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神西 清, 池田 健太郎, 原 卓也
チェーホフ全集〈13〉シベリヤの旅,サハリン島 (1977年)
私が好きなロシア文学は、壮絶な環境で、それでもなお、生きている
異星人みたいなロシア人が出てくるものである。
度が越えた悲惨がユーモラスになってしまう国は、
ロシアを於いてほかにはないのではないかと、しばしば思うことがある。
ソルジェニーツィンの小説を開く。
すると、日本の格差社会や、年金がもらえない老後、
非正規雇用の若者の問題など、すべてが贅沢な悩みだと
思えるような悲惨な世界が広がってくる。
その地獄のような世界の背景にはいつも、
シベリアがあり、流刑囚の暮らす収容所がある。
というわけで、チェーホフのシベリア・ルポタージュ
『シベリアの旅』をなんとなく読み始めて、全部読んでしまった。
とはいっても、全集で二段組み44ページほどの短さである。
チェーホフはユーモア雑誌にの掌編を書きなぐる生活に倦んで、
急に、シベリア経由のサハリン旅行を思い立ち、30歳で出かけた。
1890年のことで、もちろんシベリア鉄道なんてない時代である。
周囲の人間も評論かも、チェーホフがなぜ出かけたのかわからなかったらしい。
解説によると兄が結核で早世し、チェーホフも呼吸器系の疾患で
年に二回は喀血するのでもう、先は長くないと思い、
出かけたということである。その他のいろいろ憶測もある。
ドストエフスキーの『死の家の記録』やトルストイの『復活』
あと、私の知る限りで、ソルジェニーツィンの諸作など、
ロシアには『収容所文学』の伝統があり、ロシア人が外国人に、
知られたくないような、ロシアの民衆からすべてをはぎとり、
その野性というか、通常の社会性を喪失した人間の生の姿だけを
直視しただけのロシア文学がある。
まあ、流刑囚にとって、罵詈雑言が日常語となり、食物に意地汚くなり、
人を裏切り、野良犬になり果てるしかないような状況下で
やはり人間だと思わせるような、
ギリギリの一線を保ったような人倫がキラリと光るような
生活が繰り広げられている文学である。
どうやら、チェーホフもシベリアやサハリンの最底辺にしか見えない
真実のロシア人の姿が見たくて、旅に出たんじゃないか、と私は思う。
そうだとしたら、文豪にふさわしい業の深さであると思う。
内容としては、シベリアに暮らす人々の貧しい生活をそのまま写実し、
決して豊かではないのに、捨て子を育ててしまうようなある一家や
芸術家のような職業倫理を抱いた鍛冶屋の姿など、
いろいろな情景スケッチが続き、結構、心温まる。
しかし、細部の面白さのわりにして散漫なルポである。
ただ、なぜ死刑ではなく、シベリアでの終身刑なのかということに関して、
チェーホフは、哲学的な思考を結論の出ないまま、思いをつづっている。
終身刑は、人間社会から犯罪者を永久に追放する。
ただ、同じ飯を食って同じ糞を垂れる人間を人為的に生み出す。
希望も権利もはく奪された人間のありようが、死刑よりもましか否か、
そういった深刻な問題こに関するロシアのインテリ=官僚の無関心を
チェーホフは、途中、感情的に糾弾している。
インテリ=官僚が、犯罪者を裁き、シベリア送りにしながらも、
シベリアが結局何であるかを考えないということに対する
チェーホフの怒りは、当時のロシアの官僚制度のみならず、
ひいては現代の権力機構の深い闇を探り当てていると思う。
これは、ドゥルーズからの孫引きであるが、
晩年のフーコーがチェーホフの小説から着想を得て、
『汚辱に塗れた人々の生』という論文を書いたらしい。
線路の釘一本を盗んだだけで、死刑にされる子供の話など、
光を浴びない、無名の人間がある日、警察や訴えによって
急に、生命と権力が全エネルギーで衝突するような、
とんでもない悲惨な状況下に陥り、目に見えない権力機構が
一気に前景化され、生きることの真理が輝きだす瞬間。
フーコーはチェーホフからそんなものを読み取って哲学化しようとしたらしい。
私たちは、一線を越えること、別の側に移動することがやはり
できないままでいる……相変わらず同じ選択、権力の側に、
権力が言うこと、言わせることの側にいる。
こんなことをフーコーは『汚辱に塗れた人々の生』で書いている。
そう考えると、サハリン旅行に出かけたチェーホフは
やはり『一線を越える』気だったのだろう。
まあ、一線越えた狂気が宿った作品である。
チェーホフ全集〈12〉シベリアの旅 サハリン島 (ちくま文庫)
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ラベル:チェーホフ