信州読書会 書評と備忘録

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カテゴリー:日本文学

2013年06月15日

風景について 花田清輝 講談社文芸文庫 『もう一つの修羅』所収


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もう一つの修羅 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)



このエッセイは、花田清輝版の『東京八景』。以下引用。改行適当。



太宰治は、『東京八景』のなかで、十年間のかれの東京生活を、
その時々の風景に託してかいてみたいという計画を、
ながいあいだ、あっためていた、という。


戸塚の梅雨。本郷の黄昏。神田の祭礼。柏木の初雪。八丁堀の花火。芝の満月。
天沼の蜩。銀座の稲妻。板橋脳病院のコスモス。荻窪の朝霧。武蔵野の夕陽。


――とつぎつぎにあげてくると、いささか小林清親の浮世絵の昭和版みたいな
気がしないこともないが、どうやらかれの記憶のなかからうかびあがってきた
それらの雑然たる風景は、彼の断腸のおもいによっていろどられ、
かれの内部世界において一種独特の光彩をはなっていたもののようだ。


しかるに、わたしは、すでに四半世紀以上も、この東京に住んでいるにもかかわらず、
そういう風景らしい風景を、なに一つとしておもいだすことができないのだ。

太宰は、生活を風景に託してかいてみたいというが、
わたしのように、すでに生活を喪失してしまっているものには
風景もまた、まったく無意味なのだ。
わたしは生活を無視した。ほとんど蔑視した。




そんな花田清輝にも、忘れられない風景がたったひとつだけあった。
それは、何の変哲もない赤坂区溜池三十番地の石塀だった。


その石塀の中には戦前、東方会という農本主義ファシズム団体があり、
戦後には、そこに、真善美社という出版社が戦後には生まれた。
花田清輝の主著である『復興期の精神』はここで出版された、


やがて、石塀の中での『曾てアルカディアに花田も』がはじまり、
宮本百合子や中野正剛の息子中野達彦、岡本太郎、大井広介との思い出、
自著の出版経緯などが、太宰の『東京八景』のような速いテンポで、回顧される。


つづいて、久しぶりに、花田は溜池をとおることがあり、見ると、
その石塀がいともあざやかに消えうせていたと述べ、



――不幸だったか、幸福だったか知らないが、
とにかく、『東京八景』をかいた太宰治には、生活があった。
かれには、兄弟があり、恋びとがあり、友達があり、
いずれにせよ、人間とのさまざまな交渉があった。

ところが、わたしには、そういう私的な交渉が、いっさいないのである。
(中略)
それこそわたしのまわりには、ただの一人もいないのである。
これではどんなに頭をひねってみたところで、太宰治のように
かくに値するようないざこざがおこりようがないではない。


“to make a scene”という言葉がある。


ひとつの風景をでっちあげるためにも、
われわれは、相当、泣いたり、わめいたり、
てんやわんやの大騒ぎを演じなければならないのだ。
(中略)
ひるがえって、考えるならば、わたしは、
あまりにシーンをつくることにおそれているわたし自身に、
いくらかアイソがついてきたのかもしれないのだ。
たぶんわたしは、あまりにもお高くとまっているわたし自身を、
一度、台座からひきずりおろしてみたくなったのかもしれないのだ。





かくして、太宰の『東京八景』読み込むうちに


花田清輝は、おもわず、自己否定のような感慨を漏らすのである。


そのあたりに、苦い感傷があふれていて、結構感動してしまった。

世の中には、泣いたり、わめいたりしないと、決して見えてこない風景がたくさんあるのだ。

花田清輝にそういう体験がまったくなかったとはおもわないが、
そういう個人的な感傷を集団のエネルギーに止揚させる運動を
ながいあいだ主導して、表現における個性を軽蔑しきっていただけに、
この告白には、はからずも地が出たような、抑圧された個性の解放のような、
或は、転向声明のような、哀切な響きがあふれている。


まあ、論敵の吉本隆明が住井すゑの『橋のない川』を読んで泣いたと告白した
花田を評して、「アヴァンギャルドと言いながら、あんなので泣く人なんです」
というような感じで腐していた気がするが、それは案外的確な批判である。
気丈に見えて、芯はウエットな人だったのだろう。人間誰しも弱る時がある


もう一つの修羅 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

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ラベル:花田清輝 
posted by 信州読書会 宮澤 at 14:29| Comment(0) | 日本文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

東京八景 太宰治  新潮文庫『走れメロス』所収


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★あらすじ
心中未遂、薬物中毒、放蕩、恋人の浮気、
身に余るサービス精神ゆえの膨大な負債などで
数々の迷惑な事件を起こし、裕福な実家から義絶され、
仕送りを止められ、ついに一文士として貧窮のなか
生計を立てるの決心を固めた語り手の私=太宰。

20代の我が身に降りかかった事件が
走馬灯のようなせわしさで東京の風景とともに回想される。


最終部で義妹の夫T君の出征を見送るために、芝公園に出かけ、
みすぼらしい風体の太宰は、T君の親族から冷たい視線を浴びせられるが、



『人間のプライドの窮極の立脚点は、あれにも、これにも
死ぬほど苦しんだことがあります、と言い切れる自覚ではないか。』



と大胆に開き直り、T君の妹の留守中の面倒を引き受ける勇ましい宣言をして
自らは、『東京八景』という作品完成のため伊豆温泉に出かける。


★感想
花田清輝の『風景ついて』(『もう一つの修羅』所収)


というエッセイの冒頭において、
『東京八景』がかなり好意的に言及されていたので読んだ。


というかエッセイ『風景について』は花田版の『東京八景』である。
まあ、その感想は、改めて書くとして、(実は結構感動したのだが。)
久しぶりに太宰治を読んで、何ともいえない気分になった。

まあ、高校時代に『走れメロス』や『人間失格』読んだときは、
それなりに興奮もしたし、部分部分では自分のことがかかれていると
(告白するのも恥ずかしいことだが、)錯覚しないでもないのだが、
やがて太宰の自意識過剰ぶりは疎ましい、という相対化の仕方を学んで、
得意げになっていた20頃も過ぎ、いつのまにか若さの確信も揺らいで
好きでも嫌いでもなくなり、どうでもよくなり、今にいたっている。


太宰の文章というのは、粉薬が、一気に飲み込まないと、飲みこめないように
一気呵成に読まないと、読みきれないようなところがある。久々に読んでキツい。

あの甘ったれぶり、被害者を煽り立てるような弱々しさ、
弱々しさというのに語弊があれば、挑むような柔らかさに、
いちいち引っかかっていると読みきれない。
だけども、太宰が32の頃に書いたこの作品は、
30にさしかかる自分が読んで、また違った味わいがあった。


まさしく『かつてアルカディアに私も』とつぶやいてしまいたくなるような
過ぎ去った青春への、近そうでいて、二度と戻れないの距離感が表現されていた。

『苦しみの綜合代理店』みたいな太宰ほど深刻ではないにしても、
誰でもが、30代にさしかからんとすれば、
この小説のさまざまなシーンに、苦しんでいた頃の自分の姿が、
ちらちらと重なって浮かび上がるような、心もちにさせられるのではなかろうか。

高校生のように、希望に満ち溢れているゆえに
甘い感傷に惹かれてしまうのとは別の意味で、
30目前になると、もはや手遅れだ、という実感が
払拭しがたいだけに、感傷も苦みばしってくる。


『東京八景』は、そういう苦みばしった感傷の味わいを、存分に含んだ短編である。


アヴァンギャルドの芸術運動をしていて、「心臓は犬にくれてやった」と
豪語した花田清輝でさえも、これを読んでかなり感傷的になっていた。


花田清輝版の『東京八景』の、核心にある感傷の苦さについては、また改めたい。



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posted by 信州読書会 宮澤 at 14:28| Comment(0) | 日本文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

業苦・崖の下 嘉村磯多 講談社文芸文庫


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★あらすじ
圭一郎は、田舎に妻子を残して近所の娘、
千登世と駆け落ちして上京する。


駆け落ちの理由は、妻である咲子が、
結婚前に、圭一郎の嫌悪する同級生、山本と関係を
もっていたことが発覚し、不和に陥ったからであった。

圭一郎は、一人息子の敏雄や、迷惑をかけた
郷里の父親、妹に対して罪悪感を覚えながらも、
妻を決して許すことができない。
よって、彼は生皮をはぐような自責の念で懊悩する。

上京後、圭一郎は就職もままならず、
父親から奪った預金も使い果たし
なれない仕事によって消耗し、体調を崩す。
生活上の不如意によって千登世も、やせ細る。

★感想

上京後の同棲生活から過去の夫婦生活を回想した私小説。ほぼ実話。

真面目すぎて救いがなく、ユーモアも皆無のため
物語の構造云々など、のんきな感想は、書きようがない。

人間の煩悩の罪深さが投げっぱなしにされ、
それが、宗教によって罪が浄化されることもなく
実にいやな後味を残して終わっている。


小説内でも言及されているように、事態の打開のために圭一郎は
真宗の僧侶の説法を受けるが、反発をおぼえるだけであった。

ただ、この短編は、連作として続編があり、
そっちを読んでいないのでなんともいえない。

年譜によると、嘉村は23歳の年に
安部能成の薦めでスピノザを熟読したそうである。

そういう意味で、妻の貞操への疑念を、
人間の倫理に関する哲学的な問題として
処理しようとして、躍起になるが果たせず、
さらに、経済的な問題まで抱え込んだために
泥沼に陥っていったと感じられる。


キリスト教の倫理と哲学を統一させようとしたスピノザの著作が、
そういう人間に、生活上の救いを与えてくれるかと言うと
さらさらそんなことはないので、ただに気の毒である。


物語に対して超越的な神の視点を欠いた文学である。
無力な人間が、ひたすら懊悩し、のたうちまわる
地獄が描かれている。これでは結末のつけようもない。

しかしながら、嘉村にとっては、この短編を書くことが、
過去の清算であったとしたら、唯一の救いだったかもしれない。
そういう意味で、読者にとって今でも生命を失っていない小説である。



★『業苦』に関連して思い出した作品

小島信夫の『抱擁家族』
これも妻の不貞の疑惑からなる小説だったと思うが、
すでに主人公の倫理観がおかしな具合に崩壊しているために
SF小説としか思えない、とんでもない境地を開拓していた。


トルストイ『クロイツェル・ソナタ』
殺人によって、妻の不貞への疑惑に、結末をつけた。

太宰治の『東京八景』
やはり、恋人の浮気を取り扱っていたが、
その事件を、薬物と、放蕩と借金、心中未遂などで、
追い討ちをかけるように事態を紛糾させることで、
浮気問題を忘却のかなたに押し込めようとした。
太宰に関しては、やはりキリスト教を頼みにして、
自らを受難者として慰めていたふしがある。

よくよく考えると、イタリア文学やフランス文学なんかで
妻の不貞が、それだけで独立した主題として扱われる小説は、ほとんどない。
日本の純文学は、夏目漱石の頃からこの問題ばかりである。


妻の不貞と、夫の倫理観の脆弱さに、
折り合いがつかないというか、
落としどころがないというのは
日本人特有の「家」の問題と、
ひいては「家」を単位とする日本社会の構造的問題に
帰着するので、大問題になってしまうようだ。
逆に、それが、問題になっていないような不倫小説は、
登場人物の社会に対する開き直りの強さと
それを支える彼らの経済的なゆとりの度合いが問われる。

業苦・崖の下 (講談社文芸文庫)





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ラベル:嘉村磯多
posted by 信州読書会 宮澤 at 14:27| Comment(0) | 日本文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

アヴァンギャルド芸術 花田清輝 講談社文芸文庫


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★花田清輝の評論について
ほとんどがペダントリーで成り立っている。
虚空から鳩をとりだすマジシャンのように、
花田が、軽快な手つきで持ち出してくる古典作品に
少なからず通暁していないと、狐につままれたような気分になる。

★写真について
昔読んだ、花田清輝全集の扉に、晩年の花田の写真があり、
若かりしころの美貌が消えうせ、顔面崩壊といった感じでむくみきって
まるで別人といった印象あった。あの写真が本人なのか未だに謎。


★ 『ドン・ファン論』
モリエールの『ドン・ファン』をけなしているのだが、冴えない。

★ 『芸術家の制服』
岡本太郎論。岡本太郎をエドガー・アラン・ポーの『モルグ街の殺人』
探偵デュパンと並べて論じている。力作。



『デュパンが昼の中に朦朧とした夜を持ち込まずにいられ』ず、
『極度に理知的だが、絶えず朦朧とした本能の影につきまとわれている』のに対し、


しかるに、たとえば岡本の『夜』という作品は、夜とはいいながら、
なんとすべてのイメージが、正確で、鮮明に浮かび上がってみえることだろう。


それはまぎれもない本能の世界のなまなましい表現だが――しかし、そこには、
曖昧なものは何ひとつなく、するどい理知の光によって、隅々まで浸透されているかのようだ。
岡本は、夜を描くばあい、どうしても夜のなかに、昼をつつみこまずに入られないのだ。



以上のように述べている。


★ 岡本太郎による花田清輝への弔辞。
開高健が編集した『神とともに行け 弔辞大全?』という本が新潮文庫にあり、
そのなかに、岡本太郎が花田清輝との出会いを回想した弔辞『「夜の会」前後』が所収されている。
この文庫の中では、最も感動的だったので、引用したい。(どうせ品切れだし、改行は適当)


清輝との出会いは、実に偶然なきっかけからだった。
終戦直後、私は周囲を見回して、文化・芸術の状況すべてに絶望した。
だからこそ強烈に、あらゆるものに挑まなければならない。
それは同時に言いようのない孤独感である。単に一人ぼっちということではない。
まるで断頭台にあがっているような、逼迫した思い。どうにもならない。どうしようもない。


あるとき名古屋に行った。ふと友達の本棚に『錯乱の論理』という本があるのを見た。
その題名が私を惹きつけた。パラパラッとめくって、面白そうなので
「これ、借りてくよ」といって持って出た。汽車の中で読みはじめた。

オヤッと思った。当時私はほとんど誰にも理解されず、異質な人間として扱われ、
あらゆる機会にそれを思い知らされたし、また逆にこちらの心にこたえてくれるものは
何ひとつなかったのに。

しかし清輝の一頁一頁を繰りながら、私の心は熱い共感をおぼえた。
ああここに、俺にこたえてくれる人間がいた。

(中略)

その数日後、突然、予告もなく清輝が一人で、上野毛のわが家にあらわれた。
私は窓際にいたが、何かの気配を感じ、ふと外を眺めた。
すると、黒々とした長髪をなびかせて、鋭い眼ざし、緊張した面持ちの彼が、
玄関に向って一直線につき進んでくる。とたんに
「あ、清輝だ」
と思った。まったく顔を知らなかったのに。

(中略)

私が、「二等兵物語」という軍隊時代の体験を書いたことがある。
理由もなく順番に殴られるのだが、そのとき四番目あたりが一番激烈にやられるのだ。
私はいつも、四番目に名乗り出た。
何の意味も、得もない時点で、ただマイナスの運命に挑むためだけに。

清輝はそれを読んだ、と言って、
「やっぱり太郎はインテリだよ。ああいう極限の場で、思想が行動となって出る人間は少ないんだ」
いかにも嬉しそうに笑った。読みものとして、さまざまな反響はあったが、
こんな読み方をしてくれたのは清輝だけ、やっぱり精神の友だった。


花田との邂逅シーンはまるでニーチェの『ツァラトゥストラ』の
第一部のなかの『山上の木』のお話みたいである。そんなことを思った。

アヴァンギャルド芸術 (講談社文芸文庫)



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ラベル: 花田清輝
posted by 信州読書会 宮澤 at 14:26| Comment(0) | 日本文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

厨房日記 横光利一 『機械・春は馬車に乗って』 新潮文庫所収


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★あらすじ
ヨーロッパ旅行から帰国した梶は、日本の近代化の幼稚さを痛感。


そんな折、夜になっても帰らない我が息子を
暗闇の中で捜すが、それが日本における
自分の状況とそっくりだと気がつき心細くなる。
知識人階級の苦しみにあふれる作品。


★作品成立の経緯
偶然、パラパラと横光の短編集を開いていたら、
トリスタン・ツァラと会話している短編があり、
驚いて、読んでしまった。

横光は、ほとんど読んだことがなかった。
写真でみると、髷の結えない新弟子みたいな顔である。


昭和11年の2月から8月にかけての6ヶ月間、
横光利一は新聞社特派員としてヨーロッパを訪問している。

その年、ヨーロッパは大ストライキが起こっており、社会不安に後押しされるように
知識人階級を中心としてシュールレアリズムの運動が盛んになっていた。
滞欧中に、横光はシュールレアリストの代表格である詩人のツァラを訪問した。


ツァラに、日本のことがわからない、教えてくれと頼まれ、
横光は、日本では地震が一番の外敵だと、混乱気味に応えた。

その後、ベルリンオリンピックを観てモスクワに寄り、
シベリア鉄道で帰ってきたそうである。


前半には西欧体験が小説形式でレポートされている。
横光は西欧知識人の生活に、よほどショックを受けたらしい。反省ばかりしている。
後半は、日本の地方に残る封建制の残滓をめぐる愚痴めいた考察であり、痛ましい。

筋という筋はなく、ほとんどが西欧体験の告白書。
小説にする必要があったのか不明。


★トリスタン・ツァラについて
ルーマニア生まれの詩人。ダダイズムの創始者。
思潮社から出ている詩集を昔読んだ。


詩句の観念的な飛躍にロマンチシズムがあるぶんだけ
シュールレアリストにしては日本語に翻訳されても、
ああ、かっこいいなと思えるところがあり、読みやすい。
たぶん、相当な美的センスのある詩人だと勝手に思っている。




★横光の描いたツァラの初対面の印象を以下に引用。



ツゥラアは少し猫背に見える。脊は低いがしっかりした身体である。声も低く目立たない。
しかし、こういう表面絶えず受身形に見える人物は流れの底を知っている。

この受身の形は対象に統一を与える判断力を養っている準備期であるから、
力が満ちれば端倪すべからざる黒雲を捲き起す。

猫を冠っているという云い方があるが、
この猫は静かな礼儀の下で対象の計算を行いつづけている地下の活動なのであろう。
まことに受身こそ積極性を持つ平和な戦闘にちがいない。



『表面絶えず受身形に見える人物は流れの底を知っている。』
なかなかの洞察力である。どっかでパクって使いたい言い回しである。

『酒場でつぶやきたいセリフ集』とか『麻雀必勝法』とか、
『部下に一目置かれたいときのセリフ集』とかに収めるべき警句。

この警句からわかるように横光は対人洞察力が過敏であった。
帰朝後、その洞察力を自分自身に向けてみたら、
いままで気がつかなかった日本のなかの空虚な自分を発見して
号泣したくなるような絶望感を味わってしまう。


小説最終場面の梶の「あーあ、もとの黙阿弥か」という独り語りが
彼の妻の笑いを誘うというユーモラスな終わり方が、わざとらしい。

ザ・カルチャーショックな短編。題名の意味がよくわからない。なんの『厨房』?
ツァラの「シュールレアリズムは日本で成功していますか?」という質問に、
「日本ではシュールレアリズムは地震だけで結構ですから、繁盛しません」と
応えようとして、思いとどまった梶=横光に、アドリブの弱さを感じた。

機械・春は馬車に乗って (新潮文庫)


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posted by 信州読書会 宮澤 at 14:25| Comment(0) | 日本文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

仰臥漫録 正岡子規 岩波文庫



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結核と脊椎カリエスに病み、35歳で亡くなった俳人、正岡子規の日記。
死の1年前から、麻酔剤で昏倒するまでの日々を綴ったもの。


内容は詠んだ俳句、その日の食事と、来客の様子などが、主であるが、
たまに、子規のこらえきれない煩悶が描かれ、せつなさを誘う。


独身の子規は、母と出戻りの妹に看病されていた。
明治34年10月13日の日記の内容は要約すると以下のとおり。


この日、朝から大雨が降る。午後になって晴れると、
子規は精神がおかしくなってきて、「どーしよう、どーしよう」と連呼する。
母は、「しかたがない」と静かな言葉で応えるのみである。


子規は、母に用事をいいつけて、外出させ、家に独りきりとなる。


蒲団から一歩も出られない子規は、枕もとのすずり箱の中にある小刀で
自殺をしようと煩悶する。


小刀を手に取るか否かで迷いしゃくりあげて泣き出す。
さすがの子規も、こういう精神的惑乱を、したためる日がある。


翌春は、麻酔剤を使うようになり、
7月からは日付のあとは天気と麻酔剤を投与した時刻のみが
記されるようになる。明治35年9月19日未明に絶命。




正岡子規が、深刻さを極力排除した我慢強さに仰天する。


これ俳句の精神であるならば、それはひとつの信仰であると思う。
俳句における写生が、眼前の事物の存在を知覚するものならば、
その存在を可能にしている無限は、まさに完全である。



その「完全」を、スピノザは『エチカ』において「神」と名付けていた。


仰臥漫録 (岩波文庫)



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ラベル:正岡子規
posted by 信州読書会 宮澤 at 14:10| Comment(0) | 日本文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

花筐(はながたみ) 白雲悠々―檀一雄作品選  檀一雄 講談社文芸文庫

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★あらすじ
アムステルダムからの帰国子女の少年、榊原は、
海辺の小さな町のカトリック系大学予備校に入学する。


しかし始業日の授業中に堂々と教室を後にした鵜飼と吉良を
本能的に追いかけてしまった榊原は、
入学早々にして学生生活からドロップアウトする。


やがて、鵜飼や吉良の無軌道で自暴自棄の生活に触れることで
榊原は、かつてないほどの精神的自由を得たように錯覚してゆく。


彼らから孤独を証としなけれ結ばれない種類の友情があることを学ぶ。
しかし、榊原がその禁断の友情を手にしたときに、
皮肉にも彼にとってかけがえのない人たちの命を奪ってしまう。


自己への誠実を求めるあまり、反社会的行為の中で破滅してゆく
若者の青春を、享楽的なロマンティシズムまで結晶させた作品。


★感想
檀一雄の24歳の作品。内容はほとんど尾崎豊の『15の夜』である。
三島由紀夫が少年時代に愛読したそうで、この作品に最大級の賛辞を捧げている。



三島の初期の短編『煙草』に登場する伊村や『仮面の告白』の近江などは、
そのマッチョで同性愛的な性格において、
『花筐』に登場する鵜飼という少年の性格の影響が非常に濃い。





ただ、檀一雄が三島由紀夫よりもすぐれているのは、
作品世界を一人称に限りなく近い三人称で描いた点であろう。


美少年の上級生、鵜飼に対立させて、
吉良という頭の巨きな異形の少年を登場させ、


ふたりを榊原の視点から、競わせて、エキセントリックな性格を描いている。


主人公の榊原の立場は、名探偵と怪盗の攻防をドキドキしながら見守る
探偵助手の少年みたいなものである。加速度が大きく、筋の展開が早い。


なので、三島の『仮面の告白』のように、主人公の独白がだらだらと続いて筋が死に、
詩的光景と装飾的比喩以外に、大した展開がないというような構成上の破綻は少ない。



社会のレールからドロップアウトした行き場のない少年たちが
羽目を外し、お道化ながら及ぶ、数々の自己破壊的な行為なかで、
当たりくじを引くように、死を引き当て、破滅する瞬間がまぶしい。



読みながら、上流階級の子弟が別荘地で無軌道に過ごすという
パヴェーゼの『丘の上の悪魔』という小説を思い出した。


祭りの最中に人は死なない、人が死ぬのは祭りの後である
というようなことを檀一雄は、エッセイで述べていたが、


二十代半ばでそういう人生訓を小説結末に盛り込んだ早熟さに舌を巻く。


文章に個性がある。詩的なエピソードが贅沢に詰まっている。



花筐・白雲悠々―檀一雄作品選 (講談社文芸文庫)


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暢気眼鏡・虫のいろいろ―他十三篇 尾崎一雄 岩波文庫

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★あらすじ
小説家志望で、貧窮生活に喘いいでいる主人公の私は、
前の女房をDVで痛めつけた上、友人に譲る形で離婚する。



離婚して一年後に、私は田舎から上京してきた芳江という女と結ばれる。


芳江は、下宿も追い出されるような困窮生活の中でも全く暢気である。
私は、そんな芳江が『暢気眼鏡』をつけて世間を眺めているのだと
感心して眺めている。


そんな芳江も、困窮生活で絶対に子供を作れない時期なのに、
避妊具に細工をして、妊娠してしまう。


お金に困り、芳江は「マネキン倶楽部」(今のモデル事務所か?)で
アルバイトしたり、金歯を売ったりして糊口をしのぐ。


だが、『暢気眼鏡』の芳江もあまりにひどい貧窮のために、沈鬱になる。


最後に作者が出てきて、
この短編を一気に書かなかったことを後悔して終る。


★感想
志賀直哉の高弟、尾崎一雄の出世作。
『暢気眼鏡』は9つ連作短編の最初。
この話の続きはあるらしいが、とりあえずこれだけ読んだ。


私小説だが、宇野浩二の『苦の世界』のような暗さはない。 


★気にいったエピソード
下宿を追い出され、この夫婦は友人の家に押しかけて泊まる。
(檀一雄の家という説あり)
翌朝、三人で、キャッチボールをする。


主人公より、芳江のほうが野球は巧く、速球をグローブでさばいてしまう。
しかし、芳江が妊娠しているのにキャッチボールをしていることに気がつき、やめさせる。


一見どうでもいいエピソードだが、新婚生活の眩しさを描いている。
このキャッチボールシーンは狙って書いたようないやらしさがなく、


自然に書かれているので驚嘆する。


保坂和志もこういうシーンを書きたがるが、なぜか臭みがのこる。


私は、「芳江」のことを「芳兵衛」と読んでいる。
奥さんのことを、「芳兵衛」と呼ぶ旦那のセンスのなさが、もの悲しい。


つまり、貧窮において、暢気であることの、もの悲しさを描いた作品である。


★構成について
私小説の中でも、とりわけ構成に無頓着な作品である。
著者自身の自己弁護が最後にくるような小説はまず、ありえない。
章立ての仕方も、長さがめちゃめちゃである。半ばエッセイみたいである。



しかし、すごいのはこの小説を読んだ誰もが、
おそらく「芳江」を好きになることである。
彼女の暢気さが、突出した才能のように思えてくる。

とはいっても生身の人間なので、暢気さも続かない。そんなところもいい。
まったく飾ることのない、魅力にあふれた女性である。

暢気眼鏡・虫のいろいろ―他十三篇 (岩波文庫)



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ペシミストの勇気について 石原吉郎詩文集所収 講談社文芸文庫

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G・ドゥルーズは哲学の無力を嘆いた。


最近河出から文庫化された『記号と事件』の冒頭でこう述べている。




哲学は力をもたない。力をもつのは、宗教や国家、資本主義や科学や法、
そして世論やテレビであって、哲学はけっして力をもたない
哲学にできるのは折衝をおこなうことだけである。


哲学以外の諸力は私たちの外にあるだけでは満足せず、
私たちの内部にまで侵入してくる。
だからこそ、私たちひとりひとりが自分自身を相手に不断の折衝をつづけ、
自分自身を敵にまわしてゲリラ戦をくりひろげることになるわけだ。
それもまた哲学の効用なのである。





ともすると無力感でいっぱいのような誤解を与える宣言である。


『自分自身を敵にまわすゲリラ戦』


この言葉を考える時に思い浮かぶのが、石原吉郎の『ペシミストの勇気について』である。
シベリア抑留の収容所でであった二十五年囚、鹿野武一の肖像を描いたエッセーである。


人間が徹底的に個性を剥ぎ取られ人権を踏みにじられ
脱人間化させられる苛酷なシベリア収容所生活のなかで、
鹿野が、突然、失語状態に陥ったように沈黙し、絶食を決行する。


理由は、ペシミストとして生きることを己に課したはずの鹿野が、
街の公園での作業の最中に、ある令嬢からパンの施しに与かったためである。


明確なペシミストとして、生きていた鹿野には
人間的なすこやかさと温かさが、
生きる意志を奪う、致命的な衝撃であったのだ。



なぜなら、彼は収容所の殺伐とした集団生活の中で
自らを加害者と被害者という集団的発想を超えた位置に疎外して、
精神的自立を辛うじて獲得していた。


明確なペシミストとしてあることが、唯一の生きる勇気であったのだ。


しかし、ふいに訪れた令嬢のやさしさが、
彼の精神的自立の「位置」を奪うような恐怖であり、
彼の精神崩壊をまねくまでの脅威と映った。


その脅威がひいては、絶食の原因となった。


石原吉郎は、そのペシミスト鹿野の決行したたったひとりの絶食を『勇気』と称える。


私が無限に関心をもつのは、加害と被害の流動の中で、
確固たる加害者を自己に発見して衝撃を受け、
ただ一人集団を立ち去ってゆくその<うしろ姿>である。


問題はつねに、一人の人間の孤独な姿にかかっている。
ここでは、疎外ということは、もはや悲惨ではありえない。
たどりついた勇気の証しである。

そしてこの勇気が不特定多数の何を救うか。
私は何も救わないと考える。


彼の勇気が救うのは、ただ彼一人の<位置>の明確さであり、
この明確さだけが一切の自立への保証であり、
およそペシミズムの一切の内容なのである。


単独者が、単独者としての自己の位置を救う以上の祝福を、
私は考えることが出来ない





自分自身の位置を救うこと、これは自分自身を敵にまわして
ゲリラ戦をくりひろげることにほかならない。
内部に侵入してくる諸力の脅威にあらがって
精神的自立を守るためのゲリラ戦とは、
鹿野のように明確なペシミストになることを要求する。

石原吉郎詩文集 (講談社文芸文庫)



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ラベル:石原吉郎
posted by 信州読書会 宮澤 at 14:06| Comment(0) | 日本文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

草野球の神様 ビートたけし 新潮文庫

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商店街の自営業者の弱小草野球チーム『所沢ブラボーズ』に
野球通のホームレスがコーチとして加わる。


彼によって「野村ノート」を地でいく野球理論を叩き込まれると、
弱小チームのメンバーは覚醒し、連戦連勝の快進撃をはじめる。


かくして、彼は“草野球の神様”と呼ばれるようになる。
はたして彼の正体は…。


★感想
草野球チームが強くなるという、少年野球漫画なみのプロットに
草野球のひねくれた必勝理論と過去の名選手にまつわる
興味深い逸話をまじえることで、大人の興味を引く読み物にしている。



・草野球の神様のコーチング
1. 勝敗にかかわらず、試合後は30分反省会をする。
2. 相手に野球をやる喜びを与えることで、油断させ、負けさせる。
3. 2ストライクまでボールを見る。流し打ちを心がける。
4. 打ったら全力疾走。
5. 捕球したら確実に投げられる場所まで走る。



この通りやって、さらに汚いトリックプレー駆使して、
チームは見違えるように強くなる。
その過程が生き生き描かれていて、読ませる。


野球をやる喜びにおぼれるのが一番危険だ、
勝つには野球をやる嬉しさを抑えなければならない。
という“草野球の神様”の説教があるのだが、
いかにもビートたけしが、好んで言いそうな逆説である。
カリスマの人生訓めいている。こういう逆説が好きな人にはたまらない。


「野球」を「お笑い」に変えても成り立つ意味深な逆説ではある。


作中、いたずらばかりするバカ一号、二号という、脇役が出てくるが、
これを読んだときに、カフカの『城』の測量技師Kの助手である
あるアルトゥールとイェレミアースにかなり似ていると思った。
そういう意味で、密かに実存主義的な趣向を凝らした作品だと思う。買いかぶりか。

草野球の神様 (新潮文庫)


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蝶々の纏足・風葬の教室 山田詠美 新潮文庫


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★『風葬の教室』あらすじ


都会から田舎の小学校に転校して来た本宮杏は、やがていじめを受ける。
かわいい彼女が体育教師、吉澤先生のお気に入りとなったことに
嫉妬したクラスメートの美恵子が、いじめの張本人であった。


杏は陰湿ないじめの数々に耐えられず自殺しようとするが、
遺言をしたためた夜に、姉が、同じようないじめにあって、
周囲を軽蔑し欲望の赴くままに生きると決意することで、
いじめを克服し、立派な不良少女になったのという話を聴く。


その話にカタルシスを得て、勇気づけられ、杏は自殺を思いとどまる。
かくして、彼女は周囲のダサいものすべてに中指を立てて生きはじめる。

★感想
山田詠美を初めて読んだ。ジュブナイルとしては巧い。

中学生時代の教室の嫌な雰囲気は思い出した。
周囲は醜かったが、自分もそれに劣らず醜かった。
中学生というのは、人生で一番醜い生き物である。


新約聖書に以下のようなイエスの言葉がある。

<死にたるものにその死にたるものを葬らしめよ>
すなわち「過去に過去を葬らせよ」という意味である。


読者に、過去の醜い出来事をやたらに追体験させる小説というのは、
つまるところ、小説の著者が未だに過去にかかずらっていることを証明している。



大人であるというのは、かっこいい振る舞いをできることではなく
過去を一顧だにしない強さとともに生きることだと思う。
創造の営みは、そういう強さとともにあるべきではなかろうか?


なんて思った。


蝶々の纏足・風葬の教室 (新潮文庫)


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朝霧 青電車 その他 永井龍男 講談社文芸文庫

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★「朝霧」あらすじ
学生時代の友人の父君X氏。
彼の耄碌よる奇矯な行動を描く。


★感想
戦争前の東京の光景が描かれている。
X氏は、元教員。今は退職している。

すべての教え子のみならず、
彼らの近所に住む人のことまで、
名簿によって憶えている。

よって、彼らが死ぬと面識がなくても葬式に出かける。
そのため葬式爺さんと陰で呼ばれている。
生活上の秩序を重んじ、それが乱れると狼狽する。


要するに、もう現実と幻想の境がなくなるまで耄碌している。
その様子をふんだんなエピソードで読ませる


永井龍男の、40代の作品。
まだ初期の作品なので『青梅雨』の諸作品より
切れ味は鈍い気がする。

朝霧・青電車その他 (講談社文芸文庫)


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くっすん大黒 町田康 文春文庫


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★あらすじ
妻に逃げられた無職の男、楠木正行が、友人で大学生の菊地と
洋品店でバイトしたり、映画製作の手伝いをしたりする。



★感想

5年ぶりぐらいに再読。こんな話だったっけと驚いた。
面妖な人びとが次々と出てきてコントみたいである。
亀を焼いて爆発させたのが面白かった。

30歳前後で男前のお兄さん。
素人なのに芸人っぽい面白さを持っている先輩。
たよりないが、でもみんなから愛されている。
こういうジャンルの人間が身の回りにいるものだ。

たとえば大泉洋。愛すべき人。まさしくそういうジャンルの人だ。
主人公の楠木正行も、そういうジャンルの人だ。

しかし、現実では、昔、人気もので面白かったはずの先輩が、
数年ぶりに飲み会で再会してみたら普通の人に退化していて
がっかりさせられるというか、感傷的な気分にさせられることがある。


くっすん大黒 (文春文庫)



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ラベル:町田康
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アメリカの夜 阿部和重 講談社文庫


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★あらすじ
映画学校を卒業してアルバイト生活を送る中山唯生。
主人公の私は、とりあえずそう名付けた中山唯生の
脳内独白と、彼の巻き起こした事件を語る。

★感想
久々に読み直したら、かなり笑った。
中山唯生の独白がすべてパスティーシュで構築されていて、
引用された諸作品のことを知っている読者には、かなり面白く読める。


プロットがあるので、高橋源一郎の『さようなら、ギャングたち 』よりも読みやすい。
青春の煩悶とドラマを、パスティーシュでもって叙情的に描いたことがすごい。
ただ、これは、田中康夫の『なんとなく、クリスタル』のように
たくさん注をつけて出版すべき小説のような気もした。


主人公が、現実と虚構を混同して生きていることに、自覚的だという意味で
アナトール・フランスの『シルヴェストル・ボナールの罪』に似ている。

こういう作品を、また書いてほしい。
もう書かないのかな。書かないだろうな。
魅力的なパスティーシュがなければ、平凡なプロットしか残らない作家だと思うけど。

アメリカの夜 (講談社文庫)



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ラベル:阿部和重
posted by 信州読書会 宮澤 at 13:59| Comment(0) | 日本文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

まぶた 小川洋子 新潮文庫


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★表題作「まぶた」あらすじ
15才の少女である主人公のわたしと
50過ぎの独身中年男性の逢瀬をスケッチした短編


★感想
どこの国なのかわからない設定だった。
町で最高のシーフードレストランでふたりはデートするのだが、
外国の港なのか、瀬戸内海の漁港なのか、さっぱり不明。


出てくる登場人物は、白人っぽい気もする。
でも、描写された小道具は日本のものである。
具体的な固有名詞が排除されていて寓話仕立てなのだが、
そのためか、イメージがさっぱり浮かばず読んでいて途方に暮れた。
いままで読んできた小川作品でもっとも、トホホな男性が描かれていた。


デートの後の会計でクレジットカードが取引停止になっていて、
ふたりが店の裏口からたたき出される場面は、結構好きだ。

道徳も社会も人間性も知的さも何もない世界にイメージの構築だけで
ストーリーを作っているところに作者の窒息しそうなほどの苦しさを感じた。
モノクロのホラー小説。題名は『見えない海』にしたほうがいいと思う。

まぶた (新潮文庫)



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侏儒の言葉・文芸的な、余りに文芸的な  芥川龍之介 岩波文庫

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芥川龍之介 侏儒の言葉・文芸的な、余りに文芸的な

芥川最晩年の評論的断章。
谷崎潤一郎との「話」らしい話のない小説に関する論争の引き金となった。



現在にも通ずる論考が満ちていて、刺激的な本だが、
芥川の参照にする小説や作家ついての予備知識がなくては、
何の話かさっぱり理解できないという不親切な本でもある。


『三十八 通俗小説』という断章があり、
そこで、芥川が「通俗小説」を定義している。
ただし、この「通俗小説」というのは「探偵小説」や「大衆文芸」を含んだものではないと
芥川が自ら注記している。なので、後々「純文学」と呼ばれるようになった
小説の中での「通俗小説」のことを指していると思われる。



いわゆる通俗小説とは詩的性格を持った人々の生活を比較的俗に描いたものであり、
いわゆる芸術小説とは必ずしも詩的性格を持っていない人々の生活を比較的詩的に書いたのものである。
両者の差別はだれでも言うようにはっきりしていないのに違いない。
けれどもいわゆる通俗小説中の人々は確かに詩的生活の持ち主である。これはけっして逆説ではない




芥川らしい嫌味な逆説だが、それに対してまで
『これはけっして逆説ではない』とエクスキューズをつけていて、
用意周到というか、気の毒なほどに神経過敏である。


『通俗小説中の人々は確かに詩的生活の持ち主である』

という指摘は無視しえない。
クラシックを聴いたり、映画を観たりするような詩的性格を持った登場人物の
詩的生活を描いた小説は、芥川の定義では『通俗小説』ということになる。

現在の「純文学」と一般に呼称される小説のうちで、「通俗小説」の陥穽を遁れた小説を探すのは難しい。
同じく『詩的性格を持たない人々の生活を比較的詩的に書いた』小説を探すのも難しい。

ただ、芥川は、志賀直哉を「通俗小説」の陥穽を遁れた作家として評価しているのが本書でわかる。


侏儒の言葉・文芸的な、余りに文芸的な (岩波文庫)


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posted by 信州読書会 宮澤 at 13:57| Comment(0) | 日本文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

バンド・オブ・ザ・ナイト 中島らも 講談社文庫

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★あらすじ

印刷会社の営業をやめて、フリーのコピーライターになった
主人公のクスリとアルコール漬けの日々を綴った小説。





★感想
クスリで「大脳皮質がおかされ、モラルや愛情がなくなった」世界が描かれている。
前半、印刷会社の営業時代の話は、読み応えあり。



一応、プロットはある。


ただ、プロットがどん詰まりになったにところで、
ラリった脳内からあふれ出る詩的言語の自動筆記が、
津波のように小説を襲って、すべてのプロットが流される。


これが、10回くらい繰り返される。
ここぞ、というときの踏ん張りのない小説になっている。


『今夜、すべてのバーで』に出てきた内科医の赤河や天童寺さやかのような
主人公をモラルの側に連れ戻す人たちが、作品からきれいさっぱりいなくなっている。
結末に近づくにつれて、登場人物がどんどん惨めに死んでゆく。





解説は町田康。この解説が真摯で泣ける。
ついでに、作中、町田康のライブを観に行くシーンがある。



ユーモラスに描かれている。愉しそうだ。読みやすいし。
みんなで鍋を食べるシーンに惹かれる。雑炊を食べたくなる。



合わせて、平常心ではこういうことはできないだろうということが、
まるで、当たり前のように書かれている。そこが怖い。


オーヴァードーズで死んだパンクロッカーの評伝を読んだような
厳粛な気持ちにさせられる。読みながら何度か、天を仰いだ。
救いがたい孤独が、巧妙に隠蔽されている気がする。読後感は鉛のように重い。



バンド・オブ・ザ・ナイト (講談社文庫)



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posted by 信州読書会 宮澤 at 13:43| Comment(0) | 日本文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

水の女 中上健次 講談社文芸文庫

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中上 健次 水の女
★「水の女」あらすじ


闇屋の桑原から女を寝取った富森は、


日がな一日、女に酌をさせ酒を呑み、


博打をうち、若衆と力比べし、暮らしている。


夜は、女とひたすらまぐわう。





ある日、博打で大敗した富森は、


金を調達しようとするが、うまくいかないので、女を遊郭に売る。








★「赫髪」あらすじ


トラック運転手、光造が、ヒッチハイクで拾った女と同棲する。


神代辰巳監督で『赫い髪の女 』として映画化された。


昔ビデオで観たが、内容は全く覚えていない。





★感想


中上健次の評論『物語の系譜 』の上田秋成の章に、


『水の女』を古井由吉と後藤明生の合評で揶揄されて、


珍しく自意識過剰に、中上健次が怒り狂っている文章があった。


どれほどのものかと思って『水の女』を読んでみたが、


やっぱりよくなかった。





1979年の短編集だが、この頃から、なんだか中上健次の描く


主人公の背丈が急に伸びたというか気がする。


リアリズムもなくなり、寓話めいた非歴史的な小説が多くなる。





「水の女」は、川辺に住んでいた女だから「水の女」である。


その背景にだけ、中上健次の描いたリアリズムの担保としての被差別がある。





それ以外は、その後、延々と繰り返されるパターンが揃い踏みである。

無軌道な若衆、荒ぶる朋友、多淫な女、露骨で退屈な性描写などなどである。





そして、夜郎自大な自意識がドカジャンを着て歩いている。


そこに共感できなければ、中上健次の小説は読まないほうがいい、と改めて感じた。

水の女 (講談社文芸文庫)



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ラベル: 中上健次
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2013年06月13日

重力の都 中上健次 新潮文庫


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★『重力の都』あらすじ
山の飯場を転々とし、金がたまると山を下りて
女と過ごす流浪生活の由明は、ある女と暮らし始める。


その女は、夜な夜な伊勢の墓の御人というゾンビに犯され、
「痛ガヒドクナルカラ雨ヲ止メテクレ」というゾンビの声を幻聴をきく。
女は、木綿針で目を指してくれと頼むので、
由明は、いわれたとおりに刺し、女は盲いる。



★感想
谷崎へのオマージュとして捧げられた短編。言い訳としか思えない。


道具立ては、目を針で刺す、鶯の愛玩などは、谷崎の『春琴抄』から
また、ゾンビは折口信夫の『死者の書』からのいただき。


要するに、パスティーシュ。
作者が自前で考えたプロットはない。
よって、なにも、心に残らない。
男と女の出会いをきっちり描くという面倒な作業がよっぽど嫌いらしい。



よって、描写のリアリティーはない。全部おとぎ話のような語りの中で展開されるので、
三人称を装っていながら、結局は、一人称の告白である。独創性のない告白。文飾もマンネリ。



ジッドの『背徳者』でもドストエフスキーの『死の家の記録』でも
トルストイの『クロイツェルソナタ』でもなんでもいいが、
異常体験を告白した小説は、中身が一人称の告白であっても、
冒頭、作者が告白の当事者から伝聞したというエピソードが添えられているものだ。


つまり、遊園地の入り口で、「いらっしゃいませ」と声を掛けるような
虚構の入り口への案内みたいなものがある。


中上健次は、そういうまどろっこしい案内サービスをしないので、
結局、どの短編もいきなり夜郎自大な男が出てきて、女とまぐわいはじめる。
どれも、構成が似通っていて、読者は「ああ、いきなり本番・・・か」と
聞き飽きた落語を、枕なしで聴かされるような気にさせられる。


枕なしで、さらに中身がパスティーシュということを
恥じてないのだか、確信的にやっているのだか知らないが、
そこに、中上健次の傲慢さを感じて鼻白む。


ただ唯一、女が石をぶつけられて血を流している子どもを見たと
唐突に語りだすシーンだけは心に触れるものがあった。そこだけだが。


中上健次のエッセイや評論は好きなんだが、小説はいまいち。
全部モノローグ。都合のいい人物しか出てこないし、
短編では特に顕著だが、古典の世界を幻想として弄んでいる。



なによりうんざりするのは、魅力的なプロットがひとつとしてないこと。
人物の心理描写が深まるような、事件が起こらない。
予定調和の物語である。『路地』云々を無視すれば話は一向に盛り上がらない。



『十九歳の地図』以降、中上作品はフォークナーを導入して世界観だけみせている。
フォークナーが難解なのは、その作品世界に「いらっしゃいませ」という案内がないからだと思う。
難解というより、読み慣れるまでに時間がかかるだけだ。
そういう意味で、中上健次の作品も難解である。

重力の都 (新潮文庫)



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にごりえ・たけくらべ 樋口一葉 岩波文庫


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★「たけくらべ」あらすじ


舞台は吉原界隈。


横町の鳶職人の棟梁の息子、長吉と
表町の高利貸しの息子、正太郎は、
お互いにガキ大将として反目しあっている。



長吉の右腕は、竜華寺住職の息子、藤本信如がおり
正太郎の側には彼が姉のように慕う大黒屋という遊郭の娘、美登利がいる。
信如と美登利は、ふたりは同じ中学校に通っている。


お互いにひそかに心惹かれあうが、信如は僧侶に、
美登利はやがて、遊女となることを運命づけられている。


酉の市の日に美登利は、美しく着飾るが、なぜか気がふさぎ、
それきり、町の子供達とは一切交友を断つ。
信如は僧門へと旅立つ当日の朝に、密かに美登利の家に一輪の水仙を届ける。


★感想
繊細な心理描写と情景描写が擬古文で織り成された名作。


物語の綾の緻密さもさることながら、
登場人物の書き込みように手抜かりが一切なく
三人称の作品として、高水準の域にある。



青春時代が否応なしに限定される吉原という大人の町を舞台にして、
やがて遊女や高利貸しという職業を運命づけられた子どもらの短い思春期を描く。
十代前半の無邪気な純粋さが、哀切に結晶され浮かび上がっている。



目の仇にする信如が、雨の中で下駄の鼻緒を切って往生している姿を見て、
美登利が、意趣返しするどころか、信如への恋心に気づかされる場面が白眉。



美登利は、髷や着物を着飾り酉の市にでかけ、
大人の露骨な視線を浴び、やがて遊女の身となることを自覚する。
信如の存在に代表されるような無垢な子どもの世界からすでに疎外され、
断ちがたい彼への恋情もけして実らぬことを知り、彼女が憂愁に囚われる姿は涙を誘う。



そんな美登利の煩悶に気づかずに、祭りの夜に彼女に冷たくされて、
「大路の往来の夥ただしきさへ心淋しければ、賑やかなりとも思われず」
と、人込みの中をとぼとぼ家路へとつく、幼い正太郎の戸惑いはひとしお哀れ。




信如が美登利に贈った「水仙」、これをコレットの「青い麦」などと比べると
前者の「水仙」の清潔さにこそ、より悲劇的な抒情があることがわかる。




しかし、結局のところ、どちらの世界も狭く、
(子どもの世界を描いているのであたりまえだが)
主人公たちが悲劇の運命に溺れすぎていて、
私が求める文学的ダイナミズムの興奮からはやや遠い。
つまり、登場人物たちのどうしようもない愚劣さや野心を肯定する神々がいない。


その純粋な作品世界に魅了され、高級な余韻に酔わされはするが、
どうも、少女漫画の世界に近い気がして、読後に「・・・」という物足りなさもおぼえる。



そんなこといっていたらきりがないだろう。明らかに贅言でした。撤回。
すばらしい作品。お薦め。五千円札になる作家だけある。
広辞苑に首ったけになって読んだが、そうさせるだけの魅力のある作品。



にごりえ・たけくらべ (岩波文庫)


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ラベル:樋口一葉
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今夜、すべてのバーで 中島らも 講談社文庫


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★あらすじ
主人公の小島容が、アルコール依存症で入院し、更生する顛末を描いた小説。



★感想
非常に面白かった。面白さの質としては見沢知廉の『囚人狂時代』に似ている。
要するに、ルポタージュとしての面白さであって、小説としての面白さではない。
題名からすると、バーで酒を飲むための薀蓄本に見える。完全に裏切られた。




・主人公について

親友で事故死した天童寺という人物が出てくるが、彼は小島容の別人格である。
アル中患者の治療過程は、小島を主人公にして、
家庭崩壊や落伍人生は、天童寺を主人公にして描いている。
要するに主人公がふたりいるのだ。
なので、筋としてはまとまりに欠けた印象を受ける。





だが、脇役は魅力的で、患者をぶっきらぼうに突き放す内科医、赤河の態度や、
アル中男性患者の身勝手なナルシシズムを卑怯だ!! と糾弾する
天童寺の妹、さやかの存在には、説得力があった。



アル中患者に関する情報が充実していてルポタージュとしての読み応えがある。
大量の飲酒の引き金となるアル中患者の精神的葛藤や性格傾向の分析、
胃や肝臓などの身体的変調、具体的な治療方法など、かなり興味深かった。



個人的に一番ショックだったのはこの本を読んで、
あの人も、あの人も、あの人も、今考えると、アル中だった!! 
と思い出したことだ。なんと、絶交した人ばかり!!
アル中に理解があれば、もう少し彼らに寛大になれたかもしれない。





その頃のおれには、貧しいがゆえのプライドのようなものがあった。
自分は“特別な人間だ”という意識。
世に容れられず、また力の試し方を知らないためによけいに狂おしくつのってゆく
自分の才能への過信、不安、その両方が胸の奥で黒く渦巻いていた



以上のような焦燥感を、主人公の小島は、酒で紛らわせているうちにアル中になった。
こういう焦燥感や挫折感は若いければ、誰でも少なからず感じることだと思うが、
繊細で、才能がある人ほど、自分への不安や鬱屈を酒でごまかすようになる。




そして、罪悪感とともに、他人への攻撃性を育み、周囲の人の信頼感を一挙に失う暴挙に出る。
自己嫌悪から忘却へ押流すために酒を飲み、酔っ払うことで仮死状態になり自分から逃避する。
果てしない感情的悪循環で、ますますアルコールは体内を巡り、自らを廃人にまで追い込む。




こういうふうにして一番大切な人々を傷つけてしまった人がいたいた!! 結構いた!!
私自身、多いに迷惑こうむって絶交した人もいるし、
再三にわたって失態を犯して、皆を裏切り、目の前から消えた人もいる。
その人たちのことを思うと、未だに嫌悪感もあるが、病気と考えれば、同情で胸が苦しくなる。



中島らもは、初めて読んだ。面白かったのだけれども、
読んでいて吉田健一や野坂昭如や阿佐田哲也などを思い出すところがあった。


巨大アメフラシが香腺液を分泌するという話は、吉田健一の『酒宴』を思い出す。
すごい器用な作家だと思うが、文体やユーモアセンスに強い既視感をおぼえる。


著者亡き現在では、救いのない作品になってしまった。読者にとっても残酷な作品。
この小説には、更生は不可能という絶望感が漂ってしまっている。痛ましいことに。


今夜、すベてのバーで (講談社文庫)


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青梅雨 永井龍男 新潮文庫


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永井龍男を、初めて読んだ。短編集。
以下三作読んだだけだが、短編としての純度は恐るべき物がある。
読後、震えが止まらない。とんでもないものを見せられた気分。
これら三作品は、睡眠薬が鍵となっている。


『一個』
あと二ヶ月で定年を迎えるサラリーマン佐伯の心象風景を描いた作品。
電車の中で抱きかかえられた嬰児が、吊革に手を伸ばす姿から
サラリーマンの生活に固執する己を反省して、乗客と脳内会話を交わす。

定年後の家の崩壊が兆す。


娘が危篤になった深夜に柱時計がしゃべる


「この家は、つぶされる、かも、知れません。しかし、つぶされるまでは、
私が、こうして、支えて、います、この家は」


怖い・・・。



『冬の日』


出産後に産褥で娘が死んで二年後。再婚する婿に家屋を譲ることになった中年女性、登利は、
部屋の畳を張り替える。大晦日をひとりで過ごし、朝方、睡眠薬で眠った彼女は、
起き抜けに元日の夕焼けを見て、情欲に揺さぶられる。


娘婿、佐伯と肉体関係が出来てしまった登利は、
すべての事情を察している佐伯の同僚、進藤に向かって
自分が醜いせいだと責めてみせる。
進藤は善意の使者を装い、孫と別れる決心をした登利を誉め、慰める。


泥沼の醜い人間模様を、力一杯の善意で
なんとか丸く治めようとする人間の虚しい努力が切ない。




『青梅雨』


事業に失敗して服毒し心中する四人の家族の話。
ひとり養女がいる。全員高齢。
みんな湯に入り、浴衣に着替え、酒を一口呑んでから、致死量の睡眠薬を飲む。


心中が日常生活の延長で行われている。
死を前にして、家族がお互い研ぎ澄まされたやさしさに浸る。
ぬか雨の降る屋外の雰囲気が、幻惑的である。



この作家は、死を肯定しているのじゃないかと思った。
その屈託のない毒気に、肌が粟立つ。


いずれの短編も読んだ後で、登場人物たちの心象風景が、
じわじわと心に染み入り、
泣きたくなるような気分にさせられる。
なぜか、何度も再読したくなる。


青梅雨 (新潮文庫)



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集金旅行 井伏鱒二 新潮文庫


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集金旅行 (新潮文庫)


★あらすじ
望岳荘というアパートの主人がなくなった。彼は、主人公の将棋仲間であった。
主人の女房は、アパートの住人と逐電してしまって行方不明である。
主人のひとり息子の勇太には身寄りがないうえ、
アパートが抵当に入っており、債権者から利息の催促が来る。


主人公は、アパートの住人から、家賃を滞納して出て行った
元住人の名簿を渡されて、滞納金を集金してきて欲しいと頼まれる。
そこで、同じくアパートの住人であるコマツさんという
たいそう美人の中年の独身女性とともに、ふたりで集金旅行に出かける。


コマツさんの同行は、彼女と関係のあった男達から慰謝料をせしめる目的であった。
集金旅行で、行き先がたまたまかぶったので、同行を申し出たのだ。
かくして、謎多き女コマツさんと主人公の不思議な集金旅行の模様が描かれる。



★感想
岩国〜福岡〜尾道という旅程を描いた、ロードムービー風の小説。
中年女性コマツさんが、艶っぽくて、かなり興味をそそられる。
『珍品堂主人』の蘭々女なんかに通じる、えたいのしれない女性である。


彼女の独特の男性遍歴と、独善的な性格が明らかになってゆく。
こういう女性像を描く井伏鱒二はやはり只者ではない。
エロチックすれすれの情景が心憎い。胸騒ぎさせられた。





男と女が同じ旅館に泊まり転々とすれば、いずれしっぽりとなるのだが、
いろいろと邪魔が入って、一筋縄ではいかない。


主人公はあくまでも集金旅行と、心に誓って、恬淡としているのだが、
最後に臍を噛む。この場面が、読者を、むむっと唸らせる。
未見だが、映画化されている。『集金旅行 』

集金旅行 [VHS]


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posted by 信州読書会 宮澤 at 12:42| Comment(0) | 日本文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

余白の愛 小川洋子 中公文庫


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★あらすじ


旦那の浮気が原因で離婚して、
ヴァイオリンのような耳鳴りに病み
耳鼻咽喉科に通院する主人公のわたし。


速記者のYと知りあいになり、彼のペンを持つ指に恋する。
彼に、耳鳴りのことを語り速記してもらうと安心感をおぼえる。


しかし、Yと過ごした時間は、幻であった。


★感想
初期作品。『冷めない紅茶』の《幻想落ち》を踏襲し焼きなおした中篇。
いや、焼き直しといっては失礼かもしれない。
好意的に言えば、『冷めない紅茶』の作品世界を、さらに深化させた作品である。
いずれにしても、読み通すのは苦痛だった。



しかし、読み終えてみて、「すべて主人公の幻想でした」という設定が、
『博士の愛した数式』では、使われなかったことに
今さらながら、ホッとさせられた。(余計なお世話だが)
80分の記憶もなくなる『博士〜』の結末ほうが、まだ読者に親切だ。



一人称の小説を書きつづけるというのはしんどい。絶対に。
筋の展開がすごい遅くなるし、起伏もとぼしくなるからである。
読むほうがしんどいのだから、書くほうもしんどいと思う。


一人称だと時間の経過が単線的になるし、山場がなく、作品がどうしても弛緩する。
この作品も例にもれない。そこで小川洋子において、その弛緩を埋めるのが、挿話である。


明澄な比喩のイメージがあふれる挿話が印象的だ。巧みだと思う。
しかし、それらを生み出す苦心の跡が、ほんのり汗ばむように浮かんでいる。



侯爵のジャスミンの挿話、旦那の不倫相手からポピーを買う挿話、
Yと一緒に自動車の車種を数え上げる挿話、盲導犬の里親をする挿話etc.



こういった丹念な挿話は、それぞれそれなりに読んでいて愉しいのだが、
積み上げておきながら、結末部分に至ってすべての挿話を幻に終わらせてしまう。
この虚しさはいったい何なのだろうか? 


速記者であるYという人物が、抽象的な存在感において、カフカの『城』の測量技師Kに似ていた。
速記者に話を速記してもらうことで、精神分析の自由連想法の効果が生まれ、
主人公が包み込まれるような安心感をおぼえるあたりは、唯一面白かった。


それでも作品の停滞感はやりきれない。
この作家の「わたし」という一人称自体が病だとしか思えない。


地味に書きつづけて、それなりの質を維持している作家だと思うが、
あまりにも筋の展開や結末に無関心だと思う。なぜなのだろう。


自己愛が強いのか? 自意識過剰だという気はしないが、すごく不思議だ。
島尾敏雄の世界観にも似ている気がするのだが、



小川洋子の場合は作品背景が、きれいさっぱり捨象されている。
抽象画みたいになものである。私小説的な臭いがさっぱりない。虚実の皮膜が味気ない。
私小説的になるのを慎重に避けながら一人称を用いるなら、
なぜいっそ三人称にしないのかを知りたいところである。


余白の愛 (中公文庫)



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posted by 信州読書会 宮澤 at 12:34| Comment(0) | 日本文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

思い川・枯木のある風景・蔵の中 宇野浩二 講談社文芸文庫

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★『枯木のある風景』あらすじ
洋画家、古泉圭造の人生と画業を、その友人たちの視点をから描いた作品。



「芭蕉風の写実と空想の混合酒(カクテル)を試みよとおもうんや、」と作風の転換を語る古泉に
友人の島木新吉は深い感銘を覚え、風景を写生しながら古泉の絵画に想いをはせる。


また、合宿先で、古泉の作品に関する芸術談義をかわす、八田と入江は、
その作品に凄まじいまでの妖気を感じることで意見が一致する。



そのとき宿に、電報がきて、古泉が死んだことを知らされる。
古泉は肉体が衰弱するにつれ、不思議なことに才気・気力がますます冴えわたったのだった。
彼の絵は晩年になるにいたって、写実から象徴へ転換し
近年の傑作である『枯木のある風景』は、
野原に転がる枯木を裸婦の如くに象徴した作品だった。



古泉の死の床に向かう島木は、彼が普段見せる飄逸や皮肉が仮面であったことに思い至る。
なぜなら、彼の作品は、それらの仮面の雰囲気とは、全く無縁であったからである。
彼は、キャンバス上でしか、素の自分を曝け出せなかったのだ。私生活は仮面であった。


★感想
宇野浩二が、親交のあった洋画家、小出楢重をモデルに描いた短編。
実は、宇野浩二の諸作品で私が一番好きな作品である。
友情に満ちた作品であると共に、宇野浩二の芸術観が鋭く表現されている。


「生活」と「芸術」の調和を困難にする原因は、
宇野浩二においては、たった一つしかない。





「悪妻」である。





これほど「悪妻」との闘いを描いた作家も珍しい。



古泉の生活に仮面をつけさせたのが、
如才ない妻の存在だったと結論づけている。
悪妻に生活を迫害されてこそ、真の芸術家。



これが、宇野浩二が終生こだわった逆説である。
小出楢重の『枯木のある風景』を画集で眺めながら、読みたい作品。


思い川・枯木のある風景・蔵の中 (講談社文芸文庫)





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ラベル:宇野浩二
posted by 信州読書会 宮澤 at 12:32| Comment(0) | 日本文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

娼婦の部屋・不意の出来事 吉行淳之介 新潮文庫




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★「寝台の舟」あらすじ
女学校の教師である主人公は、夜の街で女に声をかけられ登楼する。
女だと思っていたのは、男だった。かつて華々しい名声を持った男娼だった。
関係は無理で、朝になる。男娼は、身の上話をするが、予想できる範囲から少しも
はみ出すことはない退屈な話だった。
しかし、彼の異様な優しさに感銘を受け、三回訪ねるが、行くのを止める。
女学校の職も辞す。
退職金でプレゼントを買って男娼の部屋を訪ねる空想にふける。
しかし、マザーグースを読みながら布団で寝てしまう。


★感想
男娼を買ったのは吉行の実体験だそうである。
正直、性の探求者を演じる吉行淳之介の律儀さには、敬意を感じる。
ただ、その律儀さがいったい何によるものなのかわからない。
娼婦だけでなく、男娼でさえも自分と同じ目線で捉えようとする姿勢には
自己処罰という言葉がよく似合う。この自己処罰が多くの男性読者の共感を得る。



体験したことの生々しさを、私小説の枠組みの中で
詩的に昇華した短編は、作家としての迫力を感じさせる。
セックスによってあらゆる人間が同一平面に並ぶ瞬間から人間の普遍性を抽象している。



★「食卓の光景」あらすじ
精神病院に夫婦で入院している友人を見舞い、主人公は焼飯を食べたことを思い出す。
そこから、高級中華料理店で、金のない学生が迷い込んで、ソバを注文する。
高級店で場違いな気持ちで恥じ入っている学生を主人公は観察している。


そして、無事に勘定を済ませて出て行くことを応援している。
しかし、空想の中で、その学生が、批判した目つきが気に喰わないと
主人公に向かって、ビール瓶をふりあげてくるので、主人公は学生に説教する。


★感想
吉行淳之介の食卓というのはさみしい。ものを食っている喜びが全然ない。
また、出てくる食べ物が、旨そうに描写されていると感じたこともない。
小説家の資質としては、かなりまずいと思う。長編が下手なのはここに原因がある。


第三の新人はおおよそ食事風景が貧相である。食事に恥の意識がある。
この学生は、食事を楽しめない吉行淳之介の分身である。断食芸人である。



冒頭に、島尾敏雄と安岡章太郎がイニシャルで登場するが、
このふたりが出てこないと、私小説的な担保がなくなり、全く味気ない作品になる。
穿った見方をすれば、思い上がった意識から成り立っている短編小説ともいえる。


こういう思い上がりを、一人称の中にさりげなく落とし込む手腕は悪質だが、
自意識を極限まで押さえ込む操作が施されているので、あまり気にならない。
自意識の操作自体は異様に巧い。異様。ホントに異様。

娼婦の部屋・不意の出来事 (新潮文庫)



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ラベル: 吉行淳之介
posted by 信州読書会 宮澤 at 12:26| Comment(0) | 日本文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

殉教 三島由紀夫 新潮文庫


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三島 由紀夫 殉教 所収 『獅子』


★『獅子』あらすじ
あらすじは、ほぼエウリピデスの『メーデイア』を踏襲しているが、
人物と舞台設定は戦後間もない日本の状況に則してアレンジされている。


満州で事業を営んでいた川崎源蔵の娘、繁子は、
見物がてら出かけた奉天で寿雄と養子縁組し、一人息子親雄をもうける。


敗戦後、満州に侵攻したロシア人の残虐行為を目の当たりにしながら、
繁子と寿雄の一家は内地に引き揚げる。川崎源蔵は突然死する。



引き揚げの前に、繁子は特務機関の陸軍中尉であった腹違いの兄を、
憎しみからロシア側に密告し、兄はシベリアに連れて行かれる。
(この挿話はメーデイアの弟殺しを踏まえている。)



戦後と寿雄は繁子の父の友人である実業家、菊池圭輔のもとで働く。
川崎邸は財産税のために土地ぐるみで処分せざるをえなくなるが
同じく菊地邸はGHQに接収されるので、菊池は川崎邸を買い取ろうとする。


寿雄は、繁子を捨てて、菊池の娘である恒子と再婚し、菊池の事業を継ぎ
さらには川崎邸を自分のものにするという将来の打算と野望に目覚める。
寿雄の企みを菊池から聴かされて、四者による離婚調停の話し合いを強いられた繁子は、
毒入りのジョニーウォーカーをその会合に差し入れて菊池と恒子の毒殺を計画。



毒殺後に海外に逃亡するために、母親の留学時代の知り合いである
アイルランド系アメリカ人、アイゲウス少佐に事情を打ち明け身の上を確保する。


体調不良を理由に会合を欠席して、菊池と恒子の毒殺は実行される。
繁子は息子の親雄を寿雄の愛の慰謝として残すことを拒み、自らの手で始末する。


寿雄が家に戻ってきて、取り乱した繁子に体面する。
こんな事態になってようやく、お互いを心から愛し合っていたことを確認する。




★感想
三島由紀夫23歳の時の作品。早熟である。痛ましいほどに。
《エウリピデスの戯曲『メディア』に拠る》とわざわざ断っただけあって
戯曲を小説に翻案するという試みは、かなり図式的に実行されている。



黙ってエウリピデスから筋をパクリ、短編をでっち上げることも出来たと思うが、
そういうセコサを潔しとしない三島の作家的良心に、尊敬の念ひとかたならない。
しらっとした顔で海外文学から万引きのようにパクりつづけることを止めない
大江健三郎や村上春樹とは格が違う、懐が深い。いや、単に才覚を勝ち誇っているだけかもしれない。



『獅子』という題名は、イアーソーンがメーデイアに吐いた「お前は獅子だ!!」というセリフによる。
メーディアの「一度お産をするなら三度戦に出ることも厭いません」というセリフも
きちんとそのまま流用されている。



子殺しの理由についてだが、
エウリピデスの原作では、子が敵の手にかかって死ぬのをメーデイアが厭ったためになっている。
三島はそれを、息子の親雄が、夫の愛の慰謝になるのを厭ったためとなっている。
それだったら外国へ一緒に連れて言ってもよさそうなものである。
「お母さまもすぐあとから死ぬ」といいながら、繁子が死ぬとこまで書かずに終わる。



子殺しの必然性は三島に至っていっそう希薄になるので、この短編はつまらない。
まあ、毒入りのジョニーウォーカーを届けたのが息子でないのだからこうなるのは仕方ない。




アイゲウス少佐が出てきたところで失笑を禁じえなかった。
ここだけ原作と名前が一緒だ。かなり無理矢理である。
三島にこそ、『メーデイア』の続編まで書く想像力を期待したくなるが残念である。


あやつり人形のような登場人物ばかりである。過度に心理的な人形劇を観させられた気持ちだ。
繁子もメーデイアに比べると感情の起伏に乏しく、ただ陰気な女性である。血が通っていない。



三島小説特有の気の利いた逆説的なセリフ、酷薄な客観的描写、及び饒舌な比喩によって
エウリピデスには、まだ存在したセリフの詩的な余韻が、すべて踏み倒しにされている。


設定の律儀な現代的アレンジには感嘆するが、原作より興趣に欠けるのが困りもの。
結末が尻切れトンボ。原作の筋まで手を入れないとこの作品は悲劇として息吹かない。
エウリピデスの悲劇が三島由紀夫一流の耽美主義で処理されただけの作品になってしまった。

殉教 (新潮文庫)


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ラベル:三島由紀夫
posted by 信州読書会 宮澤 at 12:10| Comment(0) | 日本文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

焼跡のイエス 処女懐胎 石川淳 新潮文庫

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焼跡のイエス/処女懐胎 (新潮文庫 い 3-1)


★『焼跡のイエス』あらすじ
焼跡の闇市にボロを纏った少年が現われる。
主人公の私は、少年を巡るいざこざに巻き込まれ、
彼の出現をイエスの再臨ではないかと疑う。


あくる日、谷中に太宰春台の墓を掃苔して拓本をとった帰り道
私は、少年に襲われて、コペパンと財布を強奪される。
かくして私は、少年をイエスと確信する。


★感想
石川淳の小説をはじめて読みました。
江戸戯作風の小気味よい文体で一気に読ませます。


ボロを纏った少年をイエスとみたてる
平凡な奇想を、筆の力に任せて短編に仕上げました。

文飾の華麗さを嫌味なく愉しめる作品です。

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ラベル:石川淳
posted by 信州読書会 宮澤 at 12:06| Comment(0) | 日本文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

質屋の女房 安岡章太郎 新潮文庫


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★『ガラスの靴』あらすじ
戦後間もない頃、猟銃店の夜番としてアルバイトする主人公の僕は、
散弾銃の弾丸の配達先で20歳の少女、悦子と出会い恋愛関係になる。




悦子はGHQに接収された洋風邸宅でメイドをしていて、
やや頭にワンダーランドが入っているフシギちゃんである。
家主のグレイゴー中佐夫妻は夏休みで留守にしており、
僕と悦子は邸宅で昼間、豊富な食糧や高価な調度品に囲まれて、
たわいもないままごとにふけり、御伽噺のような生活を過ごす。
でも、男女の一線を越えない。


1ヶ月がすぎ、そろそろ夏も終わる頃、備蓄された食糧もつき
僕は悦子との御伽噺が終わる予感と恋愛感情への葛藤で悩み始める。


グラスゴー中佐が予定を早めて休暇から戻ったことで、
悦子と邸宅で合うことが不可能になる。恋愛は危機を迎える



その後、悦子が猟銃店に訪ねてくるが、
モーションをかけても拒否されたので僕は憤り、やがて彼女に幻滅する。
彼女に興味を失った僕は、眠気に襲われる。そして奇妙な電話を受け取る。


★感想
安岡章太郎30歳のデビュー作。北原武夫に見出された作品。
デビュー作の創作経緯は以前紹介した『僕の昭和史 』に詳しいのでそちらを。



村上春樹の書いた『若い読者のための短編小説案内 』に
第三の新人の小説が取り上げられており、この『ガラスの靴』も解説されています。


実作者の体験を踏まえて書かれ、やや図式的ですが、自分の創作の秘訣を明かしながらの
懇切丁寧ですばらしい解説なので、ご興味のある方は一読を。


安岡章太郎の全作品を参照しながら、そのデビュー作の成立過程を分析しています。
苦手だった村上春樹を、ずいぶん見直しました。解説の文章もすばらしいです。


短編に関してかなりの見巧者です。恐れ入りました。
これ以上の書評は私には書けません。謙虚な気持ちにさせられました。



なので、村上春樹の読んだ安岡章太郎についてちょっとだけ感想を。


村上氏の指摘どおり、この作品は青春の終りを「ファンタジー」として昇華させた作品です。
そして「ファンタジー」に「生身の現実」を引き込み、解体させて成立した作品を
『海辺の光景 』と位置付けて、最大限の賛辞を捧げています。
この辺の読みはほとんど江藤淳の『成熟と喪失 』と同じなので興趣にかけますが・・・



(余談ですが、りリー・フランキーの『東京タワー 』の後半は
『海辺の光景』の100歩手前くらいという感じです。すばらしい作品ですけど。)


重要なのは、その後、小説から「ファンタジー」を捨てざるをえなくなった
安岡章太郎と村上春樹自身の小説観の違いを、明らかにしていることです。



「生身の現実」よりも「ファンタジー」に固執し、
《どちらが良い悪いとか、正しい正しくないの世界ではなく
自分はあくまでも「ファンタジー」を追求したいのだ》と、
いつもながらの村上春樹一流の自己肯定をはじめながら、
歯切れが悪くなり、むにゃむにゃと口ごもる印象がスリリングです。
私はその「ファンタジー」に村上春樹の守りの姿勢を感じてがっかりです。誠実さの欠如を感じて。



村上春樹が個人的な親近感と愛着を吐露している稀有な日本の短編です。お薦め。



質屋の女房 (新潮文庫)



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ラベル:安岡章太郎
posted by 信州読書会 宮澤 at 11:58| Comment(0) | 日本文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

夏の流れ 丸山健二 講談社文芸文庫


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★『夏の流れ』あらすじ
二人の幼い子供と妊娠した妻とおだやかな家庭生活を営み
釣りを趣味とする看守の私は
死刑執行を控えた囚人のいる刑務所で淡々と職務に従事している。


新人の看守中川が、死刑囚から蹴られ、騒動が起こる。
慣れない看守生活に嫌気がさしているのを見て
私は彼を釣に誘うが、彼の気持ちは一向に晴れない。


死刑は執行され、中川は退職する。
でも、主人公の生活は変わらない。


★感想
丸山健二の23歳のデビュー作。第56回芥川賞受賞作。
家庭生活と死刑執行という日常と非日常に
折り合いをつけている主人公のたくましい諦観が印象的。


人はなんにために生きているのかという疑問を
一切封殺して、日常性に徹した小説を描くことで
思わぬ迫力が生まれている。


「人生は我慢くらべ」というひとつの真理を提示した作品。


夏の流れ (講談社文芸文庫)


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posted by 信州読書会 宮澤 at 11:56| Comment(0) | 日本文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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