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コルネイユ名作集 (1975年)
コルネイユの大ヒット作『ル・シッド』は、スキュデリら学識人に
アリストテレスの古典主義の法則を遵守していないと非難攻撃を受けた。
その後、大論争に発展したというよりも、個人中傷のパンフレットが飛び交う
泥沼の事態に陥ったので、(論争というのはいつの時代も感情的な泥沼に落ちるようだ。)
スキュデリがアカデミーに調停を求めた。
アカデミーは、皆に一切の発言を禁じて、論争を裁定した。
ちなみに、コルネイユに味方する人はほとんどいなかったそうである。
★アカデミー・フランセーズの設立過程
時の宰相リシュリュー(私はこの人を『アニメ三銃士』の悪役としてしか知らない。)は
文芸の中央集権化を目論んで、アカデミー・フランセーズを設立した。
会員人数が決まっていて、入会するには、誰かが死なないといけないという会である。
一応、日本の芸術院も同じように会員の人数が決まっている。Wikiに詳しい。
★ 起草者ジャン・シャプランについて
シャプランはリシュリューに頼まれて裁定を書いたアカデミー会員。
凡庸な詩人だったらしいが、とりあえず見識はある。
「悲喜劇『ル・シッド』に関するアカデミー・フランセーズの意見」の初稿は、
あまりにコルネイユに厳しかったが、原稿にリシリューが手を加えて
コルネイユの才能を認めるような柔らかな内容にはなっている。
まあ、リシュリューはコルネイユの庇護者であり、この論争を利用して、
アカデミー・フランセーズの文壇での権威を確立しようとしたという
政治的な意図を含む介入であったので、コルネイユの才能を一応は認めている。
しかし、結果的には、喧嘩両成敗といった印象。
★内容について
『ル・シッド』とスキュデリの批判をシャプランは丁寧に読み込んで批評している。
これだけ読み込んで裁定しているのであれば、アカデミーとしての権威は十全である。
冒頭『アカデミーは自らの名声ではなく、公衆の教導を目指している』
とシャプランは宣言しているが、そういう教育的な役割はあった。
『ル・シッド』のアカデミ評価は以下のとおりである。
最後に我々は次のように結論する。
『ル・シッド』の主題はよくない。解決で規則違反を犯している。
無用な挿話が入っている。多くの個所で容儀礼節に背いている。
また、舞台としての構成に欠ける。多くの低級な詩句や不純な言い回しがある。
しかし、こういう欠陥があるにもかかわらず、
そこには、素朴で激しい情念があり、力強く、また、洗練された多くの思想がある。
そして、すべての欠点にも説明しようのない魅力が混じっている。一読してわかるように、歯切れの悪い評価である。
こういうことを言われたコルネイユは全く納得いかなったらしいが、
その後は、古典主義の法則を守る劇を何作か書いて、アカデミーの裁定に従った。
しかし、ずっとこの裁定を恨んだらしく
ほとぼりの冷めたと思われる20年後に、最後っ屁のように反撃を書いている。
まあ、ラシーヌの才能に嫉妬して、劇場で野次を飛ばすような人だから恨みは深い。
とりあえず、シャプランは後述するように『ル・シッド』結末の書き方を指南し、
作品内のセビリア港の防衛の甘さから、カスティリア王の国防意識のなさを指摘するなど
非常に細かく欠点を述べ立てている。アカデミーの裁定はそれなりに迫力がある。
作品の良し悪しを批評したものとしては現代でも説得力に富むと思う。
★『ル・シッド』の「真実らしさ」と「結末のあり方」について。
・シャプランの述べる「真実らしさ」とは?
「商人がもうけを追う」「子どもが軽はずみなことをする」
「蕩児が貧窮に陥る」「激怒した人が復讐に走る」といった
人間の身分、年齢、性格、情熱に、応じて普通に起こりうる事柄のことを
「真実らしさ」としている。
とにかく、作中人物がその性格に従った行為をなすのが、節度だと述べている。
これが、彼のアリストテレス理解である。
確かに、アリストテレスも『性格』を定義するにあたってそういっている。
よって、シャプランは
「操正しいシメーヌが、父親を殺したロドリーグと結婚するのは大きな欠陥である」と断じる。
つまり、シメーヌの行為が「真実らしくない」というのである。
そして、
『詩人は真実よりも真実らしさを重視し、理性に適合しない真実に基づく主題よりは、
むしろ、偽りでも理性に適った主題を創作する権利がある』
とのべる。
続けて、理性に適っていなければ、それが歴史的事実でも礼節に一致するように
歪曲するのが詩人の仕事である、と言う意味のことまで主張するのである。
これは、歴史的事実の改ざん容認発言である。アリストテレスの我田引水である。
理性が治世と結びついていたことを如実に示す、すさまじく政治的な発言である。
(ちなみに、コルネイユが、スキュデリに反論したのは、原作の元ネタとなった史実は、
シメーヌとロドリーグが実際に結婚して、民衆から祝福されたという一点を論拠にしている。
史実がそうだから、そういう結末はありだと主張した。)
よって、シャプランは「理性」にかなわない結末を認めない。
やや悪乗りして、結末をいくつか提案している。
・伯爵がシメーヌの実の父親でなかったことが露見する。
・死んだと思っていた伯爵が実は死んでおらず、深手を負っただけだった。
・王と王国の救済のために伯爵の死が必要だったことにする。
以上のような、失笑を禁じえない凡庸な結末を列挙してみたのである。。
シャプランは、伯爵をどうにか生きかえらせようと考えあぐねたようだが、
疲れてきて、虚しくなったのか、捨て鉢な一言で締めくくる。
「最も望ましいのは、この題材から劇詩を作らないこと」
こんな身も蓋もない結論を下している。ひどいなげっぱなし。
これを裁定として受け取ったコルネイユのしょげかえる様が目に浮かぶ。
すばらしい結末を提案されたのなら納得いくが、
「この主題でいい作品を作るのは不可能」と一方的に
アカデミーから決め付けられたのだ。
こんな言いかたされれば、コルネイユならずとも気を悪くする。
文芸と政治という問題を浮き彫りにした『ル・シッド論争』であるが、最終的に政治的に解決された。
しかし、この論争後にフランス演劇は隆盛を極めた。
古典主義が作劇の自由を奪うどころか、数々の名作を生み出す原動力となった。
皮肉なことである。
★教訓
こういう論争が昔あったのだから、同じような論争はもういらない。
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