今年の秋 (中公文庫 A 139)
オコナーの短編集を読みながら、正宗白鳥の文体を思い出した。
どちらも文体に力強い確信がある。
逡巡や曖昧さがなくて、彫刻のような輪郭の清明をもった文体だ。
どちらも敬虔なキリスト教徒で、死ぬまで聖書を手放さない人間である。
『私は精神的な目的を信じない者ではない。また、漠然と信ずるものでもない。
私はキリスト教の正統的立場から物を見る。
私にとっては人生の意味はキリスト教による私たちの救済に中心を持ち、
私は世界の中で物を見るとき、このこととの関連において見る』
とオコナーは言う。
「今年の秋」は小説とも随筆とも評論ともいえない二十三篇から成り立っている。
父の死を扱った「今年の春」では、死にそうで死なない病床の父を描いた短編だ。
苦しむ父が、長男の嫁に最期の力で、東京に帰るのかと尋ね、
「帰っちゃならんぞ。ええか。この家にいるんだぞ。」と強く忠告する
末期にいたって、家の心配をする。
もうすでに、死を恐れていない人間を描いている。
これは白鳥が、オコナーと同様に、
人生の意味をキリスト教との関連において捉えていからだ。
父の死が、聖書に描かれたキリストの死と同じように必然的に扱われている。
感傷の入り込む余地がない。
そういう意味で私にショックを与えてくれた作品だ。
作品より人間が先行している正宗白鳥だが、その魅力を伝えるものとしてお薦めは以下。
「正宗白鳥と珈琲」 (同時代の作家たち 広津和郎 岩波文庫 に所収)
「白鳥の死」 (楢山節考 深沢七郎 新潮文庫 に所収)
「白鳥の精神」 (小林秀雄対談集 講談社文芸文庫 に所収)
白鳥の人柄の温かさがうかがえる。
特に、私は広津和郎を喫茶店で「ここだ、ここだ、広津君!!」と呼びとめる白鳥の話に笑った。
実は、気難しそうにじっと、広津和郎を待っていた白鳥の含羞が目に浮かぶ。
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