信州読書会 書評と備忘録

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2013年07月25日

沈黙 遠藤周作 新潮文庫

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★あらすじ
島原の乱以後、ポルトガル船の渡航が禁止された日本で、
潜伏司祭のフェレイラが、宗教奉行の井上筑後守の命による
穴吊りの刑によって棄教した。(井上も一度洗礼を受けている)



イエズス会の司祭ロドリゴとガルペは、
マカオから棄教した「転んだ」日本人、キチジローの案内で
消息を絶ったフェレイラを捜すべく、トモギの貧しい漁村に潜入し、
村民たちに匿われながら、洗礼や告悔など司祭の職務に従事する。



しかし、奉行所の手入れがあって村からモキチとイチゾウ、キチジローが
長崎奉行所に連行され、踏絵を踏まさせられる。さらには、そこに唾するように命ぜられる。
唾を吐くことを拒否したモキチとイチゾウは水磔に処され、みじめな殉教を遂げる。


危険を感じたロドリゴはガルペと別れて、山中を放浪し、
福音書を諳んじたりやイエスの顔を思い浮かべながら、信者のいる村を捜す。
そして、モキチやイチゾウを前に無情に「沈黙」する神を疑いはじめる。


偶然、山中でキチジローに出あい、彼の密告でロドリゴは連行されてしまう。
ガルペも囚われており、棄教を迫られるが、拒否し信者とともに海で溺れ死ぬ。


井上筑後守は、なんとかロドリゴを棄教させようとする。
なぜなら、司祭の棄教は最も信者の気持ちを挫くからである。
そこで、ロドリゴを棄教して寺に住むフェレイラと再会させる。



フェレイラは穴吊りの刑で棄教したのではなく、
穴吊りの刑で同じく苦しむ信者に神が沈黙しているのが耐えられずに、棄教したのだった。
フェレイラは日本において神は実体を失っているので布教も無駄だと、ロドリゴを説得する。


ロドリゴは踏絵を踏んで棄教する。


「私が踏まれるにため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつため
十字架を背負ったのだ。」というイエスの声が聞こえ、鶏が鳴く。


ロドリゴは、死んだ岡田三右衛門という男の名と、その妻子を引き継いで
別の人間として余生を過ごす。


★感想
分量がそれほどでもないにもかかわらず、かなり読むのに時間がかかった。
いろいろ考えさせられた。それだけ問題が凝縮された難解な小説なのだと思う。



まず、私にはイエズス会、潜伏耶蘇、聖書についての知識が少ない。
感想も、あまり調べた上でのものではないので、勝手な知識に頼るしかない。


ロドリゴの信仰の揺らぎは、聖書のイエスの言葉への疑念としてはじまる。


棄教者で裏切り者のキチジローはユダになぞらえられるが、
キチジローは棄教したにもかかわらず、信仰を放棄してはいない。
ロドリゴは彼に対して寛大になれないのだが、さりとて良心が彼を憎ませない。



イエスが裏切り者ユダにむかって「去れ、行きて汝のなすことをなせ」いった言葉に
ロドリゴはイエスの薄情を感じて、従うことが出来ない自分を発見するのだ。



棄教した者が、宗門奉行のスパイにさせられることや、
「俺を弱か者に生まれさせておきながら強か者の真似ばせよとデウスさまは仰られる。
それは無法無理というもんじゃい。」というキチジローの言葉には、信仰の現実がある。
そうした現実に、キリストが沈黙で応える不条理をロドリゴは理解できない。


福音書に描かれるイエスの姿には励まされながら、ロドリゴは棄教をこらえるが、
ロドリゴは、イエスと違って預言者でもないし救世主でもない。
彼は、死後イエスのように復活する立場にないし、奇跡も起こすことができない、一信徒である。



その上、圧制者たる井上筑後守は、福音書のヘロデやピラトがイエスに行ったように
やたらめったら圧倒的な暴力で棄教を迫るわけではない。



井上は温和な老人であり、司祭を殉教させずに、みじめに棄教させることで、
殉教者の栄光を奪い取って、求心力を低下させるという政治的な手段を採用している。


穴吊りという過酷な拷問に耐えうる信徒はたくさんいて、殉教させることは
逆に弾圧の不当性を証明してしまうことを、井上は知っているのである。


こうした情況は、福音書の記述の範囲を超える、まさしく現実的な情況である。


殉教者を前にしてのキリストの沈黙は、イエズス会の三位一体を崩壊させる。
イエスがキリストではないというということを証明してしまうのだ。
よってロドリゴは、聖職者たちが教会で教えている神と、自分の主は別なものだと知り、
司祭としては棄教し、「ただの人間、イエス」を自分だけの信仰の拠り所にして生きた。
日本のキリスト教徒の現実を前に、教条的なキリスト教徒は屈せざるを得なかった。
つまりは、神の存在と信仰は別々に問題にされなければならなくなった。



以上のように、『沈黙』という小説を、私はとりあえず理解せざるをえなかった。



別に、弱いものや裏切り者が本当のキリスト教徒だといっているわけではないと思う。
現実的な情況の中で、人はそれぞれのイエスを見出すということなのではないだろうか。
奇蹟も復活もありえない世界でのキリスト教のあり方を追求した作品であると思う。
神は否定できても、「痛みを分かつ人間イエス」まで否定できない。
これが日本人のキリスト教信仰の拠り所になると、遠藤周作は訴えたのではないか。



遠藤周作の聖書解釈は不勉強で実際よくわからない。
しかし、福音書の引用もかなり恣意的で、
ロドリゴの聖書に対する混乱は、遠藤周作自身の混乱とも思えた。どうなのだろうか?



福音書ごとにイエスの描かれ方が違うのだが、
復活後のイエスが弟子たちに人間的なやさしさをみせる
『ヨハネによる福音書』の影響が一番強い気がした。



ただ、作者がロドリゴに言わせた以下の言葉は心うたれた。


「罪とは人が、もう一人の人生の上を通過しながら、自分がそこに残した痕跡を忘れることだった。」



マーチン・スコセッシ監督はアカデミー作品賞受賞の『ディパーテッド』以後、
遠藤周作原作の『沈黙』を映画化するという話があったが・・・
その後どうなったのだろう。


沈黙 (新潮文庫)



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ラベル:遠藤周作
posted by 信州読書会 宮澤 at 08:45| Comment(0) | TrackBack(0) | キリスト教文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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