ってセリフがあったのは『アポロンの地獄』だったか?
なんかその場面にインパクトを受けた記憶があります。


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posted by 信州読書会 宮澤 at 12:08| Comment(0) | 洋画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月11日

硫黄島からの手紙


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最近『昭和の劇―映画脚本家・笠原和夫 』という本を読んだ。
この映画を観ている途中に思ったのは、太平洋戦争にあれだけこだわった
笠原和夫がまだ生きていて、この映画を観たらどういう感想をもったかなということだった。



栗林中将は渡辺謙ではなくて高倉健にしたほうがいいとか思うのではないか。


『父親たちの星条旗』を観たときに『硫黄島からの手紙』の予告編を観て
ちょっとまずい映画なんじゃないかなと思ったが、
実際に映画を観てみると、その予感は半ば当たって、半ばはずれた。


アメリカ人が作った日本映画ということでは実によくできていると思う。
それぞれの登場人物が個性をもっていて、
彼らの個人的な背景を浅いながらも描きこんだことでドラマを作っている。


集団ではなく、それぞれの兵士にスポットを当てて描いた点では
『父親たちの星条旗』の方法を踏襲している。
要するに、戦闘シーンだけでなく人間関係の綾を丹念に描写して、
ストーリーに厚みを出そうとしていた。
二宮和也の演ずる西郷パン屋や加瀬亮の清水元憲兵は、彼らの因縁と
悲哀に満ちた運命がよく描かれていたし、またよく演じていたとも思う。
唯一、彼らには貧困の面影がないのが欠点だろう。致命的な欠点だと思う。



西郷が埼玉の大宮ではなく、例えば秋田出身ともなれば、
故郷の貧困、ひいては日本の貧しさが主題となり、あんなにも厭戦的にはならず
絶望的な状況を打開するためで兵隊として闘わざるをえない
宿命的な悲劇を背負った人物として描かれたのではないかと思う。
満州や中国戦線を描けば、そういう主題は避けられないはずなのだが。



戦争に対してシニカルに構えてみせる西郷は、
造り酒屋の放蕩息子みたいな風情で、現代的だった。
父と子の関係などではなく、ましてや閣下と二等兵でもなく
ハイカラな放蕩息子がアメリカ帰りの栗林中将のスマートさに惹かれるという
図式でしか私には感じられなかった。
西郷のような兵士はストーリー展開の狂言回しとしては成り立っても
一兵隊としては、最後まで腑に落ちない存在であった。アメリカ人にはわかりやすいだろうが・・・。
そういう意味ではアメリカ映画だ。



渡辺謙演ずる栗林中将も、一本調子の熱血漢に描かれており
最後の最後まで追いつめられた司令官の孤独というものが希薄だった気がする。
洞窟の壁と向かい合って狂気すれすれで堪え忍ぶ姿をもっと描いて欲しかった。


天皇陛下の問題も大東亜戦争の理念も回避されているし、
祖国防衛戦争一色で押し切って描かれていて
日本人や日本人の精神を、決して総体としては捉えきった映画ではない。
「天皇陛下万歳」と叫ぶときの栗林中将の目が異様なまでに狂信的だったことと
手榴弾による集団自決の場面とが辛うじて日本人の総体に触れた気がしたくらいである。


国学者である折口信夫の養子の折口春洋がやはり硫黄島で戦死している。



その魂を鎮魂するために折口こと釈超空は
『倭をぐな』という歌集で『竟に還らず』と題した連作の歌を詠んでいる。
その連作はそれで、興味深いのだが、昭和五年に詠まれた歌がある。




みなぎらふ光り まばゆき
       昼の海。
      疑いがたし。
      人は死にたり




この歌を私はずっと硫黄島で死んだ折口春洋への悲歌だとおもっていたのだが、
映画を観て帰ってきて調べたら、勘違いしていたことが判明した。



しかし、この歌に込められた死者への複雑な思いや祈りが
『硫黄島からの手紙』には全く欠けていた。
アメリカ人が撮った映画なので仕方ないが、無念でならない。




栗林中将が手紙にしたためた辞世の歌
『国の為重きつとめを果たし得で 矢弾に尽き果て散るぞ悲しき』
これは祖国への慟哭の痛切な響きを持っている。



この歌に応えたのは、映画の冒頭にちらと映る
硫黄島に建立された岸信介による慰霊碑だけである。


畢竟、この映画全体は、鎮魂歌足りえない。少なくとも私にはそう思えた。




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posted by 信州読書会 宮澤 at 11:50| Comment(0) | 洋画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

暗殺のオペラ 


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暗殺のオペラ [VHS]

暗殺のオペラ《70伊》
久々に観直してみた。ベルトルッチの作品では『暗殺のオペラ』が一番だと思う。

ベルトルッチ作品で好きなのは『暗殺のオペラ』と『暗殺の森』
『ラストタンゴ・イン・パリ』なのだが、後者のふたつは、
最初に観た時はけっこう感動したけれど、観直したときに、かなり興ざめした。


『暗殺の森』は耽美主義全開で観ていて、恥ずかしかったし、
『ラストタンゴ・イン・パリ』は主演のマーロン・ブランドに頼りすぎている。
マーロン・ブランドの過剰な小芝居に嫌気がさす。
マーロン・ブランドや勝新太郎なんかの名優といわれる役者の
あまりにも役者的な小芝居が、うまいんだろうけど、なぜか年々観るに耐えなくなる。



原作はボルヘスの『裏切り者と英雄のテーマ』である。『伝奇集』所収。
これは、ボルヘスのメタフィクションで、原作は8ページほどの掌編である。



アイルランドの謀反人キルパトリックの孫であるライアンが、
祖父の英雄としての栄光を伝記にまとめる作業を始める。


当時、キルパトリックは配下のノーランに革命の裏切り者を調査させたのだが
その結果、キルパトリック自身が革命の裏切り者であることを発覚してしまう。


キルパトリックは自ら裏切り者の死刑宣告書に署名して、
自作自演の英雄の暗殺劇を演じて、自らを英雄にする計画を立てる。
暗殺劇のシナリオはノーランが創作するが、時間がないのでやっつけ作業となる。


『マクベス』と『ジュリアス・シーザー』の場面を模倣し、
劇場内で暗殺されるという英雄にふさわしい死を演出する。


ライアンはノーランによる、シェイクスピアの模倣を、「劇的な味わいを欠いたもの」を感じるが、
これこそが、キルパトリックが裏切り者であったことをほのめかすノーランの筋書きだと気づき
ライアン自身が、ノーランの目論見に荷担していることを、逆説的に自覚して終わる。
こういう、かなり手の込んだまことにめんどうくさい筋の作品である。



映画版は、反ファシズム闘士アトスの暗殺の真相を、その息子が調べるという筋立てである。
原作にはでてこない、アトスのかつての愛人役をアリダ・ヴァリが演じる。
アリダ・ヴァリはずいぶん老けているのだが、目ぢからがハンパじゃない。


口もとが耳に向かって切れ上がっていて怖いが、日に焼けた顔がかなり妖艶である。
アリダ・ヴァリが、かつての愛人の面影を、その息子に見出して、もだえるという設定である。
父の愛人を創作したところにベルトルッチの野心的なオリジナリティーを感じる。


アトスのかつての同志である三人の爺さんも味わい深く描かれている。
ハム屋の亭主がバード・ヤングみたいで、個人的にかなり好きだ。


その後ベルトルッチが多用して、自己模倣に陥ってゆき観客がうんざりする
トンネルや自転車や布(さらし、映画館の幕、ライオンを捕獲する黒い布)のテーマが
まだこのころは、初々しく使われていていて、新鮮な印象をうける。


ムッソリーニがタラという小さな街にくるという噂が広がる。


その際に、暗殺しようと計画を立てるが、アトスが密告して計画はご破算になり、
そのためアトスが自分自身を暗殺するという話になり、同志に向かって
「俺を殺せ、裏切り者は死んでも裏切る 殺すなら英雄を殺せ!!」と主張する。
かくして、『リゴレット』上演中にアトスは暗殺されるのだが、


低予算映画なので残念ながら『リゴレット』の上演自体は映画の場面には出てこない。
それでも、自然光をふんだんにとりいれた美しいシーンの数々は、眼福の至りである。





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posted by 信州読書会 宮澤 at 11:17| Comment(0) | 洋画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

王女メディア パゾリーニ監督 

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パゾリーニによるエウリピデスの悲劇『メーデイア』の映画版。
メディアは世界的オペラ歌手、マリア・カラスが演じた。


以前観たときは、『メーデイア』を読んでいなかったので、
映像詩と思って(背伸びして・・・)観ていたが、
原作を読んでから観るとといろいろな感慨をおぼえた。


まず、パゾリーニは原作をずいぶん大胆に翻案している。
劇の筋は無視しているといってもよい。もし、エウリピデスが観たら怒んじゃないか思う。


前半である第一部において『金毛羊皮』をイアーソーンが強奪する話で40分を使っている。
これは原作の悲劇の解説なんかに触れられている話であって、悲劇の背景の話でしかない。
「アルゴー船物語」というイアーソーンの金毛羊皮による王座奪還の物語があるらしい。



抒情詩人ピンダロスが『ピューティアー讃歌』で歌い上げた物語だそうだ。読んでないけど。
そういえば、講談社文芸文庫にアポロニウスの『アルゴナウティカ』というのが入っている。




まあ、そこをいちいち映像化するのに、パゾリーニは、ずいぶんと贅沢に時間を使っている。
よって第二部の原作悲劇は、時間もないのでポンポン省略していてメディアとイアーソーンの
夫婦喧嘩のシーンは取っ払っている。アイゲウスは出てこないし、メディアの竜車もなしである。


メディアの故郷であるコルキスでの場面は、トルコのカッパドキアでロケが行われたそうで、
ほとんどイスラム文化を採用して描かれていて、民衆の衣装もかなりゴテゴテしている。
この辺のパゾリーニの戦略の解釈は浅田彰と四方田犬彦の対談『パゾリーニ・ルネッサンス』に詳しい。
『批評空間U−21』に入っている。(『批評空間』なんて雑誌あったなあ〜懐かしい。)

批評空間 (第2期第21号)


下半身があきらかにハリボテのケンタウロスが出てきてよく意味がわからない。笑えるけど。
冒頭の人身御供シーンで若者が切り刻まれてバラバラにされたり、
金毛羊皮を盗んだ青年(この役者はよくパゾリーニの映画に出てくる)が首を切断されたりと
パゾリーニのお約束ともいえるグロテスクな残虐シーンがある。気持ち悪い。
また、イアーソーンがメディアを乗せるアルゴー船の「いかだ」も魅力的に作られている。楽しい。


第二部になってようやく原作の話が始まるのだが、
まず、メディアの妄想のシーンから始まる。子供にクラウゲーへの贈物の衣装を渡して、
それを着たクラウゲー(なぜか中国系の女優がやってる。)が、
火達磨になって城の中庭を走り、城外まできて倒れる。
それを追いかけてきた父のクレーオンも火達磨になる。ここまでがメディアの妄想。原作どおり。



そのあとで、クレーオンがメディアに「コリントスから子供と一緒に出ていけ!」
といわれ追放されるシーンがくる。ここも原作に忠実。


そこからまたもや、実際のクラウゲーへの贈物のシーンが繰り返される。
クラウゲーとクレーオンの最期は城壁から飛び降り自殺するというシーンに差し替えられる。
火達磨のシーンを飛び降りのシーンに変えたのに何の意味があるんだかは不明。
そのシーンの後にメディアの顔が何度もオーバーラップするのも、奇妙。
この辺に、エウリピデスの原作に飽き足らないパゾリーニの過剰な創作が炸裂する。


そして、ナイフによる子殺しのあとにメディアが城に火を放つ。これも原作の完全無視。
最後に、燃えさかる城を背景に子供の遺体を抱いたメディアとイアーソーンが口論して終り。
ちなみに最後のシーンで怒り狂っているマリア・カラスは、マジで怖い。ちびりそう。


パゾリーニのやりたい放題であるが、やっぱり面白かった。改めて観ても面白い。
この作品を見てしまうとメディア=マリア・カラスとしか考えられなくなる。そのくらいはまり役。


パゾリーニによるギリシア悲劇の読み替えと考えれば、文化的価値は相当高い。
まあ、文化的価値に今さら何の意味があるのかと問われれば、私も答えに窮するのだが・・・。


王女メディア HDニューマスター版 [DVD]


鬼才ピエル・パオロ・パゾリーニ 3枚セットDVD ~生誕90年特別限定セット~
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posted by 信州読書会 宮澤 at 11:12| Comment(0) | 洋画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

カポーティ


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カポーティの作品については本ブログでも紹介した『遠い声遠い部屋 』しか、
読んでいないが、今回フィリップ・ホフマン・シーモアがカポーティを演じ
アカデミー賞主演男優賞を受賞したということで観に行ってきた。


フィリップ・ホフマン・シーモアの出演作品はいくつか観ているが、
『ブギーナイツ 』『マグノリア 』での彼の印象は全くなくて、
はじめてすごい役者だなと思ったのは
スパイク・リー監督、エドワード・ノートン主演の
『25時 』を観たのがきっかけだった。


『25時』は『ミステック・リバー』に近い設定の幼馴染3人もので泣ける映画だった。
シーモアの役どころは、確か、さえない高校教師で、ノートンにクラブに連れてかれて、
そこであった教え子の高校生に手を出すというどうしようもないダメ人間だった。
ここまで、狂っているダメな人間を演じられるのはかなりの役者だと思った。



この映画でもカポーティの狂った内面を、かなりの実力で演じていていた。
それ以上に、ほかの役者も渋い面子が揃っていて眼福の至りという感じだった。



とくに、カポーティの幼馴染で、取材協力者のネルを演じた
キャサリン・キーナーという女優を知ったのが大きな収穫。
かなり知的で格好いい女優だった。
なんだか、カサヴェテスの映画に出ていてもおかしくないような味のある演技派だ。


内容はノンフィクション・ノベル『冷血』の創作過程を映画化したものだが、
ノンフィクションにおける作家と取材対象との距離感が主題の映画だと思う。



カポーティは、殺人犯ペリーと生い立ちの不幸さを共有し、
彼に弁護士を雇ってやるなど、真摯な態度を装って、
取材対象のペリーを騙くらかし、彼の内面まで入り込み取材を敢行する。



そしてカポーティが彼の信頼を得るために雇ってやった弁護士のせいで裁判が長引き、
彼に本気で救ってくれと頼まれ、助力をあてにされるにいたって、
カポーティは、取材対象に感情移入しすぎて距離感がとれなくなったことに気づく。



ペリーを騙して取材した以上、早く死刑になってもらわならなければ、
作家として『冷血』を完結できないというジレンマに襲われるのだ。


個人的な良心の呵責と作家活動の焦燥感のはざまで
自分自身を見失って、カポーティは衰弱し、アルコールに溺れるが、
最終的にはペリーの絞首刑の瞬間を見届け、作品を完成させ、同時に深い心の傷を負う。
ノンフィクションってバランスをとるのが大変だなというのが一番の感想です。


ノンフィクション作家の井田真木子も取材対象にのめり込み過ぎて、距離がとれず
そのせいでアルコールに溺れて亡くなったというのを福田和也が指摘していた。


佐野眞一の著作も、『カリスマ―中内功とダイエーの「戦後」 』では取材対象の中内オーナー対して
強烈に惹かれつつも敢えて筆誅を加えて客観的になろうと
必死になっている様が見受けられた。(彼の作品は大体そういうジレンマがある)



取材対象の懐に入り込み、なおかつ裏切って客観性を保持することでしか
ノンフィクションの作品性が成り立たないというのは気の毒だし辛い。
そういう意味では、ノンフィクション作家にはかなり精神的なタフさが求められる。


多くの関心を集め、読んでハラハラするノンフィクションというのは
それだけ多くの代償を払って描かれているという意味で両刃の作品なのだと思う。


小説家から出発したのに、ノンフィクションに追い込まれたというのが
カポーティの悲劇であり、常に孤独で、名声を受けてスポットライトを浴びなければ
生きていけなかったという焦りが、彼の悲劇の原因ではないかと思った。
決してドラマチックな映画ではないけれど、お薦めです。


カポーティ コレクターズ・エディション [DVD]





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ラベル:カポーティ
posted by 信州読書会 宮澤 at 11:06| Comment(0) | 洋画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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