信州読書会 書評と備忘録

世界文学・純文学・ノンフィクションの書評と映画の感想です。長野市では毎週土曜日に読書会を行っています。 スカイプで読書会を行っています。詳しくはこちら → 『信州読書会』 
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カテゴリー:フランス文学

2013年07月25日

悲しみよ こんにちは サガン 新潮文庫

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若く美しく女蕩しの父を持つセシルが、父の恋人エルザと三人で南仏へバカンスに出かける。
そこへ、亡くなった母の古い友人であるアンヌがやってくる。
アンヌはファッションデザイナー、知的で洗練されて魅力のある女性だったが、
セシルには高慢で冷淡な女にも見え、かすかに反発をおぼえていた。
だが、セシルにとってアンヌは、軽薄な父や自分のいる世界と別の知的な世界に住んでいる
人生の達人であり憧れの人物でもある。



セシルの父、レエモンとエルザ、アンヌの三角関係の時間は短く
アンヌの自然な強力な魅力は、エルザからレイモンを奪い取る。
セシルはその模様を間近で眺めながら、アンヌから恋愛そして人生を学ぶ。


アンヌは、恋に恋する17歳のセシルにこう諭す。



『あなたは恋愛について少し単純すぎる考えをもっているわ。それは独立した感覚の連続ではないのよ。(中略)そこには絶え間ない愛情、優しさ、ある人の不在を強く感じること。あなたにはまだ理解できないいろいろなこと……』



要するに、ワンシーンごとの印象と快楽は、恋愛の入り口にすぎないという説教。
アンヌの皮肉や逆説はセシルとってボディーブローのような低い一撃となって堪えてくる。
やがて、セシルはアンナに自分の住んでいる世界を否定され、自尊心を傷つけられる。
そして、最愛の父をアンナの世界が形成されはじめると、
疎外感と孤独に堪えられなくなる。



セシルからすべてを奪い去ろうとする「美しい蛇」アンナ。
セシルは父とアンナの愛を徹底的に妨害し、アンヌを破滅させる。



17歳の少女の若さゆえの無垢な残酷さを、瑞々しい詩情とともに描いた作品。
セシルは、突発的に刃物で人を殺す現代日本の少年と同じくらいヤバイ女の子だ。
なににせよ、人を追いつめて殺しておいて「悲しみよ こんにちは」というだから。
この厚顔さは、恐るべきものだと思う。


サガン19歳のデビュー作。全世界でベストセラーとなった。


人生に対する洞察という点で、すぐれた格言がちりばめられている。
人を傷つけるほどの過剰な洞察力をもてあまして、
退屈している女子大生にはお薦めの作品。


悲しみよこんにちは (新潮文庫)
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posted by 信州読書会 宮澤 at 10:35| Comment(0) | TrackBack(0) | フランス文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

アドルフ コンスタン 新潮文庫

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皮肉屋で諧謔家、冷笑家、鼻持ちならない若者アドルフは、
自尊心を満足させるほどの女性に廻りあわず、一度も恋をしたことがなかった。

完全に釣り合いのとれぬ相手との結婚は赦さないが、結婚を問題にしないかぎり
どんな女をものにし、捨てても構わないという不徳な女性観を父親に植えつけられたアドルフは、
社交界にデビューし、ある伯爵の情婦にエレノール出逢う。



彼女は教養にあふれ、自尊心も高い女性だが、破産しかけた伯爵に献身的につくし、
彼の財産を回復する手助けをするやさしいさも兼ね備えていた。



伯爵との間にできたふたりの子供を愛し、信仰心厚く、身持ちの堅い彼女に、
日々惹かれてゆくアドルフは彼女に愛を打ち明け困難の末に結ばれるが、
父から他国での仕事するようにとの命令、友人の伯爵を裏切る自らの行為、
そして先の見えないエレノールとの関係に悩む。




彼女に身を捧げても一向に自分が幸せになれないと気づいたアドルフは、
急激に恋の熱狂から冷め、エレノールが疎ましく思う。



さらに父親からエレノールとの関係を叱責され、
エレノールに別れを切り出すと、嫉妬に狂った彼女はあらゆる手段で
アドルフを取り戻そうとする、が…。



アドルフのエゴイズムを嫌というほどみせつける小説。




近代フランス心理小説史上最高傑作のひとつといわれる悲劇である。
心理描写は生々しいが人工的な作品で、その後のフローベール、
スタンダールなどに受け継がれる恋愛小説のパターンの元祖を形作っている。




たとえば、アドルフを出世主義者として造形すれば、
「赤と黒」のジュリアン・ソレルになるし、
エレノールは、そのまま「感情教育」アルヌー夫人に生まれ変わる。


「ハムレットとアドルフ」とは三島由紀夫の指摘。 
どちらも今日では全世界に一般化された病的性格であると述べ、再読三読に堪える作品と激賞した。


アドルフ (新潮文庫)








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posted by 信州読書会 宮澤 at 10:25| Comment(0) | TrackBack(0) | フランス文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ペスト カミュ 新潮文庫

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ノーベル賞作家あるカミュの作品。
ペストが流行し隔離された街で、医師リウーがペストに挑む作品。
いつおさまるかわからないペストと闘うリウーの勇気に共鳴してゆく仲間たち。
人びとの連帯が力強く描かれている
のだけれども。



人びとの連帯という意味では
スペインの人民戦線を描いた
マルローの「希望」(新潮世界文学 45 マルロー (45) 所収)
のほうが私には感動的だった。



ペストが意味しているものが、
不条理な暴力なのか、ドイツの占領なのか
人々の心理的不安ななのか
最後まで読んでわからず。



ただひとつ、キリスト教の代表としてあらわれた司祭パルヌーが
罪なき少年の死に立ち会って、自らの無力を認め、
「理解できないものを愛さなければならない」と思わずもらすとき、
決然として「そんあことはありません」と非難するリウーの姿は感動的だ。



宗教的確信なしに、――つまりは、人類の救済などという使命なしに
行動するリウーのような人間こそが、実存主義者だと、
カミュは「ペスト」の中で訴えたかったとみえる。


解説によると、カミュはこの作品を自身の作品の中で
最も反キリスト教的と称したそうだ。



「幸福な死 」「異邦人 」は
「自己への誠実」を実存主義に根本にすえていたが、
「ペスト」では、さらにそこへ正義への行動を通した
人びとの連帯が加えられている。
しかし、全体として散漫な印象を受ける作品だ。長い。長すぎる気がする。


戦後のフランスで熱狂的に迎えられた理由を
もはや知ることが出来ない気がする。
敢えて不遜な言い方をすれば、
時代とともに古びていく作品なのではないか。


東日本大震災の後に読むと、また違った感想がある。
日本において宗教が、人を救済しないとしたら
放射能汚染は我々にとって何を意味するのか、
『ペスト』を読みながら考えてみたい。

アマゾンで買うならこちら『ペスト (新潮文庫)』



新潮世界文学 45 マルロー (45) 王道・人間の条件・希望

希望 テルエルの山々 [VHS]




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ラベル:カミュ
posted by 信州読書会 宮澤 at 10:21| Comment(0) | TrackBack(0) | フランス文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

奇妙な旅 ドリュ・ラ・ロシェル 筑摩世界文学大系 (72)

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筑摩世界文学大系〈72〉ドリュ・ラ・ロシェル,モンテルラン,マルロー )

筑摩世界文学大系〈72〉ドリュ・ラ・ロシェル,モンテルラン,マルロー (1975年)


国書刊行会の「ジル」を読んで以来、虜になった作家が、ドリュ・ラ・ロシェル。
ファシストで対独協力云々と問題のある作家なのだが
日本の戦前の左翼転向問題と同じく
軽薄に言及できる問題でもないのでそれについてはコメントは控えたい。
独軍の捕虜だったサルトルの釈放を求めたり、マルローと仲がよかったり
ファシストのわりには情に厚いところがある。

昨夜、気になっていた「奇妙な旅」をようやく読了した。



主人公はドリュの分身 ジル。


ニヒルでいてそんなニヒルな自分を嫌悪するという
歪んだ倫理観で常に屈託している、ジル。


自分に折り合いのつかない人間、ジル。


最高にめんどくさい男、ジル。


そのジルが、ベアトリックスというお嬢様の気を散々惹いておいてすべて投げ出すという話。
会話がとにかく秀逸で、ジルはしびれるセリフを景気よく連発してくれる。



がしかし、「ジル」のほうが政治問題、宗教問題に深くコミットしている上に
恐ろしいほどグロテスクなブルジョアの退廃が描かれているので
それに比べてしまうと「奇妙な旅」は物足りない。

ハードボイルドが好きな人にはお薦め。


1945:もうひとつのフランス 1ー上 ジル 上


1945:もうひとつのフランス 1ー下 ジル 下


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posted by 信州読書会 宮澤 at 09:56| Comment(0) | TrackBack(0) | フランス文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

秘められた物語/ローマ風幕間劇 ドリュ・ラ・ロシェル 国書刊行会

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1945:もうひとつのフランス 2 秘められた物語

1945もうひとつのフランス 2巻に収められたドリュ・ラ・ロシェル最晩年の作品。

「ローマ風幕間劇」は、主人公の私とハンガリーの公爵夫人エドヴィージュとの
交情を描いた私小説風の作品であるが、
未完成で、章ごと抜けたり、途切れている文章がある。


驚くべきは14章目で、まるでスタンダールのように作者自身の独白がはじまる。


『ここまでで筆を置くこともできるだろう。…(中略)…私が書いているのは、ひとえに、冬、火の気のない自宅のベッドに、もはや読書の阿片を吸うこともなく閉じこもっているからであり、もうほとんど生きてはいけないゆえに、生きたと思えるものに自分を託すよりほかに仕方がないからである。さらに、自分が実際には生きてこなかったことを確かめたいという自嘲的な意味もあって書いているのだ』



なにもなしえないという孤独感の中でまもなくドリュは自殺するが、
ローマでのアバンチュールは唯一の楽しみであったようだ。



『私の目にはローマは常にエドヴィージュを正当化するのだった』


連れて行った女性を正当化するローマ。
その魅惑をほんのちょっと描いた作品。







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posted by 信州読書会 宮澤 at 09:44| Comment(0) | TrackBack(0) | フランス文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

七彩 ロベール・ブラジヤック 国書刊行会


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1945:もうひとつのフランス 3 七彩



七彩 ロベール・ブラジヤック 池部雅英訳 1945もうひとつのフランス 国書刊行会

★あらすじ
学生時代にパリで出逢い、恋人同士だったパトリスとカトリーヌ。
カトリーヌは、ファシズムに惹かれ安定した生活力のないパトリスに
危険を感じて別れ、仕事の同僚フランソワと結婚する。


パトリスは失恋の傷みから、外人部隊に入隊し10年過ごす。


1937年のニュルンベルクでのナチス党大会を観て
パトリスは完全なファシストになる。


10年ぶりにパトリスはパリに戻り、カトリーヌに再会する。
カトリーヌは、パトリスへの恋情に火がつき苦しむ。
フランソワは今なおパトリスを愛している妻に絶望し
パトリスと同様に外人部隊に入隊し、スペイン戦争のフランコ側に参加し負傷する。


★感想
対独協力作家で戦後銃殺されたブラジヤックの七章からなる作品。
反ユダヤ人のパンフレットを多数制作したことでも断罪され悪名高い。



物語→手紙→日記→省察→対話(戯曲)→資料→独白と
すべての章の形式を変えて描くという手の込んだ構成になっている。
(手は込んでいるが、個人的には無意味な気がした。)


「省察」の部は『30歳論』というべき格言に満ちていて興味深い。一例を引くと




青春の陶酔、歓喜、苦悩の追求がドラマとなる最初の時が30歳だ




30では幸いにして、金は追い返すことのできる一介の仲間にすぎない


スペイン戦争をフランコ側にたって記述している点で
国際義勇軍側に立ったアンドレ・マルローの『希望』と対照をなす作品。


ブラジヤックはファシスト作家であるが、
決してファシズムに希望を持っていたわけではないことがわかる叙述もある。


もっぱら、ファシズムの雰囲気のなかでのみ生活した人間がいったいどうなるのかが判明するのはこれらゲルマンのナチ少年団員やイタリアのファシスト少年団員が成人になったときだろう。たぶん結果はあまり芳しくないだろう


愛した男が二人ともファシストになったカトリーヌの独白も哀しい。



いまの世の男たちは悲劇作品の王様たちよりももっと自分のものにするのが難しい



祖国に尽くすことがファシストになることだった作家の悲劇的な作品。
もっとも小説自体はそんなに悲劇的ではないが…。



個人的には、女性にもてないジルが主人公の作品という気がした。


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ラベル:ブラジヤック
posted by 信州読書会 宮澤 at 08:51| Comment(0) | TrackBack(0) | フランス文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ポリュークト コルネイユ コルネイユ名作集所収 白水社


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コルネイユ名作集



★あらすじ
アルメニア総督フェリックスの娘、ポーリーヌの婿になった
ポリュークトは、友人ネアルクの勧めによってキリスト教の洗礼を受ける。



時のローマ皇帝デシーは、帝国統一のため
古ローマの神々信仰を奨励し、キリスト教に大迫害を加えていた。


かつてポーリーヌは、ローマの騎士セヴェールを愛していたが、
地位も財産もない彼との結婚をフェリックスが拒んだために
ポリュークトに嫁いだのであった。


ペルシアとの戦争で、敵の捕虜となったデシー皇帝を救い出し
名誉の戦死を遂げたといわれたセヴェールは、
敵をも賞賛させた武勲により、ペルシアで捕虜として厚遇され、故国に凱旋を果たす。


セヴェールはデシーの寵臣となって、アルメニアへ視察に訪れ、
かつての恋人ポーリーヌに再会するが、
フェリックスは、娘との結婚を拒んだことを
根に持ったセヴェールに仕返しされることを怖れる。


折しも、神殿でジュピター(ゼウス)を敬う祭儀が執り行われ、
キリスト教に入信したポリュークトとネアルクは
異教徒の祭儀として、祭壇をぶち壊しにした。
フェリックスは激怒し、ネアルクを処刑、皇帝の寵臣セヴェールの手前、
ポリュークトの処置を迫られ、ポーリーヌのために
彼の改宗を説得するが果たせず、ポリュークトを処刑するが、
罪の意識からフェリックスは、娘のポーリーヌともどもキリスト教に入信する。
セヴェールは彼ら殉教者に心を打たれ、皇帝の意向に背き彼らを許す。

★感想
ブラジヤックの『七彩』の各章に『ポリュークト』の一節が
エピグラフとして律儀に掲げられていたので読みました。



ブラジヤックは周到な考証に基づいたコルネイユの評伝を書いているそうで、
コルネイユ研究にあたっては、現在でも看過できない一冊になっているそうです。


ちなみに、彼はアイスキュロスの『テーバイ攻めの七将』の題材にもなった
エテオクレスとポリュネイケスの兄弟葛藤の悲劇を
戦後のフランスにおける対独協力派とレジスタンスの反目に置き換えて
『兄弟の戦い』(本邦未訳)として作品化しているそうです。
(以上は福田和也の『奇妙な廃墟 』のブラジヤックの稿を参照。)




『七彩』と『ポリュークト』の影響関係は
残念ながら私の力量では端的にまとめることができません。


『ポリュークト』は自己犠牲を厭わない気品の高い登場人物しかでてこない
清潔この上ない悲劇であり、個人的にはやや感興は薄かったですが、
キリスト教殉教者の悲劇としては、完成度の高いものだと思いました。



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ラベル:コルネイユ
posted by 信州読書会 宮澤 at 08:48| Comment(0) | TrackBack(0) | フランス文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月15日

彼らはマルローについて語った ミシェル・フーコー思考集成Y 筑摩書房


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フーコーの『汚辱に塗れた人々の生』を読もうと思って、
図書館から借りたのだが、併録されていた
『彼らはマルローについて語った』に結構心打たれたので
全文引用したい。


ちなみに、アンドレ・マルローの死去に際して
1976年12月23日に行われた、フーコーへの電話インタビューである。
丹生谷貴志訳、改行は適当。




語る事柄のほうが、語ること事態よりも彼にとっては重要なことだった。
これは、彼にいわせれば反フローベール的とも言うべき態度で、
人間や事象への思い入れ、文学に対する横柄さが、
彼を作家以上の何者かに見せることになった。


彼のテキストを貫き、時にはそれをだいなしにしている力は、
外部から、ものを書くことに専心するものには
はなはだ慎みを欠くように思われる外部からきていた。



そのことにおいて彼は、ベルナノスやセリーヌとともに、
私たちを困惑させる一族につらなっていた。


物書き以上の何者かだったが聖者たりえなかった男、
物書き以上の何者かだったがたぶん人でなしではなかった男、
物書き以上の何者かだったが
銃殺された二十歳の革命家でも
老いたる国家の要人でもありえなかった男、
こうした者たちについて今日私たちが、
何が言いうるのだろうか?

たぶん、彼らの人生が如何なるものだったかを理解するには、
私たちはあまりに注釈につき合わされすぎている。




ベルナノス、セリーヌ、マルローについて
もうすでに、注釈以上のなにものもつけくわえることのできない
後世の人間の一列に卑屈にも連なっている一人にもかかわらず、
いや、おそらくまたは、そういう立場にしかないという、
屈折した諦めがあるからこそ
フーコーは、電話インタビューでこんないやらしい皮肉を
投げかけているのだが、
はからずも、それが、彼の深い喪失感を表現している。
そこが、なかなか感動的だった。


ミシェル・フーコー思考集成〈6〉セクシュアリテ・真理


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posted by 信州読書会 宮澤 at 14:35| Comment(0) | フランス文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

けものたち・死者の時 ピエール・ガスカール 渡辺一夫・佐藤朔・二宮敬訳 岩波文庫


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Wikiによるとかつて、三島由紀夫は、大江健三郎のことを

「東北の山奥から出てきた小娘が上野駅で女衒にかどわかされて淫売屋に叩き売られるみたいに、
あいつは四国の山奥から出てきて、渡辺一夫という女衒にかどわかされて、
岩波楼っていう淫売屋に叩き売られたんだよ」

と揶揄したそうである



初期の大江が影響を受けたといわれるガスカールの短編集を
大江のかけがえのない恩師である仏文学者渡辺一夫が共訳、編集。



最近、ソレルの『暴力論』とともに岩波文庫で出た。
7つの短編が収められているが、渡辺一夫が初稿を起こした作品はない。
そういう意味で、渡辺一夫の名前が最初に冠されるのも変なものだと思う。





★『けものたち』あらすじ

ドイツ兵の捕虜となった40人のロシア人が、納屋へと押し込められ、
飢餓に喘いでいる冬の日に、6人のウクライナ人の捕虜が到着する。


彼ら6人の新入りは、爆撃で潰れた煙草屋から盗んだ
大量の煙草を持っていたために、捕虜全員に動揺を与える。



かくして、『死の家の記録』や『イワンデニーソヴィチの一日』にも
描かれているとおりに、煙草は貨幣の代わりとして流通しはじめる。



やがて、ふたりの勇敢な捕虜が納屋から抜け出して、近隣の貯蔵庫から
夜な夜な、ジャガイモを盗み出す芋泥棒として活躍する。
盗んだジャガイモは、煙草によって交換され、捕虜たちの空腹を満たした。


その納屋の前には、巡回サーカス団の動物小屋があり、
ライオンや熊が、捕虜たち同様に餓えに苦しんでいた。


動物小屋の番人エルンストは、動物たちに餌として肉塊を与えていた。
そこで、ある捕虜の知恵が、すべての顧客の取引を一手に引き受ける商売をあみだす。


彼は、エルンストが動物たちに与える肉塊を、煙草と交換して仕入れたのだ。


かくして、捕虜は肉を味わうが、一方で餌を与えられなくなった
ライオンや熊によって、激しい飢えからくる咆哮の嵐が巻き起こり、


その啼き声や叫び声に、捕虜たちは本能的な恐怖を感じる。
春が近づき、芋泥棒の足跡が雪の跡から見つかる。警官が納屋にやってきて
芋泥棒のふたりの捕虜を逮捕し、煙草は差し押さえられ、元の黙阿弥となる。


芋泥棒は、ピストルで射殺され、納屋の前に死体が投げ捨てられる。
懲罰として三日間の絶食を課せられた捕虜たちは、
けものたちの餌の肉塊と芋泥棒の死体と交換しようと画策しはじめる。





そのとき、ドイツの前線を破るロシアの大砲が鳴りひびく。完。


★感想
典型的な収容所文学だが、ドストエフスキーやソルジェニーツィンが、
ワンエピソードで扱うような主題で、短編を拵えてしまっている。


立川談志の言葉を借りれば、


セコな根多だねぇ、恥ずかしくないのかねえ、


という感じである。



捕虜たちの人間性を、探求して描いているわけではないので、
けものに人肉を喰わせたとしても、短編のトーンは変わらない。


要するに暗い。



ラストのロシアの大砲は、短編のオチとしてあざとすぎる。

けものたち・死者の時 (岩波文庫)


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posted by 信州読書会 宮澤 at 14:17| Comment(0) | フランス文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

シルヴェストル・ボナールの罪 アナトール・フランス 岩波文庫


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★あらすじ

第一部『薪』


学士院会員で老究学者のシルヴェストル・ボナールは、
使用人の老婆テレ―ズと隠棲して暮らしている。
書斎の帝王であり、気難しく誇り高い老人である。趣味は稀覯書の蒐集。


ボナールは『黄金伝』の写本を見るために
老骨に鞭打ってシチリアへ旅に出るが、写本は競売に出されていた。
彼は競売に参加して、なけなしの遺産で写本を
落札しようとするが果たせず、たいそう落胆する。
しかし、その昔、クリスマスの前日に薪を恵んでやった貧乏一家の
夫人が、貴婦人となって現われて、その写本をボナールにプレゼントする。



第二部『ジャンヌ・アレクサンドル』


初恋相手のクレマンティーヌの孫娘ジャンヌ・アレクサンドルが
両親の破産で、女学校の掃除婦をしていることを知ったボナールは、
彼女を、寄宿舎から助け出して、後見人となる。
ジャンヌは、老学者の家に出入りしていた学徒と恋に落ち結婚する。
彼女の持参金を捻出するために、ボナールは大切にしていた蔵書を処分する。





★感想
老学者の日記という体裁の一人称小説。著者の大出世作。
名前だけ知っていて、読む機会のなかったアナトール・フランスだが、


今回初めて読んでみて、その衒学的なユーモアとシニシズムが
彼に傾倒した芥川龍之介、石川淳などに、いかに影響を与えているかがわかった。
ふたりとも、アナトール・フランスをパクり過ぎ!! である。



老学者ボナールが、その過剰な教養で、周囲に機知あふれる掣肘を加えながら
愚かな事件に巻き込まれてゆく姿が、なかなか哀切に描かれている。
それでいて心温まる結末の、素敵な作品で、読み終えてしんみりした。



第一部は1861年から1869年まで、第二部は1874年から1877までの日記である。
この間に1870年の普仏戦争とその敗戦、パリコミューンの時代があるのだが、
その間のことが、この作品ではポッカリと欠落している。





社会の大変化の中で、ボナールがそれらに言揚げせずに、淡々と過ごししたところに
彼のヒューマニストとしての、ひそかではあるが、強い意志が漲っている。
そこに、普仏戦争に取材したモーパッサンら自然主義者へのA・フランスの対抗意識が鮮明となる




ただ結末近くにこう述べられるのみである。


どんなに望んでいた変化でも、変化にはすべてそのうちにさびしさがある。
われわれの捨ててゆくものは、われわれの一部なのだ。
新しい生活に入るためには、古い生活に対して死ななければならぬ。


イーヴリン・ウォーの作品に似たような、古きよき時代
(具体的にはギリシア・ローマの時代)への追憶に溢れている。


訳者解説によると、話の筋自体は、他作品からの盗用が激しいらしいが、
文飾そのものは、極めて高度な着想から導き出されているので許したいとの事。




ボナールの伯父さんであったヴィクトル大尉のことが回想されるが、
その人が、ナポレオン時代の栄光を体現するユーモラスな大人物で、感動的。
幼い日のボナールが飾り窓の人形を欲しがって伯父さんから怒られるシーンは笑った。


この伯父さんは、「少年兵は退却のラッパを吹くな」などと会話が全部、軍隊用語で、
士官の威厳でもって、男らしさとはなにか!! を、幼い日のボナールの脳髄に叩きこむのである。


ボナールは、年とるごとにヴィクトル伯父さんの威厳が我がものになってゆくのを誇らしげに喜んでいる。
こういう伯父さんは、親戚にひとり欲しいものである。いなければ、自分がそういう伯父さんになるしかない!!

シルヴェストル・ボナールの罪 (岩波文庫)


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posted by 信州読書会 宮澤 at 13:46| Comment(0) | フランス文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

アデライード アルチュール・ド・ゴビノー

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『アデライード』 アルチュール・ド・ゴビノー


世界短編文学全集6所収 室井庸一訳 集英社


★あらすじ
オーカステル家の居間で男爵が、あるひとつの事件を物語る。その話は以下。



22歳のフレデリック・ド・ロトバネールという無名の美青年は、
社交界の女王、エリザベート・ド・エルマンスビュル夫人(35歳)の寵愛を受け、
公認の愛人となり、出世する。


夫人の旦那が死ぬと、ロトバネールは旧教徒から新教徒に
改宗までさせられて、夫人から結婚を迫られる。


しかし、ロトバネールは、愛人生活の5年の間に、
エルマンスビュル夫人の娘アデライードに誘惑され
母娘両方と関係を持つという不道徳を犯していたのだった。


アデライードは、社交界に入り浸る母に見捨てられたと思い
母の愛人であるロトバネールを誘惑したのだ。
夫人は娘と夫の関係に気がつき憔悴する。


義父と母娘の三人は同じ邸宅内で泥沼の修羅場を繰り広げるが、


ついにアデライードが、ある伯爵に嫁ぐことで結末をみるかにみえた。
しかし、アデライードがすぐに離婚して実家の邸宅に戻る。


母と娘は、お互いを憎しみ合いながらも
すでに中年となって美貌を損ねたロトバネールへの
侮蔑のみで結びつき、ふたりして彼を痛めつけることを喜びとして暮す。


ロトバネールはしきりに勲章をほしがる俗物と化すことで生き延びる。


★ゴビノーについて
福田和也のコラボ列伝のような著書『奇妙な廃墟』で最初にとりあげられた作家。


別に、反ユダヤ主義のコラボ作家ではないのだが、ワーグナーと付き合ったり、
『人種不平等論』という紛らわしいタイトルの論文を書たりして
ナチズムに影響をあたえたといわれたそうだ。



差別主義者のはしりとしてドイツ占領下のフランスで引合いに出され、
誤解され、いまもなおフランスで抹殺された作家である。


ゴビノーの代表作に『プレイヤード』という長編小説があるそうなのだが、
澁澤龍彦が途中まで翻訳して挫折したらしい。完訳はおそらくまだないはず。



この短編は、たまたま古本屋で買った世界短編文学全集に載っていたので読んでみた。


★感想
まあ、心理描写はスタンダールっぽい。世紀末的な社交界の頽廃がよく描かれている。
設定からしてワイルドの『ウインダミア夫人の扇』を思い出した。

アクセサリーとして若いツバメを囲う母親と、
母に見捨てられた上、若すぎて警戒されていないことのが悔しくて、
すべての青春を母の愛人を誘惑することに使う娘の
心理的な葛藤を描いている。『悲しみよこんにちは』にも少し似ている。



不道徳な三角関係にどんな結末がつくか読んでいたら、
結末近くで、語り手である男爵が、面白い事をいう。



『皆様に小説をおきかせするとなれば、ここでどちらかを、力尽きてか、錯乱してか、苦悩のためかで、静かに死なせるところです。その方がひきたちましょう。しかし全然そんなことはありませんでした。現実の世界では、そんな結末はないのです。』




というわけで、ロトバネールが、妻からも娘からも嫌われ、
「生ける幽霊」というか腹の出たオヤジになって終わるのである。
小説だから許される、世知にたけた教訓的な結末である。


戯曲でこの結末だったら、ちょっとうんざりする。感情の浄化が一切ない。


だが、こういう「生ける幽霊」は、
時代が違えば対独コラボのファシストになるだろう
というぐらいの迫力はある。



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posted by 信州読書会 宮澤 at 13:23| Comment(0) | フランス文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月13日

バルタザール アナトール・フランス小説集6 白水社

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★あらすじ
エチオピアの黒人王バルタザールは、シバの女王バルキスに熱烈な恋情を抱く。
バルキスは危険を味わいたいというので、ふたりで変装して市の居酒屋に出かける。
そこで無銭飲食して店主と喧嘩になり、ふたりは河原に逃げ、その夜に激しく求め合う。
翌朝、河原で寝ていると通りかかった盗賊に捕まり、奴隷として売られそうになる。
バルタザールは抵抗し、盗賊にナイフで刺されるが、バルキスの護衛兵に救出される。


その後、バルキスは他の王に浮気して、バルタザールは捨てられる。


バルタザールは、愛の苦悩を忘れるため高い塔を建て、そこにこもり占星術を学ぶ。
その後、星に導かれて、厩の幼子に逢うために塔を下り、没薬を携え旅に出る。
道で黄金、乳香をもった二人の王と同行しマリアとともにいる幼子イエスに逢う。


★感想
芥川も翻訳したというA・フランスの短編。


芥川の短編は必ず何らかどんでん返しのようなオチをつけたがるが、
『バルタザール』は芥川が理想としたような鮮やかなオチがついている。


マタイの福音書の第2章11節に
「(東から来た博士が)生まれたばかりのイエスに、ひれ伏して拝み
黄金、乳香、没薬などの贈り物を捧げる」という一節があるが、
その博士たち(東方三賢人ととりあえず呼ばれているらしい)の
一人であるとされるバルタザールの遍歴を描いている。


彼が、女性の誘惑に打ち勝ってイエスのもとへやってきたという
因果をつけて物語の綾とした幻想的な短編である。


短編としては、すこぶる詩的で魅力に溢れている。
古書店主の息子に生まれ一生を本の中で過ごした
懐疑主義者のA・フランスらしい作品。



正直なところ、聖書を意匠として用いて幻想小説を書くという行為には、
作家の救いがたいニヒリズムを感じて、あまり好きではない。
聖書の一節から逆算して短編を作った感は否めない。計算趣味。


でも、うまいんだなあ。この短編。


アナトール・フランス小説集〈6〉バルタザール



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posted by 信州読書会 宮澤 at 12:57| Comment(0) | フランス文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

死霊の恋・ポンペイ夜話 ゴーチエ 岩波文庫

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★『死霊の恋』あらすじ
田舎司祭ロミュオーは、貴族相手の遊女クラリモンドに逢い一目惚れする。
クラリモンドが彼を誘惑しるので、叶わぬ恋に煩悶する。
貴族との大饗宴の果てにクラリモンドが死に、
ロミュオーは彼女の葬儀を執り行なうことになる。
死んだ彼女に我慢できずに接吻すると、彼女は一瞬甦る。
その後、毎晩クラリモンドはロミュオーの夢に現われ、


夢の中で、ふたりはヴェネチアに城を構え、豪奢狂乱の日々を過ごす。
あまりの刺激に夢と現実の境が曖昧になった頃、クラリモンドが瀕死の状態に陥る。
しかし、彼女はロミュオーの血を吸うと生気を取り戻す。



かくして、夢の中でちょくちょく生き血を吸われはじめたロミュオーは、困惑し憔悴する。
様子を見かねた師のセラピオンが、ロミュオーとともに彼女の墓を暴くと、
棺桶の中に死後間もないままの完全な姿のクラリモンドがいた。


聖水で除霊すると、クラリモンドは二度と夢に現われなくなる、




★感想
司祭の一人称の告白小説。吸血鬼もののホラー小説の古典。
バルザック、ボードレールも激賞した名文だそうだ。
まあ、翻訳で読んでいるので、そうなのか・・・と私は嘆息しただけである。



確か、法学部の学生時代の三島由紀夫が、仏文の授業に潜り込み、
講義の後に教授にゴーチエみたいな小説が書きたいんです、と熱っぽく訴えたことを、
青春時代の恥ずかしい思い出として書いていた記憶がある。


ロマンティックで耽美的な作品だと思う。読みやすい。
ゴーチエは、画家を志していたということで、
作品も文飾重視、造形美術のように小説を書いたそうだ。


死霊の恋・ポンペイ夜話 他三篇 (岩波文庫)



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posted by 信州読書会 宮澤 at 12:53| Comment(0) | フランス文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

赤い卵 アナトール・フランス小説集6所収 白水社


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★あらすじ
ある博士の告白。


博士の幼年時代の同級生、ル・マンセルは、
家族みんなが神経症を患っている家庭の子だった。
彼の父は、鶏を飼うのに夢中であった。話し方も鶏だった。


子供時代の博士は、ル・マンセルの家へ遊びにいき真っ赤な卵をみる。
その卵は、ル・マンセルが生まれたときに鶏が産んだ変異質の卵だった。
ル・マンセルは、やはり神経症を患いながらも後年に大数学者となる。
久々に博士を遊びに訪ねてきて、先客があったため書斎で待っている間に




ル・マンセルは何気なく手にとった『ローマ皇帝列伝』の一節に啓示を受ける。
そこには、赤い卵は皇帝の緋服の前兆であると書かれていた。
ル・マンセルは、その一説により自らが皇帝だ、という妄想が爆発し、
エリゼ宮(フランスの王宮)に帰還しようとして番兵に阻まれ、何人か射殺する。


★感想
芥川龍之介が『続文芸的な、余りに文芸的な』のアナトール・フランスの項で
失敗作であるが、アナトール・フランスの文芸的体系の要であると喝破した作品。 
伏線として、こどもがソフォクレスの詩を朗読したことで、自殺した女の話が語られている。


まあ、読んだ限りではトビー・フ―パー監督の『悪魔のいけにえ』と同じである。
あるいは、ゴーゴリの『狂人日記』を陰惨した感じである。


一家が全員、神経症という陰惨な人間の話を描いている。
芥川が、この作品に異常な関心を示したことに、救いがたい闇を感じさせる。





『赤い卵』を失敗作だと断ずる芥川のエクスキューズに
またしても、この作家の痛ましい神経過敏が看取できる。案外単純な人だ。
『赤い卵』みたいな作品を、晩年の芥川が断章として発表したことは失笑に値する。



アナトール・フランス小説集〈6〉バルタザール


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posted by 信州読書会 宮澤 at 12:52| Comment(0) | フランス文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

壁 サルトル 新潮文庫「水いらず」所収


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★「壁」あらすじ
スペイン市民戦争の最中、ファシスト政府軍の捕虜となった
パブロは死刑の判決を受ける。牢屋で、執行を待つ。
将校の尋問を受け、仲間のグリスの潜伏先を吐けば、赦免するといわれる。


将校をからかうつもりで、グリスが地下墓所に隠れていると
偽りの供述をするが、なんと偶然にもグリスはそこに隠れていた。
よってグリスは射殺される。パブロは死刑を免れ、運命の皮肉にひとり笑う。



★感想
サルトルの戯曲は面白いが、なぜか小説はつまらない。

描写にリアリティーがないかわりに、主人公の過剰な自意識は綿密に描かれている。
その自意識が、ジッドほどには特異でなく、度し難いヒロイズムを感じさせ鼻につく。


死刑執行を待つ極限状態の中で主人公のパブロが、
自意識で死を理解し、意味づけようとしたあげくに
自分の肉体をとうとう他人のように感じはじめる。



要するに、過剰な自意識が飽和して一種の無感覚になる。
この辺の無感覚ぶりが、カミュの『異邦人』のムルソーと同じだ。


パブロは、仲間を売って死刑を逃れることは拒否する。
それは、仲間をかばうためではなく、正義のためでもない。


『誰のいのちだって価値はない。』とパブロは考えている。
しかし、拷問されれば自分が自供してしまうほど弱いのは知っている。
このパブロという主人公は、なかなか、ひねくれものである。



グリスを渡せばこの身は助かる。だのに私は拒絶しているのだ。
私はそれをむしろこっけいだと思った。これは意地なんだ。私は思った。




以上のようにパブロは述べる。

死に対して無感覚になった人間の「意地」というのは、
これは、カミュの言葉でいえば「自己への誠実」と同じだと思う。



「実存主義」というのは、間違いを覚悟で簡単にいえば、
死の迫る極限状態で「意地」を張ることを、
人間存在の根底に据えたイデオロギーであると思う。


まあ、こんな風に生きられる人間は実際あんまりいない。
「異邦人」的な「実存主義」なんて私には悪い冗談のようにしか思えない。
「死」や「神」の問題をこんなあっさりと「自己への誠実」や「意地」だけで
観念的に乗り越えられるとは、実際のところ到底思えない。


ドイツ占領下でも、実存主義というのがはたして有効性があったのか、よくわからない。
「意地」でレジスタンスなんていいながらも、ただやりすごしてたんじゃないのという疑念もある。
パリのカフェで語るには、実存主義も、おしゃれなのかもしれないけれど・・・。




ただ、小説の登場人物としてなら存在できることは否定しない。
「パブロ」も「ムルソー」も観念の産物としてはリアリティーがある。
その魅力は、なかなか否定しがたい。
彼らは、自意識の病の極端な兆候として、時代性を担った人物像である。



よって、無感覚・無感情のわりに片意地張った主人公なんかが登場する作品は
まずサルトル・カミュの実存主義文学のパクリと断定できる。
その弊害はけっこう深刻。それだけ実存主義文学には、類型化しやすい通俗性があるということだ。




ちなみに、小林秀雄は実存主義文学の方法化されやすい側面を「計算趣味」と名づけ、
サルトルの小説には否定的であった。(大岡昇平との対談「現代文学とは何か」)
もっとも、カミュやマルローにたいしてさえも批判的で、「異邦人」はアウトだそうだ。
プルースト以降のフランスの小説に対しては全否定に近い。なんだかすごいなあ。



ガン患者が、告知されると、まず死の恐怖から絶望し、
やがて死と取引して、死を飼い慣らすことを学び、
死につつある自分になんとか折り合いをつけて
余命をすごすということを、どこかで読んだ気がする。


サルトルの「壁」は、そういう心理的な煩悶の過程が
ずいぶん省略されて描かれていのるで、描写のリアリズムに欠ける。


しかし、後年の戯曲では、『汚れた手』のエドレルのように、
死を飼いならせるような二枚腰のケレン味のある人間を創造しはじめた。
そこには、サルトルの思想的な転向や文学的な成熟が感じとれる。

水いらず (新潮文庫)


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ラベル:サルトル
posted by 信州読書会 宮澤 at 12:48| Comment(0) | フランス文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

居酒屋 ゾラ 新潮文庫 その一


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★あらすじ
14歳で色男ランチエと結婚したジェルヴェーズは、
子供二人をもうけて片田舎からパリに出てきた。


ランチエに捨てられるが、ブリキ職人クーポーに見初められ再婚。
しかし、クーポーの親戚から陰湿ないじめを受ける。彼との間にナナが生まれる。
ふたりはまじめに働き、ジェルヴェーズは、まとまった金を手にする。


そして隣人のグージェ親子からも支援を受けて、洗濯屋を開業する。
クーポーは仕事中屋根から落ちて酒びたりになる。
ジェルヴェーズは、働なくなったクーポーの分まで頑張り、洗濯屋は繁盛する。
彼女も虚栄心から、親戚を集めたパーティーなどに金を遣い、稼いだ以上に浪費する。


クーポーは、妻の成功に内心気を悪くして、酒をあおり、
とうとう街中で出くわしたジェルヴェーズの元旦那ランチエを
我が家に一緒に連れてきて、共同生活するという奇行に打って出る。


ジェルヴェーズは、ランチエに言い寄られ、肉体関係を再開する。
かくして、同じ屋根の下で、不倫が公然と行われる。ランチエが一家を食い物にする。
それを見て育ったナナは不良娘になる。一家は近所の鼻つまみになり、洗濯屋は廃業。
文無しになる。ナナは家出を繰り返し、やがて売春婦になって行方不明になる。


クーポーはアル中で頭がおかしくなって精神病院に入る。
ジェルヴェーズも酒に溺れ、売春するまでに落ちぶれるが、男に相手にされない。
クーポーは精神病院で60時間にわたりリゴドン踊りを踊って狂死。
その姿を見取ったジェルヴェーズも狂気に苛まされ、
狂った夫の物真似で糊口をしのぐ乞食となって、孤独死する。



★感想
アブサンというお酒がある。水島新司の野球漫画の題名にもなっている。
フランスの画家や作家をアル中にして殺した酒である。緑の妖精と呼ばれた。
にがよもぎに神経に有害な成分があり、製造販売禁止になった。
最近、アブサンも科学的な毒性の根拠なしということで一部解除されたらしい。
アブサンの毒素を抜いたといわれる酒にペルノというのがある。




以前、店で注文したら「なにか辛いことでもあったんですか?」とバーテンダーに心配された。
アルコール度40%。咽喉が焼けつく。ストレートで煽って、記憶を飛ばして店を破壊した(うそ)
『居酒屋』はこのアブサンが、いかに民衆を破滅させたかを描いた自然主義の傑作である。
とにかく、あらすじの通り、ひどい小説である。『女の一生』ほど人が死なないが、
人間が落ちぶれる姿が、容赦なくスキャンダラスに描かれている。


格差社会の果てにあるおぞましい世界を、これでもかと見せつけてくれる。
『イワン・デニーソヴィチの一日』の主人公ショーホフが、8年刑務所にいても
山犬になれず、自尊心の砦をますます固めるのに対して、
『居酒屋』のジェルヴェーズは、自尊心の砦を自ら崩壊させ、乞食まで転落する。



「何もかもおしまいだ。そう!なにもかもおしまいだ。
何もかもおしまいだとすれば、あたしはもうなんにもすることはない!」


ここまで、悟ってしまうまで、ジェルヴェーズの唯一の頼みだった人物がいた。
まじめな鍛治屋、グージェである。彼には、個人的にかなり惹きつけられた。
実際、グージェがいなかったら私はこの小説を読むのをやめていたと思う。



ゾラは、バルザックの「人間喜劇」にならって「ルーゴン・マッカール業書」を構想。
ジェルヴェーズの三人の子供のその後の人生を描いた小説も書いている。


ジェルヴェーズの娘ナナが高級売春婦となって破滅する小説が『ナナ』である。
ナナがなかなか笑わせてくれる。『居酒屋』の後半すでに主人公扱いである。


数々のとんでもないいたずらをしでかして、毎度殴られて、ますます素行が悪くなる。
『なしくずしの死』が今まですごいと思っていたが、『居酒屋』に比べるとまだ生易しい気がする。
面白すぎるシーンが満載だったので、また稿を改めて紹介したい。

居酒屋 (新潮文庫 (ソ-1-3))



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ラベル:ゾラ
posted by 信州読書会 宮澤 at 12:25| Comment(0) | フランス文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

居酒屋 ゾラ 新潮文庫 その二



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★グージェの倫理観について
ジェルヴェーズが洗濯屋のパートで稼いだお金は
屋根から落ちたクーポーの治療代で消える。
ついでに、ジェルヴェーズの悲願だった洗濯屋の開業は困難となる。
そのとき、隣人の鍛冶屋グージェが、白馬の騎士よろしく500フラン用立てた。



子供を三人育てながら、亭主を看病し、パートも家事も手を抜かないジェルヴェーズに、
口数が少なく、仕事熱心で、母親想い(ややマザコンぎみ)なグージェは、心に秘めた恋心を抱いていた。
彼は、ジェルヴェーズが、困難に陥るたびにそっと助け舟をだすのだった。人妻へのかなわぬ恋。
その恋心も実はみんなにバレていて、囃したてられると真っ赤になるうぶな青年である。


ジェルヴェーズの目の前でグージェはベックサレとボルト造りの
戦いを繰り広げ、恋の力でグージェが圧倒的な勝利を収めたこともあった。


ジェルヴェーズとグージェの水のように淡い関係は、
お互いへの尊敬と信頼から成り立つロマンスであり、また、経済的余裕の象徴だった。


酒も賭博も女も一切断って、仕事一筋。母親とつつましく暮らすストイックな職人グージェは、
ランチエの登場以降、凄まじい勢いで落ちぶれて、
泥酔と怠惰と放埓で自分を見失いはじめたジェルヴェーズの密かな心の支えである。




「鍛冶屋にたいする愛情は、彼女の誠実さの最後のかけらのように、心の中に残っていた。」


とジェルヴェーズはグージェとの信頼関係を宝のように大切にしていた。
しかし、ジェルヴェーズは旦那と元旦那のふたりの男と一緒に暮らして日替わりで肉体関係をもつ。
その不潔な行為を人伝に聞き、純情青年グージェはかなりのショックを受ける。


それでも、彼女を見捨てないグージェは、クーポーの母親が死んで、
ジェルヴェーズが葬式代も用立てられない時、さらに60フランを、彼女に貸す。
もう、これっきりだと断って。



これっきり、これっきりと思っていたら、
しばらくして、夜道で「お兄さんマッサージいかがですか?」とグージェの袖をひいたのが、
売春婦までなりさがり、吹雪の中を空腹でさまようジェルヴェーズであった。運命の皮肉。



いまどき、こんな露悪趣味の典型のような展開は野島伸司脚本のドラマでも
あ〜り〜え〜な〜い。 しかしそれはそれとして、続く展開は、涙なしに読めない。


グージェは黙って売春婦になったジェルヴェーズを自分の家まで連れてきて、とりあえず飯を食わせる。


そして、がつがつパンを喰らう、老けて太って醜くなったジェルヴェーズを見やる。彼女は泣いている。
かつて、この女を盗み見たくて、電柱の陰で隠れていたことをグージェは思い出す。


食べ終えて、一瞬の気まずい沈黙ののちに、最初のボタンに手をかける売春婦ジェルヴェーズ。
それを制し、グージェは、「ぼくらの友情は全部ここにふくまれている。そうでしょう?」と言って
ジェルヴェーズの髪の房に深い敬意を込めてキスをして、ベッドに倒れこみ号泣。


ジェルヴェーズは、泣き叫ぶグージェを残して部屋から立ち去る。
一般的にいえば、みじめな男であろう。据え膳を断ったのである。


彼女を抱いたら、グージェの倫理観も崩壊するのだから当たり前ともいえるが、
まあ、そんな倫理観に、現在どれほどの価値を見出せるかもわからない。


しかし男の鑑ではないか? こういう誠実さをバカにしていいいいものだろうか?
でもどうだろうか、ここで敢えてジェルヴェーズを抱くのが優しさなんだろうか?わからん。



グージェの「誠実さの最後のかけら」をも裏切って、ジェルヴェーズは人間性を崩壊させた。
グージェが彼女を抱いても、拒否しても、彼女の運命はかわらないだろう。
だが、グージェの大事にしている倫理観は、これを積極的に賞揚することもできない。
実際に、ゾラもそこまで説教臭く、グージェという人物を造形しているわけではない。


逆説的に倫理観を描き出すのに、ゾラはジェルヴェーズを、
徹底的に筆でいたぶって嬲り殺し、断罪させている。


しかし、グージェの倫理観は、正解と出たわけでもない。ここが微妙だ。
単に、グージェが童貞で、勇気がなかった、ちゃんちゃん、で済まされる話だろうか。
もっと大切な何かがあって、それを守ったことで彼が、少しでもましな人生を送れたのだろうか?
ひとりの男が、手前勝手な倫理観を積極的に守ることの困難と虚しさ。重く考えさせられた。

居酒屋 (新潮文庫 (ソ-1-3))




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ラベル:ゾラ
posted by 信州読書会 宮澤 at 12:24| Comment(0) | フランス文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

悪童日記 アゴタ・クリストフ ハヤカワepi文庫

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★あらすじ
激しい戦火の中、双子の少年は、小さな町に住む
おばあちゃんの元へと疎開する。


戦争の過酷さからあらわになる人間性の喪失に
双子の少年は立ち向かってゆく。その結果、いびつに成長する。
登場人物はみんな犬死する。
双子の少年は祖国と亡命で離れ離れになる。



★感想
ハンガリー人、アゴタ・クリストフが25歳からフランス語を習得し、苦心して書き上げ、
スイユというフランスの老舗文芸出版社にいきなり送りつけ出版させた小説。
スイユという出版社は、初めて知ったが、たぶん河出書房みたいなとこだと思う。
この『悪童日記』は、河出の海外文庫のラインナップに入ったほうがしっくりくる。


河出文庫の得意な「猟奇」と「性的倒錯」がいっぱい詰まっている。
双子の少年「ぼくら」が一人称で書いた日記風の断章からなる小説である。
「一人称、日記風」というだけでも、実は、個人的に読む気が失せる。実際、読み飛ばした。


具体的な地名も、人名もない。すべての固有名詞が排除されている。
すべて寓話である。筆者のハンガリー出身という事実だけが担保になった寓話だ。
批判の余地をあらかじめ消し去っている点でなかなか手の込んだ仕掛けになっている。


この寓話から、ハンガリーの過酷な歴史を読みとれということなのか、
それとも、エログロ・ファンタジーとて愉快に読めというのか。よくわからない。
奥歯にものの挟まったようなやけに、もったいぶった小説である。
亡命作家の厳しい渡世だからといって、こういうやり方を許していいのだろうか。


『森繁自伝』なんかは満州侵攻後のロシア人の蛮行をしっかり描いているが、
森繁自身のロシア人に対する評価は、ものすごいインテリと群狼が共存している
国民であるというまっとうな意見であった。ロシア人のみながみな狼藉ではないらしい。



歴史を寓話にして子供の一人称で語らせる手法は、悪辣だが、まだ許そう。
しかし、まともな人間が全く出てこないのは、筆者の想像力と洞察力の欠如である。
リアリズムで描けば、もっと掘り下げるべきテーマがたくさんあるだろうに。
双子の両親の立場から書けば、大人の強いられた複雑な現実が明確になるはずだ。


この両親も酔狂で、収容所に入ったり、亡命したりしたわけではあるまいに。
低脳を自ら証明するかのような、エゴイスティックな両親の姿が描かれている。


大人の視点のリアリズムから逃げきって、子供の寓話として書かれている。
そのような意識的退嬰に敢えて身をやつす、アゴタ・クリストフの態度は腑に落ちない。


対独協力やソ連への密告などの暗い過去でもあるんじゃないかと、私は邪推せざるを得ない。
親の世代をこうも否定的に描き、ヒステリックに弾劾するからには、
なにか一筋ならない理由でもあるんだろう。そう感じた。


悪童日記 (ハヤカワepi文庫)




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posted by 信州読書会 宮澤 at 12:21| Comment(0) | フランス文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

背徳者 ジッド 新潮文庫



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★あらすじ
古典学者ミシェルは四歳年上の敬虔な女性マルスリイヌと結婚し、
北アフリカや地中海近辺に新婚旅行へ出かける。
ホメロスを読みながらの半ば、流浪ともいえる旅行であり、
アルジェリアのビスクラでは灼熱の太陽のもと、アラブ人の少年たちに惹かれる。


プロテスタントであるミシェルは福音書も読まなくなる。
途中、病気になり、パリにもどるが、
旅先での感覚的惑乱によって学者としての生活を続けられなくなる。


マルスリイヌは静脈炎になり流産する。
遺産相続した農地もなかば遊びのように荒らして、処分して、
妻の療養のために再び旅に出る。
ビスクラにたどりつくと、アラブ人相手に背徳的な快楽にふける。
妻は、吐血して死ぬ。



★感想
古典学者ミッシルの友人への告白という体裁をとった物語。1902年発表。


ジッドはこの作品を小説(ロマン)ではなく物語(レシ)と名づけた。
ジッドの作品は、ずいぶん前に『狭き門』『田園交響楽』を読んだだけである。
読後、さっぱり面白さがわからなかった。散文詩みたいな作品だなと思っていた。



『背徳者』も小説としては読みづらく、つまらない。後半は読み飛ばした。
つまらないのだが、ゾラやモーパッサンを読んだ後で、読んでみると、
この作品の先見性に驚かざるをえない。反自然主義文学としては異様な出来栄えである。



この作品を読みながら私は小林秀雄の『私小説論』を読んだのだが、
第三章で、一種のジッド論が展開されており、牽強付会にまとめさせてもらうと、
自然主義が作品の社会性のうちに閑却した作家自身の「私」の問題を、
要するに、社会の生の現実を反映させながら書くことによって失われる作家自身の相貌を、


再び小説内に取り戻す実験を行っていると指摘している。
こういう指摘を含めて読むと意外な新しさを発明した作品なのである。
『背徳者』はジッドの実人生を思い浮かべなければ読めない作品である。


微細な感情を顕微鏡で分析するような告白体は、
登場人物が客観化されていないし、筋の展開も単調で、本当に読むに耐えない。
しかし、古典学者ミシェルが、頽廃に惑溺する描写の中に
生身が割かれるようなジッド自身の苦痛の反映が、色濃く現われているのには驚く。


信仰心なんかに安易に回収されない混乱がそのままに、投げつけられている。
小説の感興からは程遠いが、別種のインパクトがある。


ジュネの『泥棒日記』もサルトルの『嘔吐』もカミュの『異邦人』も
ジッドの『背徳者』なしには現われてこない作品ではないかとすら思う。


それらの作品が持っている問題性を、ジッドが先取りしている。
昨日紹介した『シェルタリング・スカイ』も例にもれない。


作品以上にジッドという作家の存在が大きい。でかい人物だと思う。
日本でいえば佐藤春夫なんかに近いのではないか、と思った。


作品はいいかげんで、私生活も理解しがたいが、その存在ゆえに
他の作家が活動しやすくなったり心の支えになったりするという、
底なしの魅力をもった作家なのではないかと思う。ジッドもそんな気がする。
作品内に簡単に解消されない個性をもっていると思う。


「ジッドにとって私を信ずるとは、私のうちの実験室だけを信じて
他は一切信じないということであった」




と小林秀雄は述べるが、確かに、こういう自我の強い作家は少ない。
逆にいえば、こういう自我のないところに刺激的な作家活動もないのではないか。


全くまとまらない感想だが以上。


背徳者 (新潮文庫)



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ラベル:ジッド
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脂肪の塊・テリエ館 モーパッサン 新潮文庫


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★『脂肪の塊』あらすじ
普仏戦争においてプロシアに占領されたフランスのルーアンから
まだ比較的商売上の自由がきく港町ル・アーブルへ移動するため
様々な階級からなる10人の一行が六頭立ての馬車に乗って出発する。



詐欺師的ワイン問屋のロワゾー夫妻、県会議員で紡績工場主のカレー・ラマドン夫妻
王党派の大貴族ユベール・ド・プレヴェル夫妻、2人の尼僧、共和党派のコルニュデ、
そして、『脂肪の塊』と名高い売春婦ブール・ド・シュイフが旅程を共にする。
ブルジョワどもは皆、侮蔑と嫌悪の混じったの一瞥をこの売春婦に投げかける。
雪が降りしきり馬車は進まない、プロシア兵を厭って街道の旅籠屋は店を閉めている。


みんなやがて腹ペコになる。ブールだけが、豪華で多量の弁当を用意していたので食べ出す。
ブルジョワたちは我慢できず、さっきまでの軽蔑を引っ込めて彼女の御相伴に与かる。



予定を大幅に遅れて一泊目の予定地トートに一行は到着するが、
プロシア軍の一隊に宿屋が接収されている。プロシア士官は、彼らの馬車を足止めにする。



士官はかねてから高名な売春婦ブールの到着を聞きつけて
同衾を迫るが、彼女が頑なに拒むため出発を許さないのである。



ブールの恩義を感じているブルジョワたちは士官の破廉恥な要求に憤るが、
宿屋に釘づけにされるうちに、状況が耐えがたくなり
売春婦が士官と寝て、出発のお膳立てをしてくれることを望みはじめる。
「あの女の商売がそういう商売である以上やむをえない」と勝手なこと言い出す始末。



かくして、ブルジョワどもは暴君を手なずけた女たちの故事を引き合いに出して
ブールに婉曲的に説得をかけ、自己犠牲を強いるが、彼女は沈黙で答える。


しかし、結局哀れなブールはその豊満すぎる肉体で人身御供となり、士官は出発を許す。
ブルジョワどもは不謹慎にも解放の喜びから宴会を催し、シャンペンを空ける。
出発の段になって馬車に乗り込んだブールに、一同の態度は豹変。
みんなでもって、美徳の怒りの視線を投げつける。


しばらくして昼食になるが今度はみんな弁当を用意している。
ブールだけが用意をしていない。ブルジョワどもは恩も忘れて彼女に食物を譲らない。
ブールは激怒するが声にならない。やがて彼女はすすり泣きを始める。
男が気まぐれで口笛に吹いた『マルセイエーズ』によって、祖国の自由が喚起され
その自由の代償を皆が思いいたり、それぞれがかすかな良心の呵責をおぼえる。終り。



★感想
ブルジョワ社会のいやらしい利己主義と自己欺瞞をこれでもかと暴き立てたる稠密な筆遣い。
自然主義のラディカルで凶暴な社会批判が十全に発揮された金字塔的作品である。



馬車に乗るブルジョワ9人が過不足なく役割を果たし、失礼行き届いた愚劣な言動で
『脂肪の塊』ことブールを追いつめていき、彼女を悲劇の娼婦に仕立て上げる。


アリストテレスは『詩学』のなかで悲劇の「あわれみを誘うもの」を分類し順位をつけた。



@知らずに実行し、実行したあとで取り返しのつかないことを認知すること。 『オイディプス王』
A自分が何をするか知り、気づいていながら行為すること。 『メーデイア』



と代表作品を例にあげて、悲劇の文学性を順位づけしている。



『脂肪の塊』は、もちろんAの系統である。
誇り高く、タフで、やさしき娼婦であるブールは、状況打開のために、
いやいやながら売春して、皆から軽蔑され、売春婦は結局、売春婦でしかないという
身もフタもない境遇の事実をやっぱり思い知らされて、悲しみのあまり途方に暮れる。
結果のわかっているブールの悲惨さは、確かに読者にあわれみの念を起こさせる。



モーパッサンの師であるフローベールが死の直前に『脂肪の塊』を激賞した。
ジードによる短編文学史上の傑作との評価を初めとして、フランスの作家の多くが賛嘆する短編。



一方、モーパッサンの諸作を、カミュは「再読に値しない」、クローデルは「関心がない」と述べ、
ジャン・ジオノに至っては、「私の書架には一冊のモーパッサンもない」と切り捨てたそうな。
戦後派作家が読めば、ブルジョワの現状肯定にしかたどりつかない点で、
自然主義の限界をしるしたウエルメイドな短編でしかないという評価も充分にありえる。



脂肪の塊・テリエ館 (新潮文庫)




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2013年06月11日

女の一生 モーパッサン 岩波文庫

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★あらすじ
清純な貴族の娘ジャーヌは修道院の寄宿舎を出て、
やがて自分が住むレ・プープルの別荘で、ラマール子爵に求婚される。
おぼこのまま結婚した彼女は新婚旅行でコルシカ島に出かけ、
とどまるところを知らぬ夫の性欲に恐怖する。



新婚旅行から帰ると、女中として同居した乳姉妹のロザリが
夫ラマールに手篭めにされる。不義の子を産んだため、彼女を追放する。
ジャーヌの父は婿にキレるが、婿も舅に、女中を手篭めにしたことくらいあるだろ!!と逆ギレ。
泥沼の応酬の最中、ジャーヌの妊娠が発覚。男の子を産むが、夫との仲は冷めきる。


ジャーヌは信仰に救いを求めようとするも、パラノイアな司祭のおかげで余計におかしくなる。
懲りない夫は、今度は近所に住む貴族のジルベルト夫人と不倫を始めるが、
司祭の密告でジルベルトの夫にばれる。怒り狂ったゴリアテさながらの彼は、
チョメチョメしている密会場所の羊番の移動小屋ごと崖に落とし、ふたりを抹殺する。


夫の死のショックで、ジャーヌは二人目の子を流産し、神経症を患う。


重ねてジャーヌの母親が死ぬが、彼女の不倫の手紙を遺品から見つけて打ちひしがれる。
(母の不倫の相手の名前はなぜかポル。ジャーヌの息子と同じ名前という皮肉)
せめてもの救いを一人息子ポルに託し、彼を溺愛するが、溺愛しすぎた結果、彼を損なう。


低脳のポルは学校に入れても落第しつづけ、女と駆け落ちしてロンドンに行方を眩ます。
このバカ息子は事業起こして失敗しとんでもなく多額の借金を背負い、手紙で送金を無心する。


結果ジャーヌは財産を処分する羽目になり、ジャーヌの父もその心労から脳溢血で亡くなる。
ひとりぽっちになったジャーヌのもとへ、ロザリが帰ってきて夜通し涙に暮れる。
彼女は過去の裏切りの償いとして、無償でジャーヌの身の回りの世話を申し出る。


ポルはさらに博打で借金を重ね、ジャーヌは肩代わりして文無しになる。
ポルの情婦は子供を産み産褥で死ぬ。ジャーヌが引き取った孫娘を胸に抱き終劇。



★感想
自然主義文学の傑作でありながら、どうしようもなく救いのない小説。
あらすじをまとめながら何人死んだかわからなくなり、電卓で数えた。
身内5人、他人2人、犬8匹。このくらい死んでいる。派手に死んでいる。
『嫌われ松子の一生 』だってこんなに死んでないと思う。読んでないけど。たぶん。



貞操の敗北の物語である。


ジャーヌは貞操を守るほど狂気に陥る。


キリスト教への信仰も全く無力である。
信仰を代表するアベ・トルヴィヤック司祭は、不義を糾弾するあまり
子供を産む犬にすら憎悪を抱き、母犬を惨殺。6匹の子犬はまもなく死ぬ。
1匹だけ救われた犬にマッサックル(虐殺)と名づけて育てるジャーヌも狂っている。




「みんな貞操と無縁の不潔な生活をしています(リゾン叔母以外)」



モーパッサンが一番訴えたいのはそれである。
それを訴えたいがために彼は、半ばヤケクソで書いている。
その歪んだ情熱の発露には、困惑させられるほどである。



『女の一生』のエログロっぷりに漱石は激怒して、反自然主義を決意。
逆に荷風はモーパッサンへの私淑の念を深め、仏語の習得に勤しんだらしい。


最後まで信仰を捨てられず、貞操を守ったジャーヌがたどりついた真理。



「神も嫉妬深い」


これである。


深い小説だ。


トルストイも絶賛した名作。お薦め。

女の一生 (新潮文庫)

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posted by 信州読書会 宮澤 at 11:47| Comment(0) | フランス文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

青い麦 コレット 新潮文庫

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★あらすじ
パリからやってきて毎年ブルターニュの海辺の同じ別荘で過ごす二組の家族。
両家の16歳の少年フィレと15歳の少女ヴァンカは、幼馴染である。


この夏、フィレは避暑にやってきた30歳のマダム・ダルレーと知り合い、
童貞を捨てるが、気まぐれなダルレーの御するがままである。
未練たっぷりのフィレを置き去りにして彼女は、彼の前から消える。


ダルレーに嘘をつかれたフィレは、嘘をつくことをおぼえる。


兄妹のように育ったフィレの大人びた様子と、欲望の煩悶をみたヴァンカは途惑う。
彼らは暗黙の了解のもと許婚になるが、ダルレーの肉感を忘れられないフィレは
ヴァンカを心から愛せるかどうか悩む。ヴァンカは、噂ですべての事実を知る。
彼らは心の中でお互いを非難しあうが、上ずった気持ちのままに夜の庭で抱き合う。
結果、僅かな苦痛と、僅かな喜びを分かち合ったことを確認する。



★感想
コレットが50歳のときに別荘で書いた作品。散文詩的な味わいがある。
堀口大學氏の翻訳は、やや古臭いが、手が込んでいて読み応えがある。
初体験の苦味がみずみずしく描かれている。


青い麦というのは、踏みにじった時に刺激的な匂いがするそうだ。だそうだ!!


功名成して、こういう読者の期待の地平を一歩も踏み外さない作品を書くいうことに
商業的な意味以外になんの意味があるのかいぶかしく思ったのが一番の感想だ。



しかし、読み飛ばしながらも、巧みな心理描写で立ち止まった点が
いくつかあるのでかなり読ませる作品だとは思う。


特に、少年と少女の会話において、紋切型の恋物語を演じていて恥ずかしいという
感情をきちんと語らせているので、作者の作品に対する批判的な枠組みは成されている。
要するに、コレットの自意識のまともさが確認できるので、読者は安心できる。
それが一番重要だ。それを感じなかったら、たぶん、途中で放り出したくなる作品である。


両家の母が、翻訳では一部「影」と名指されている。この意味がよくわからなかった。


第二次性徴を過ぎたばかりの少年と少女の恋愛をテーマにひとつ小説を書こうとすれば、
『青い麦』の中の表現されたものと、同じことを書いてしてしまうのは
避けがたいという意味では結局、古典である。現代の古典。


そして作家を志す読者にとって多分に教育的な小説である気もする。


青い麦 (新潮文庫)

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ラベル:コレット
posted by 信州読書会 宮澤 at 11:40| Comment(0) | フランス文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

トロイアの女たち サルトル サルトル全集第33巻 人文書院


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サルトル全集 第33巻 トロイアの女たち


エウリピデスの『トロイアの女』をサルトルがフランス語で脚色したもの。
なので、話は90%同じ。単なる翻訳。
それをさらに日本語の翻訳で読むのだから完全に無意味な読書だった。



『蝿』のような実存主義的脚色を期待したが、そういうのは一切ない。
『蝿』は長州力ばりに、「実存主義のど真ん中を見せてやる!!」だったのに・・・


半時間で読み終えたが、なお途中、何度か壁に投げつけるのを我慢した。


1965年に上演され、大成功を収めたらしい。サルトル生前、最後の戯曲。
ギリシアをヨーロッパに、トロイをアジアに喩えて、植民地主義の横暴を批判し
フランス領アルジェリアの独立やベトナム戦争反対を
暗に支持したという牽強付会な読みも可能。
上演にはそれなりの政治的意味があったのだろうが、
住宅ローンの溜まったサルトルが、エウリピデスで一発当てにいったような気がしないでもない。





サルトルに裏切られた気持ちでいっぱいである。
作家的良心の呵責はないのかと個人的に思った。
サルトルの挑発的でもったいぶった偉そうな序文は、
期待をもたせるので、読了後に私の怒りの導火線に火がついた。
サルトルがアイスキュロスからエウリピデスに逃げた一冊。
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ラベル:サルトル
posted by 信州読書会 宮澤 at 11:35| Comment(0) | フランス文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ロベルトは今夜 ピエール・クロソウスキー 河出文庫


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ピエール・クロソウスキー, 若林 真訳 ロベルトは今夜



★『ロベルトは今夜』あらすじ
ロベルトのスカートに暖炉の火が付いて燃える。彼女の足があらわになる。
それが機縁となってオクターヴは貞淑で不可解な妻ロベルトの本質を実現するため
目の前で彼女を第三者に陵辱させる。なんのこっちゃ。あらすじもまとまんないや。



★感想
主客の弁証法的止揚という問題が、神学的に扱われながら、ポルノ小説になっている。


昨日紹介した『ムッシュー・テスト』の
テスト氏が、彼の妻のエミリーに同じ事をすれば
『ロベルトは今夜』と同じような作品が出来上がる。
いちいち読解するととめどもなく長い話になり徒労感に襲われるので止める。




この作品を説明するためにこちらから気をまわして、
やれ、カトリックだ、サドだ、意味の論理学だ、フーコーだ、遠藤周作だ、などと
並べ立てて、誰かのもっともらしい解釈を援用しなければ、
理解できない作品だとしたら不親切だと思う。
たいした作品じゃないんじゃないかと疑ってかかるべきじゃなかろうか?



戯曲風の体裁となっているがプロットがないので展開に乏しい。未熟な構成。
エピグラフにコルネイユの『メデ』が掲げられているが、コルネイユに失礼だと思う。
混乱した哲学的観念をそのまま曝したシュールレアリステックな作品。


それを楽しめるかが別れ目。私は生理的に受付けなかった。バタイユも同様。
個人的には小説家としてはクロソウスキーより正宗白鳥のほうが数倍興味深い。
文庫になったので読んでみただけである。


ロベルトは今夜 (河出文庫)
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posted by 信州読書会 宮澤 at 11:34| Comment(0) | フランス文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ムッシュー・テスト ヴァレリー 岩波文庫


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★あらすじ
ささやかな株取引で生計を立て、本も読まないし哲学者でもない
ただ純粋に精神的なテスト氏という人物をめぐる思弁小説
テスト氏とその友人を登場人物とした小説、友人からの手紙、
テスト氏の妻による手紙、作者が書いたテスト氏の肖像的素描、
テスト氏自身の手によるの断章からなる。


★感想
第一章の小説『ムッシュー・テストと劇場にて』は、
小林秀雄によって『テスト氏の一夜』として翻訳されている。
小林秀雄をはじめ多くの評論家、批評家に影響を与えた。


特に、25歳無職の花田清輝が職安のベンチでこの本を読んで、
これなら自分にもかけると思い、就職を断念したエピソードは高名。


漠然として語りがたい感覚的な事象を表現する手腕は卓越している。
鞭で打たれたような痺れを感じる。さすが、詩人だとは思う。
でも、いやらしくなるので断章は引用しないことに決めた。
テスト氏は、ヴァレリーによって仮構された精神的貴族。



どんな人かというと、
神父に言わせると「神なき神秘家」
テスト氏の妻に言わせると「スフィンクス」
テスト氏の友人に言わせると「証人」
私に言わせれば、「カフカの断食芸人」
神を延長として見出さない「デカルト」
野垂れ死にしない「ボーブランメル」
などなど。


よくわかんないけど存在感のある人。
言語の唯物論的認識から生まれた作品だそうだ。(誰がそう書いたかは忘れた)
難解なのでお薦めできませんが、とりあえず文庫化されて手にとりやすくなった一冊。


ムッシュー・テスト (岩波文庫)


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ラベル:ヴァレリー
posted by 信州読書会 宮澤 at 11:33| Comment(0) | フランス文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月10日

嘔吐 サルトル 人文書院


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★あらすじ
歴史研究家で金利生活者のロカンタンが、カフェで書き継いだ思索日記という体裁の小説。
マロニエの樹の根っこに<存在>することの
不安定さを感じて嘔吐をもよおす有名なシーンがある。


ドストエフスキーの『地下室の手記 』と
リルケの『マルテの手記 』に雰囲気の似た一人称の作品である。




気になった部分は、フランスの国粋主義作家で第一次世界大戦の政府主導者のひとりであった
モーリス・バレスをセリーヌ風の罵倒で腐すロカンタンの夢のシーンである。


『私は、国家主義的作家モーリス・バレスの尻べたをぶった。私たちは三人の兵隊だったが、そのうちひとりの顔のまん中に、穴があいていた。モーリス・バレスが近づいて来て、私たちに言った。「よろしい!」それから彼は私たちめいめいに、すみれの小さな花束をくれた。「これをどこにいれたらいいのかな」と顔に穴のある兵士が言った。それで、モーリス・バレスがこう言った。「君の顔の真ん中にある穴にいれたらいいさ。」兵士が答えた。「おれはお前の尻の穴に入れるよ。」そこで私たちは、モーリス・バレスを向こうむきにさせてズボンを脱がせた。ズボンの下に、彼は枢機卿の赤い服をまとっていた。服をまくると、モーリス・バレスが叫びだした。「気をつけろ、おれのズボン下はひもで足の裏につながっているんだ。」だが私たちは彼の尻を、血がにじむまで殴った。そしてそこに、すみれの花弁で、愛国者連盟会長デルレードの顔を書いた。』


第一次大戦に従軍したわけでもないサルトルがこうバレスを腐すのだから
近代戦の悲惨を体験し傷痍軍人となり、その怨恨からバレスを痛罵したセリーヌには、
サルトルの尻馬に乗ったはしゃぎぶりや贋物のヒロイズムが鼻につき
だからこそ、亡命三部作で「タルトル」と罵倒しつづけたに違いない。たぶん・・・


(モーリス・バレスの経歴は福田和也の
『奇妙な廃墟―フランスにおける反近代主義の系譜とコラボラトゥール 』に詳しい。)



物語の後半、独学者と呼ばれるロカンタンの知り合いの男が、
図書館で少年にワイセツ行為を働き、見咎められ殴られるシーンがあるが、
大江健三郎の『性的人間 』に影響を与えていると思われた。


サルトルの小説としては最も完成されているそうなので。お薦め。
難解な印象があったが、読んでみて拍子抜けした。
あまり作品背景を知らなくても一気に読めて、楽しめた。

嘔吐


新訳も出ました。




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ラベル:サルトル
posted by 信州読書会 宮澤 at 13:15| Comment(0) | フランス文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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