信州読書会 書評と備忘録

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カテゴリー:日本文学

2014年01月27日

志賀直哉の魅力

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こころ 夏目漱石 新潮文庫

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夏目漱石の『こころ』について語りました。






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2013年07月25日

赤目四十八瀧心中未遂 車谷長吉 文春文庫

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無一物となった私が、アパートの一室でモツに串を刺す私小説。
モツに串を刺す行為が、
輪廻の糸車を回すような狂気の様相を帯びる。


会話は関西弁で味わい深い。


ところどころで生き物や花の美しく詩的なイメージが、
まぼろしのように広がるテクニックがうまい。

思わず紋白蝶を追いかけてしまう主人公が愛らしい。
無気味な挿話もあって効いている。


物欲も性欲も捨てきれない主人公の私が、劣等感に打ちひしがれながら、
業に苛まされ、世を嫉み、出たとこ勝負の冒険の日々を過ごす。
電話ボックスでの金銭の授受や
彫り物師から箱を預かったおかげで因縁をつけられるシーンなど
スリルとサスペンスに満ちている。


この作品の中で好きなフレーズは、
「腐れ金玉が勝手に歌を歌いだす」
溜まっていた性欲が、最後のほうでみごとに発散される。


この小説にでてくる登場人物はみんな目つきが悪い。


還俗した坊主の世迷言を仏教説話集にまとめたような作品。
触るものみな傷つけるといわれる車谷作品では、もっとも落ち着いて無害なので読み易い。


他の作品では実名で悪罵を連ねるものもあり
心理的の食あたりを起こすので要注意。


赤目四十八瀧心中未遂
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ラベル:車谷長吉
posted by 信州読書会 宮澤 at 10:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

浅草キッド ビートたけし 新潮文庫

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ツービートの漫才ブームやひょうきん族をリアルタイムで知らない。
よくおぼえているのは、なるほど・ザ・ワールドの特番スペシャルで番組対抗で出演したたけしが、黒柳徹子を「この、ババア」と、おちょくったことだ。スタジオは凍りついていたが、テレビで見ていた小学生の私は笑った記憶がある。黒柳徹子を目の前でババア呼ばわりして笑いをとろうとした芸人はその後見たことがない。あのころのビートたけしはギラついていてアナーキーだった。


「浅草キッド」は、たけしの師匠、深見千三郎に捧げられた小説だ。
深見千三郎はたけしの芸人としての出発点となった、ストリップ劇場フランス座の座長で、最初で最後の師匠である。江戸っ子で口が悪く、そのくせ繊細で、サービス精神旺盛、さみしがりやで、なおかつ孤独の影が常にさしている師匠。
その師匠に感化され、たけしが芸人として独り立ちしてゆく姿が描かれている。



深見の芸でたけしがもっともお気に入りなのが、師匠の持ちネタ「川の氾濫のコント」。
役場の職員が権力をたてにして「役場の人間をナメているのか」と言いながら脅しで女の子のパンツをのぞこうとするセコサが笑いどころのコントだ。
田舎者や権力者の愚昧を徹底的に笑っていくというたけしの芸風は、師匠から引き継ついだことがよくわかる。



芸人としての矜持を忘れないことを教え、本物の芸の迫力を伝えようとする師匠の指導は、浅草の演芸場が時代とともに斜陽になってゆく中で、生身の人間としての生き様を滑稽な悲哀ともに見せることに他ならなかった。


かわいがられたたけしも、浅草に飽きたらずにコンビを結成して漫才するためにフランス座をでてゆく。
師匠はもはやとめるすべがない。修行途中で出て行くたけしと決別する



師匠は漫才を芸だと思っていなかったし、漫才なんか芸じゃないと、本気でそう思っているところもあった。漫才は世の中に出るための足がかりで、芸人の目標ではなじゃない、とたけしは語る。本書は、浅草を飛び出したにもかかわらず、なかなか芸人として売れないところで終わる。そしてその後のたけしの作家や映画監督としての幅広い活躍を見ることもなく、深見千三郎は孤独な焼死を遂げる。師匠と弟子の関係が鮮やかに描かれている。


たけしが深見千三郎と飲んだ夜に、火事があって参ったとTVで話していました。

深見千三郎はウィキペディアによると美ち奴の弟だそうです。驚きました。


浅草キッド (新潮文庫)

続編は「漫才病棟 」文春文庫 こちらもお薦め。






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文壇 野坂昭如 文春文庫

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野坂昭如の含羞の文壇回顧録。副題は「吉行淳之介とその時代」とでも言おうか。
シーンは、色川武大の中央公論新人賞授賞式から始まる。


電通の早朝ブレインストーミングに、
外部スタッフとして参加し、
朝八時から、ビール2本を飲んでいる野坂昭如。
(それもそれで今やってる人がいたらカッコイイが)

『…高校生活一年で少し身につけたハッタリ術によって、いやさらに酒と黒眼
鏡で、どうにか民放を凌いできた。』


こんな具合で、いくら稼ぎがよくても放送業界の仕事に本気になれない。



一方に高校の先輩である丸谷才一や中山公男が、下情に疎いながらも、
フローベール、ソシュールの言語論など、知らない固有名詞を闘わせる世界があり、
そこで文学のとてつもない高みがあることを知り、震撼する。




ついに、民放での仕事から足を洗い、野坂は小説家の志を立て文壇への一歩を踏み出す。
その重要なきっかけとなった人物に関する記述が以下


『書いてみようと発心したのは、名前は聞いたに違いないが、すぐ念頭から
失せた、あの壇上の受賞者の影の如きの存在』


この物故者に対して野坂昭如が過剰なライバル意識を抱いていたことのわかるで興味深い一文。


まだ、文壇があり、文壇バーが隆盛の時代。その周辺をたむろしながら、
野坂は現代文学の双璧を三島と吉行と見極め、常にふたりの動向を追いかける。
特に吉行の人との付き合い方、言葉遣い、服装などに
小説家の典型として「筋が通った」ものを感じとり私淑する。



そして、彼らから認められるかどうかという緊張感の中で野坂は、見切り発車の創作活動を開始。
作家がお互いに、存在を見定めあう文壇の視線の厳しさが随所のエピソードに伺える。
小説家の姿勢というものについて思いをめぐらせたい人にお薦めの本。



文壇知識に疎い人にまたは興味のない人にとっては、
野坂昭如がジブリアニメ「火垂るの墓」の原作者で
「おもちゃのチャチャチャ」の作詞家であるというトリビアを証明してくれる本。



文壇 (文春文庫)




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十九歳の地図/蛇淫 他 中上健次 小学館文庫

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『ぼくは十九歳の予備校生だった。
いや、新聞配達少年だった。ぼくは希望がなかった。』


主人公の「ぼく」は、自分に折り合いのつかない少年。
寮の同室、三十過ぎの紺野は、淫売のマリアさまという
実在するかわからない娼婦の話をぼくに聴かせる。
「ぼく」は紺野をこんな心底軽蔑していて、
こんな風になるなら死んだほうがましだと思っている。
しかし紺野はぼくの心を見透かしたかのように



『三十男はきたならしいな。自分で自分を殺すなら二十五歳までだな。』


と言ってのける手ダレのダメ男。自虐的でしたたか。
だが彼は作品の重要人物だ。



「ぼく」は、みすぼらしい日常生活に堪え切れず、
配達先の気に入らない家庭を地図におとして



『松島悟太郎、この家は無印だが、発見した場所を記念して、
一家全員死刑、どのような方法で執行するかは、あとで決定することにする。』


以上のようなことをつぶやきながらの綿密にリストアップし、
イライラすると次々に脅迫電話をかける。
時には右翼と偽ったり、
東京駅に電話し、狂った兄が夜行汽車に爆弾を仕掛けたと脅す。



やがて、紺野が淫売のマリアさまから金をもらったことを自慢し、
「ぼく」は女に愛されない、紺野以下の人間だと自覚する。
いたたまれなくなってまた脅迫電話をかけ、しまいには号泣する。
別に、犯罪には手を染めない。


この小説は、 梶井基次郎の「檸檬」と同じだと思った。


現実とみすぼらしい自分とのギャップを埋めようとしたとき
檸檬の主人公は、丸善の本棚に洋書を重ねて


爆弾に見立てたレモンを置いたのだし、
「十九歳の地図」の「ぼく」は、自分を受け入れない現実への復讐のために
脅迫電話をかけまくったのだと。


ただ、「十九歳の地図」は「檸檬」に比べて、
美的なものが一切排除されているので
詩情の抑制された、陰惨な仕上がりになっている。


大江健三郎の「セブンティーン」の影響が指摘される作品だが、
案外、安岡章太郎の「悪い仲間」に近いと私は思う。
女を知っているか、知っていないかという
青春の大問題を扱っているのだ。
隣のアパートの夫婦の痴話喧嘩を「ぼく」が醜く思うのは、
そこが原因だろう。紺野はそんなこと思わない。


中上健次の習作と位置付けられる作品。
柳町光男監督で映画化された。
主演は「ゴッド・スピード・ユー!/BLACK EMPEROR 」に出ていた人。
誰だか忘れました。


十九歳の地図・蛇淫 他―中上健次選集〈11〉 (小学館文庫)







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今年の秋 正宗白鳥 中公文庫

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今年の秋 (中公文庫 A 139)



オコナーの短編集を読みながら、正宗白鳥の文体を思い出した。
どちらも文体に力強い確信がある。
逡巡や曖昧さがなくて、彫刻のような輪郭の清明をもった文体だ。
どちらも敬虔なキリスト教徒で、死ぬまで聖書を手放さない人間である。




『私は精神的な目的を信じない者ではない。また、漠然と信ずるものでもない。
私はキリスト教の正統的立場から物を見る。
私にとっては人生の意味はキリスト教による私たちの救済に中心を持ち、
私は世界の中で物を見るとき、このこととの関連において見る』



とオコナーは言う。


「今年の秋」は小説とも随筆とも評論ともいえない二十三篇から成り立っている。


父の死を扱った「今年の春」では、死にそうで死なない病床の父を描いた短編だ。
苦しむ父が、長男の嫁に最期の力で、東京に帰るのかと尋ね、
「帰っちゃならんぞ。ええか。この家にいるんだぞ。」と強く忠告する
末期にいたって、家の心配をする。
もうすでに、死を恐れていない人間を描いている。


これは白鳥が、オコナーと同様に、
人生の意味をキリスト教との関連において捉えていからだ。
父の死が、聖書に描かれたキリストの死と同じように必然的に扱われている。
感傷の入り込む余地がない。
そういう意味で私にショックを与えてくれた作品だ。
作品より人間が先行している正宗白鳥だが、その魅力を伝えるものとしてお薦めは以下。


「正宗白鳥と珈琲」 (同時代の作家たち  広津和郎 岩波文庫 に所収) 
「白鳥の死」    (楢山節考  深沢七郎 新潮文庫 に所収)
「白鳥の精神」   (小林秀雄対談集 講談社文芸文庫 に所収)


白鳥の人柄の温かさがうかがえる。
特に、私は広津和郎を喫茶店で「ここだ、ここだ、広津君!!」と呼びとめる白鳥の話に笑った。
実は、気難しそうにじっと、広津和郎を待っていた白鳥の含羞が目に浮かぶ。







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魚雷艇学生 島尾敏雄 新潮文庫

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海軍兵科予備学生の島尾敏雄が、
終戦までの二年間訓練をうけて
遂には、人間魚雷の特攻隊隊長になるまでの
顛末を描いた小説。魚雷艇学生


学生気分の抜けきらぬまま入隊し
軍隊の中で逆説的に人間関係と世間での
処世術を学んでしまう悲哀がユーモアとともに描かれている。



実用性に乏しい体力作りのためだけの訓練や
軍隊秩序維持のために行使される
修正という名の上官の理不尽な暴力
個人的な意見は一切抑圧された非人間的なの愚劣な日々を
予感と不安と体験と習慣というローテーションで甘受した先に
待ち構えていたものは特攻隊隊長への任命だった。



目前に迫った「死」を精神的動揺としてではなく
捉えがたい観念としてもてあましてしまうあたりに
異様なリアリティーが輝いている。


特攻隊になったとたん、怠惰に傾いていく主人公の感情は
意図せざる反戦的態度だ。



この小説はあらゆるエピソードが凝縮されていて圧倒されるが
第七章「基地で」に最も興味深いエピソードが現われる。


基地進出に当たってささやかな壮行会が特攻隊幹部で料亭にて催される。
宴もたけなわになる頃、突然隣の部屋から海軍下士官の一群が乱入し
「特攻隊が何だ、自分たちも何々だ」といいながら殴りかかり乱闘騒ぎになる。



特攻隊への反感感情の爆発という小事件であり、
死を目前にした特攻隊員にこんな仕打ちがあったのかと
当時における特攻隊崇拝の熱狂的な雰囲気を勝手に想像していた
私に鮮やかな一撃をくらわせた印象的なエピソードだ。


だが、私はこのエピソードを読んで、ある直感に撃たれた。


このエピソードだけは、島尾敏雄の創作なんじゃねえか?
という直感である。しかし、証明する手立てはない。
ないとは、いえないが、その前にも料亭での修正のエピソードがある。



私の直感や洞察力をいたずらに誇示したいわけでなくて、
たぶん、こういう肝心なエピソードに島尾敏雄の想像力が入らないかぎり
凡百の個人的な感傷の枠内の戦争体験談と変わらないと思う。



つまり、敢えて小説にしたというのは、島尾の深い企みがあるはずだと信じる。
感傷の泥沼に筆をとられることなく「魚雷艇学生」を書き継ぐには、
そこに想像力の自由が働く豊饒な余白があったからではないのか。



島尾敏雄というのは、そういう剣呑な作家だと私は勝手に確信している。
「死の棘日記」を私は未読だが「死の棘」にはずいぶん創作があると仄聞する。



島尾の作品内部に表れる繊細な感受性には、常に舌を巻きつつも
それだけが取り柄の作家だとしたら、あんなに惹きつけられないはずだ。
大胆な嘘をつく作家であって欲しいと願うのは贅沢な感傷であろうか。



ふつうだったらあんな草食動物が反芻しているみたいな人の作品惹かれないよ。
島尾のユーモアというのは、案外、グロテスクな想像力に根ざしてるんじゃないかな。
いや、そうあってほしい。



特攻隊隊員に殴られて鼻血だらけになった島尾のシャツが、
翌日きれいに拭い取られているというのは華麗な嘘のほころびかも。


島尾の想像力というものを考えながら読んで欲しい作品だ。
もちろん戦争の記録としても充分感興はあるけれども。
魚雷艇学生 (新潮文庫)


続編は「出孤島記 」「出発は遂に訪れず 」
この辺は文体も違って別作品のような印象がある。






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ラベル: 島尾敏雄
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海辺のカフカ 村上春樹 新潮文庫

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カフカという少年が、「父を殺し、母と姉を交わる」という父の予言から抗うために旅に出る話と
少年時代に戦争中疎開先で一切の記憶を失ない、文盲となり、
星野青年と旅に出る中田さんという老人の話がパラレルに語られ最後に集束する作品。


村上春樹の作品は、私は半分くらいしか読んでない。
重要な作品である「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」「ねじまき鳥クロニクル」は
途中で挫折した経験がある。
しかし、「国境の南 太陽の西」は一気に読んだ。
これだけ、毀誉褒貶の喧しい作家もいないが、私にとって一番の問題は


登場人物の関係がフラットで、セックスや恋愛を通して描いた人間関係はともかく、
それ以外の人間関係を描いた部分に厚みがなかったり、
魅力がなかったりするところだろう。そこがいつもネックになる。



その点で「海辺のカフカ」はソフォクレスのオイディプス王を下敷きにしているとはいえ
なんとか家族関係を描こうとしているので、新鮮だった。
それ以上に新鮮だったのは星野青年と中田老人の関係を見事に描いたことだ。



それにしても、様々な作品が引用される。
マクベス、坑夫、流刑地にて、大人は判ってくれない、源氏物語、菊花の約、ヘーゲルetc.
その他、登場人物の聴くロックやクラシックのナンバー。


これら以外で、私が参考、引用しているなと思った作品名を挙げたい。



まず構成だが、「世界の終り」と同じパラレルストーリーは、
フォークナーの「野生の棕櫚」を思い出させた。


少年が森に行って背の高い兵隊と低い兵隊に出会うのも
「野生の棕櫚」の脱獄囚の話を思い出させる。



少年が森に入って、持ち物を捨てて、森に溶け込むのは、
フォークナーの「熊」に同じ場面がある。


四国の森は大江健三郎の「万延元年のフットボール」以降の諸作品。



中田さんが会話する「入り口石」 その沈黙する石は、
パウル・ツェランの「ことばの柵」所収の「ストレッタ」のテーマ。


ユダヤ人強制収容所アウシュビッツの入り口の白い石。
佐伯さんが落雷にあった人のインタビューをまとめた本を出版したのは
「アンダーグラウンド」を書いた作者自身の体験を織り込んだもの。



勝手な推量だが、創作において以上の点は参考引用にされているのではないかと思う。



そもそもオイディプス王のテーマが中心テーマにして、これだけの作品を引用し作品世界を創造し、
なおかつ、少年犯罪や猫殺し、集団ヒステリーなどキッチュな話題も交え、
神話の予言を変則的な形で成就させて小説を終わらせた手腕は巧みだと思う。



私が、特にこの作品で楽しかったのは、星野青年が出ている章だった。
カフカ少年の話は教養小説(主人公の成長の物語)として読めないが、
星野青年だけは確実に小説内で成長してゆくので、
ここだけは教養小説的な読み応えがあった。
この脇役に読了したこれまでの村上作品で感じたことのない親近感と興奮をおぼえた。



オイディプス王のテーマが入っているので、
最初から都合のいいファンタジーが物語の展開上入ってくるのは止むを得ないが、
必然性のないセックスが適当に織り交ぜられるのは、
いつもの村上作品にも感じるが下世話な感じがした。
疎開先の女教師のヒステリーの原因とか、書く必要ないんじゃないかと思う。


それでも、星野青年以外の登場人物は全くもって好きではないが、
構成的には読ませるし、先を読みたいと思わせてくれるだけで
幸せな読書体験が得られるお薦めの作品だ。

野生の棕櫚 (新潮文庫)

万延元年のフットボール (講談社文芸文庫)

熊 他三篇 (岩波文庫)

パウル・ツェラン詩集



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暗室 吉行淳之介 講談社文芸文庫

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吉行淳之介というのは短編小説やエッセイが主な作家で
私小説の枠組みを外すことがないので
長編小説は、短編の連作のようなものが多い。
作品群も人間関係の機微に関する達人いう趣があって、
エッセイに延長のみたいで
その点で、作品評価を貶める結果になっているのは残念だ。


感覚に根ざした自己規範が強い作家なので、
作品の深化があっても、転換がなかったのは確かだろう。
高度経済成長の中で文学も政治も制度化していく中で
個人の感覚を楯に、果てしない撤退作戦をしていた感じがする。



私は現在28歳なのだが、改めて「暗室」を読み返して
こういう一節に目がとまる


『たとえば、十五年前私は二十八歳で、自分がすっかり年寄りになったと感じていた。二十二歳の娘とは、不釣合いで交際する資格がないという気持ちだった』

なるほど。と思う。
身につまされる気もするが、こういう言葉に反応する姿を、人に知られたくない。
作者と心の恥部を共有しているような錯覚をおこさせる。
なので、吉行ファンが近くにいると鬱陶しいだろうなと思う。


吉行の作品を最初に読んだのは20歳くらいのときで「砂の上の植物群」だった。
文章もぎこちないし、展開もないし、低レベル作家だなというのが印象だった。
25歳くらいになってエッセイや、対談に触れる機会があり、端的にいってハマッた。
こつこつ文庫を蒐集して40冊くらい持っている。
最近は、たまにエッセイを読むくらいだ。一度読んだものでも楽しめる。



さて、話を戻して「暗室」だが、別に暗室の中の女がどうだという話ではなく、
不可解な女に惹き付けられる主人公の心の揺れがこまかく描写され、
たまに詩情のある挿話が挟まれるだけ作品だ。



「暗室」モデルの女性の暴露本が出たが、その中の吉行はグロテスクで読後感が悪い。
私は未だに気づかないが、いつか、吉行作品のいびつさを感じとれるようになりたい。

暗室 (講談社文芸文庫)



追記

35歳になってこの自分の感想文を読んでみて
恥ずかしいなあというおもいでいっぱいです。


人生というのは自分で納得できるほど単純ではないなあと
30半ばになってわかり、謙虚になりました。




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posted by 信州読書会 宮澤 at 10:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

老妓抄 岡本かの子 新潮文庫

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人生の酸いも甘いも噛みしめてきた老妓が、
電気工の若者、柚木を家に連れてきて
彼のやりたいと望む発明の仕事を世話してやる。


しかし、柚木は口だけ達者で手がすすまず、
老妓の養女が子供の癖に色目を使ってまとわりつくので
老妓の真意を測りかね、鬱陶しくなって家を飛び出す。
老妓はそんな柚木のわがままさも無関心であしらう余裕がある。


老いの達観に抗う女の情熱が、妄執となるギリギリを描いたエロチックな作品。 



永井荷風の世界を、老妓の視点で描いた傑作。
あるいは、長回ししない溝口健二の映画みたいだ。


下世話に言えば、細木数子がタッキーに何されても許すみたいな話。
隙のない技巧的な文章で、老境の頽廃が優美に描かれている。
人間の毒気に当てられたい人にお薦め。

amazonで買うならこちら『老妓抄 (新潮文庫)』



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ラベル:岡本かの子
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異形の者 武田泰淳 中央公論社日本の文学67

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日本の文学〈第67〉武田泰淳 (1967年)


他力本願の一宗派の僧侶となるべく、出家した主人公の加行生活の話。
主人公は左翼運動体験者であり、運動に敗れて実家の寺を継ぐため出家する。
裕福な寺で生まれただけで、加行も融通が利くという矛盾や
止みがたい女への煩悩からの愚行、衆僧を示嗾してのハンスト決行など、
出家したとしても寺もひとつの世間でしかない現実が描かれている。


主人公は、穴山という衆僧とささいなことから決闘になる。
その決闘を前にして、本堂の阿弥陀如来に心の中で語りかける。



『あなたは人間でもない。神でもない。気味のわるいその物なのだ。
そしてその物であること、その物でありうる秘密を俺たちに語りはしないのだ』



現代で出家するという意味はなんなのか、問うた作品だと思う。



武田泰淳は浄土宗の裕福な寺に生まれた。
彼自身の加行体験も投影されているのだろうが、
禅宗のような厳しい修行がないので、出家ってこんなものなのかと疑問に思った。


「食う寝る坐る永平寺修行記 」野々村馨 新潮文庫を読むと
曹洞宗の修行の基本は、蹴る殴るの指導と飢え、ひたすらな座禅と描かれている。


禅宗と比べても仕方ないが、禅宗が内省から無にいたる単純な過程だとすれば、
浄土宗は来世の地獄極楽まで因果を含んでいるの厄介だなというのが感想。


現世は地獄か極楽か悩む人にお薦め。
読んでもなにも答えは出ないが、
悩むこと自体のリアリティーを幽かに教えてくれる。







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おまんが紅・接木の台・雪女 和田芳恵 講談社文芸文庫

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「接木の台」は、老年の主人公がかつて不倫関係を持った女と電車で出会うという小品。


作者の和田芳恵は徳田秋声に傾倒しており、
「接木の台」は、秋声の私小説のようなとりとめのない叙述が印象的だ。
中年の恋愛というのが古傷を舐めまわすような、
居心地の悪い痛みをしんみり噛み締める類のものあることがわかる。


私が最初に読んだ和田作品は「おまんが紅」で、これは名品だと思った。
新聞記者と田舎から出てきたばかりの春駒という名の娼婦との恋愛話だった。


男の穿いていたズボンを寝圧しするために、春駒がたたんで蒲団の下に敷くのだが、
折り目が前ではなく横についてしまって恥をかくという挿話が、
ふたりの関係が深まるきっかけになっていた。



「接木の台」も、ふたりが初めて一夜をともにした夜に
女がズボンを寝圧しするために、
主人公が脱いだズボンからベルトをはずし、
ポケットから財布を取り出した光景を
しみじみ思い出すところから
一挙に主人公の回想が始まる。
そのあたりに、私小説的な結構の緩さがあるにもかかわらず読ませてしまう切迫感を感じる。


ズボンの寝圧しというのが、女性のまごころであることが判る作品。



おまんが紅・接木の台・雪女 (講談社文芸文庫)

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ラベル:和田芳恵
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珍品堂主人 井伏鱒二 中公文庫

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学校の先生崩れの骨董愛好家、珍品堂(57歳)の
骨董をめぐる悲喜こもごもの人間模様を描いた傑作。


骨董愛好家達のめんどうなやりとりだけの話だったらつまらない。
実際、そんなチマチマした好事家のための小説ではない。


白眉は珍品堂が、金主を見つけて「途上園」という
会員制高級料亭を経営する顛末で、そこがめっぽう面白い。


九谷という金主を掴まえた珍品堂は
蘭々女という審美眼から性癖にいたるまで一筋縄で行かない
茶の湯のお師匠さんをコンサルに迎え、開業準備する。
女中教育を按配するくだりなどは
料亭経営のいろはを指南してくれて興味深い。



蘭々女の経営指南はこんな感じ。

『…総じてお客というものは、割合に女中の後姿に風情を感じるものである。ことに、旧式の大宴会の場合にはそうである。その風情を身につけさすには彼女たちを合宿させるのに限るのだ。女ばかりが一つ屋根の下で寝起きしていると、お客のいやらしさも、むさくるしさも、つい懐かしくなって夕方が来るのを待ちかねるようになる』


とにかく、水商売の肝要を委細尽くした女史なのだ。
彼女のおかげと珍品堂の美食センスで店は大繁盛。
だが、珍品堂と蘭々女の間に確執が走り、珍品堂は「途上園」を追っ払われる。



作中、小林秀雄をモデルとした来宮という大学の先生が出てくる。
彼が、ラストで珍品堂の窮地を救い、話は終わるのだが、
珍品堂の逆上を、「鮎の友釣」の話で治めるくだりも気が利いている。


井伏はやっぱり手練だな、と私を嘆息せしめた作品。
骨董文学としても読めるが、それより料亭文学としてお薦め。


登場人物のモデルが知りたい。


珍品堂主人 (中公文庫)


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ラベル:井伏鱒二
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美しさと哀しみと 川端康成 中公文庫

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「十六七の少女」は作家の大木年雄の出世作となった小説であり、
少女時代の上野音子をモデルにしたものだった。
十七歳で、大木との間にできた子を流産し、自殺未遂を犯し、
精神病院へ入院する音子との顛末を描いた純愛私小説だった。
その後、大木と別れた音子は、心に傷を負ったまま日本画家となる。


大木が二十四年ぶりに京都に訪れ音子に再会する。
裏切られてなお大木を密かに愛している音子に嫉妬し、
音子の内弟子、坂見けい子は、師匠の仇討ちを模して
大木と大木の息子である太一郎を誘惑し、罠にかけるが…



官能と抒情のロマネスクということだが、
品のいい渡辺淳一の作品のようにも思える。
何作もの作品と並行して書かれた作品の割に、物語の綾はきめ細かい。
だが、最後のシーンはなかなか安易で、火事で終わる「雪国」と何ら変わらない


意外なことに、古典文学や絵画の作品論の挿入がかなり多い。
この辺の薀蓄は、渡辺淳一に通じるものがある。


それぞれの登場人物は、造形の輪郭がぼんやりとしているにもかかわらず、
鋭い狂気を発散させる瞬間が何度もあり、ひやっとさせられる。


日本画や古典文学が含むような幽玄な美をたたえた作品。
加山又造の挿画が雰囲気を出している。


お茶漬けみたいな作品。晩酌しながら、1章ずつ読むのがお薦め。

美しさと哀しみと (中公文庫)

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ラベル:川端康成
posted by 信州読書会 宮澤 at 09:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

富士 武田泰淳 中公文庫

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富士山麓の精神病院を舞台とした小説。
設定はサナトリウムを舞台としたトーマスマンの魔の山に近い。


精神科医の実習生の大島、院長の甘野、黙狂少年岡村、
自らを「宮様」と称する一条青年など、いろいろの人物が出てくるが、
物語を牽引するような魅力的な人物は一人も出てこないので、平板な長編小説だ。


読みやすいが、止め処もなく長い。



富士山がいつ爆発するのか楽しみにして読んだが、
残念ながら最後まで爆発しなかった




唯一の山場は、一条青年が警官に変装して天皇に精神病院の惨状を直訴し
憲兵に拷問されて死ぬという事件が起こり
天皇からの恩師品が精神病院に届く。
それを機に病院内でカーニバルが起こり、
甘野院長の自宅が放火されるという事態が勃発。


ドストエフスキーの小説にも通ずる典型的な物語のパターンを踏襲してみせた作品。
一条青年のモデルが秩父宮であるという説もあるが、それにしても、だからなんだという感じ。



このような19世紀的な長編小説を
敢えて書いた武田泰淳の試みを、賛嘆しないでもないが
読み終えた後の、深い徒労感は払拭しがたい。



晩年ビールを飲みながらでないと創作できなかったといわれる武田泰淳であるが、
そのような状況下、中途で投げ出すことなく、粘り強く書き継いだという意志を
少なからず感じることができた。



精神病がテーマになっているにもかかわらず、
フロイトの精神分析を一切無視して書き終えたことだけが、
小説家武田泰淳の面目躍如だと思う。そうではないだろうか?

富士 (中公文庫)

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posted by 信州読書会 宮澤 at 09:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

博士の愛した数式 小川洋子 新潮文庫


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★あらすじ
交通事故で80分しか記憶のもたない老数学者の「博士」の家に
家政婦として派遣された主人公たちの清らかな交流を描いた作品。
主人公は若くして離婚し、小学生の一人息子を育てていて、
博士はその子にルートというあだ名をつけてかわいがる。
博士とルートは同じ阪神ファン。


博士は、数字の持つ神秘によって2人を魅了し惹き付ける。
ルートは博士との交わりを通して成長する。
一種の擬似家族の関係はルートの誕生日会にクライマックスを迎える。
博士はやがて、80分の記憶さえも失い施設に入る。
ルートは中学校の数学教師の資格をとる。



ウェルメイドな作品。
数学と阪神をめぐる挿話はどれも魅力的で清潔。


博士は「実生活の役に立たないからこそ、数学の秩序は美しいのだ」と述べる。


数学の秩序のイノセントな美しさとは対照的に、人間の心理は混沌としており、
博士と複雑な関係にある義姉の存在はそれを象徴している。
ヒステリックな義姉は必要以上に干渉したとして主人公を家から追い出すが、
イノセントな感情で結びついた博士と少年の絆が、再び彼らを博士の元へ戻らせる。


博士と義姉の過去の恋愛関係が、少しだけ触れられているが、最後まで曖昧なまま終わる。
よって、結末のとってつけた感は否めない。
じゃあ、そこに踏み込むのがよかったのかといえば、そうでもない。
そうでもないか? 


同じく数学者を扱った「ビューティフルマインド」は、
大学時代からの親友さえも想像上の人物であったなど、
天才数学者の住む世界がすべて妄想だったという悲惨が描かれていた。


ただ、この作品はすでに時間の停止した世界に住む博士が
主人公なので、最初からそこまで踏み込まない作品になっている。


過去に傷を負った人々が、今目の前にある日常生活のきらめきを見つめて
生きてゆこうとする勇気を顕彰した作品としては出色、だと思う。




博士の愛した数式 (新潮文庫)



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posted by 信州読書会 宮澤 at 09:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

僕の昭和史 安岡章太郎 新潮文庫



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講談社から1984年〜88年までに
出版された『僕の昭和史T〜V』を1冊にまとめ文庫化したもの。


安岡章太郎の遍歴が綴られている。

戦時中、落第生であった安岡氏が、
社会の無気味な変化を肌で感じた回想が興味深い。


一切事実が報じられないノモンハン事件の無気味な印象や
ジャン・ルノワールの『大いなる幻影』が上映中止になったこと。
慶応仏文の高橋広江教授が、南仏インドシナから戻ってくると、
急に超国家主義者になっていて、バレスやモーラスの
フランスファシズム作家のテキストを授業で教えはじめたことなど
社会の変化が、忌まわしい雰囲気として伝わってくる。


安岡氏は徴兵され、中国へ渡り、第一個師団としてフィリピンに配属される前に
罹病し内地送還になるという幸運に見舞われる。(第一個師団はその後全滅)


内地を転々とし、終戦を迎えるが、脊椎カリエスにかかり
30を過ぎて横臥生活を余儀なくされる。寝床で小説を書くことしかできない。
老いた父母を養う責任の立場にあるにもかかわらず、はたせない無力感。



……一日に四百字詰原稿用紙に一枚書くのがやっとで、どうかすると一日中原稿用紙を横目で眺めながら一行も書けないことがあった……。しかし、僕はひるまなかったし、ヤケにもならなかった。落胆したり絶望したりするのは、まだ自分に幻想を持っていられるときのことだ。僕にはもはや、そんな抱負や期待は何もなかった。


一度、処女作を三田文学に持ち込み、原民喜につき返され、自信を失っていた安岡氏。
発表の場もなく、貧困と病気の絶望の中で、唯一の生きがいとして書いた作品が、
偶然ある作家の目にとまり、手紙を貰う。


それは、宇野千代の夫君、北原武夫だった。
(この人は新人発掘の目と批評の精度は抜群だったらしい)


北原武夫の推挙で『ガラスの靴』が三田文学に掲載され、芥川賞候補となり、
それを機縁に文学界から注文が来て、作家生活をスタートさせる。
なぜか、奇跡的に病気も回復する。


評論家 服部達の思い出や、池島信平が貧窮ぶりを心配してくれた思い出
十返肇に絡まれて、コップを割ってバーから飛び出す話など、
文壇がギルドとして存在したころ挿話が眩しい。


後半は、アメリカ留学やソビエト旅行の話がくる。ここへきてかなりだれる。
安岡氏自身が作家として「ワンサイクル終わった」後の話になってしまっている。


もっとも印象的だったのは結末。
一緒に学生時代に同人誌を手がけた慶応の同級生の小堀延二郎が、
ルソンで戦死したことになっていたが、敵前逃亡の引責自決で
事実上戦地で仲間に処刑されていたこと発覚し慄然とする。
ここは、涙なしには読めないところだ。


旧陸軍の蛮行が、三島事件、連合赤軍の総括とオーバーラップして
戦後も結局は戦争の延長でしかないという認識が吐露される。
戦後に生き残ってしまったことへの戸惑いと深い悲しみがあふれだす。


小島信夫が2006年9月26日逝去して、安岡氏、庄野氏のみが残る第三の新人。
生き残った人が、風化すらしていく不毛な現代において、
語り継ぐことの大切さを教えてくれる作品。

僕の昭和史 (新潮文庫)


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ラベル:安岡章太郎
posted by 信州読書会 宮澤 at 09:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

讃歌 中上健次 小学館文庫


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★あらすじ
男も女も相手にするジゴロ“イーブ”の性の遍歴。
イーブはまれに見る美男子で、ウインクひとつで男も女も惹きつけてしまう。


いつ浜村龍造が出てくるのかと思ったが、出てこない。
もちろんオリュウノオバも、出てこない。



全編、激しくインモラルな性描写があふれているが、
閨房での具体的な行為の表現の細やかさは圧倒されこそすれ、
それ以外の描写に何の魅力もない。


まず、ジゴロであるイーブの身に纏っている
服装も装飾品も具体的な記述がない、
そして、<黒豚><白豚>と呼ばれている客の外観的なディテールも
描写がないので恐ろしくリアリティーに欠ける。
その点、風俗描写をあえて避けて作品の永遠化を望んだ三島の企みに近い。



イーブは類まれな筋肉と笑顔と股間の一角獣で
内面などない性のサイボーグと化しているので、己の行為に照れがない。
代わりに読者の私のほうが照れる。
そういう気持ちにさせた点では、三島の小説の主人公に似ている。



イーブの一挙手一投足が、周りの人間を魅惑する。
その辺の通りすがりの女性さえも。
そんな奴いったいどんな奴なんだ、こんな奴いるのかよ、
という疑問が始終離れなかった。



イーブは私の中では元カリスマホストで最近よくテレビや雑誌に出てる
城咲なんたらという人を髣髴とさせた。
NHKの衛星放送で、「日輪の翼」がモックン主演でドラマ化されていたが、
「讃歌」は城咲氏でVシネマ化してほしい。
ジュネ原作、ファスビンター監督の「ケレル」ぐらいのインパクトになると思う。


文学界に2年にわたって連載された。途中で放棄しなかったのがすごい。
三島とサドとジュネの影響下で中上健次が筆力を浪費した贅沢な作品。



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ラベル:中上健次
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情人 北原武夫 講談社文芸文庫


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還暦前の小説家である主人公と、水商売上がりの女との不倫小説。
女は、建築家で妻子ある男と二股関係にあり、
主人公は女の情人であることに徹する覚悟はありながらも、
ひどく自尊心を傷つけられると、その状況に堪えられなくなる。


しかし、手に余る女を簡単に捨てはられない。
かといって、女に狂うほどの未練もない。


一刻ごとに真実と裏切りに入れ替わる感情。
男女の恋愛の優位が激しく逆転しつづける様が
これ以上ないというきめ細やかさで描かれている。


あらゆる恋愛状況を知悉している
恋愛のマイスターたる老年の主人公が、
どんなきつい修羅場を迎えようが、
感情に流されずに、心を落ち着かせようとする苦心は、
老練であり、卑怯なのだが、
その手管に簡単に絡めとられない
女の言動も凄まじく、かつ魅惑的だ。


女の嘘、仕草、官能に至るまで怜悧に分析し尽くそうとするのだが、
分析が時間に追いつかず、結局は女に翻弄されてゆく主人公。
恋愛は虚しいとつくづくわかっていても本能に抗えない
人間の弱さが、晩節を迎えた男の低温の中で語られる。


卑怯な男と女の目くるめく闘争。


だが、舞台は息苦しくなるほどに狭い。


読めば、女性不信にも男性不信にもなること請け合い。


戦争、貧困、社会と全く無縁の文学。
ただただ情人となることの困難を描いた心理小説。



情人 (講談社文芸文庫)


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ラベル:北原武夫
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台所太平記 谷崎潤一郎 中公文庫


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大作家、千倉磊吉の家に奉公した女中たちを回想するという形をとった小説。
サンデー毎日の連載小説。


動物図鑑のように女中達の生態を綴っている。
女中の癲癇発作事件や、女中同士の同性愛事件など
性にまつわる下世話な興味を掻き立てるエピソードが満載だが、
基本的に金満家の家庭内の事件であり
事件を見守る千倉磊吉と妻、讃子は
最後まで狂言回しに徹しているので、
お上品にまとまっている。


ディズニー映画や、ハリウッド映画の「哀愁」など
当時はやりの風俗がひととおり盛り込まれているが、
女中をひとりひとり、エピソードとともに
回顧してゆくという構造によって


日本古来の物語文学の結構を偲ばせるので
風俗が作品を古びさせる瑕疵を回避している。
(ちなみに、女中の名前を本名で呼んでは
親御さんに失礼なので、磊吉は女中に源氏名をつけている。)


教育はないが聡明で美人な、鈴という女中に、磊吉が読み書きを教え
女ぶりを上げさせてゆくくだりなどは、
源氏物語かプリティーウーマンの世界である。
それでも、磊吉は鈴を娘のようにかわいがるのだけであり
嫁入りの決まった鈴に歌を贈るところで物語は終わる。


頽廃したブルジョア生活が臆面もなく綴られている。
大谷崎の開き直りと円熟を存分に味わえる作品。

台所太平記 (中公文庫)


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ラベル:谷崎潤一郎
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行人 夏目漱石 新潮文庫


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★あらすじ
大学講師の一郎は、孤独癖があり神経衰弱の傾向があった。
妻の直をはじめ家族の誰とも心打ち解けられない。
弟の二郎に、妻が自分のことをどう思っているか訊くように頼むほどである。


やがて二郎は、嫂をめぐって兄と齟齬をきたし、家を出る。
しかし、二郎は神経衰弱の高じた兄を心配し、
兄の旧友Hに一緒に旅行にいって兄の心のうちを探ってくれと頼む。
旅先からHから兄の不可解な言動を報告する手紙が届く。


『明暗』以外の主要な漱石作品は読んでいる私だが、『行人』は最も感銘を受けた。
感銘を受けた性質が面白かったというよりも、
身につまされて何度も中断して考えさせられるので、
容易に読み進めえないといった具合だ。


「構成のゆるみ」が随所にあるという江藤淳の指摘がある。
確かにエピソードが煩雑でまとまりがないが、
これは新聞連載小説であり、断章ひとつにも、感興を惹くエピソードを交えて


読者を飽きさせないようにするのが漱石一流のビジネスであり、
構成のまとまりとか芸術的達成とか求めがたいと思う。
芥川がだらだら新聞小説を連載できたかというと、
彼の芸術至上主義はそれを許さないだろう。


二郎の視点から長野家のメンバーがそれぞれ描かれているが、
それは、二郎が息子であり、弟であり、兄であり、義弟であり、叔父であるという
役割を演じるこの大所帯の中での要であるからだ。
前半は、何よりも二郎が主人公の小説であり、
Hの手紙に至ってようやく二郎の主観を挟まない一郎の姿が描かれる。


一郎はどうやっても、主人公ではない。


こう考えると、一郎が離婚したりとか自殺したりとかいった
安易な結末をつけるのを嫌がったよりも、
主人公でない一郎の性格をこれ以上突き詰めると小説の構成が乱れるので、
無理矢理結末を持ってきて、未解決のモチーフを次回作に持ち越したといえる。


そう考えれば、『こころ』は一郎を自殺させた話といえる。
一郎がすでに自殺したK、二郎が先生で、嫂の直が先生の奥さんというふうに
設定に改めた『行人』の続編的なバリアントと『こころ』はみえるだろう。


もっと『行人』の感想を細部に触れて書きたいのだが、
長くなるので最後に、私が最も印象に残ったことについて


父が景清の謡から、盲目の老女の話をはじめ、女の秘めたる執念を語り、
それに関して一郎が女と男の情念の違いを批評したあげく、
二郎を部屋で詰問するくだりは、小説の構成として実に鮮やかだと感嘆した。


行人 (新潮文庫)



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ラベル:夏目漱石
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冷めない紅茶 小川洋子 福武文庫


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冷めない紅茶 (福武文庫)


★あらすじ
事故死した中学の同級生の葬式でわたしとK君と10年ぶりに再会する。


後日、彼のアパートに招かれ、彼と彼の奥さんとの交流が始まる。
その奥さんは、中学校時代の図書館司書であった。
しかし、わたしは司書時代の彼女のことが、すぐには思い出せない。


ある日私は、家で返却していない中学の図書館の本をみつける。

中学卒業間際に、返却の催促を彼女から電話で受け取っていたことを思い出す。
それを母校に返却しに行って、図書館が何年か前に消失して死者が出たことを知る。
グラウンドにKと奥さんが亡霊のように歩いているのをみかける。


その後、再び、Kの家に遊びに行くが、奥さんは出かけている。
彼女が帰ってこないので、わたしは帰ることにする。


帰り道で迷い、自分が葬式帰り道、Kと会話した坂道にいることに気がつく。
喪服を着ているのではないかと確かめようとするが、暗くて見えない。


★感想
すばらしい作品だと思う。文学作品でなくて文芸作品として。
庄野潤三の『静物』の世界観に近い。自覚的な作為に安定感がある。
喪失感を感傷的に弄ばずに、あくまでも即物的な描写に留めている。
一語一語の選択に、強い意志が漲った俳句的な作品である。



冒頭に熱帯魚の死についての描写があるが、
この作品自体に、水槽の熱帯魚を眺めるような幻惑的な雰囲気が満ちている。


たぶん、筆者は、終日横になっていても退屈しない人だと思う。


以前、小川洋子さんが「通販生活」にでていた。
通販という離人的な営みがこれほど似合う人も珍しい。




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妊娠カレンダー 小川洋子 文春文庫

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★あらすじ
妊娠した姉が子供を産むまでの過程を大学生の妹の日記を通して描いた芥川賞受賞作品。
妹は、防腐剤のたくさんついたグレープフルーツでジャムを作り、姉に喰わせる。


★感想
姉妹の両親はすでに病死している。虫のすぎる設定。
家族関係を予めカッコで括る操作を施すことが、
短絡的なプロットの進行に、多いに役立っている。



姉は精神科に通っていてやや情緒不安定。虫のよい設定。


妊娠が進むに連れて、姉は、自分の感覚に立てこもり、わがままになる。


妹の悪意が姉に投げかけられるたびに
姉のわがままの輪郭が鮮明になる。


そして、義兄にも悪意をなげかけることで
今度は、妹の悪意の輪郭が鮮明になる。


こういう仕掛けになっていることで、姉妹のバランスはよくなり、


作品としての安定感が確実なものになる。鉄壁のパターンである・


それなりに小川洋子の作品に興味を持って読み出した。


『博士の愛した数式』『冷めない紅茶』と読んできて、
とても安定感のある作品を書く作家だと感心した。


同時に、作品設定のカッコの括り方がずいぶん大胆だなとも思う。
彼女の創作しているのは、悪意が満ちていても、意外と居心地のよい密室である。



カッコに括って割を食う登場人物がワンパターンである。
『博士の〜』の別れたダンナ。『冷めない〜』のサトル
そして『妊娠カレンダー』の義兄。社会的な人物が作品内で最も排除されている。


この端役の人形みたいな男たちの『プロジェクトX』はいつはじまるのだろう。


いつ、物語は三人称にたどり着き、作品世界に社会性が生まれるのだろう。


いつ、小川洋子の作品の主人公たちは逃れられない宿命に泣き叫ぶのだろう。疑問だ。

妊娠カレンダー (文春文庫)




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ラベル:小川洋子
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2013年06月15日

夢の女 永井荷風 岩波文庫

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★あらすじ
三河の没落武家の娘、お浪は16で奉公に出されるが、
奉公先の旦那に手込めにされて、そのまま妾となり、一女をもうける。

しかし、旦那は病死。本妻に手切れ金を渡されて縁切りされる。
泣く泣く娘のお種を養子に出して、お浪は実家に戻るが、
老耄した父が詐欺にあい一家は莫大な借金を負う。


借金返済のため、お浪は深川州崎の遊郭に身を沈める。
何年かして、お浪は美貌ゆえに立派な華魁となる。
しかし、小田辺という商人を廓狂いで破滅させて、
部屋で自殺させてしまい悪評で客足が遠ざかる。


失意の日々を過ごすうちに豪放磊落な相場師利兵衛に見初められ、
身請けされて、待合を営むようになる。


待合は繁盛し、お種を妹として迎え、故郷の両親と妹のお絹を呼び寄せ、
つかのまの幸福な日々を過ごすが、年頃のお絹に関心を示す客がいることに
気がついたお浪は、お絹にも客を取らせてしまう。

やがて、利兵衛は外に女を囲い、お浪と別れる
お絹は、若い俳優と出奔、そのショックで父は発狂し、
往来で馬車に轢かれて死ぬ。



★感想
モーパッサンの『女の一生』を元ネタとしたとおぼしい荷風25歳の作品。
お浪という可憐な女性を、これでもかとひどい目に合わせているのであるが、
繊細な江戸情緒が哀歓を催す文飾で綴られているので、読んでいて心地よい。


モーパッサンのほうが、相当にえげつない設定を露悪的に書くが、
荷風は、例えばお浪が遊郭に売られたあとの辛い日々を
大胆に省略するなど、それなりに配慮している。


最終部分でお浪が、永代橋を渡り、遊郭に売られて初めてこの橋を
渡った時分を思い出すシーンが、なかなか美しかった。
だが、お浪が、妹のお絹を売春婦にしてしまう変節ぶりには寒気を感じる。

優しいお浪の心が、その核心において知らぬ間に残酷な運命によって歪められており、
それがクライマックスの父の発狂と事故死の遠因となるのだが、
こういった因果応報を25歳で描いた早熟ぶりは、信じられない。

ただ、モーパッサンの自然主義を、その根幹にあるキリスト教倫理観との対決抜きで
江戸情緒の中に移植するというのは、やはり無謀であり、徒労であると思った。

お浪の悲惨な運命と倫理観の崩壊の原因が、結局は武家の没落に集約されてしまっている。

外国文学の無理やりの輸入が、日本の近代文学の宿命であることを
証明した作品であると思えば、なかなか無残な読み物である。

ゆえに、晩年の永井荷風の孤独と偏屈もそれなりに頷けるものがある。


夢の女 (岩波文庫)


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ラベル:永井荷風
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アウレリャーノがやってくる 高橋文樹 


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★あらすじ
岩手の美少年、アマネヒトは上京して「破滅派」というWEB同人誌に参加する。
「破滅派」の同人たちの奇矯な振る舞いが描かれ、
文学主義丸出しの青春群像がコミカルに展開。
アマネヒトは同人の女性を妊娠させてしまう。


★感想
広津和郎の『同時代の作家たち 』(岩波文庫)に
『奇蹟派の道場主義 ――葛西善蔵、相馬泰三――』というエッセイがある。

『奇蹟派』という私小説系の同人誌があり、
その同人の中心的作家であった葛西善蔵と相馬泰三の小説家としての屈折ぶりを、
広津和郎がうんざりしながら回顧したエッセイである。





『奇蹟』の作家、とくに葛西善蔵と相馬泰三は、
文壇に出てからお互いの交友関係を遠慮会釈もなく書きあったそうだ。

その状況を、高みの見物で面白がった宇野浩二は
『奇蹟派は面白い。めいめい道場を持っているから』
と拍手喝采したそうである。



宇野の『道場』という言葉は、葛西や相馬といった連中が、
触るものみな傷つける勢い創作活動に励んでいる点を指す。

彼らは、友情を持ってたずねてきた者が帰ってゆく後から
いきなり背中から一太刀浴びせるような辛辣さでもって創作した。

エッセイには、その辛辣ぶり実例として広津和郎が、相馬泰三によって


小説のモデルとして描かれ、怒り狂った事件の顛末が描かれていている。
以下、その事件を簡単にまとめて紹介したい。


地方新聞で連載した小説『荊棘の道』を単行本にしたい、と
相馬泰三から相談された広津は、新潮社の佐藤義亮に口添えし、
作品はめでたく出版の運びとなるが、出版されて広津が、


新聞書評のため、はじめて『荊棘の道』を読んでみると、
あろうことか、広津や、『奇蹟』の同人がモデルとされており、
相馬の手によって捏造された事実によって、モデル皆が中傷されていた。

相馬は、出版記念会で葛西を始めとする同人から吊るし上げられ、
祝賀会はモデル問題問責会となる。


しかし、やさしい広津は、自らも被害者ではあるにもかかわらず
皆のなだめ役にまわり、逆に大勢からやり込められている相馬に同情し
その晩一晩中、彼の背中をなでさすりながら、慰めてやったそうである。
そんなことがあって、出版記念会のあと、相馬は出奔してしまう。

そして、広津は
「来月の『新潮』に短編小説を書いたから是非きみに読んでもらいたい」
と書かれた相馬からの葉書を受け取る。






やがて『新潮』に掲載された相馬の短編を読み、あの温厚な広津が、激昂する。






短編には、『荊棘の道』出版の経緯が、そのまま描かれており、
さらにヒドいことに、広津をモデルとした文芸評論家に、
『その出版社顧問の第二流批評家』と注釈がつけられていた。
親切を二度仇で返された広津は、怒りで震えがとまらなかったという。



まあ、ずいぶん長くなったが、どうしてこんなこと書いたかというと、
『アウレリャーノがやってくる』という小説に出てくる『破滅派』という
WEB同人誌がどうやら実在し、どうやら登場人物の方々も実在しているのを
『破滅派』のサイトを見て、私が知ってしまったからである。
小説内で読み応えのある挿話、太宰が入水した玉川にみんなで出かけるくだりも、


どうやら実際の出来事であることが、そのサイトでよくわかる。
まあ、興味のある方は小説読んでから『破滅派』のサイトをググッてみて下さい。

(ただ、『破滅派』というサイトが、この作品のための著者単独の仕掛けだとしたら
それはそれで、壮大かつナンセンスなトリックである。まあ、そんなことないだろうが。)
つまりは、『破滅派』が『奇蹟派』みたいで凄いなと感心した。


まあ、この小説内の同人も描き方には、相馬泰三ほどの悪意はないとしても、
同人との交友をそのまま小説にするというのは、とんでもないことだと思う。
なにが、とんでもないかはうまく表現できないが、やはりとんでもない。

あと、小説自体はペダンティックな部分が結構、笑えた。
この作品への選評は、かなりの充実ぶりだったと思う。
私ふぜいが、あの選評で論じられた感想以外に書くことはない。
ただ、阿部和重の選評が、私にとって一番納得いくものだった。



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『内村鑑三』 正宗白鳥 日本の文学11 中央公論社


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日本の文学〈第11〉正宗白鳥 (1968年)何処へ 微光 光秀と紹巴 今年の秋 牛部屋の臭い 内村鑑三 自然主義盛衰史 他



井伏鱒二の『風貌|姿勢』という本に『正宗さん』という、
正宗白鳥に関するゴシップを羅列したエッセイがある。

正宗白鳥の揮毫した書は、すべて「鳥」の字が「烏」(カラス)に
なっているという話がある。志賀直哉も「哉」の字のタスキを
わざとかけなかったらしい。完全無欠を誇示するのではなく、
謙譲の気持ちを保とうとする精神から発したものらしい。

まったく、頭の下がる心がけである。このエッセイとも評論ともつかない、いかにも正宗白鳥らしい本は、
内村鑑三の姿を、いつまでも心の中でたどるようないじましさにあふれている。

そして、内村の思い出を語ることが、彼の孤独な青春時代を回顧になっている。



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『東光金蘭帖』 今東光 中公文庫



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文壇交遊録としては、かなり面白い。消えてしまった作家の貴重な逸話多数。
中公文庫の復刊シリーズ。ただ、文庫のくせに1300円もする。


尾崎士郎の章で、名前を伏せて
福本イズムで有名な福本和夫を罵倒している。
それも唐突に。いったいなんだったのだろう。不思議。


福本和夫は、ルカーチと交友のあった変な日本人で、一緒に記念撮影もしている。
最近、リバイバルして著作集や研究書などが出ている。
自伝なんか読むと、いい加減な人で結構面白い。

福田和也が、週刊新潮の連載において『アドルノ伝』の新刊書評しながら
ルカーチが、『魔の山』のナフタのモデルであったことにふれていて、
へえ〜〜と唸ってしまった。だとすると、ルカーチって気持ち悪かったんだと思う。

今東光が、正宗白鳥を嫌っているのが意外だった。
まあ、川端康成の『文芸時評』を読むと
川端も相当に正宗白鳥を嫌っているのがわかる。


東光金蘭帖 (中公文庫 (R・21))



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ラベル:今東光
posted by 信州読書会 宮澤 at 14:41| Comment(0) | 日本文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

直毘霊 (なおびのみたま)本居宣長 西郷信綱訳 


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日本の名著 (21) 本居宣長


以前に小林秀雄の『本居宣長』を読んで以来、
和歌と日本文学の関係について、
ずっと、考えて書いてみたいとおもっていた。

『直毘霊』は宣長のライフワークである『古事記伝』の序文であり、
ポレミックな儒教批判を展開し、日本の神の道を説いた小文である。


まあ、短いし、現代語訳なのですらすら読めたが、
これを論ずると柄谷行人の『神神の微笑』論と
同じような結論しか正直書けないのが苦しい。


要するに、外来思想は日本の神々によって変容を強いられて、
もとの姿をとどめるのは不可能ということを言っているのである。


儒教は、道徳や倫理が崩壊している国での人為的な制度であり、
そこで生まれた、聖人の思想などは、支配制度の方便でしかない、
と宣長は批判する。


一方、皇国の神は、天皇の先祖であり、理屈ではなく、
おおらかな御心で、天下を治めてきたのであり、


儒教のように、さかしらに、言挙げしないことで、下剋上もなく
充分用足りて来たのであるから、それがりっぱな神の道であると
大体こんなようなことを、宣長は主張している。


神の道というのは、人為的なものを排除しきって見つかる残余であり、
決して理論付けできないが、さりとて熱狂的な信仰の対象でもなく、
四季とともに移り変わってゆく自然のようなのものだ、と宣長は言いたいらしい。


だからこそ、自然の変化に事寄せて歌を詠むということが、
神の道に通じる尊い行為であり、日本文学の精髄であると、
まあ、勝手に敷衍すれば、まあ、こんなことを宣長はいいたげである。



外国人からすれば、日本文学といえば、まず、和歌と俳句であり、
現代の小説なんかは、まあ、西洋の真似でしかないなと
どうせ、おもわれているに決まっているのである。


ただ、和歌や俳句は、外国人に簡単に理解しがたい部分がある。
今の西欧化された生活の中で暮す現代日本人にとっても
すでに、わかりづらいのと同じように。



どう考えても、日本文学の強烈なオリジナリティーは
和歌と、俳句にしかないだろう。とわたしは思っている。残念ながら。

まあ、俳句は、外国でも形式的には流行るが、和歌は、輸出不可能な部分がある。


あの、無味乾燥さ、意味内容の不可解さ、
それでいて調べだけが、ついつい出てくるような口当たりのよさ
あれは、潜在的に日本人の美的感性と思想性を宿しているだけに
なかなか、翻訳できる物ではないと思う。


なんで、そうなのかは、思うところあるのだが、又改めたい。



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posted by 信州読書会 宮澤 at 14:38| Comment(0) | 日本文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

蜘蛛の糸 芥川龍之介



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★あらすじ
地獄に落ちた強盗のカンダタは
生前、小さな蜘蛛の命を助けたことがあった。

極楽の御釈迦様は、その善行をひとつのチャンスに替えて、
蓮池から、地獄に一本の蜘蛛の糸をたらさせる。
犍陀多を助けようするが、彼が同じく蜘蛛の糸にすがって
あとから登ってくる地獄の亡者どもを罵ったため、
望みの蜘蛛の糸は切れ、犍陀多は地獄に、くるくると落っこちてゆく。

★感想
教科書に載っている小説。話の筋くらいは誰でも知っているだろう。

犍陀多の了見をためすような御釈迦様の行為は、なんか嫌なものである。
汚い地獄の亡者が蓮池からぞろぞろ上がってきて、酒盛りでもするのを、
御釈迦様が、喜ぶわけないと思うと、気まぐれな暇つぶしとしか思えない。


★原話
岩波文庫の『エスピノーザ スペイン民話集』に『蜘蛛の糸』の原話となった
『聖女カタリーナ』という作品があり、たまたま読んだ。





聖女カタリーナが、逆縁で口の悪い母親より早死にする。

カタリーナは天国へゆくが、罪深い母親はやがて死んで地獄に堕ちる。
カタリーナは聖母マリアに、母親を天国に上げてくれと頼む。

しかし、主イエスに相談するように言われ、
イエスに相談すると、聖母マリアの判断に任せると言われ、
カタリーナがまた、マリアに相談すると、「一緒に地獄に堕ちるか、ここに残るか」
と二者択一を迫られたので、カタリーナは「マリア様にお任せします」と答える。

マリアは、地獄に天使たちを遣わせ、カタリーナの母親の魂を
引き出すが、地獄のすべての亡者の魂もそこにくっついてくる。


カナリーナの母親が、くっついてきた亡者の魂たちに
「天国へ行きたかったら、私のような娘を持つことだ」
と悪態をついたのでに、天使たちはあきれて、母親の魂を地獄に放す。
結局、聖女カタリーナは、母親と一緒になるために、自らの意志で地獄に堕ちる。


★所見
原話のほうが聖女カタリーナの異常なまでの孝行心が垣間見えて面白い。
それに比べると芥川の翻案は、教訓臭さが強くて、なんだか冴えないのである。
母と娘のキリスト教的親子愛というのに、芥川は興味惹かれなかったのだろうか?

キリスト教徒の愛と仏教の慈悲の違いといわれればそうなのかもしれないが、
それでも『蜘蛛の糸』には仏教説話の影響というよりも
芥川独特の審美的ニヒリズムが、濃く漂っており、鼻につく。
「極楽はもう午近くになったのでございましょう。」と白々しく終わるよりは
カタリーナの、あえて地獄に下る、というファナティックな結末で終わるほうが、
説話としての読後感というのは、爽快であると思うのだが……。


芥川龍之介
ラベル:芥川龍之介
posted by 信州読書会 宮澤 at 14:34| Comment(0) | 日本文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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