sponsored link
★あらすじ
自費出版の本を受け取り、保管する図書館に勤める主人公のもとに
絶世の美女、ヴァイダがやってきて、恋に落ち、同棲をはじめる。
ヴァイダはあまりに美しいので、周囲の過剰な視線を浴びるので
自分の美しさを嫌悪している。
ヴァイダは主人公の子を身ごもるが、育てられないといい、
二人でメキシコの堕胎専門の産婦人科にゆき、堕胎する。
小説の原題は「The Abortion」で堕胎という意味である。
とはいっても、堕胎に関する倫理的な懊悩をめぐっての小説ではない。
堕胎をした後もふたりは仲良く、新しい生活をはじめる。
この小説を読んで、福田恒存が「私の幸福論 」(ちくま文庫)のある一説を思い出した。
彼は、アメリカの若い女性(17歳を過ぎた女性)がどうも好きになれないという
その理由を、長くなるが以下に引用する。
なるほど、ニューヨークには、確かに美人が多い私の友達がいったように、街を歩いていると『ふるいつきたくなるような美人』によく出あう。お化粧はうまいし、姿はいいし、服もしゃれている。一口に言えば、かれらは女性の典型であります。が、この典型のうちには、典型であるがゆえに、複雑な夾雑物の存在がぜんぜん許されない。あるのはセックスだけです。セックスだけが男女の別を分かつものと、はなはだ合理主義的な判断をくだし、それを追求していったためでしょう。残ったものは、女のセックスそのものではなく、バスト、ウェイスト、ヒップなどに計量化できるセックスの型見本にすぎない、そういう感じをいだかせます。
福田恒存は、「セックス」がむき出しにされていて、
その先の複雑な夾雑物たる人間性に関心のない
アメリカの若い女性に、うわべの美しさに驚嘆こそすれ、同時に興ざめを感じたという。
この発言を踏まえると、セックス対象物として見られることを拒否した
ヴァイダの落ち着いた知的な女性像は、日本でこそ印象は薄いが、
アメリカにおいては一つの自由への挑戦なのではないかと思う。
セックスを主題とした小説であれば、堕胎も倫理的な問題になるが、
「愛のゆくえ」では、堕胎は、計量化されたセックスへの極端な拒否であり、
同時に選び取った人生の自由であるために、倫理的な問題として取り扱われない。
つまり、物質文明を拒否して生活している主人公とヴァイダの
積極的な選択として堕胎があるので、その選択には倫理上の対決もあるのだろう。
セックスを快楽ではなく、主人公とヴァイダの人生の通路としてブローディカンは
描いたのからこそ、堕胎も倫理的である。
逆に避妊することのほうが、セックスを単なる快楽手段と認めてしまうことになるのだ。
その常識的な考えが、アメリカにおいては困難なのではなかろうか。
至って平明だが、アメリカ社会のセックスの息苦しさと対決している手応えのある小説だと思う。
愛のゆくえ (ハヤカワepi文庫)
sponsored link