信州読書会 書評と備忘録

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カテゴリー:ドイツ文学

2013年07月25日

みずうみ・人形つかい シュトルム 角川文庫


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みずうみ・人形つかい (1968年) (角川文庫)



★「人形つかい」あらすじ
両親に大切に育てられた職人の息子がパウルは、
興行にやって来た人形劇の旅芸人の娘リーザイとつかのまの友達になる。
彼は、人形のカスペルルに魅了され、無理にリーザイに頼んで
見せて貰うが、勢い余って人形を壊してしまい、公演に支障を与えてしまう。


大人に叱られないためにふたりは劇場の地下の空箱の中で一夜をともにする。
(このシーンは途方もなく美しい。)
大人たちは彼らを探し出して寛大に許し、カスペルルは無事に修理される。



12年後徒弟修業中のパウルは、とある街で泣き叫ぶリーザイと再会する。


リーザイの父ヨーゼフが泥棒の濡れ衣を着せられて入獄させられていたのだ。
パウルは彼らを助け、旅芸人から廃業させ、身寄りのないリーザイを妻として
彼女の父とともに故郷に迎え幸福な生活を営む。
ヨーゼフは、人形劇への未練を捨てられず、
ある日再び興行を打つが、ならず者に邪魔されて失敗し、失意の中で亡くなる。


人形劇をとおして、さまざまな感傷的な物語が語られる。
エピソードは、家庭的な愛情に包まれていて、すべてが切なくなるほどに美しい。


周囲の期待感と別れ予感の中で暮せない旅芸人の刹那の輝きがよく表現されている。
旅芸人を敢えて妻に迎えて、世間の偏見に立ち向かいながら
幸福な生活を築き上げるパウルの勇気が感動的だ。


市民社会のささやかな幸福を追求した名作。かなりお薦め。
絶版だが、古本屋の入り口の棚あたりにて50円ぐらいで売られていると思う。
士郎正宗原作 押井守監督の劇場アニメ『イノセンス 』とは何の関係もない。あしからず。

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posted by 信州読書会 宮澤 at 08:58| Comment(0) | TrackBack(0) | ドイツ文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月13日

魔の山 トーマス・マン 岩波文庫 その一

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★あらすじ
平凡無垢な青年ハンス・カストルプは、結核治療中の従兄弟
ヨーアヒムを見舞うためにスイスの高原の国際的なサナトリウムを訪れる。
三週間の予定だったが、本人も罹患していた発覚し、七年間の療養生活が始まる。
ロシア人夫人ショーシャへの熱烈な片思い。
貴族的人文主義者にしてフリーメーソン団員のセテムブリーニ、
その敵役たる反ユダヤ資本主義で、テロ容認主義者、ファシスト、イエズス会会員のナフタ、
植民地の王者的資本家にしてショーシャの愛人ペーペルコルンとの討論
などなどによって、ハンスは翻弄されてゆく。


最後は、治癒しないままに平地へ帰還して、第一次世界大戦に従軍し
激しい戦闘の最中「菩提樹の歌」口ずさむハンスの「行動」が作者によって語られて終わる。



★感想
マンの教養小説。「ドイツ最後の」と冠されるべきかの判断は、一応留保したい。
あらすじをまとめることでネタバレするのが惜しい。
他の作品ではネタバレなんぞ一向に気にしないのだが、
この作品は、皆さんに味わって読んで欲しいので、あんまり書きたくない。




まず、マンの作品は岩波文庫で読むべきだと主張したい。
北杜夫先生の恩師望月市恵&関泰祐の両氏による訳は読みやすい。
新潮文庫の訳はどうか知らないが、圓子修平氏の訳では読まないほうがいい。


こんなに翻訳者によって登場人物の躍動感が左右される小説もめずらしい。
結局、思弁小説的な部分が多いところに由来するのだろう。



読了に2ヶ月かかってしまった。
その間一週間以上『魔の山』を読めない期間が二度ほどあった。
読もうとして眩暈を覚えることが何度かあった。
マンの超人的な筆力は、よほど体調が良くないと私を拒絶する。



ナフタが出てくるまでは、読むのが苦痛だった。よって下巻が圧倒的に面白い。
息子が出来たら「那風太」と名づけたいほどである。出生届は市役所で受理されるだろうか。
『海辺のナフタ』という小説があれば、発売日に絶対買う。こういう妄想を刺激する人物である。


この小説を読んだという人は沢山いると思う。
宮部みゆきしか読まない、昔の職場の先輩も「オレは『魔の山』を読んだ」と自慢していた。
その先輩は酔っ払って小説の話になると、
(だいたいそんな話をするのは週末の午前3時すぎ、泥酔した上、話の種が尽きた頃である。)
大学時代に『魔の山』を読んだという話を何度もしていた。
10回以上「読んだ」という報告を拝聴したが、
ナフタとペーペルコルンどっちが好きだとか、
ハンスとショーシャは肉体関係があったのかとか、
ペーペルコルンが死んだところから、マンの筆遣いがやや奇をてらい始めたとか
そういう具体的な内容に関する話は一切聴かなかった。


読んでない私としては、すごいですね、としかいいようがなかったが、
読んだという事実が、神話化されるにふさわしい小説である。
読んでいない奴とは内容の話もしたくなくなる小説なのかもしれない。
その先輩とは、一度『魔の山』について話し合ってみたい。
多分先輩はもうすでに内容を忘れていて、5分と会話が持たず、
読んだばかりの私の生々しい興奮をぶつられて戸惑い、迷惑な顔をするだろう。たぶん。



マンは、登場人物をふたりも自殺させている。
その人物ふたりが、この小説で最も精彩を放っているのだから、かなしい。



教養小説であるが、ハンスの教養がどう積みかさなるか、一応私なりに整理してみた。
ハンスの内的経験は登場人物の象徴性よって分類される。



ヨーアヒム=友情、血縁   セテムブリーニ=文化  ナフタ=思想
ペーペルコルン=権力    マダム・ショーシャ=女  エレン・ブランド=心霊


こういう象徴性をもった多彩な人物との関わりや事件を通してハンスの教養は増す。。



しかし、ほんとに成長しているかは、怪しい。
ハンスは基本的には、良家の坊ちゃんで、平凡な青年である。
その場で興奮することはあっても、だれからも決定的な影響を受けていない。
終盤、ハンスを心配するあまりでしゃばって「作者のマン」がハンスの身の上を語るほどには、
私はハンスに思い入れがなかった。ナフタとペーペルコルンには心躍るが。
ハンスは雪山に遭難しているときでさえも、狂言回しの役割から一歩も出ていない。
しかし、読み終わってみるとジワジワとハンスが懐かしくなるのである。


結末が、ハンスが第一次世界大戦を期に戦場に赴くということから、
ハンス=歴史
という分類と個人的に断定した。



一時、蓄音機に熱中して、「ハンス=音楽」の時期もあったが、
ハンスは「歴史」に身を投じたのだと思う。
しかし、戦場に行くこと自体はヨーアヒムの無念を晴らしたともいえるので微妙…か。



ラストで、やっぱりマンが出てきて、「さようなら、ハンス」とのたまいはじめ、一方的にお別れを告げる。
読者は、友人のよう親しみを感じていて、内面の成長までまでつぶさに見てきたハンスが、
全く別人のような、そっけない三人称で語られることに愕然とする。彼の生死も曖昧なまま物語は終わる。
読者は、物語からぴっぺがされて、平手打ちをうけたように現実に連れ戻される。


子供の頃大好きだったアニメの最終回を観た後ようなさみしさをしみじみ味わえる。
こういうさみしさって、長編小説読了後の醍醐味である。



マンの結びの言葉は、「いつか愛は誕生するだろうか?」 というくっさいセリフである。
「しねえよ、バカ」と読者はつぶやき、すすり泣きしながら、風呂場かトイレで、
「ハンスはあの後、どうなったのかな〜」とむなしく思いをはせるのである。


後日改めて、お気に入りの名場面をランキングにしてみたい。
しかしながら、『魔の山』を満足に語り尽くせない、自分の筆力のなさが情けない。


魔の山〈上〉 (岩波文庫)

魔の山〈下〉 (岩波文庫)


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posted by 信州読書会 宮澤 at 12:18| Comment(0) | ドイツ文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

魔の山 トーマス・マン 岩波文庫 その二

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『魔の山』名場面ランキング

第1位 第七章『トウェンティー・ワン』より。


【ペーペコルン主催のトランプ賭博で、さっきまでご満悦だったペーペルコルンが
「飯がマズイ」といきなり激怒して、満座を縮みあがらせる場面】



<受賞理由>
このシーンでハンスは気まぐれに激怒するペーペルコルンの人柄に完全に魅了されたから。
こういう人柄に魅力を感じるほどに、ハンスも成長したのである。
そしてこのシーンをきっかけとしてナフタやセテムブリーニの饒舌を軽蔑するようになる。


全盛期の大島渚や長州力を髣髴とさせる発作的な怒りの爆発に、(全部わざとだけど)
ペーペルコルンの人物的な「でかさ」を感じる。わがままが絵になる役者である。


そして、ショーシャ夫人から手をさすられながら、なだめられると
威厳を損なうことなく自然にごきげんになるスケベなペーペルコルンが笑える。
ショーシャのてのひらにころがせられて、敢えてのろけてみせ、一座の男の嫉妬を煽った。
一連のお約束ともいえるヤクザな演技は、彼の王者の風格を堂々と証明した。男の花道。


ぺーペルコルン死の直前の『滝壷での誰も聞き取れない演説』も評価に入れての受賞。


第2位 第七章『ヒステリー蔓延』より


【セテンブリーニとの決闘で、こめかみに拳銃を当てて発射して、ナフタが自殺する場面】


<受賞理由>
ナフタが、健康の悪化をもとに、死に場所を求めてセテムブリーニに決闘をふっかけた。
セテムブリーニが、拳銃を空に向かって撃って決闘を止めようとしたが、
ナフタは敢えてこめかみに弾丸を打ち込んで自殺して見せた。



ナフタはイエズス会会員としてのキリスト教徒の信仰を否定して、ご破算にした上
純粋に脳内テロリストであったという事実を、身をもって証明して見せたから受賞。
(『小説家の休暇』において三島由紀夫もナフタにだけ言及している。)
なお、この場面は、レールモントフの『現代の英雄』の
決闘場面からのパクリじゃないかと個人的な疑惑を抱いた。よって第二位。
ナフタの自殺は茶番であるが、こういう死に様がふさわしい人物であった。
仕立屋の二階でひきこもりながら革命を夢見ていたナフタには力いっぱい同情する。




第3位 第七章『ひどくうさんなこと』より


【降霊によって死んだヨーアヒムがむりやり安楽椅子に呼び戻される場面】



<受賞理由>
ぺーペルコルンの自殺後、はっきりいって『魔の山』はプロットに脈絡がない。
主人公のハンスがすでに教養小説の主人公をはみだしてしまうからである。
サナトリウムの集団ヒステリーやナフタとセテムブリーニの決闘も
やや、むりやりの感のあるまま進行する。
しかし、無感覚に侵されたハンスにとってどうでもいい話になっている。


マンがあえてエレン・ブラントという超能力少女を描いて、
ホルゲルというシェリーみたいなロマン派詩人くずれの幽霊と交霊させ
ヨーアヒムを降霊させるオカルトシーンを入れたのは読者サービスとしか思えない。





フロイト批判なんだか、ユングの肯定なんだか、スウェーデンボルグの支持なんだか
よくわからんが、この場面を敢えて挿入したマンは、説教臭い。過剰でもある。
たぶん、このオカルトシーンが、スウェーデンアカデミーの忌避に触れ
マンのノーベル賞が『魔の山』から『ブデンブローク』の功績の強調に傾いた
理由となったのではないか。(根拠は全くなし。個人的な想像です。あしからず。)
とはいっても、ヨーアヒムの軍服姿を見たハンスが感極まって、
最後の戦場への突撃につながったともいえなくはない。よって受賞。





特別賞 第五章『ワルプルギスの夜』より


【ハンスがショーシャ夫人に愛を告白。土下座して太腿の匂いを嗅がせてくれと懇願する場面】



<受賞理由>
『キャっと叫んでろくろ首』という吉行淳之介(広津和郎だっけ?)の名言があるが、
あとで思い出して死ぬほど恥ずかしくなる青春時代の一場面である。





しかしながら、ハンスは意外と鈍感で恥ずかしがった形跡はない。
多分、戦場の塹壕で思い出したのではないか。そして顔を赤らめたのだと信じたい。
それが、突撃の衝動へと昇華されて、死んだのだと思う。
そうあってほしい。マジで。そういう意味で受賞。



このランキングでの受賞によって誰が喜ぶのかはまったくわからないが、
とりあえず自分の気持ちは半ば、おさまった。自分で自分にお祝いの拍手を贈りたい。

魔の山〈上〉 (岩波文庫)



魔の山〈下〉 (岩波文庫)


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posted by 信州読書会 宮澤 at 12:17| Comment(0) | ドイツ文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月11日

ある流刑地の話 カフカ 角川文庫クラシックス


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ある流刑地の話 (角川文庫クラシックス)

『ヨゼフィーネという歌手、または、ねずみ族物語』あらすじ
ねずみ族の歌姫、ヨゼフィーネは歌うことで


ねずみ族から尊敬され讃美されているのだが、
ねずみ族には歌う文化はなく、口笛を吹くくらいの能力しかない。
しかし、実際にはヨゼフィーネの歌も口笛に過ぎない程度のものである。
それなのに、ヨゼフィーネは歌うことでねずみ族の文化を体現し
ねずみ族の精神的な支えとなっているという自負があり、
時代を超越した芸術家になろうとする。



ねずみ族は、彼女の歌の良し悪しはともかく、彼女の存在を大事にしているが
そこまで大げさに彼女の歌を求めていないし、
致命的なことに、彼らの種には歌を文化として根付かせる必要性がない。
失意のヨゼフィーネはやがて失踪し、ねずみ族も彼女のことを忘れるだろう。



サルトルが『嘔吐』のなかで「音楽に同情を求める」
という意味のことを書いていた。
この言葉はなにげないようでいて私にはガツンとくるものがあった。



音楽は、孤独を愛する人の伴侶であるが、
そういう人は、音楽に同情されているだけだ
という逆説的な皮肉をサルトルは言いたかったのだろうと解釈した。



こういう皮肉は、わが身を振り返ってみると
けっこう辛辣に突き刺さるものがある。
なぜなら、音楽を文学に置き換えてみてもおんなじことだからである。



ヨゼフィーネは、ねずみ族の気分の表現に過ぎない『口笛』を
『音楽』まで高めたことによって苦悩を味わい、
ねずみ族もその苦悩の甘美なほろ苦さを味わってしまった。
しかしながら、苦悩を長く味わうための青年時代をねずみ族は持っていない。


「わが民族には青年時代がない」と書かれているように
ねずみ族は、短い子供時代から、一気に老成してしまう種族なのである。
多産であって生存競争の烈しいねずみ族には、種の本能から「青年時代」が許されない。
したがって、音楽に同情を求める必要がないのである。


そう考えるとこの奇妙な寓話はなかなか含蓄があるといわざるをえない。
文学に同情されっぱなしの私にはこたえた。私は青年時代真っ盛りなのだ。


もちろん、音楽に同情されっぱなしの村上春樹の『海辺のカフカ 』の登場人物も
文学に同情されっぱなしの大江健三郎の『懐かしい年への手紙 』の登場人物も、である。




カフカが人間の青年時代というものを批判的にえぐりだして、
このような作品を描いたとするならば、恐るべき一作である。


三島がいみじくもいったようにカフカはキチガイだと思った。
ある流刑地の話 (角川文庫クラシックス)

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タグ:カフカ
posted by 信州読書会 宮澤 at 11:03| Comment(0) | ドイツ文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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