信州読書会 書評と備忘録

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カテゴリー:ロシア文学

2013年06月15日

シベリアの旅  神西清訳 チェーホフ全集13


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神西 清, 池田 健太郎, 原 卓也
チェーホフ全集〈13〉シベリヤの旅,サハリン島 (1977年)



私が好きなロシア文学は、壮絶な環境で、それでもなお、生きている
異星人みたいなロシア人が出てくるものである。
度が越えた悲惨がユーモラスになってしまう国は、
ロシアを於いてほかにはないのではないかと、しばしば思うことがある。


ソルジェニーツィンの小説を開く。
すると、日本の格差社会や、年金がもらえない老後、


非正規雇用の若者の問題など、すべてが贅沢な悩みだと
思えるような悲惨な世界が広がってくる。
その地獄のような世界の背景にはいつも、
シベリアがあり、流刑囚の暮らす収容所がある。



というわけで、チェーホフのシベリア・ルポタージュ
『シベリアの旅』をなんとなく読み始めて、全部読んでしまった。
とはいっても、全集で二段組み44ページほどの短さである。


チェーホフはユーモア雑誌にの掌編を書きなぐる生活に倦んで、
急に、シベリア経由のサハリン旅行を思い立ち、30歳で出かけた。


1890年のことで、もちろんシベリア鉄道なんてない時代である。
周囲の人間も評論かも、チェーホフがなぜ出かけたのかわからなかったらしい。


解説によると兄が結核で早世し、チェーホフも呼吸器系の疾患で
年に二回は喀血するのでもう、先は長くないと思い、
出かけたということである。その他のいろいろ憶測もある。
ドストエフスキーの『死の家の記録』やトルストイの『復活』


あと、私の知る限りで、ソルジェニーツィンの諸作など、
ロシアには『収容所文学』の伝統があり、ロシア人が外国人に、
知られたくないような、ロシアの民衆からすべてをはぎとり、
その野性というか、通常の社会性を喪失した人間の生の姿だけを
直視しただけのロシア文学がある。



まあ、流刑囚にとって、罵詈雑言が日常語となり、食物に意地汚くなり、
人を裏切り、野良犬になり果てるしかないような状況下で
やはり人間だと思わせるような、
ギリギリの一線を保ったような人倫がキラリと光るような
生活が繰り広げられている文学である。



どうやら、チェーホフもシベリアやサハリンの最底辺にしか見えない
真実のロシア人の姿が見たくて、旅に出たんじゃないか、と私は思う。
そうだとしたら、文豪にふさわしい業の深さであると思う。



内容としては、シベリアに暮らす人々の貧しい生活をそのまま写実し、
決して豊かではないのに、捨て子を育ててしまうようなある一家や
芸術家のような職業倫理を抱いた鍛冶屋の姿など、
いろいろな情景スケッチが続き、結構、心温まる。
しかし、細部の面白さのわりにして散漫なルポである。


ただ、なぜ死刑ではなく、シベリアでの終身刑なのかということに関して、
チェーホフは、哲学的な思考を結論の出ないまま、思いをつづっている。


終身刑は、人間社会から犯罪者を永久に追放する。
ただ、同じ飯を食って同じ糞を垂れる人間を人為的に生み出す。




希望も権利もはく奪された人間のありようが、死刑よりもましか否か、
そういった深刻な問題こに関するロシアのインテリ=官僚の無関心を
チェーホフは、途中、感情的に糾弾している。


インテリ=官僚が、犯罪者を裁き、シベリア送りにしながらも、
シベリアが結局何であるかを考えないということに対する
チェーホフの怒りは、当時のロシアの官僚制度のみならず、
ひいては現代の権力機構の深い闇を探り当てていると思う。


これは、ドゥルーズからの孫引きであるが、
晩年のフーコーがチェーホフの小説から着想を得て、
『汚辱に塗れた人々の生』という論文を書いたらしい。



線路の釘一本を盗んだだけで、死刑にされる子供の話など、
光を浴びない、無名の人間がある日、警察や訴えによって
急に、生命と権力が全エネルギーで衝突するような、
とんでもない悲惨な状況下に陥り、目に見えない権力機構が
一気に前景化され、生きることの真理が輝きだす瞬間。
フーコーはチェーホフからそんなものを読み取って哲学化しようとしたらしい。



私たちは、一線を越えること、別の側に移動することがやはり
できないままでいる……相変わらず同じ選択、権力の側に、
権力が言うこと、言わせることの側にいる。




こんなことをフーコーは『汚辱に塗れた人々の生』で書いている。


そう考えると、サハリン旅行に出かけたチェーホフは
やはり『一線を越える』気だったのだろう。
まあ、一線越えた狂気が宿った作品である。

チェーホフ全集〈12〉シベリアの旅 サハリン島 (ちくま文庫)


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ラベル:チェーホフ
posted by 信州読書会 宮澤 at 14:36| Comment(0) | ロシア文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

クレチェトフカ駅の出来事 ソルジェニーツィン 岩波文庫所収


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★あらすじ
1941年ソ連各地がドイツ軍に侵攻された時代。


クレチェトフカ駅の輸送本部士官ゾートフは、
貨物列車の運行状況を管理している。
まじめなスターリン主義者であり、前線で戦えずに
後方勤務をしていることを後ろめたい気持ちを抱いている。
彼の妻と子供は、ドイツ包囲下の街にいて消息不明である。


当直室に、列車に乗り遅れたというトヴェリーチノフという
モスクワで俳優をしていた知的な老人が現われる。

ゾートフは雑談しているうちにこの老人に好意を抱くが、
「スターリングラード」という地名を知らないために、
逃亡ドイツ将校ではないかという一方的な疑念を抱き、彼を拘留する。
しかし、不当逮捕でなかったかかとその後ゾートフは思い悩む。


★感想
主人公のゾートフは、資本論の第一巻を大事に隠し持ち読んでいるゴリゴリの共産主義者で
スターリンを強く崇拝している愛国心の塊のような人間である。

スターリンを聖人まで崇め、職務に従順であったために
善良な老人を逮捕せざるを得なかった役人の哀しみを描いている。


戦時下、祖国防衛のためには、スターリンを信じて
不幸を堪え忍ぶことでしか生きられないかった。


必然的なものには屈せざるをえないという人間の悲惨をゾートフという役人が象徴している。
それは、この物語を描いていたときに政治的立場と作家的良心が
分裂せざるを得なかったソルジェニーツィンの悲惨と同じものである。
社会主義リアリズムで現実を描くほどに、スターリンの政治体制の矛盾が
主人公によって象徴されてしまうという危うさにこの作品には満ち満ちている。


政治に断罪された主人公を描いた『イワンデニーソヴィチの一日』ほうが、
ソルジェニーツィンの精神が自由闊達に表現されるのは、皮肉なことだ。


三単一の規則(一日の出来事、一つの場所、一つの筋)を遵守して描いていて
ソルジェニーツィンの古典的な手法へのこだわりが看取できる。


さらに、ロシアの女性たちや駅の光景の細かい描写などから
19世紀の自然主義作家にも相通ずるような
ソルジェニーツィンの観察眼の鋭さを感じとることができる。
作品構成の確かさと、描写の的確さに私は深く感動させられた。

ブルジョワのいなくなった国で、社会主義リアリズムを駆使すると
必然的に政治体制の批判に至ってしまうという矛盾を、
ソルジェニーツィンは心ならずも証明してしまった。




意味が人間を裏切るという哲学的問題を、この作品は孕んでいる。

ソルジェニーツィン短篇集 (岩波文庫)


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posted by 信州読書会 宮澤 at 14:01| Comment(0) | ロシア文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月13日

マトリョーナの家 ソルジェニーツィン短編集所収 岩波文庫


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★あらすじ
収容所から出所した主人公は、トルフォプロドゥクトという村にやって来る。
そこで、数学教師の職を得て、マトリョーナという善良な老婆の家に下宿を許可される。
その老婆は、頑迷と孤独の中で暮らし、誰からも存在を忘れられていた。


マトリョーナは戦争で夫を失い、6人の子供も失い、年金も貰えず、
親戚にも見放され、持病を患いながら、天涯孤独の身で極貧生活をしていた。


やがて年金が入るようになり、主人公の下宿代もあって、彼女の生活が楽になる。
そのころ、義兄が彼女を訪ねてきたのがきっかけで、主人公は彼女の半生を聴かされる。


金ができると、今まで彼女に無視を決め込んでいた親戚がよってたかって、
余命も僅かな彼女のささやかな遺産を食い物にしようと、しゃしゃりでてくる。



彼女の家の離れを、養女のキトラの結婚に当たってしぶしぶ相続することになる。
離れを解体して橇で運ぶのだが、用もないのに、心残りがあるのか
マトリョーナは解体した材木を追いかけて橇についてゆく。


しかし、夜中になってもマトリョーナは帰ってこない。


踏み切りでトラクターが立ち往生し、橇を押していると汽車がきて三人轢かれたことがわかる。
なんと、マトリョーナは汽車にはねらでしまったのだ。バラバラ死体となって彼女は自宅に戻る。



マトリョーナの葬儀で再び相続をめぐって親戚同士の悶着が起こるのを主人公は眺める。


親戚が彼女を嘲るのをきいて、主人公は、マトリョーナの人生の全体像を知るにいたり、
彼女が、この世にかけがえのない、徳の深いひとであったと気がつく。


★感想
不覚にも泣きました。傑作です。
『イワン・デニーソヴィチの一日』の後の話。
ソクーロフの『マリア』を思い出してしまった。


前半は、マトリョーナというお婆さんのマイペースっぷりと極貧が語られている。
マトリョーナは、元受刑者である主人公に関心も示さず、世間一般に何の関心もなく、
泥炭を盗掘したり、草をむしっては干草を作ったりと、傍目にはくだらないが、
サバイバルをかけた用事で一日を忙しく暮らし、周期的に持病を悪化させて寝込む。



大量のゴキブリやねずみと暮らし、ジャガイモばかり食べる下宿生活を
強制収容所から娑婆に出たばかりの主人公は従容と受けとめる。


マトリョーナは、性格がねじけているわけではない、恐ろしいほど無私無欲マイペースなのである。


しかし、後半マトリョーナに年金が入って、祭りの日に教会で薬缶を盗まれた日から、
目くるめく事件が連発して、マトリョーナが汽車で轢死するまで一直線に進む。


その中で、旦那の兄と婚約していたのに、彼が第一次世界大戦から帰ってこなかったので、
死んだのだと思って、その弟と再婚したら、やがて兄が帰ってきて確執が起こったという悲劇が、
マトリョーナの人生に、深く影を落としていた事実が発覚する。


まさに、『産む機械』でしかなかった封建社会の女性像である。
今の時代からすると、不幸のかたまりみたいなマトリョーナだが、
彼女は、嬉しいことがあると、いつもその丸みを帯びた顔に笑顔を浮かべる。



隣人に頼まれれば、なんでも手伝い、お礼も要求しない善良な人なのである。
主人公は、彼女の笑顔にであうと手も足も出なくなってしまう。
その善良さは、ロシア正教の信仰に感化されたというよりも、天然の人柄なのである。

(ロシア正教に支えられた人間像を描くと当局に弾劾される怖れがあったから
マトリョーナの信仰心を描くことを回避したのかもしれない。だとしたらヤバイ作品だ。)


「自分の良心と仲良くしている人の顔は、いつも美しいものである」


と主人公は嘆息する。ロシアの激動の最中でも、その笑顔は、不滅の宝だった。


しかし、マトリョーナはもうこの世にいない。その笑顔をみんな忘れてしまった。


「私たちだれもが、このひとのそばで暮しながら
理解できなかった。この人こそが、諺に、
ひとりの義人なくして村は立ちゆかないという
かの心義(ただ)しい人であることを。


都だとて立ちゆきはしない。


私たちの全地球だとて。」


と、最後に、主人公はつぶやく。


説教臭い作品かもしれない。善良なおばあさんがいなければ、地球も回らないというのだから。
19世紀のロシアへの追憶を社会主義リアリズムで描いてしまったという批判もある。そうだろう。


しかし、読んでいて、マトリョーナの笑顔が目の前に浮かんできて、個人的に泣けた。
『老人と海』の感動に近いものがある。


(私は江川卓訳で読みました。引用も江川訳です。新潮文庫は品切れ。)

追記

この記事を書いた7年後に、岩波文庫の『ソルジェニーツィン短篇集』で
『マトリョーナの家』(木村浩訳)で再読しました。

その感想を音声で語りましたのでよかったら聴いてください。



ソルジェニーツィン短篇集 (岩波文庫)


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posted by 信州読書会 宮澤 at 12:38| Comment(0) | ロシア文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

狂人日記 ゴーゴリ 岩波文庫

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★あらすじ
役所勤務のやさぐれた九等官史ポプリーニチンは、
上司の課長も、通りすがりの人間も全部憎んでいる。



ある日、街角で長官の令嬢ソフィーを見かけて虜になり、
彼女のストーカーとなり、役所を欠勤し始める。
ソフィーの愛犬でメス犬のメッジィの会話を聞き取る。
(このあたりからしてもう主人公に電波がはいっている。)
メッジィが、フィデリというオス犬と文通していることを知り、
フィデリの後をつけて自宅を突き止める。


職務で長官の官邸を訪れた際に、犬のメッジィを脅迫してソフィーの
プライバシーを探るが犬が逃げて失敗する。


仕方ないのでフィデリの家に押しかけ、メッジィからきた手紙を強奪。
手紙の内容からソフィーに侍従武官チェブロフという男の影があることが発覚。



ショックを受け、自暴自棄になるが、新聞でスペインの王位不在の記事を読み
自分がその王位を継承すべき、スペインの新国王、フェルジナンド8世だと発見する。
(発見してしまうのである。かなしいことに!!)


長官官邸に押しかけ、ソフィーに面会し、末に必ず結婚すると告白し帰宅。
スペインからの使節が自宅アパートに迎えに来るのを待つ、がこない。


しかたないので、自分からスペインに出かけると30分で到着。
刑務所によく似たスペインの閣議室で丸刈りにされ総理大臣に棍棒で殴られる。
中国とスペインが同じく国であることなどを新たに発見するが、
そのかいむなしく、母親の助けを求めて叫びながら、終る。


★感想
主人公の日記という体裁を取った小説。ブログ小説のはしりでもある。
ブログ小説を書いている方にぜひ一読をお薦めしたい。
実生活を狂気によって虚構化し、なおかつ読めるものにするには
いかに高度な想像力が必要かということを教えてくれ、ためになる。


一応、主人公は日記に日付を入れているのだが、
自分がスペイン国王であると覚醒した日から、日付の入れ方がおかしくなる。


「2000年 4月43日」
「30月86日 昼と夜との境」
「何日でもない。日数には入らぬ日であった」
「日も思い出せない。月もやっぱりない。
 何がなんだかさっぱりわからない日のこと」


こういう楽しい日付から綴られる日記となり、
その内容も悲壮でユーモラスな幻聴、幻視、被害妄想が満載となる。
ドストエフスキーの『地下室の手記』等に影響を与えた作品。
ゴーゴリ生前には検閲を受けて、完全版としては死後47年たって漸く刊行された。


「夢に日付を 」ではなく「狂気に日付を」を地で行く小説。
某居酒屋チェーン社長の日記手帳の末尾近くに
「皇紀3754年元旦 天皇に即位」というでっかい夢の日付が入っているとか、いないとか。
恐るべき野望である。あくまでも都市伝説なので、信じないように。

狂人日記 他二篇 (岩波文庫 赤 605-1)


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ラベル:ゴーゴリ
posted by 信州読書会 宮澤 at 12:16| Comment(0) | ロシア文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

クロイツェル・ソナタ・悪魔 トルストイ 新潮文庫

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★『クロイツェル・ソナタ』あらすじ
汽車の旅で、主人公の私はポズドヌイシェフという眼光鋭い紳士と相席になる。
彼は自分の妻を殺したと打ち明ける。そして彼の独白が始まる。内容は以下の通り。



青年期に放蕩を尽くした貴族の紳士ポズドヌイシェフは、
純潔な女性と結婚し、妻に誠実を誓い家庭生活を営むが
妻との相性が会わない。夜の生活も相性が合わない。
子供ができるとなおさら関係はギクシャクする。


やがて妻はトルハチェフスキーという
バイオリニストから自宅でバイオリンを習い始める。
お互いを意識しあい、いつしか愛情を抱きあうようになる。



夫は、自分以上に妻と相性のいいトルハチェフスキーに
烈しく嫉妬するが、自分の懐の深さを証明する為に敢えて
妻の浮気相手になる人物を自宅に招きつづける。



妻とトルハチェフスキーは、自宅で演奏会を催し、
ベートーベンのクロイツェル・ソナタを二重奏する。
その烈しい調べにふたりの愛のハーモニーを感じて夫は動揺する。


ある日、田舎へ出張に出かけた夫は妻の不貞を勘ぐり、予定を一日早めて自宅に戻る。
夫の留守の間に自宅で逢引する妻とトルハチェフスキーを発見し、妻を刃物で刺し殺す。


★感想
恥ずかしながらトルストイは『ハジ・ムラート』と『にせ利札』しか読んでいません。
ほんとに、そのくらいです。ずっとトルストイ翁を馬鹿にしていて読みませんでした。
全集を読破した友人がいて「何も残らなかった」という恐るべき感想を漏らしたからでした。


今回、トルストイを読んでみて、ほんとひでえな、と憤慨しました。この作品に関しては。


まず小説を、告白形式にしていることで、作品内の事実の客観性を否定した上に
舞台背景などの客観的な描写までもが損なわれていることです。
要するにポズドヌイシェフの退屈で夜郎自大な独白にうんざりさせられます。
同時代に隆盛した自然主義から大幅なる退歩をしるしています。


次に、告白の大部分を占める彼の女性観と性欲全否定は、トンデモナイ内容で
トルストイが民衆を啓蒙するつもりで書いたとしたら、読者にとっては迷惑な話です。


最後に、題名をベートーベンの楽曲からとったことです。
ベートーベンも墓場で途惑ったに違いありません。迷惑な話です。
古典作品がクラシックの題名に使われることはありますが、
クラシックの題名を小説のタイトルにするとは……。
いくら自意識の甘い新人作家でも、躊躇するところです。



トルストイの文学的な自意識欠如は、敵も味方もわからない混戦の中で、
無敵さ誇示するかのようです。迷いはもちろん恥じらいもありません。


ほんとにひどい小説なので、初めてトルストイの年譜を読みました。
そして彼のあまりにも無軌道かつ独善的な人生に驚きました。
過激な人道主義による迷走。著作権の衝動的な放棄。禁治産者としての晩年etc.


腹を抱えて笑ったのは、トルストイが60歳にしてなぜか小学校の先生になるため
願書を出して当局から拒絶されていることです。迷惑な話です。


この作品も発禁処分になり、妻であるソフィア夫人の請願により
出版許可が下りたそうです。こんな女性蔑視の内容なのに。奥さんもやります。


チェーホフもゴーリキーもトルストイの慧眼にビビって
彼の前では緊張のあまり一言も発せられなかったそうです。


無意識過剰というか、志賀直哉を100倍過激にしたシュールなギャグセンス。


もしかしたらトルストイは本当は偉大な文豪なのかもしれないという
強迫観念が頭から拭いきれなくなりました。
たぶん存在を感じながら読む作家なのです。つむじのあたりにでも。
そうすれば、心頭にトルストイが憑依して未曾有の境地に達するのかもしれません。


よく考えると、哲学者と聞いて思い浮かべるのがソクラテスの風貌であるように
文豪って聞いてまず思い浮かべるのは長くて白いヒゲをたくえたトルストイの風貌ですもの、
小説の技巧とかなんとか野暮で鈍なことは言いっこなしなのです。反省しました。


ここはひとつ素直になってみて、虚心坦懐でもって、


一から彼の作品をいろいろ読んでみようと決心しました。


クロイツェル・ソナタ/悪魔 (新潮文庫)


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ラベル:トルストイ
posted by 信州読書会 宮澤 at 11:57| Comment(0) | ロシア文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月10日

死の家の記録 ドストエフスキー 新潮文庫 その二


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『死の家の記録』名場面ランキング


1位 獄舎でのクリスマスの芝居に囚人が熱狂する場面。


獄舎で『ケドリール』という喜劇が囚人によって上演される。
『ケドリール』というのはモリエールの『ドン・ジュアン』に似た民衆芝居。
臆病者で、大喰らいの下男ケドリールが活躍する喜劇。
ケドリールのキャラクターはモリエールのスガナレルとほぼ同じである。
自尊心がギリギリまで落ちた囚人には大うけする。


なお、この芝居をきっかけとして主人公は、自分が貴族であり
こうした芝居の出来栄えを批評できる一段上の立場にいることを
民衆から期待されていると自覚する。
主人公の自尊心が回復される珍しいシーンである。



2位 囚人のガージン、定期的に泥酔してみんなから殴られる場面。


醜悪で狡猾な囚人ガージンは、非常に分別がある。
酒を売って獄舎で金を稼いでいる。
そんな彼でも、たまに泥酔して暴れ、
気を失うまでみんなから殴られ、簀巻きにされなければ、眠れない日がある。
いくら殴られても翌日はケロっとしている。



「個性のもだえるような発現、自分自身に対する本能的な憂愁、
自分の卑しめられた個性を示したい願望が不意に発作・痙攣まで高まる」



とドストエフスキーは定義している。
囚人からは自由意志が徹底して奪われている。こうやって発散するしかないのである。
普段は大人しいのに、たまに泥酔して暴れる人、実社会でもよくお目にかかる。
そういう人は、自由意志を自ら放棄した人なのだろう。
個人的に、殴られるまで泥酔するというデスパレートな行為自体に、なぜか羨望をおぼえる。


3位 主人公が初日の労働で激しい憂愁に襲われる場面


主人公は貴族なので、獄舎でいじめ、嫌がらせにあう。
一日目の労働で、わざと何もさせてもらえない。おみそにされる。
何かしようとすると嘲笑され、罵声を浴びる。囚人生活の初日の洗礼である。


主人公は、貴族と民衆は、永遠に分かり合えないと結論する。
民衆は、貴族を罵るが、腹の奥底では一目置いている。
だから、機嫌取りに、自らの教養を貶めて、民衆に迎合すると
その分だけ、臆病者と余計に軽蔑されると確信する。


『こんな日がこれから先、何千日もつづくのだ』と主人公は涙する。
唯一の親友である野良犬に接吻しながら、自分の苦しみに甘い喜びさえおぼえる。


これは、新潮文庫のP143〜145にあるエピソード。
いじめ問題に悩む中学生みんなに配って読ました方がいい。
具体的ないじめへの対処解決策が書かれている。換言してまとめれば以下のようになる。



1.いじめにあっても、いじめっこにおもねらない。毅然とした貴族的な態度をみせる。


2.いじめられたら校長室に出入りする。看守長たる校長に相談、または密告。


3.友達がいなければ、動物を溺愛する。飼えなければ、野良犬でも可。
せめて犬なり猫なりと共に受難の苦い喜びを味わって自分を慰める。



最も重要なのは1だが、心を癒すのは3だろう。


ドストエフスキーは、人間の虚栄心に深い洞察をめぐらせた。
犯罪は、往々にして虚栄心を極度に煽られて行われるそうである。いじめもそうだ。
そして、獄舎では、虚栄心の高いものは、みんなから軽蔑されるという常識がある。


この常識が、獄舎だけでなく、世間一般の常識とわかるには、
中学生の獣なみの低い判断力に邪魔されて、惑わされるために、非常に困難である。
人生の長い歳月に照らして、これは真実である。
いかなる虚栄心も軽蔑なしにはすまされない。虚栄心がなくならないことは事実であっても。


いわんや、学校におけるいじめをや!である。


虚栄心の高いものには貴族的な軽蔑を決めこむしかない。
沈黙の非難が一番こたえるのが彼らであろう。


さらに熾烈ないじめに合うだろうが、そんなときは野良犬と一緒に泣くしかない。
(その野良犬までいじめっこによって命を奪われたら、諦めず、ほかの野良犬を探して一緒に泣くこと。
『死の家の記録』では、心を許した野良犬が、囚人に殺められ、長靴の裏皮にされた。でもほかの犬を捜した。)




やがて一目置かれるか、同情して助け舟を出す人が現われるだろう。
『死の家の記録』の主人公は、我慢した結果、一目置かれ、周りの人に助けられた。



柄にもなく啓蒙的なことを書いてしまった。恥ずかしい。
私は中学生のいじめ問題などに関心がない。説教臭くて、すみません!
まあ、精神衛生上、極めて真っ当なことが『死の家の記録』には描かれている。


しかし、獄舎で最も尊敬されることがひとつだけあり。


これを行えば、囚人から一目置かれるという行為がある。


聖書を読み、毎晩祈りつづけること。である。


しかしながら、祈りつづけて、どの囚人からも尊敬された老人が、
最も深い絶望と虚無感に憑かれていたという悲しい現実が描かれている。
自殺は、こういう人たちの最終的な選択肢として残されるのものじゃなかろうか。
とはいっても、『死の家の記録』に自殺する囚人はひとりも出てこない。脱走はいるけど。


死の家の記録 (新潮文庫)


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posted by 信州読書会 宮澤 at 13:10| Comment(0) | ロシア文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

死の家の記録 ドストエフスキー 新潮文庫 その一

★あらすじ
妻を殺し、シベリアの刑務所に10年間服役した貴族地主
アレクサンドル・ペトローヴィッチ・ゴリャンチコフの手記。
おぞましい刑務所生活の全貌と、囚人の内面生活が描かれている。

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★感想
見沢知廉氏の『囚人狂時代』を読んでから、
やっぱり作家が成長するには「刑務所と結核と戦争」の
どれかが必修科目だなと思っていました。


『死の家の記録』はぺトラシェフスキー事件で逮捕され、シベリア流刑に処された
ドストエフスキーの四年間の獄中体験をもとに描かれた小説です。


面白いの一言。その後の長編小説のネタがほとんど出ている小説です。



獄中生活からドストエフスキーが得た教訓が描かれています。
私がすごいなと注目したのは以下の教訓です。やや牽強付会に10個にまとめました。



1 罵詈雑言・悪口の科学が発達。気の利いた悪口を言う囚人が尊敬される。
2 獄舎に友情はない。
3 罰の中で最も苦しいのは、強制された共同生活である。
4 高位高官についての話題は、獄舎内で最も重要な話題となる。
5 獄舎で唯一の自由意志は、金を遣うことである。
6 冤罪はなくならない。確率論に基づいて必ず起こる。
7 自分の犯した罪は淡々と語ること。できれば語らないほうが望ましい。
8 密告者はいるが、発覚しても恨まれることはない。
9 自ら犯した罪への悔恨・呵責はない。
10 笑顔が気持ちいい人間に悪い人間はいない。


普通の生活からはちょっと想像できないものもある教訓なのですが、
まあ、人間としての最低限の権利しか保障されていない
獄中生活の中で得た教訓なので、単に奇をてらった逆説ではないと思います。


これは、ウェブ生活にも当てはまる気がしました。


特に1〜6を、ウェブ生活での教訓に書き換えてみました。


1 ウェブでは罵詈雑言・悪口の科学が発達。気の利いた悪口を書き込むものが尊敬される。
2 ウェブに友情はない。
3 ウェブの中で最も苦しいのは、強制された書き込みである。
4  高位高官についての話題は、ウェブで最も重要な話題となる。
5 ウェブで唯一の自由意志は、クレジットを遣うことである。
6  ウェブの荒らしはなくならない。確率論に基づいて必ず起こる。



書き換えてみて、ある真実を感じてヒヤリとしました。
獄中生活もウェブ生活も、ある種の非人格化を強いられる点で似てくるのですな。



『ウェブに友情はない。』


『ウェブで唯一の自由意志は、クレジットを遣うことである。』


このふたつは、逆説に満ちた名言で、ちょっとお気に入り。


『ウェブ進化論』より『死の家の記録』の方が
『Web2.0』を的確に説明してくれるような気が・・・。



気になった名場面については、また改めて書きたいと思います。

死の家の記録 (新潮文庫)



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