信州読書会 書評と備忘録

世界文学・純文学・ノンフィクションの書評と映画の感想です。長野市では毎週土曜日に読書会を行っています。 スカイプで読書会を行っています。詳しくはこちら → 『信州読書会』 
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カテゴリー:戯曲

2013年07月25日

欲望という名の電車 T・ウイリアムズ 新潮文庫

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ある日、妹ステラ住む小さなアパートに、姉のブランチがやって来る。
この姉妹はアメリカ南部ベルリーヴの大農園に生まれた。
実家はすでに競売にかけられ、なくなっている。


品のいいお嬢様のまま、ブランチはステラのアパートに身を寄せる。
ステラの夫スタンリーは、欧州大戦では将校だったが、現在は工場に勤める労働者。
突然やって来たブランチの上品ぶったわがままぶりが気に喰わない。
そしてとうとう、ブランチの常軌を逸した言動の原因を暴く。
ブランチの嘘は、陰惨な過去から生まれたものであった。





南部没落貴族の運命の悲惨を描いた作品。
これは、フォークナーの作品世界の主題にもつながる。




ブランチが過去にうけた心の傷から逃げだすために
貴婦人を装う精一杯の演技や
出身階級の誇りと潔白を守るための様々な作り話を続ける。
これが、ブランチに思いを寄せるミッチを魅了し
そして彼をズタズタに傷つけ、辱める。



妹のステラにさえ疎まれたと感づいた彼女が
自分から街を出て行くことを告げるシーンは
涙なしにはよめない。



過去に恋愛で取り返しのつかない心の傷を受けた人は
ブランチに同情と共感の涙を流しながら読める作品。


そうでない人は、スタンリーの荒々しい男気を愉しんで読んで下さい。

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エリア・カザン監督の映画もすばらしい。





マーロン・ブランドもビビアン・リーもハマリ役。
映画版はヘイズコードのせいで原作のエグみがなくなっているので、
まず原作を読んでみて下さい。



エリア・カザン自伝に、ブランド、ウィリアムズの
興味深い逸話が垣間見える


エリア・カザン自伝〈上〉


エリア・カザン自伝〈下〉






上記の本は『欲望という名の電車』を
政治思想映画として解読している
ソエジーこと副島隆彦先生の映画評論です。


この映画を評論しながら
アメリカ下層白人社会の分析を
行っています。


私はこの本から
アメリカ南部の歴史的な政治思想とは
まったく別個のアメリカ下層白人社会の
内部的な対立があることを
教わりました。



こちらは、フォークナーやスタインベックなどの
描いているアメリカ南部の闇とは別の問題です。

蓮實重彦の映画評論よりよっぽどためになります。


オススメです。

アメリカの秘密―ハリウッド政治映画を読む (オルタブックス)



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posted by 信州読書会 宮澤 at 10:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

サド公爵夫人・わが友ヒットラー 三島由紀夫 新潮文庫

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「サド公爵夫人」について
澁澤龍彦の「サド公爵の生涯」中公文庫に刺激されて書き上げられた戯曲。
サドが出てこないというミステリー仕立てで読ませる。




「わが友ヒットラー」について
ヒットラーのレーム事件を題材にした戯曲。
国民の支持を、幻の中道政治にとって取り付け、
そこから国家総動員体制に象徴されるファシズムを剔抉するためには、
極右分子突撃隊のレームと、党内左派シュトラッサーを粛清しなければならなかった。


死の商人クルップが、官邸バルコニーでのヒットラーの演説を聴いてこう漏らす。


『あの人の演説は、表側から聴くよりも、裏側から聴くほうが味がある。
よいプリマ・ドンナの歌は裏側へまでひびくんだよ。』

三島事件の演説を思うと皮肉な台詞である。


戯曲中の「アドルストの鼠」の挿話は創作で、三島の面目躍如といった巧みさが光る。



「サド公爵夫人」は翻訳されヨーロッパでも広く上演されているらしい、
普遍的に受容される卓抜な構成を備えている。


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タグ:三島由紀夫
posted by 信州読書会 宮澤 at 10:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

人間ぎらい モリエール 新潮文庫

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社交界の女王である未亡人セリメーヌに恋してしまう.
純真で、偽善を許せない、主人公の青年貴族アルセスト。
セメリーヌは、何人もの男に気を持たせるのがうまく、
アルセストは彼女のことを激しく恋するあまり、
彼女の不実を憎み、彼女を糾弾する。

やがてアルセストは、セメリーヌに代表される
世の中の偽善に我慢がならなくなり、一切縁を切るべく
人里は離れた山奥に隠遁すると公言する。


アルセストは、恋する青年の典型を成している。
セメリーヌの指摘するように、アルセストは
始終他人とは反対の意見をもっていて、
誰かと同じ考えを世間が持っていると考えたら
自分が一文の価値もない人間だと思ってしまう。
まさしく「若気の至り」を丸めて固めたみたいな五月蝿くて、青臭いお坊ちゃんだ。


はた迷惑なほど、直情径行なのだが、なぜか、周りの人間に愛されている。
漱石の描く「坊っちゃん」をもう少し内向的にしたような感じである。



この喜劇のすばらしさは、なんといっても
アルセストの友人フィラントの、コメディーリリーフぶりである。
アルセストをたしなめる言葉も優しさにあふれている。
世を捨てると言い出したアルセストに

もし何事も正直ずくめで、だれも彼も率直で公明正大で柔順だったら、美徳というものは大部分無用になってしまうよ。なぜといって、こちらが正しい場合、他人の不正を気持ちよく堪え忍ぶのが美徳の美徳たるゆえんなのだ。



と諭し、最後にちゃっかりアルセストを心配している
セメリーヌの従妹のエリアントと最後に結ばれ、彼女に
「さあ、僕たちはどんなことをしても、アルセストの計画を
ぶち壊そうじゃありませんか。」と高らかに言い放つ。


こういうバランス感覚のある情の厚い友人がいなければ、
喜劇は喜劇にならないという重要な登場人物だが、
こういう人物の造形というのは案外、最も難しいのではないかと思った。それだけ。

人間ぎらい (新潮文庫)


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タグ:モリエール
posted by 信州読書会 宮澤 at 09:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

桜の園・三人姉妹 チェーホフ 新潮文庫

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★「桜の園」あらすじ
夫に死に別れ、七歳の息子が川で溺死するという
相次ぐ不幸に見舞われたラネーフスカヤ夫人。
彼女は恋人とパリに出かけ、心の傷を忘れるために
放蕩三昧の日々を過ごすが、恋人に捨てられ、
借金を背負って再びロシアに戻る。
すると、広大な桜の園に象徴される先祖代々の領地は競売にかけられていた。

★感想
没落貴族の悲劇が、喜劇的に取り扱われた戯曲。
貴族的な人物は実は出て来ない。
従僕も貴族も同じ平面で語り合う、社会主義的な作品。
そもそもロシアの貴族は田舎臭いので
会話にエスプリも教養もない。


劇的なことはついぞ起こらないが、
登場人物はみんなとぼけていて、明るくユーモラスである。
その辺が、戯曲の楽しみどころではある。



解説の池田健太郎氏の指摘によると
小説「知人の家で」と「いいなずけ」が下敷きになっているという。
チェーホフのミニマリズムを味わえる。


名訳の誉れ高い神西清訳でチェーホフの哀愁を楽しんでみては。


桜の園・三人姉妹 (新潮文庫)


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タグ:チェーホフ
posted by 信州読書会 宮澤 at 09:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

トロイ戦争は起こらない ジロドゥ 筑摩世界文学大系84所収


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筑摩世界文学大系〈84〉近代劇集 (1974年)


ジロドゥ 鈴木力衛、寺川博訳



★あらすじ
トロイの王の次男坊パリスは
ギリシアの絶世の美女エレーヌ(ヘレネー、メレネスの妻)を誘拐。
怒ったギリシア勢がエレーヌを奪還するためトロイ沖に軍勢を進める。
エクトール(ヘクトール)は、トロイ戦争を回避するために、
エレーヌをギリシアに帰らせることを画策する
王プリモス、王妃エキューブ、妹のカッサンドル、ポリクセーヌ、妻アンドロマックと
家族会議を開き、とりあえずエレーヌをギリシアに帰すことにきめるが、
交渉に来たギリシアのユリッス(オデュセウス)の部下を手違いで殺してしまい
結局、戦争になるところで劇は終わる。


★感想
トロイ方の家族会議が中心の近代喜劇。
この家族会議の饒舌が楽しみどころである。


コロスの合唱がないと劇の音楽性が消えることがよくわかる。
音楽的な熱狂のないところに悲劇はない。
そんなことをニーチェも指摘している。



トロイには戦意高揚のための軍歌がないという設定となっている。
家族会議はソフィスト的な饒舌に溺れ、一向に要領を得ない。



ブラジヤックが『七彩』において、
ファシズムは軍歌を歌うことで生まれる同志愛によって、
育まれるという意味のことを書いていた。



軍歌を封殺することが、
戦争回避の可能性につながることを
私に教えてくれた喜劇。


ジロドゥの意図がどういうものであったかは私の非知浅学ゆえ不明。

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posted by 信州読書会 宮澤 at 08:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

蝿 サルトル 新潮世界文学 47 所収

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新潮世界文学 47 サルトル



サルトル, 白井 浩司訳 新潮世界文学 47 サルトル (47) 所収

アイスキュロスの『供養する女たち(コエーポロイ)』に依拠しながらも
実存主義で読み直し、再構築したサルトルの処女戯曲(1942年初演)


「蝿」とは復讐の女神たち、エリニュエスのことである。
もちろん、エリニュエスはコロスとして「ぶんぶんぶんぶんぶんぶん」と合唱。
(『オレステスと蝿』とかわかりやすいタイトルにすべき!! 不親切な気がする。
アリストファネスの『蛙』に対抗した題名なのかな。)


★あらすじ
あらすじは『供養する女たち』と概ね同じであり、
トロイ戦争から帰還した父アガメムノンを暗殺した
アイギストスと実母クリュタイメストラへの
オレステスによる仇討ち劇として物語は展開する。


しかし、人物設定やシーンにかなりの異同がある。
まず、オレステスは友人ピュラデスではなく、
彼の家庭教師で奴隷の師傳を伴い、コリント人と偽ってアルゴスに帰郷。


オレステスは村上春樹の小説の主人公みたいな、
親友がいない、自分に立てこもった、性格の暗いブルジョワ青年である。
彼はアルゴスの正当な後継者という自覚のない弱気な青年として登場。


エレクトラは憎しみのために怒れる洗濯女として登場。
オレステスの仇討ちを夢に見ているが、実際に再会してみてやや彼に失望する。
なぜなら、オレステスにはまったく憎しみの感情がないのである。


ユピテル(ゼウス)も人間の姿をして初っ端から登場し
帰郷したオレステスに影法師のようにつきまとう。



15年前のアガメムノーン暗殺に際して神々はアルゴスに蝿を遣わす。
街は「後悔」の象徴である蝿におおわれており、
アイギストスもクリュタイメストラも民衆も、
暗殺への後悔のために顔色が悪く、やつれている。


彼らは、その罪を引き受け、15年間に喪に服しており、
後悔することは、すでにこの国の秩序にまでなってしまっている。


暗殺を望まないオレステスはエレクトラと再会し、
仇討ちは止めて一緒に他国へ逃げようと説得するが拒絶される。


そして、オレステスは仇討ちの目的を
「後悔」の蝿におおわれて、それが秩序にまで至ったアルゴスを解放し、
オレステス自身がすべての人々の「後悔」を引き受けることで
秩序を転覆させ、すべてに対して「自由」を開くためと結論する。



忽如として、誇り高い人物にオレステスは生まれ変わる。
そして、とうとう暗殺の決行を決意する。
(「自由」を手に入れるための暗殺=アンガージュマン(参加)というのが
サルトルによるアイスキュロスを読み替えの眼目である。)


オレステスとエレクトラはふたりで城に乗り込みアイギストスを暗殺する。
クリュタイメストラの暗殺は、オレステスひとりによって舞台の外で実行される。
(クリュタイメストラが乳房を見せてオレステスに許しを乞う場面はない。)



殺害後、ふたりはアポロンの神殿に立てこもるが、
復讐の女神エリニュエスが彼らをとりまき罵る。



恐怖におびえるエレクトラは後悔の喪に服していたときの方が、
生きているが楽だったことに気がつき、洗濯女でいるほうがよかったと
ヒステリーを起こしはじめて、オレステスに八つ当たりしはじめる。
後悔から解き放たれ絶望と実存に向かい合うのが耐えられないと告白。
彼女も自由ではなく、結局は奴隷として旧秩序を愛していたことを暴露し逃亡。



ここに至って、ユピテル(ゼウス)はオレステスにむかって、
ねちねちと実母殺しの罪を責めはじめ、彼が狂気に陥るようしむける。
(このへんはアイスキュロスの原作ならって進行)
神殿を出ても、荒れ狂う民衆がオレステスを殺すと脅迫する。



しかし、オレステスは神ゼウスからも神託からも自由になれると確信し、
アルゴスの正当な後継者として戴冠はするが、王座にはつかず、
民衆の苦悩を引き受け生きていくことを宣言する。
秩序の崩壊に怒り狂う民衆の中に、オレステスが身を投じるところで劇は終わる。



★感想
長くなってしまったが、『蝿』に感じた特異性は2点。
『蝿』がアイスキュロスの『供養する女たち』と最も違うのは、


@ゼウスが人間の姿で登場し、神はすでに絶対的な存在ではないこと。


A怒れる民衆を劇に入れることで、大衆社会の到来を描いていること。


この2点は、私が感じたサルトルのオリジナリティーである。


オレステスを実存主義者として描いたサルトルの手腕は
かなり強引といえるが圧巻である。すさまじい執念を感じる。


白井浩司の解説によると
アイギストスには対独協力者、アルゴスの民衆には占領下のフランス国民
オレステスにはレジスタンスの面影が読みとることができるという。



いわれてみれば、確かにそうだが、
アポロンの神殿から民衆のもとにくだってゆくオレステスの一歩は
ファシストの一歩とかぎりなく足どりが似ているように思えるのは気のせいか。


「狂気」ではなく「自由」を手に入れたオレステスに
その後どんな運命が待ち構えていたのだろうか?


ちなみに『蝿』の初演は興行的に失敗だったそうである。



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タグ:サルトル
posted by 信州読書会 宮澤 at 08:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月15日

嘘つき男・舞台は夢 コルネイユ 岩波文庫 その二


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★『舞台は夢』あらすじ
家出息子のクランドールを捜す父プリマダンは、
魔術師、アルカンドルに息子の安否を尋ねる。


すると、アルカンドルは、プリマダンの目の前に
舞台を出現させ、クランドールの家出の遍歴を見せる。


かくしてクランドールが主人公となった
悲喜劇が繰り広げられ、彼は悲劇的な死を遂げる。


殺された息子を見て悲しむプリマダンに
実は、クランドールは有名な劇団の俳優になっており、
あなたの観たのは、すべてその劇団の芝居であると種明かしする。要するに夢オチ。


★感想
ギリシア悲劇の時代から、演劇は五幕物がオーソドックスである。
五幕という形式の規範性こそが、演劇に高度なプロットを発達させた。


私の戯曲への興味は、第一に五幕の形式の展開である。
『舞台は夢』は、いままで読んだことのないような斬新な展開だった。


なにしろ、第一幕がプロローグ、第二・三・四幕は喜劇、第五幕は悲劇という構成で、
「劇中劇」(メタフィフィクション)が二つも挿入されているという実験的な演劇であったのだ。


第二・三・四幕はイタリア経由のスペイン民衆劇の模倣。
第五幕は、コルネイユが得意だった古代ローマ悲劇の模倣である。
そうしてその二つの劇中劇が、結末でただの演劇だと種明かしされる。
この斬新さは、二十世紀の演劇に通じる実験性がある。コルネイユ恐るべし。
ただ、形式の斬新さに比べて、内容の面白さは正直なところ微妙であった。


★バロックと古典主義について
訳者井村順一氏の解説で演劇のおける『バロックと古典主義』について説明している。
この説明がなかなか勉強になったので簡単にまとめて紹介したい。


・「バロック」とは?
流動の感覚を基本的性格とし情念に優位をあたえる非合理主義的文学であり、
「だまし絵」的趣向、変装、取り違えなど錯覚を乱用するという特徴をもつ。


・「古典主義」とは?

(常識と言う意味での)理性を基礎におき、悲劇、喜劇のジャンルの峻別や、
三単一の規則(一日の出来事、一つの場所、一つの筋)を要求する。
また、「真実らしさ(荒唐無稽であってはならない)」
「(周囲の状況への)適合性(例えば反道徳的な言動や残酷な場面を許さない)」を重視する特徴をもつ。


<「バロック」は劇中劇(メタフィクション)の導入>


<「古典主義」は劇中劇(メタフィクション)の否定>
というふうに捉えることができる。


以上の「バロックと古典主義」の定義から私が思ったのは、
「まんが、アニメ」と「純文学」の対立は表現形式の違いを無視すれば、
演劇における「バロック」と「古典主義」の対立とほぼ同義である。
キルケゴールの述べる「空想」と「想像」の対立とも問題圏が重なる。
作品への「メタフィクション」の導入めぐったところに対立があるのだ。


コルネイユは「バロック」と「古典主義」どちらも描いた。
二つの概念が混在した時代に生きていたからだそうである。
ただ、バロックで描くと喜劇、古典主義で描くと悲劇とならざるをえなかった。



メタフィクションの導入は作品のジャンルを規定するということである。


嘘つき男・舞台は夢 (岩波文庫)


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タグ:コルネイユ
posted by 信州読書会 宮澤 at 13:57| Comment(0) | 戯曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

父帰る・屋上の狂人 菊池寛 新潮文庫

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父帰る/屋上の狂人 (新潮文庫 草 28-2)


★「父帰る」あらすじ
20年前に妻子を捨てて出奔した父が、旅芸人を廃業して帰ってきた。
自殺まで企てた昔を忘れたかのように喜び迎える母。
しかし、一家の辛苦をなめ弟妹を育ててきた長男賢一郎は父を拒み喧嘩になる。


★「屋上の狂人」あらすじ
屋根の上に登りたがる白痴の長男を見かねて、
父は、巫女に頼んでお祓いをしてもらう。
巫女は、狐を追い出すために煙でいぶせというので、
みんなで長男をいぶしていると、帰宅した次男がそれを見咎める。
次男は、巫女を蹴り倒し、兄を守ろうとする



★感想
菊池寛は、一幕物の民衆劇を多数制作している。
アイルランド劇の影響が大きいそうだ。


肉親の情を描いていて泣ける。要するに芸能。
無駄な饒舌が一切ない。
簡素であるだけに劇的効果が上がる戯曲の好例。


情緒に訴えるために方言が駆使されている。



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posted by 信州読書会 宮澤 at 13:56| Comment(0) | 戯曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

嘘つき男・舞台は夢 コルネイユ 岩波文庫 その一


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★『嘘つき男』 あらすじ

法律を修めてパリへ戻ってきた貴族の息子ドラントは、
クラリスとリュクレースという貴族の令嬢を、
口説き落とすために、嘘をつきまくる。
ドラントは、すったもんだのあげくリュクレースと結ばれる。

★感想
コルネイユの喜劇。1644年制作。
貴族の息子ドラントとその召使クリトンの関係が、
モリエールの『ドン・ジュアン』の
ドン・ジュアンとスガナレルの関係にそっくりである。
どちらの召使も、主人の無軌道な行動に四六時中ハラハラさせられ通しである




とはいっても、コルネイユのほうが20年早いので、
モリエールがコルネイユに影響を受けたとも考えられる。
しかし、この作品をモリエールの性格喜劇の先駆として
位置付けるのは誤りである、と訳者解説では釘を刺している。ほお〜。



コルネイユは、高尚な悲劇作家が地なので、
主人公のドラントの嘘は、モリエールのドン・ジュアンの嘘よりも
想像力の質において、はるかに雄大でお品がよろしい。
要するに、古代悲劇のコロスの合唱のようなハッタリに満ちた嘘をつく。



ドラントは、水上での宴席や、秘密結婚の経緯、友人との決闘について
途方もない嘘を創作するが、どれも騎士道的な高尚さと貴族的な高貴さに溢れている。
コルネイユはイエズス会の敬虔なクリスチャンであったそうだ。


なので、『嘘つき男』は題名の通り、ドラントの嘘だらけだが、
モリエールのようなスケベなシーンは一切ない。


その代わり、男を値踏みするクラリスとリュクレースの
女同士の明け透け会話などに、俗っぽい面白みがあった。


プロットの論理的構造は、かなり緻密。
展開が強引な理に落ちていて、読んでいて頭が痛くなった。


デカい嘘をつくには、人間の器もデカくなくてはいけないという個人的な感慨はおぼえた。


嘘つき男・舞台は夢 (岩波文庫)


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タグ:コルネイユ
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アルルの女 ドーデー 岩波文庫


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アルルの女 (岩波文庫)



★あらすじ
平穏な農村の青年フレデリは、アルルの町の女に恋をする。
結婚寸前まで行くが、彼女の身持ちの悪さが発覚して大混乱になる。
アルルの女に未練たらたらのフレデリは恋煩いで精神に変調をきたしたため、
彼の家族は、彼が死ぬよりはましかと思い、しぶしぶアルルの女との結婚を許す。



しかし、名誉を重んずる家風に従って、これ以上家族に迷惑をかけてはいけないと思い、
中途半端な意志で、フレデリは、無理に幼馴染のヴィヴェットと婚約を決意する。


すると、婚約の日の当日、フレデリはアルルの女の情夫にばったり会ってしまい、
彼の会話を盗み聞きしたことで、女への嫉妬の炎が燃え盛り、懊悩の末、自殺する。



★感想
モーパッサン・ゾラに続く自然主義作家ドーデーの戯曲。真っ当な悲劇。


『水車小屋だより』の一挿話を戯曲化したもので、ビゼーが音楽をつけた。
アルルの女は一度も登場しない。思い切り悪者になっている。

一族の名誉と、フレデリの自由恋愛の相克を描いているが、
家族はかつて、自由恋愛を断念した人たちばかりである。
彼らの人生には、その断念への深い後悔の影がさしているだけに、
フレデリの苦悩が、より鮮明に浮かび上がっている。
フレデリはヴィヴェットとの婚約によって、強引に苦悩を解決しようとして失敗する。



注目に値するのは一家の不幸を一身に背負っているフレデリの白痴の弟の存在である。
彼は、一族の運命の星まわりに安定をもたらし、ある種の信仰対象となっている。
彼が、急にまともになることで、フレデリが自殺するという皮肉な結末になっている。



一族の平和と安定には、バランスが存在するという前提で描かれている。
ギリシア悲劇で言えば、神託が前提となっているようなものである。
結婚問題を境に、登場人物たちの関係のバランスが多いにくずれ、
それぞれの人生の真実が明らかになる。それが、自然主義の手法で描かれる。


こう考えると、自然主義というのは人間の運命に関する
とりわけ信仰や迷信のような、自然の不可視な法則性を
科学的に取り上げて、作品中に取り込んでゆく手法だといえる。
要するに因果応報をもって物語の綾を織り成している。


今もってなお、人を魅了する斬新でインチキ臭い手法だと思う。


よって、スピリチャルカウンセラーや占い師というのは、
まずなによりも自然主義者である。(かなり強引な断言!!)


人物設定等は、スタインベックの『二十日鼠と人間』に似ていると思った。




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posted by 信州読書会 宮澤 at 13:51| Comment(0) | 戯曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

こわれがめ クライスト 岩波文庫



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★あらすじ

オランダの僻村の村長兼裁判官アダムは、村の娘エーフェの部屋に夜這いする。
しかし、彼女の婚約者であるループレヒトと鉢合わせする。
慌てて逃げだすが、エーフェ宅の家宝のかめを壊してしまう。
その上、暗闇の中で、アダムはループレヒトに二回殴られる。


翌日、司法顧問官ワルターが村に査察に訪れる。
そこへ、エーフェの母マルテが、こわれがめの件でループレヒトを訴えたので、
ワルターの謁見のもとで、アダムを裁判官として裁判が開かれる。
裁判官のアダムは、ループレヒトに罪をなすりつけようとするが、
つぎつぎと真実が暴露され、窮地に陥る。


★感想
クライスト(1777〜1811)の喜劇。
クライストはすべての事件が起こった後で真実が明るみに出る


ソフィクレスの『オイディプス王』を念頭において制作したそうだが、
法廷劇という点で、アイスキュロスの『慈みの女神たち』に近い。


主人公のアダムは、モリエールの『タルチュフ 』のタルチュフに似ている。
特に、権力を笠に着た嘘つきであるところと、スケベなところが似ている。


喜劇の主人公の性格としてこの二点は、必要十分条件である。
その意味で、民衆喜劇のツボをおさえ、醍醐味を心得た作品であると思う。


『タルチュフ』においては国王が機械仕掛けの神であったが、
『こわれがめ』においては司法顧問官のワルターが、機械仕掛けの神である。
中盤から出ずっぱりのワルターがいなければ、アダムの嘘は解明されないので、
彼が機械仕掛けの神として君臨しているといえる。



一幕物の法廷喜劇なので、単純な構造である。展開は貧弱。
クライスト生前の上演は大失敗だったそうだ。


第12場は異曲があり、岩波文庫に併録されている。
異曲は長く、終りもすっきりしないので、切れ味に乏しい。


しかし、ループレヒトを国内勤務だと偽って民兵に招集し、実はアジアに派兵させ、
エーフェと二度と逢えないようにしようとする場面が強調されている。
結果的に、国家権力の欺瞞を批判的に描いているのは異曲のほうである。



ただ、決定版のアダムが畠を横切って逃げていく場面のほうが、喜劇としては面白い。
まあ、一番惹かれるのは『こわれがめ』という題名である。
落語っぽい題名で、吸引力がある。


全く余談だが、水戸黄門は喜劇の単純なフォーマットを踏まえている。
水戸黄門=機械仕掛けの神、嘘つき=悪代官と言う点で。
しかし、肝心の「スケベ」を担当するのが、
由美かおるの入浴シーンだけというのは解せない。


もっとも毎回、独創的な「スケベ」を創作すると、
町娘が毎度ひどい目にあって、昨今のゴールデンでは忌避されるから、
その部分を、マンネリズムでやりすごしているということだろう。
由美かおるの女優としての自意識がそれを許しているかには、少しだけ興味があるのだが…。


こわれがめ (岩波文庫)


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かもめ・ワーニャ伯父さん チェーホフ 新潮文庫


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★『かもめ』あらすじ


作家志望のトレープレフと女優志望のニーナは、恋人同士である。
田舎に住む伯父の家の庭に、小舞台を組み立て、ニーナ主演で自作の演劇を上演する。



有名な女優であるトレープレフの母、アルカージナと
その愛人である著名文士トリゴーリンは、その演劇を観て欠伸をもよおす。



それを見て、トレープレフは、自尊心を傷つけられて上演を中止する。
その上、その後、彼はトルゴーリンにニーナを寝取られ、自殺未遂をする。


二年後に、トレープレフは、新進作家としてそこそこ名前が売れはじめる。


そして、彼は、夢を追いかけて挫折し、トルゴーリン捨てられたニーナと再会する。
ニーナは、まだトルゴーリンのことを愛していた。
その告白を聴かされて、トレープレフは、自殺する。



★感想
喜劇と銘打たれているが、どう考えても悲劇である。


「かもめ」というのは、理想の象徴みたないもの。
かもめをトレープレフが撃ち落し、トリゴーリンが剥製にした。
そのエピソードが、作品の主題を暗喩している。



トレープレフという青年は、すごいお坊ちゃんである。
劇場否定論者でデカダンな新形式の文学を模索する文学青年である。
自意識過剰で、少し名が売れて、余計に自らの才能に不安になった。


そして人生にも、演劇にも、なにひとつ満足できる志を立てられず自殺する。
今読んでも、なお古びていない人物像が描かれている。
背景に、ロシアの社会情勢の不安が深く影を落としているのも見逃せない。貴族の没落。


★演劇について


登場人物がたくさん出てくるが、解説によると、
すべてチェーホフの短編に出てきた人物が、
再利用されて、この戯曲は構成されたということである。
そして、短編はすべて、チェーホフの実体験から取材したものだそうだ。



劇中、モーパッサンやゾラ、トルストイ、ツルゲーネフついて言及されていて、
それらにチェーホフのグロテスクとも言える自意識の肥大が垣間見える。


1896年の初演は大失敗して、その2年後の1898年、


新進気鋭のスタニフラフスキーの斬新な演出による再演で成功をおさめた。
演劇としては、劇中劇をとりいれて、20世紀演劇につながる先見性を見せている。
トレープレフとニーナの劇中劇の演劇失敗が、青春の挫折として象徴されている。



最近、スーザン・ソンタグの『反解釈 』を読んだら、
「演劇における劇中劇」と「小説における寓話」の登場を
20世紀文学の特徴として、分析していた。



ソンタグの意見を換言すると、自覚的知性が大手を振って作品内に歩き出すと、
作品内に、劇中劇を取り入れて、主人公の自意識を分離しなければならなくなるそうだ。



『女中たち』のジュネも劇中劇を取り入れている。
『三文オペラ』のブレヒトも、そしてベケット、イヨネスコも……。
この辺の作品はソンタグが例にあげていた。




演劇のなかの主人公までもが、劇中劇というメタフィクションで
自分とは違ったキャラクターを演じ、違った運命を生きようとする。



それほどまでに、20世紀の自覚的知性というのは厄介なのである。
メイドカフェやアニメの二次創作が自覚的知性かどうかはわからんが・・・。



90年代に『新世紀エヴァンゲリオン』のブームがあって最終回のメタフィクションが話題になったが、
あの程度のメタフィクションは演劇で、すでにやり尽くされているのが、最近よくわかった。


19世紀のチェーホフですら、100年前にメタフィクションを導入して青春の挫折を描いている。

メタフィクションの批判的な導入をアニメに見いだして、
アフリカの奥地で新発見された滝かなんかのように

オタク擁護の文脈で、大げさにありがたがるのは、ナンセンスだろう。


かもめ・ワーニャ伯父さん (新潮文庫)



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posted by 信州読書会 宮澤 at 13:41| Comment(0) | 戯曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ル・シッド論争 コルネイユ名作集所収 白水社


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コルネイユ名作集 (1975年)

●『ル・シッド論争』について

コルネイユの出世作『ル・シッド』に対して


当時のゴリゴリのアリストテレス主義者のである劇作家の


ジョルジュ・ド・スキュデリが、作品に難癖をつけて


歴史的な大論争に発展したという話である。





要するに、コルネイユがアリストテレスの『三単一の法則』を守らないことや、


歴史的事実を歪めて、不道徳な登場人物を主人公にしたということを、


(現在から思えば、全くどうでもいいようなことを、また、今日誰もそんな論争には関心のないことだ・・・)


ジョルジュ・ド・スキュデリがコルネイユの大成功してに嫉妬し、私怨たっぷりに、ねちねちと攻め立てている。



それも匿名で、コルネイユの名前もあげずに、だ。かなり陰険である。




だが、それ以上にコルネイユも自意識過剰な攻撃的な人物であり、容赦ない反撃に出た。
結局、時の宰相リシュリューがアカデミーの名において介入するまでの泥沼の論争になったそうな。




ただ、ジョルジュ・ド・スキュデリによるアリストテレスの権威を笠に着た


罵倒の『ル・シッド』劇評が、最近の自分の書評とは無縁と思われず、


身につまされたというか、なんだかなあ〜と思わず嘆息したほどの


醜さに満ち満ちていていた。自省を覚えさせる。





『ル・シッド』の戯曲自体はそれほどにはおもしろくなくて、短いにもかかわらず、読み終えるのに3日もかかった。


今日はなぜか、あらすじをまとめる気力も起きないうえに、論争のほうが、作品の2倍くらいの長さなので、


まとめて紹介するのに、気が遠くなった。





でもすごい面白い論争なので、改めて何回かに分けて詳しく紹介したい。



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posted by 信州読書会 宮澤 at 13:36| Comment(0) | 戯曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ル・シッド コルネイユ名作集所収 白水社


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コルネイユ名作集 (1975年)


★『ル・シッド』あらすじ


舞台は、ドン・フェルナン国王を戴くカスティリアの町、セビリアである。


スペインの貴族の子弟であるロドリーグとシメーヌは恋人同士であった。





王子の師範役という重大な役職をめぐって、
ロドリーグの父、ドン・ディエーグと

シメーヌの父、ドン・ゴルメス伯爵が出世争いをする。





しかし、ドン・ディエーグが、国王より王子の師範役を任ぜられ勝つ。
敗れたドン・ゴルメス伯爵が、嫉妬から、ドン・ディエーグを暴力で侮辱する。


ロドリーグは、父の恥を晴らし、家の名誉を守るために、


最愛のシメーヌの父であるにもかかわらず、


ドン・ゴルメス伯爵に決闘を挑み、殺してしまう。





シメーヌは国王に、涙ながらに父の死に対するロドリーグへの裁きを求める。





伯爵の葬式にロドリーグが現われて、シメーヌに体面する。





ロドリーグ「私の話を聞きたまえ」


シメーヌ 「私は死にます」


ロドリーグ「待ってくれ」


シメーヌ 「死なせて」





こんな愁嘆場を繰り広げる。





あげく、ロドリーグは、私を殺せとシメーヌに詰め寄る。

「私は死にたいのだ!」と。


しかし、シメーヌは仇討ちできない。ロドリーグへの愛ゆえに。





ちょうどその頃、ムーア人が大艦隊で攻め込んできて。
カスティリアは存亡の危機に立たされる。





愛するシメーヌに永遠に拒否されたロドリーグは、ムーア人を迎え撃つために戦場へ行く。


破れかぶれのロドリーグは、死に物狂いで戦う。死に場所を求めて。


しかし、結果的に、初手柄をあげ、さらに、皮肉なことに

ムーア人の王ふたりを生け捕りにするという快挙を成し遂げてしまう。





その武勲によってロドリーグはムーア人から『ル・シッド』と呼ばれ怖れられるようになる。


(ちなみに、『ル・シッド』とは、ムーア人の言葉で『君主』という意味)





国王は、英雄となったロドリーグに感謝し、ねぎらう。


国王は、シメーヌが内心ではロドリーグの活躍を喜んでいるのに気がつき


シメーヌが代理人をたてさせて、ロドリーグと決闘させることに決める。


そして、勝ったものとシメーヌは結婚するという条件をつける。なんとかまるくおさめようとして。





シメーヌに思いを寄せる男。、ドン・サンシュが仇討ちの名乗りをあげる。しかし彼は決闘未経験。

ロドリーグは決闘において、ドン・サンシュの剣を撃ち落し、圧勝する。

そして、ドン・サンシュに剣を預け、勝った証に、シメーヌに届けろと命令する。





ドン・サンシュが届けたロドリーグの剣を見て、


シメーヌはロドリーグが死んだものと早とちりする。





ショックから、父への仇討ちの義務からひた隠しにしてきたロドリーグへの愛情を
シメーヌは国王に告白し、世をはかなみ、尼寺にこもると言い出す。


しかし、誤解が解け、ロドリーグが生きている判明すると、シメーヌはもはや嬉しさを隠せない。


国王は、もう、これだけいっぱい悩んだのだから父の仇討ちは済んだでしょ、とシメーヌを説得する。





結局、シメーヌは、国王の説得を受け入れロドリーグと結婚。





国王は、新婚のロドリーグにムーア人征伐のため、遠征を命じる。


なんらかの悲劇の前途をほのめかしつつも終劇。





★感想


異様に展開が早いというのが一番の感想。志賀直哉の短編ぐらい早い。


以上のあらすじが24時間のうちに起こったということである。


古典主義の『三単一の法則』をかなり無理して踏襲しみました。


仕方なくプロットをぶち込んだみましたが、破綻を繕えませんという苦しげな作品。





家の名誉と恋愛に引き裂かれたロドリーグの二律背反を描いている。





コルネイユが後に悲喜劇と名付けただけあって、ハッピーエンドである。





脇筋でカスティリアの王女が、ロドリーグを熱愛しているのだが


身分が合わないので、シメーヌの恋路を譲るという


全く、本筋に関わらない筋が入っている。この脇筋は死筋。





本来ならば、ロドリーグは戦果を上げて戦死するか、


王女の腹心の奸計で、暗殺されるというのが悲劇の王道だが、


王道どころか覇道を突っ走るコルネイユは


無理矢理ハッピーエンドに持ち込んだ。





ギリシア悲劇のような三部作ならロドリーグは


王女の絡んだ筋で死ぬとおもわしい。どうだろうか。





しかし、ハッピーエンドだからこそ、かなり当時の劇場をにぎわした。


特に貴婦人からの支持が熱烈であった。

めでたく結ばれるのがいいらしい。


女性はバッドエンドを好まないが、昔からそうだったのだ。だなあ。




★ 『ル・シッド論争』の発端となったスキュデリの<『ル・シッド』に関する批判>について





ジョルジュ・ド・スキュデリの『ル・シッド』へのいちゃもんは以下の3点。





1. 24時間にあまりにも多くの事柄が起こりすぎている。


(伯爵の決闘、死、葬式、ムーア人の襲撃、ドン・サンシュの決闘、ふたりの結婚)





2. 歴史的事実に基づく主題が真実らしくない

   (この「真実らしくない」という言葉はかなりの含蓄があるらしい。)





3. 作品が『エル・シドの青年時代』の剽窃である。





なんだか、現代の饐えた臭いのする文芸評論家でも言いそうな、陰湿ないちゃもんである。


ジョルジュ・ド・スキュデリは三流劇作家であったそうだ。


コルネイユの舞台に女性が殺到するのを見て、気分を害したとしか思えない。


もしかすると、僭越だが、『もてない男』であったのかもしれない。下世話な想像だが。





スキュデリの批判についてはアリストテレスの『詩学』の要約が必要なので


次回、『詩学』の要約を試みたい。





とくに、悲劇における「真実らくない」という批判。


現代でいえば「リアリティーがない」と素人でもいってしまうような


およそ、印象批評でしかない無力な紋切型の言葉だが、


古典主義においては明確な定義があるそうなので、それも合わせて次回紹介したい。


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posted by 信州読書会 宮澤 at 13:35| Comment(0) | 戯曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

詩学 アリストテレス 岩波文庫 その一


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アリストテレース, 松本 仁助, 岡 道男訳 『詩学 』



『詩学』と銘打たれているだけあって、


「詩の作り方」みたない本だと長年にわたり誤解していたが、戯曲の文学理論である。


とりあげられている作品は、ホメロスの叙事詩とギリシア悲劇である。





ちなみにアリストテレスはアレクサンダー大王の家庭教師をしていたらしい。





私は、恥しいことにプラトンを全く読んでいないので、


哲学者アリストテレスの偉業はさっぱりわからない。


ただ、実在したのかが疑わしいほどに頭のよい人であることはわかる。





★『詩学』 第六章『悲劇の定義と悲劇の構成要素について』


第六章は岩波文庫で5ページほどの論考である。


しかし、後世に多大な影響を与えた鋭い考察がある。


「悲劇の定義」と「構成要素」が簡潔にまとめられている。





★《悲劇の定義》 悲劇とは?


『一定の大きさをそなえ完結した高貴な行為、の再現(ミーメーシス)であり、


 快い効果を与える言葉を使用し、しかも作品の部分部分によってそれぞれの媒体を


 別々に用い、叙述によってではなく、行為する人物たちによっておこなわれ、


 あわれみとおそれを通して、そのような感情の浄化(カタルシス)を達成するものである。』





ここでまず、重要なのは、『高貴な行為の再現』である。


しかし、『詩学』では人間にとって『高貴な行為』とは一体なんなのかは触れられていない。


訳注によると『ニコマコス倫理学 』に詳しいとのことである。





コルネイユの『ル・シッド論争』は、まず、「高貴な行為の再現」があったのかが問題となった。


17世紀では人間の理性に照らして、普遍的な高貴さ存在すると考えられていた模様。





そのへんは、アリストテレスがしっかり定義してないのだが、


訳注から類推されることは『ニコマコス倫理学』に中間の徳(中庸)というのが


論じられているそうな。要するに市井の人間の中庸の徳義を哲学的に論じたものらしい。








コルネイユの『ル・シッド』における「高貴な行為」のなさが、


ジョルジュ・ド・スキュデリが、コルネイユの古典主義無視への批判への端緒となった。





父の仇討ちと恋人への慕情に引き裂かれたシメーヌが、最後の最後で父の仇討ちを放棄し、


父を殺したロドリーグと結婚するのは不道徳だとスキュデリはいうのである。





古典主義の理性は、長年こうした不道徳を断罪して劇を構成したのに、


コルネイユは、理性を無視して不道徳に結末をつけずに


ご都合主義的に悲劇をハッピーエンドにしたのが


気に喰わないとスキュデリ声高に叫ぶのである。





例えば、現在のTVドラマや映画みたいに、安易に「不倫」や「性的倒錯」や「近親相姦」を


取り上げないことは(あたりまえだが)もちろんのこと、そういう行為をした人物は


劇中で破滅するというのが、古典主義におけるお約束であり、倫理であるいうことだそうだ。


こういうのを肯定してしまうと、市井の中庸の徳義が崩壊するということで、具合が悪いのである。

誰に具合が悪いといかというと、治世者に具合が悪いのである。





とにかく重要なことは、理性というか中庸の徳義に照らして、観客の倫理観をを乱すことなく

悲劇の結末のカタルシスが選ばれるべきという主張である。これが古典主義の鉄則である。





『コルネイユさん、古典主義の伝統を踏みにじるような不道徳な真似は許しがたいですよ、


ご婦人や町人ふぜいに媚びて人気を博したからっていい気になりなさんな』


そういうことをスキュデリは言っているのである。小うるさいお節介である。





現在でいえば、子どもに見せたくないバラエティー番組をランキングして糾弾する


PTAの「教育上好ましくない」という御宣託にも似た徳義である。





逆をいえば、現在の日本には、小うるさいことをいうPTA的な組織にしか、理性の残滓、


あるいは市井の中庸の徳義がないという、結構、深刻な理性の形骸化が進行しているのである。





現在で市井の中庸を説くのは、保守主義者か宗教家くらいなものである。

しかしながら彼らは、マスメディアの受けは悪い。雑誌媒体では威勢がいいが

影響力の高いTVや新聞なんかではきつい所に立たされている。


だいたいにおいて日本の都市部では、こうした市井の中庸なんぞは忘れ去られている。





正確には忘れ去られていないが、古くからの地元民


(駅前に先祖代々土地を持っているような地主)が


核家族化して流入してきたサラリーマン(賃労働者)と


彼らをターゲットにてマーケティングを展開して利益をあげ、


昔ながらのコミュニティーを破壊してゆく


チェーン店やスーパーに眉を顰める顰め具合に出てくるくらいのものだ。




要するに、封建主義的な差別感情と市井の中庸の徳義は表裏一体である。

私の住んでいる長野なんかはまさしくこんな感じで中庸が保たれている。


しかし、そういう地主階級もなんだか、なしくずしにモラルを失いつつある。そんな気がする。





話が大分それた。なんだか説教臭い熱さをぶちまけてしまった。


新左翼みたいなことをいってしまったが、私は市井の中庸のほうが好きだ。


ただ、その市井の中庸を裏付けるものは地主の傲慢ではなく


宗教の個人的な信仰であるべきだとは思っている。(宗教団体での信仰ではありません)


最近そういう結論に至った。どうでもいい話ですが。

詩学 (岩波文庫)


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posted by 信州読書会 宮澤 at 13:34| Comment(0) | 戯曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

詩学 アリストテレス 岩波文庫 その二


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詩学 アリストテレス 岩波文庫 その二

前回『中庸』について書いたが、その後『ニコマコス論理学』を読みはじめ

なかなか面白かったのでブログ更新が滞ってしまった。まだ読みかけだけども。


ニコマコスというのはアリストテレスの息子で、


彼が、アリストテレスの講義の内容や手稿を編集したということらしい。





ニコマコスは、若くして戦死したそうなので、彼がまとめたかどうかも定かではないそう。


ただ、真相はアリストテレスの弟子による争いが絡むそうである。めんどうな話だ。





★悲劇の構成要素


アリストテレスは詩学の第六章で悲劇の構成要素を六つに分けている。


「筋」、「性格」、「語法」、「思想」、「視覚的装飾」、「歌曲」である。





最も重要なのは「筋」であり、出来事の組み立てとしての「筋」は、


悲劇の目的であり、なによりも重要だと言い切っている。





なぜならば、悲劇は人間の再現ではなく、高貴な行為と人生の再現だからであり、


『筋は悲劇の原理であり、いわば魂である』とまで述べる。





さらには、





『悲劇は行為がなしには成り立たちえないが、性格がなくても悲劇は成り立ちうるであろう』





と、ここまで、大胆に宣言してしまっている。おそるべし。





要するに、登場人物の性格などは、二の次であるということだ。


これは、非常にインパクトのある断言であった。自分にとって。





だいたい、文学作品を読むときには主人公やら脇役やらになんらか感情移入したり、


「ああ、こういうこと思うときがあるなあ」なんて身につまされたりして、


いろいろ考えているときが、自分にとっては一番興奮する瞬間だが、


やはり、根源をたどれば、ある出来事=筋があって


そこにさまざまな人物の感情や思惑が絡み合うときに


登場人物の性格の陰影がくっきり現われてくるからこそ、

そこに感情移入したり反発したりして愉しいのである。





なるほど、「筋」のほうが重要である。





当たり前のことだが、なかなか気がつかないことだ。





翻って、性格を最も重視して考えて書かれた小説が、


結局一人称のちまちました身辺雑記みたいになるのはやむをえないのかもしれない。





作家にとって自分の性格の分析から始めるはるかに楽だし、


案外、自分の性格やら感性というものには、


誰もみんなひそかにうぬぼれを抱いているものである。





だから、とりあえず、




「きょう、ママンがしんだ。もしかすると、昨日だったかも知れないが、私にはわからない。やれやれ」




とかいう書き出しで、さもないことを、やたらに客観視して書いてみたくなるのだろう。





誰とは言わないまでも、そんな気持ちで書いているなあという作家はけっこういる。




(ああ、話がまたそれて、やつあたりの批判っぽくなった。

別に現代の小説が面白かろうがつまらなかろうが、


それに対して批判っぽく述べるのは、やっぱり不健康。やめた。)





とりあえずアリストテレスは「筋」を重視した。




そして、問題を「筋」の中で解決し、感情を浄化するのが悲劇であるとしている。




性格設定だけ先走るような作品は、アリストテレスに照らせば、低調な作品ということができる。

人間の性格というのは、正常であろうが、異常であろうが、結局つまらないものなのである。

アリストテレスが高く評価するのは性格ではなく、「高貴な行為」であることは重要だ。




では、いったい人間にとっての「高貴な行為」というのはなんなのかという

哲学的な問題をアリストテレスは、『ニコマコス論理学』で論じようとしている。




それも、イエス・キリストが生まれる以前に、である。ここが意外とすごいポイントである。

神によらずに、「高貴な行為」を定義づける困難さは、現代人にとって計りしれない。




それについては、『ニコマコス論理学』を読了したら改めて論じたい。




ちなみに、アリストテレスは「思想」とか「語法」に関してはほとんど何も言っていない。
「視覚的装飾」にいたっては衣装係の技術が重要だと述べていた。
この生真面目な記述に、アリストテレスのギャグセンスを感じる。





『悲劇の機能はたとえ上演されなくても、また俳優がいなくても働く』と述べる。





この一文を読んで、金を払ってまで演劇を観たいとは思わないが、


戯曲について語りたいという自分にまとわりつく、うしろめたさが払拭された。





とりあえず、劇場にいかなくても、悲劇については語っていいのだ、と信じたい。です。




次回は、また『ル・シッド論争』について続きを書きたい。


コルネイユとスキュデリに対するアカデミーの裁定が面白かった。


日本でいえば、芸術院が、文芸誌の論争に決着をあたえるようなものである。


日本の芸術院会員も、特養老人ホームじゃないんだから、たまには論争に参加して


あえて居丈高に裁定をあたえてほしい。そういう迫力がほしい。




詩学 (岩波文庫)



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posted by 信州読書会 宮澤 at 13:32| Comment(0) | 戯曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

詩学 アリストテレス 岩波文庫 その三

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★アリストテレスの『詩学』第十五章『性格の描写について』について。





悲劇において『性格』より『筋』を重視するアリストテレスも、


『性格』の描写について次の4つを目標にせよと述べている。





第一、性格はすぐれたものでなければならない。


第二、性格をふさわしいものにする。


第三、性格を(わたしたちに)似たものにする。


第四、性格を首尾一貫して再現する。





この順に、しっかり描写せよと述べている。


簡単に言っているが、これはずいぶん難しいことである。


とりわけ現代においては、『性格』の基準がものすごく難しい。





性格のふさわしさについて、アリストテレスは例をあげているが、





『女性が勇敢な性格をもつことはありうるが、しかし女性があまり勇敢であるとか

利口であるとかいうのは、ふさわしいことではない。』




というのだ。


今こんなこといったら、各方面から総スカンを喰らう可能性がある。


『性格をわたしたちに似たものにする。』といわれても、どんな性格なのか。


アリストテレスに似た性格の人など現代にいるだろうか?





現代文学で、普遍的な『性格』が前提とするのは難しいのである。


しかし、アリストテレスに範をとる古典主義は普遍的な『性格』と


それを裏付ける『理性』が存在し、共有されているということを前提にしている。


この辺の、のんきというか、無邪気とういか、性善説ともいえる人間観がうらやましい。





そして、アリストテレスは、





『劇の出来事になかにはいかなる不合理もあってはならない。それが避けられない場合には、


ソポークレスの「オイディープス王」におけるように悲劇の外に置くべきである。』




と述べる。





『不合理があってはならない』というのは、あんまり異常な出来事、


たとえば『殺戮』とか『陵辱』とかを指していると思われる。


そういうことは、悲劇の舞台で再現しないで、


劇の外で起こったことにしてくれと、アリストテレスは言いたいらしい。





『詩学』の論考が連綿と受け継がれ、伝統にまで高められたからこそ、


フランス演劇の古典主義では、『不合理』は、『理性』に名において厳しく問い詰められる。


言い換えれば、古典主義というのは、表現の首には鈴がついている。自由が利かないのである。





だからこそ、父殺しの犯人であるロドリーグと結婚してしまうシメーヌの性格上の『不道徳』は、
まさに『不合理』として糾弾されるのである。





『ル・シッド論争』についてのアカデミー・フランセーズの裁定について


書こうと思ったのだが、以上のことをやはり前置きとして述べておきたかった。

詩学 (岩波文庫)




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悲喜劇『ル・シッド』に関するアカデミー・フランセーズの意見 ジャン・シャプラン起草


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コルネイユ名作集 (1975年)


コルネイユの大ヒット作『ル・シッド』は、スキュデリら学識人に
アリストテレスの古典主義の法則を遵守していないと非難攻撃を受けた。
その後、大論争に発展したというよりも、個人中傷のパンフレットが飛び交う
泥沼の事態に陥ったので、(論争というのはいつの時代も感情的な泥沼に落ちるようだ。)
スキュデリがアカデミーに調停を求めた。


アカデミーは、皆に一切の発言を禁じて、論争を裁定した。
ちなみに、コルネイユに味方する人はほとんどいなかったそうである。


★アカデミー・フランセーズの設立過程
時の宰相リシュリュー(私はこの人を『アニメ三銃士』の悪役としてしか知らない。)は
文芸の中央集権化を目論んで、アカデミー・フランセーズを設立した。
会員人数が決まっていて、入会するには、誰かが死なないといけないという会である。
一応、日本の芸術院も同じように会員の人数が決まっている。Wikiに詳しい。




★ 起草者ジャン・シャプランについて
シャプランはリシュリューに頼まれて裁定を書いたアカデミー会員。
凡庸な詩人だったらしいが、とりあえず見識はある。
「悲喜劇『ル・シッド』に関するアカデミー・フランセーズの意見」の初稿は、
あまりにコルネイユに厳しかったが、原稿にリシリューが手を加えて
コルネイユの才能を認めるような柔らかな内容にはなっている。



まあ、リシュリューはコルネイユの庇護者であり、この論争を利用して、
アカデミー・フランセーズの文壇での権威を確立しようとしたという
政治的な意図を含む介入であったので、コルネイユの才能を一応は認めている。


しかし、結果的には、喧嘩両成敗といった印象。


★内容について
『ル・シッド』とスキュデリの批判をシャプランは丁寧に読み込んで批評している。
これだけ読み込んで裁定しているのであれば、アカデミーとしての権威は十全である。
冒頭『アカデミーは自らの名声ではなく、公衆の教導を目指している』
とシャプランは宣言しているが、そういう教育的な役割はあった。


『ル・シッド』のアカデミ評価は以下のとおりである。



最後に我々は次のように結論する。
『ル・シッド』の主題はよくない。解決で規則違反を犯している。
無用な挿話が入っている。多くの個所で容儀礼節に背いている。
また、舞台としての構成に欠ける。多くの低級な詩句や不純な言い回しがある。
しかし、こういう欠陥があるにもかかわらず、
そこには、素朴で激しい情念があり、力強く、また、洗練された多くの思想がある。
そして、すべての欠点にも説明しようのない魅力が混じっている。




一読してわかるように、歯切れの悪い評価である。
こういうことを言われたコルネイユは全く納得いかなったらしいが、
その後は、古典主義の法則を守る劇を何作か書いて、アカデミーの裁定に従った。


しかし、ずっとこの裁定を恨んだらしく
ほとぼりの冷めたと思われる20年後に、最後っ屁のように反撃を書いている。


まあ、ラシーヌの才能に嫉妬して、劇場で野次を飛ばすような人だから恨みは深い。


とりあえず、シャプランは後述するように『ル・シッド』結末の書き方を指南し、
作品内のセビリア港の防衛の甘さから、カスティリア王の国防意識のなさを指摘するなど
非常に細かく欠点を述べ立てている。アカデミーの裁定はそれなりに迫力がある。


作品の良し悪しを批評したものとしては現代でも説得力に富むと思う。


★『ル・シッド』の「真実らしさ」と「結末のあり方」について。


・シャプランの述べる「真実らしさ」とは?

「商人がもうけを追う」「子どもが軽はずみなことをする」
「蕩児が貧窮に陥る」「激怒した人が復讐に走る」といった
人間の身分、年齢、性格、情熱に、応じて普通に起こりうる事柄のことを
「真実らしさ」としている。


とにかく、作中人物がその性格に従った行為をなすのが、節度だと述べている。

これが、彼のアリストテレス理解である。


確かに、アリストテレスも『性格』を定義するにあたってそういっている。


よって、シャプランは


「操正しいシメーヌが、父親を殺したロドリーグと結婚するのは大きな欠陥である」と断じる。
つまり、シメーヌの行為が「真実らしくない」というのである。


そして、
『詩人は真実よりも真実らしさを重視し、理性に適合しない真実に基づく主題よりは、
むしろ、偽りでも理性に適った主題を創作する権利がある』


とのべる。


続けて、理性に適っていなければ、それが歴史的事実でも礼節に一致するように
歪曲するのが詩人の仕事である、と言う意味のことまで主張するのである。


これは、歴史的事実の改ざん容認発言である。アリストテレスの我田引水である。


理性が治世と結びついていたことを如実に示す、すさまじく政治的な発言である。





(ちなみに、コルネイユが、スキュデリに反論したのは、原作の元ネタとなった史実は、
シメーヌとロドリーグが実際に結婚して、民衆から祝福されたという一点を論拠にしている。
史実がそうだから、そういう結末はありだと主張した。)


よって、シャプランは「理性」にかなわない結末を認めない。


やや悪乗りして、結末をいくつか提案している。


・伯爵がシメーヌの実の父親でなかったことが露見する。


・死んだと思っていた伯爵が実は死んでおらず、深手を負っただけだった。


・王と王国の救済のために伯爵の死が必要だったことにする。


以上のような、失笑を禁じえない凡庸な結末を列挙してみたのである。。
シャプランは、伯爵をどうにか生きかえらせようと考えあぐねたようだが、
疲れてきて、虚しくなったのか、捨て鉢な一言で締めくくる。


「最も望ましいのは、この題材から劇詩を作らないこと」





こんな身も蓋もない結論を下している。ひどいなげっぱなし。
これを裁定として受け取ったコルネイユのしょげかえる様が目に浮かぶ。


すばらしい結末を提案されたのなら納得いくが、
「この主題でいい作品を作るのは不可能」と一方的に
アカデミーから決め付けられたのだ。

こんな言いかたされれば、コルネイユならずとも気を悪くする。


文芸と政治という問題を浮き彫りにした『ル・シッド論争』であるが、最終的に政治的に解決された。
しかし、この論争後にフランス演劇は隆盛を極めた。
古典主義が作劇の自由を奪うどころか、数々の名作を生み出す原動力となった。
皮肉なことである。




★教訓
こういう論争が昔あったのだから、同じような論争はもういらない。

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posted by 信州読書会 宮澤 at 13:28| Comment(0) | 戯曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月13日

病は気から モリエール 岩波文庫


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★あらすじ


医者にくいものにされ自分重病だと信じているアルゴンは、毎日、浣腸に勤しむ。
アルゴンは、娘のアンジェリックを主治医の甥に嫁がせようとするが、
アンジェリックにはクレアントという恋人がいて、お仕着せを嫌がる。
アルゴンの医者への盲信をなくすために、一族みんなで一芝居打つ。



★感想
モリエール晩年の三幕物。
『守銭奴』や『いやいやながら医者にされ』などの
自作を再編集したような自家撞着がある。


よって、内容は、いつもどおりのモリエールである。
まあ、アルゴンが大量の浣腸剤の代金を数える場面から劇は始まるので
モリエールの相変わらずの下ネタ好きがわかる。


やがてそれが、モリエールの医者や医学説への風刺に昇華されてゆく。
ただ、形式的には実験的な工夫がいろいろ施されている。


まず、幕間にミュージカルが挿入されている。


長年モリエール劇の作曲担当であり、
公私にわたって面倒を見てきたリュリが、国王ルイ14世の寵愛を受け、大出世し、
国立音楽舞踏アカデミー座長に就任したことに腹を立てた結果であるそうだ。



後任の作曲家のシャルパンティエに気合の入った
音楽を作らせて、恩知らずのリュリに意趣返しすべく、
モリエールは幕間劇のミュージカルをひねりだした。
彼の恨みつらみが創作意欲になったと思うと、とても人間味のある裏話だと思う。


第一場第六景に斬新な手法がある。
エウリピデスの『エレクトラ』でも用いられている
「アンティラベー」という対話形式があるのだが、
これは、通常一行のセリフを二人で分けて会話して、
劇的な緊張感を高める手法である。



一行対話の応酬である「ステコミュティアー」の変形版である。
モリエールの独創性は「アンティラベー」を喜劇に応用したことである。
ふたりの会話のズレたまま応酬させ、セリフをナンセンスにするという
斬新な手法を生み出している。これには、驚いた。



次に、驚いたのは、


「あんな芝居を書くモリエールというやつは、よっぽどどうにかしているんだよ」

などと劇中、主人公のアルガンにモリエール自身を揶揄させていることだ。
作品内で自己言及するモリエールの厚顔ぶりには、まいった。



最近、ちくま学芸文庫から出た『ベンヤミン・コレクション 4 』に
ベンヤミンによる『病は気から』の書評が出ていた。


ベンヤミンにせよベルクソンにせよ、
哲学者がモリエールに関心を持つのは、興味深いことである。


確かに、モリエールはヤケクソでいろいろやっている変な喜劇作家である。
哲学者が洞察の対象にとりあげたくなる魅力と才能がある。

病は気から (岩波文庫 赤 512-9)


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タグ:モリエール
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女中たち バルコン ジャン・ジュネ 岩波文庫

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★あらすじ

登場人物はたった三人。女中の姉妹と、彼女らの女主人である。
女中は、姉のソランジュと妹のクレールである。

ソランジュは女主人の旦那を、窃盗罪で警察に密告した。
旦那は、拘置所にいる。女主人は出かけている。



留守宅の女主人の部屋でソランジュとクレールは、女主人ごっこをする。
女主人のドレスや化粧品を勝手に使って、
クレールが女主人、ソランジュがクレールの役をそれぞれ演じ、主人と召使の
サディステックで優雅な芝居を、ふたりきりで繰り広げて興奮する。


女主人ごっこは、一応クレールが女主人を毒殺する筋書きになっている。
しかし、最後まで演じきらないうちに、
女主人の帰宅の時間が迫ってきたので女中姉妹は芝居を止める。


そこへ、旦那から電話がかかってきて、保釈になったことが知らされる。
ソランジュは、密告がばれるのを怖れて女主人を殺すことにする。



帰宅した女主人に、睡眠薬を入りのお茶を飲ませて殺そうとする。
しかし、女主人は旦那の釈放をきいて、お茶を飲まずにまた出かけてしまう。

女中たちは、女主人ごっこの続きを再開し、女主人役のクレールはお茶を飲んで死ぬ。



★感想
ジュネの序文がすばらしくて、かなり面白い。


ジュネは、自分の作品の詩的かつ論理的な構成も、
演出家や俳優に台無しにされるに決まっている
という意味のことを述べ、演劇は好きではないと宣言している。



まあ、ジュネ序文は、身もふたもない。駄々をこねているような印象もある。
彼の演劇は、論理的構成にまさっているが、ダイナミズムに欠ける演劇である。


だいたい、三人しか登場人物の出てこない一幕物である。どうしたって展開は乏しい。
それでも、劇中劇というメタフィクションを冒頭にいれて、
ラストの伏線にするという仕掛けは、確かにかなり斬新である。




劇中劇が、女中のコスプレ劇で、まあこういう手法は、アニメなんかでよく展開される。
アニメの『ちびまる子ちゃん』が年何回か、時代劇の設定でオンエアされるようなもんだ。




重要なのは、女中たちは綺麗であってはならない、とジュネが予め釘を刺していることである。
「ギリシア人の言うごとく、彼女らのセックスを卓上に置かないようにお願いする」とある。至言である。




コスプレに萌えるな!! というわけである。俗情に訴えて、人の心に土足で踏み込むような演出を
拒否するジュネに、偉大な芸術家の心意気を感じて、尊敬の念ひとかたならない。 消費社会へのNon!!



しかし、筋の中で、問題を解決するというアリストテレス的な戯曲の基本が、
メタフィクションの導入によってないがしろにされているので、
うまいなあとは思いこそすれ、やっぱり、演劇としての異端な印象は否めない。


現代劇の隘路を示している作品だと思う。でも、かなり面白い。
読む戯曲としては傑作だと思う。ジュネの特異な才能が確認できる。



ル・マンで起こった女中による女主人殺しの実在の事件をもとにしているそうである。

女主人の旦那が出てこないという設定は、
三島の『サド侯爵夫人』なんか影響を与えていると思う。





寺山修司が、スウィフトの『奴婢訓』を『女中たち』を下敷きにして演劇化したらしい。


寺山修司らしい発想である。サンプリング演劇。コスプレ演劇。
寺山ワールドがいまだに、サブカルチャーで支持されるのには理由はここにある。
まあ、彼は彼なりの倫理観があって、決して萌えを商売にして
演劇をやっていたとは思わないけれども・・・。


女中たち バルコン (岩波文庫)



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posted by 信州読書会 宮澤 at 12:41| Comment(0) | 戯曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ヴォイツェック・ダントンの死・レンツ ビューヒナー作 岩波文庫


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★『ヴォイツェック』あらすじ
兵士ヴォイツェックが妻マリーの浮気を疑い、狂気に陥る。
妻をナイフで刺し殺す。



★感想
23歳で夭折したドイツの劇作家ビューヒナーの戯曲。
ドイツにはゲオルグ・ビューヒナー賞という文学賞があって
パウル・ツェランも受賞している。
授賞式でツェランがビューヒナーの『レンツ』について講演していた。
ほぼ、予備知識がなくて読んだが、実に面白かった。


細部は喜劇だが、全体的には悲劇である。
聖書の引用が背徳的で、ナンセンスである。
性的ないやらしさが瀰漫した戯曲で、気色悪い。



★「死臭」について
ヴォイツェックがマリーをナイフで刺殺した直後に
居酒屋によると、阿呆がヴォイツェックにむけて、こう言い放つ。



「すると巨人が言った。臭うぞ、臭うぞ
人間の肉の臭いがするぞ。ふう、もう臭くなってきたぞ」



悲劇作家の才能は「死臭」を表現できるかという問題に尽きる。
アイスキュロスもシェイクスピアも「死臭」を表現できる。
ラシーヌは、香水にまぎれた「死臭」が得意である。

だいたい、殺人場面を入れておいて死臭を表現できない作家が多い。
死臭を表現できないからだ。



坂口弘の『あさま山荘1972続』にリアルな死臭の描写がある。
人間を殺すと、殺した人間のからだに「死臭」がつく。
しかし、殺人者は興奮していて、「死臭」を自覚できない。


死臭は死体からでるのか、殺人者の興奮から発散されるのか、知らない。
科学的に解明しなくてもいい。解明されたものを読みたくもない。


ただ、『殺人者は死臭からのがれられない』という事実に圧倒される。



ヴォイツェク ダントンの死 レンツ (岩波文庫)

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posted by 信州読書会 宮澤 at 12:35| Comment(0) | 戯曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

汚れた手 サルトル 新潮世界文学47所収


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汚れた手 サルトル 新潮世界文学47所収
★あらすじ
プチブルインテリのユゴーは労働党に入党する。
労働党の急進派ルイが現実派の労働党書記エドレルの暗殺を企てている。
ユゴーはルイにエドレルの暗殺を志願し、エドレルの秘書となり、暗殺の機会をうかがう。
しかし、エドレルに暗殺計画を察知され、口論となり、政治の現実主義の重要性を主張される。



党の方針と乖離したエドレルの現実的な政治手腕に不純を感じて反発しながらも、
彼の人柄に魅せられたユゴーはエドレルの暗殺を断念する。
しかし、エドレルが、ユゴーの妻ジェシカを抱いているのを
偶然にも見てしまい、発作的に彼をピストルで射殺する。


刑務所から出所したユゴーは、3年後の急進派のルイが、
エドレルと同じ政治路線になってしまっている現実を目の当たりにする。



エドレルを殺したことが無意味だったことを知り、運命の皮肉を感じる。



★感想
すごい。すごい作品だと思った。『嘔吐』の10倍はすぐれた作品。



サルトルがロマン主義的な実存主義を放棄した作品。


共産党との訣別を表明し、独自の現実的な政治観を披瀝した戯曲であると思う。
労働党の現実主義者エドレルは、革命を信じていない。


政権をとるためなら現実的な路線をとるのである。
つまりは、内閣の少数派として生き延びる革命政党を目指している。
「われわれは自力で革命を遂行するほど強力ではない」と言い放ち、
暴力的な革命を、民衆からの孤立を招くとして放棄している。



かつて、自民党と連立した社会党の路線。
あるいは、現在、自民党と連立する公明党みたいな路線である。



青年ユゴーはこうした、政権に惨めに固執する現実的な政治姿勢を批判するが、
手練のエドレルは、青臭い純粋な思想を振り回すユゴーに説教する。





「しかし、なんてまあきみは、そうも純粋さに固執するんだ。
なんだってそう手を汚すことを怖れるんだ。
そんなら純粋でいるがいい。
だがそれがなんの役に立つ?
それなら、きみはなぜわれわれのところにきたんだ?
純粋さとは、行者や修道士の思想だ。
きみたちインテリ、ブルジョワのアナーキストは
純粋さを口実にしてなにもしないのだ。
なにもしない、身動きせず、からだに肘をつけ、手袋をはめている。
わしは、このわしは汚れた手をしている。
肘は汚れている。わしは両手を糞や血の中につっこんだ。
それがどうした? 
きみは精錬潔白に政治をすることができるとでも考えているのか?」


以上のセリフが、純粋な革命闘士ユゴーを動揺させる。





「きみは人間を愛していない。ユゴーきみは原則しか愛していない」


「人間を愛さなければ人間のために闘うことはできないではないか?」

こう畳み掛けられて、ユゴーはエドレルの暗殺をやめる。
そしてユゴーは、エドレルに心酔するに至る。
(でも、ユゴーの妻も心酔したのでややこしくなる。)



まあ、これらは、自民党大物代議士が言うと説得力のあるセリフではある。


政治家が汚れた手で政治をやるのは構わないが、
人の手も温められないような手で握手をするのはやめてほしいものだ。



ちなみに『汚れた手』は『ふぞろいの林檎たちW』の元ネタである。




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posted by 信州読書会 宮澤 at 12:31| Comment(0) | 戯曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

オセロー シェイクスピア 新潮文庫

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★あらすじ


ムーア人の将軍オセローはヴェニスの議官ブラバンショーの娘
デスデモーナを連れ去って妻にした。



デスデモーナは、オセローの勇敢な半生を聞いて好きになったのだった。
(まあ、この勇敢な半生が、ほとんど作り話だったら面白いのだが)
娘がムーア人に嫁いだので、ブラバンショーは後に憤死。

オセローはトルコ軍を迎え撃つためサイプラス島の司令官として赴任。
キャシオーは副官となる。しかし、トルコ軍は嵐で勝手に壊滅する。


旗手イアーゴーは副官に任命されなかったことを恨んで、
デスデモーナとキャシオーの不倫をでっち上げる。
オセローは嫉妬から、妻を絞め殺す。
イアーゴーの奸計であったことを知りオセローは自殺する。


★感想
シェイクスピアの四大悲劇のひとつ。
『マクベス』と『ハムレット』しか読んでいなかったので読んでみた。
なんたることか! 感情移入できる人物が一人も出てこない。



この作品の植民地主義的な世界観が、かなり鼻につく。
オセローは、ムーア人として、常に人種差別を受けているが
司令官まで出世し、その上に白人の美人を妻にしたから
やっかみ受けて、策謀の餌食になったということである。


一番問題なのは、攻めて来るはずのトルコ海軍が嵐で勝手に壊滅したことだろう。
カタルシスなき軍隊組織に陰湿な人種差別が爆発した悲劇である。ただそれだけだ。


シェイクスピアよりラシーヌが偉大だと思っているのはフランス人だけらしい。
シェイクスピアっていうのは、文辞はえげつないし、露悪趣味があって、
おいおいいいかげんにしろよ、と思わせるところがけっこうある。


シェイクスピアの悲劇に出てくる女性というのはなんか、貧血気味で肉感に乏しい。
一方、ラシーヌの悲劇に出てくる女性は、みんな縦巻のパーマをかけて
ゴテゴテした衣装を着て、宝石でキラキラしている気がする。
イギリス人とフランス人の違いなんだろうが…。ラシーヌのほうが好きだ。


オセロー (新潮文庫)



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posted by 信州読書会 宮澤 at 12:19| Comment(0) | 戯曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ドン・ジュアン モリエール 岩波文庫

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★あらすじ
妻エルヴィールを捨ててアレキサンダー大王よろしく漁色の旅に出た
ドン・ジュアンとその従僕スガナレルはシチリア島に到着。
しかし、ドン・ジュアンが修道院の柵を乗り越えて誘惑し、
妻に娶ったエルヴィールが、追いかけてくる。


下手な言い訳で彼女を追い返したため、恨みを買い、神の罰が下ると脅される。
そして、ドン・ジュアンは、彼女の兄弟に命を狙われる。


また、ドン・ジュアンは無神論者で、その過激な思想から
父親のドン・ルイに不信仰を諌められる。
結局、無神論者から改宗したように装うが、
神の怒りを買い、雷に打たれて死ぬ。



★感想
モリエールの喜劇を四作読みましたが、『ドン・ジュアン』が今のところ一番面白かったです。
この作品は、ドン・ジュアンと従僕スガナレルのかけあい漫才が楽しいドタバタ喜劇です。
漁色家として名高いドン・ジュアンですが、女性の口説き文句が笑えました。


「ほかの女なら好きになるのに半年もかかるところを、
ほんの十五分であなたを好きになってしまいました」


こういうセリフでシチリア島の百姓娘を口説くのですが、
心にもないセリフや詭弁を次々と繰り出すドン・ジュアンの饒舌が圧巻です。


途中、追っ手に追われて、ドン・ジュアンとスガナレルが変装するのですが、
スガナレルは質屋で見つけた医者の衣装をまとい、本当に医者に間違われます。



この挿話を、膨らませてできた喜劇が、先日紹介した
『いやいやながら医者にされ』ということがわかりました。


モリエールはスガナレルを気に入っていたようで、
スガナレルを何度も自分の戯曲に登場させています。
「スガナレルもの」というジャンルを確立した過程がわかります。
マイナーな主題として変奏されて生き続ける、落語の与太郎みたいな登場人物です。
この人物は、思いがけないところに毎年花を咲かせる野草のような魅力があります。


ドン・ジュアンが徹底した無神論者で合理主義者であるところが喜劇の骨格です。
この視点は、啓蒙主義者ヴォルテールの『カンディード 』を完全に先取りしています。



『タルチュフ』同様に、当時勢力のあったカルト教団の『聖体秘蹟教会』に目をつけられ、
大ヒットを飛ばしたのにもかかわらず、自発的に興行を中止したそうです。
さらに、この時期にラシーヌとも喧嘩して、心労から病に倒れて危篤になったそうです。


スペインのドン・ジュアン伝説はバイロンやプーシキンなどの
ロマン主義者によってまじめに取り上げられたところがありますが、
ドン・ジュアンを『無神論者かつ合理主義者の漁色家』としてとらえ喜劇化した
モリエールの手腕の方が、ロマン主義者のものよりも魅力的に思えました。
そして、サドの諸作品につながる問題性を孕んだ作品だと思いました。

ドン・ジュアン (岩波文庫)


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タグ:モリエール
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出口なし サルトル 新潮世界文学47所収


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新潮世界文学 47 サルトル



★あらすじ
あの世で一室に閉じ込められた
死者ガルサン、イネス、エステル。
ガルサンは徴兵忌避の罪で銃殺され、
イネスは同性愛の相手とガス心中し
エステルは嬰児殺しを犯し、肺炎で死んだのだった。


わけありの過去を語り合いながらも、理解し合えない彼らは、
死ぬこともできず、出口のない密室でお互いを苦しめあう。


★感想
『他者は地獄である』という哲学的主題を戯曲化した作品。
三人の死者は第二帝政風のサロンに閉じ込められるが、
そこには鏡がなく、自分の姿は他者を通じてしか理解できない。
信用しえない人間が密室に三人いれば確かに地獄である。


舞台美術的に安上がりの戯曲。一幕物。1944年初演。
移動劇団のために書かれたので、どこでも上演できる。


私見だが、サルトルがガルサンを描くために書いた戯曲だと思う。
ガルサンは、対独協力者をモデルとしていると思う。


ガルサンは徴兵忌避者で、銃殺されたが、
死後もなお、軍隊から逃げたことを友人たちから
卑怯者呼ばわりされるのを怖れて、苦悩しているの人物である。


「たったひとつの行為によって人の一生を裁くことができるだろうか」
とガルサンは叫ぶが、対独協力者の自己弁護である。


死後も卑怯者の汚名をそそぐことのできない、
対独協力者の苦悩を描いた戯曲ではなかろうか。


対独協力者に鞭打つ作品。
死者にまで鞭打つサルトルのサディスティックな快楽にふれることができる。

新潮世界文学 47 サルトル


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タグ:サルトル
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タルチュフ モリエール 岩波文庫




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★あらすじ
自称零落貴族で狂信的な聖職者をよそおうペテン師タルチュフは
金満家のオルゴンとその母、ペルネル夫人に取り入り、彼らの歓心を買い
すでに許婚のいるオルゴンの娘マリアーヌと強引に結婚までこぎつける。


家族みんながタルチュフの卑しき人品を論難するにもかかわらず、
オルゴンとペルネル夫人は、タルチュフを信用し、批判に耳を貸さない。


オルゴンの妻エルミールは、彼女に懸想するタルチュフを騙して一芝居うち、
彼女に不貞をそそのかさせるタルチュフの間男ぶりを、オルゴンに見せつける。


ようやく騙されていたことに気がついたオルゴンは、あとの祭り。
すでにタルチュフに財産贈与を書面で確約していたのであった。


怒りをもってオルゴン家を追い出されたタルチュフは、執達使を送り
財産権を主張し、さらにはオルゴンから盗んだ政治犯との密通の手紙を
国王に届けて告発し、オルゴンを抹殺しようとする。


しかし、寛大な国王がタルチュフの詐欺を見破り、タルチュフはお縄にかかる。


★感想


父親がカルト宗教にはまった一家の悲喜劇。
五幕物の喜劇なのだが、初演はタルチュフがオレゴンと意気投合する
第三幕までの上演しか許されなかったとされている。


訳者解説によるとタルチュフの狂信者ぶりは、当時のフランスを風靡した
「聖体秘蹟教会」をモデルとしており、タルチュフの造形はそこへのあてこすりだったそうだ。


時の国王ルイ14世はタルチュフ的な偽善者の集まりである
「聖体秘蹟教会」を苦々しく思っていたが、
政治的な反撃を恐れて当り障りのない第三幕までの上演を許可した。


初演から五年目にようやく五幕を完全に続演する許可をえられたが、
そのときすでに「聖体秘蹟教会」の求心力は低下していたそうである。


第五幕において「機械仕掛けの神」としての国王の力によって
紛糾した事態は1ページほどで急激に収束し、円満解決する。
呆気にとられる。水戸黄門の世界である。


国王へのヨイショがひどい。



以上内容的には喜劇作家モリエールの苦しい渡世を感じさせる。


そういう意味で権力によって抑圧を受けたにもかかわらず
好評裡に迎えられ、モリエールの出世作ともなった幸運な作品。


タルチュフは典型的な詐欺師として
カルト宗教やマルチ商法に考える上で、後世に語り継がれるべき人物である。



タルチュフ (岩波文庫 赤 512-2)


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タグ:モリエール
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いやいやながら医者にされ モリエール 岩波文庫

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★あらすじ
金持ちのジェロンドの娘であるリュサンドは
レアンドルという恋人がいるにもかかわらず、
彼に財産がないため、父から気のすすまぬ縁談を押し付けられる。


その縁談を破談にするため彼女は病気を装って唖になる。
ジェロンドは、娘の病気を治すために医者を探すが成果がはかばかしくない。




樵のスガナレルは、怠け者で働かないため女房のマルチーヌから
文句をいわれて、逆上し女房を棒で叩く。



名医を探すジェロンドの召使に出合ったマルチーヌは
棒で叩いた夫への仕返しにスガナレルを医者と偽り連れて行かせる。


いやいやながら医者にされたスガナレルは、リュサンドの事情を知り
レアンドルを薬剤師と偽ってリュアサンドのベッドまで連れて行き口を利かせる。



彼女の病気を治したスガナレルがジェロンドに感謝される合間に
リュサンドはレアンドルと駆け落ちしてしまう。



事情を知ったジェロンドは怒ってスガナレルをしばり首にしようとする。
すると、レアンドルが現われて叔父の遺産を相続したので正式に結婚を申し出る。
ジェロンドが娘との結婚を許してハッピーエンド。



★感想
『人間ぎらい 』の興行成績が落ち目になったので挽回すべく発表された作品。
モリエールとしては時間をかけて書いた戯曲だそうだが、作りは軽い。
岩波文庫で最近復刊された。



スガナレルが、リュサンドの乳母の胸にさわろうとしたり、
抱きつこうとしたり、甘口浣腸(なんだそれは?)を勧めたりと下ネタ満載。


当時の観客の期待の地平にそって書かれたエログロ喜劇である。
一晩で日本円にして200万円の興行収入があれば、大成功だったらしい。



ベルクソンの『笑い 』(林達夫訳)は、主にモリエールの喜劇論であり、
実はそれを読みたいがために私はモリエールを読んでいる。
そこそこ笑えるし、一時間で読み終わるものばかりなのが良い。それだけ。


いやいやながら医者にされ (岩波文庫 赤 512-5)








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タグ:モリエール
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2013年06月11日

ブリタニキュス ベレニス ラシーヌ作 渡辺 守章訳 岩波文庫


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★あらすじ
ローマ帝国の暴君ネロン(ネロ)が暴君になるまでの事件を描いた悲劇。


先帝クローディユスの後妻、アグリピーヌの連れ子であるネロンは、
女性として比類なき政治手腕を持ったアグリピーヌの力により
クローディユスと前妻の娘であるオクターヴィと結婚して、
養子縁組を果たし皇帝に即位する。


母であるアグリピーヌが我が物顔で権力を振るうので
若き皇帝ネロンは苦々しく思い、母の影響から逃れるため、彼女との面会を拒否する。



ある日ネロンは妻オクターヴィの弟、(ネロン異父兄弟で、義理の弟。このへんややこしい)
ブリタニキュスの恋人であるジェニーに宿命的な一目ぼれをしてしまう。
ネロンはジェニーにブリタニキュスと別れろと脅迫する。


ブリタニキュスとジェニーの仲を裂くため、ネロンは策略を働くが
アグリピーヌに邪魔立てされ、「誰のおかげで皇帝になったんだ」と説教される。


しかし、配下のナルシスを二重スパイに仕立て、彼の心理的説得を受けて、
ブリタニキュスを毒殺する。ジェニーはショックから遁世し神殿に仕える身となる。
ナルシスは、民衆によって断罪され刺し殺される。
暗殺実行後、絶望したネロンは、自らの狂気を抑えることができず暴君へと変貌する。


★感想
「ラシーヌの『ブリタニキュス』のように、血で血を洗う政治劇を
優雅なアレクサンドランで、というのが私の理想」と三島由紀夫が書いているので読んでみた。


タキトゥスの『年代記』を叙事詩に見たてて描かれたラシーヌ悲劇である。



史実に忠実であろうとするあまり、説明過剰で、読み通すのに骨が折れた。頭が痛くなる。
登場人物の血縁関係が複雑で、(フォークナーの長編より複雑)
その上、筋が高度な数式のように論理的ときているので、いっそうくたびれる。


悲劇の主人公はブリタニキュスのはずだが、彼が一番影の薄い人物である。
なんといっても、第四幕のネロンとアグリピーヌの親子喧嘩が見ものである。
ギリシア悲劇でよく使われる「スティコミティアー」(一行セリフでの対話の応酬)
なんかも第四幕で使っていて、ラシーヌの手だれっぷりが堪能できた。


実は、悲劇そのものよりもラシーヌの序文の方が、かなり面白かった。


コルネイユ(当時63歳)がラシーヌ(当時30歳)の物した『ブリタニキュス』の
初演を邪魔するために取り巻きを連れて劇場に陣取り、野次を飛ばしてわめきちらし、
さらには、お抱えの評論家に、『ブリタニキュス』の欠点をあげつらった批判を書かせ攻撃した。
コルネイユの執拗な嫌がらせが目に浮かんで笑った。嫉妬もここに極まれリの感がある。


ラシーヌは、その批判に答えるために、序文をふたつも書き、弁明している。
コルネイユを寸鉄詩で批判し、史実の歪曲に対して弁明したが、
注目すべきは、その序文に、ラシーヌの演劇論として
「悲劇の結末のあり方ついて」が描かれていることだ。




「私としては、悲劇とは何人もの人間が共に行う一つの完全な劇行為(アクシオン)[筋=事件]の模倣であるから、この劇行為は登場する人間達のすべてが、その結果どのような立場に置かれたかを人々が知るまでは、決して終わってはいないと、常々理解していた。ソポクレスもほとんどあらゆる作品でこのような態度をとっている。『アンティゴネー』のなかで、この王女の死後にハイモーンの怒りと、クレオンの断罪にあれほどの詩句を費やしているのもそのためであり、私も、それと同じくらいの詩句をブリタニキュスの死後、アグリピーヌによる呪詛の言葉と、ジェニーの隠遁と、ナルシスの断罪と、ネロンの絶望とに費やしたのである。」




要するに、ラシーヌは悲劇の「主人公が死んだだけで終りにしてはいけない」と言いたいのだ。


主人公の死が、周辺人物の運命に与えた影響までしつこく書かなければ、
後世まで残る立派な作品にはなりえないと断言しているということだ。


そう考えたら、『魔の山』なんかハンスが死んだあとのセテムブリーニを
書かなきゃまずいんじゃないかという、真っ当な、あまりに真っ当な批判が、頭に浮かぶ。
セテムブリーニはいい奴なのに浮かばれないなあ、という疑念が読後残ったのだから。


いずれにしても、「主人公が死んで終り」という結末は、結末足りえないし、
作者の独善的なカタルシスにしかならない。
よって、「主人公死す、完」では読者や観客に対して不親切極まりないという教訓を教わった。


ブリタニキュス ベレニス (岩波文庫)


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タグ:ラシーヌ
posted by 信州読書会 宮澤 at 11:15| Comment(0) | 戯曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

フェードル・アンドロマック ラシーヌ 岩波文庫

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『アンドロマック』あらすじ
トロイアを落城させたエピール国の国王ピュリスは、
トロイアの王へクトールを惨殺し、その妃であるアンドロマックと息子をエピール国に幽閉する。


ピュリスは、いつのまにか美貌のアンドロマックの虜になり
求愛するが、亡き夫に操を立てるアンドロマックに拒絶される。


ピュリスの婚約者でギリシアから来たエルミオーヌは、
ピュリスの寵愛するアンドロマックに嫉妬している。



ピュリスはたまりかねて、アンドロマックに妃になるか息子ともども死ぬか
どちらかを選べと脅迫し、息子の将来を案ずるアンドロマックは
しぶしぶ結婚することに同意するが、婚礼の祭壇で自殺しようと密かに誓う。


ピュリスから婚約を一方的に破棄させられたエルミオーヌは狂乱し、
彼女を愛している同郷のオレストにピュリスを暗殺するように命ずる。


ピュリスとアンドロマックの婚礼の祭壇でオレストは、ピュリスを暗殺する。
エルミオーヌはピュリスの遺骸の上で自殺を遂げる。オレストも狂気に沈む。
結果、エピールは女王アンドロマックの支配下になる。


最近、岩波文庫で重版がかかりました。ラシーヌははじめて読みました。
エウリピデスの『アンドロマケー』を下敷きにした戯曲だそうで
計算し尽くされてできた悲劇で、かなり面白いです。



片思いの連鎖のたどって景気よく人が死んでいくというとんでもない作品。



訳者の渡辺守章の解説はロラン・バルトのラシーヌ論を
たくさん引用していて、丁寧な解説でありながら、なんか偏っています。
もう少しほかの研究家の解釈もとりいれてほしいです。


エルミオーヌはオレストに愛するピュリスを殺すように命じながら、
実際に暗殺したことをオレストに報告にされると
「殺せとは誰がいった!」ととんでもない返事をします。
「恋に狂った女のいうことなど 真に受けてよいものか!」
とまでいわれてしまいます。トホホなオレスト。


こういう会社の上司たまにいます。


居酒屋の席で部下に、期待を持たせる約束しておいて、
「酔っ払った上司のいうことなど 真に受けてよいものか!」
と翌日の会社の会議で怒り出す上司。唖然とする部下。
酒席の勢いはどこへやら。最悪のパターン。
そんなくだらないことを思い出しました。


最近ギリシア悲劇の世界にはまってきました。
いままで読もうとも思わなかったセネカやエウリピデスが愛らしく思えます。
格調高い悲劇で、お薦めです。



フェードル アンドロマック (岩波文庫)

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posted by 信州読書会 宮澤 at 11:07| Comment(0) | 戯曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月10日

カリギュラ・誤解 カミュ 新潮文庫


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★『カリギュラ』あらすじ
妹であり恋人であったドリジュラを失い
人間不信になった皇帝カリギュラは
臣下をかたっぱしから殺戮しはじめる。



ギリシア悲劇に似た古典的な風格を備えていることで、
なんとか救われている作品。


その後『異邦人』で展開される離人症的なテーマが表現されている。



現代に喩えるならば、
カリギュラは狂信的なファンに囲まれ、若者の破壊衝動を代弁し
演奏後ひらすら機材を壊すロックスターというところだろう。



ヴィーナスに扮して、倒錯的な陶酔にひたるカリギュラが
臣下とともに破壊的な詩の朗読会を繰り広げるシーンは、
デヴィット・ボウイをはじめとする追随者を生んだと思われる。


セゾニアはカリギュラの情婦兼マネージャーといったところだろうか。
アメリカ全土のライブについてゆくナンシー・スパンゲンみたいな女。



インディーズ時代のカミュに触れられるライブ音源のブートレッグみたいな作品。


あるいは、『ハムレット』をスティーブ・アルビニが再編集したようなハードコアな作品。
(もとろん、渡辺守章がアルビニというわけではない。)


文庫本としては品切れになっている。



『誤解』は明らかに習作。
飛ばし読みで充分であるが、アメリカンニューシネマっぽいチープさには少し惹かれる。

カリギュラ・誤解 (新潮文庫)


新訳出ました。



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タグ:カミュ
posted by 信州読書会 宮澤 at 13:19| Comment(0) | 戯曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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