信州読書会 書評と備忘録

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2013年06月15日

直毘霊 (なおびのみたま)本居宣長 西郷信綱訳 


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日本の名著 (21) 本居宣長


以前に小林秀雄の『本居宣長』を読んで以来、
和歌と日本文学の関係について、
ずっと、考えて書いてみたいとおもっていた。

『直毘霊』は宣長のライフワークである『古事記伝』の序文であり、
ポレミックな儒教批判を展開し、日本の神の道を説いた小文である。


まあ、短いし、現代語訳なのですらすら読めたが、
これを論ずると柄谷行人の『神神の微笑』論と
同じような結論しか正直書けないのが苦しい。


要するに、外来思想は日本の神々によって変容を強いられて、
もとの姿をとどめるのは不可能ということを言っているのである。


儒教は、道徳や倫理が崩壊している国での人為的な制度であり、
そこで生まれた、聖人の思想などは、支配制度の方便でしかない、
と宣長は批判する。


一方、皇国の神は、天皇の先祖であり、理屈ではなく、
おおらかな御心で、天下を治めてきたのであり、


儒教のように、さかしらに、言挙げしないことで、下剋上もなく
充分用足りて来たのであるから、それがりっぱな神の道であると
大体こんなようなことを、宣長は主張している。


神の道というのは、人為的なものを排除しきって見つかる残余であり、
決して理論付けできないが、さりとて熱狂的な信仰の対象でもなく、
四季とともに移り変わってゆく自然のようなのものだ、と宣長は言いたいらしい。


だからこそ、自然の変化に事寄せて歌を詠むということが、
神の道に通じる尊い行為であり、日本文学の精髄であると、
まあ、勝手に敷衍すれば、まあ、こんなことを宣長はいいたげである。



外国人からすれば、日本文学といえば、まず、和歌と俳句であり、
現代の小説なんかは、まあ、西洋の真似でしかないなと
どうせ、おもわれているに決まっているのである。


ただ、和歌や俳句は、外国人に簡単に理解しがたい部分がある。
今の西欧化された生活の中で暮す現代日本人にとっても
すでに、わかりづらいのと同じように。



どう考えても、日本文学の強烈なオリジナリティーは
和歌と、俳句にしかないだろう。とわたしは思っている。残念ながら。

まあ、俳句は、外国でも形式的には流行るが、和歌は、輸出不可能な部分がある。


あの、無味乾燥さ、意味内容の不可解さ、
それでいて調べだけが、ついつい出てくるような口当たりのよさ
あれは、潜在的に日本人の美的感性と思想性を宿しているだけに
なかなか、翻訳できる物ではないと思う。


なんで、そうなのかは、思うところあるのだが、又改めたい。



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posted by 信州読書会 宮澤 at 14:38| Comment(0) | 日本文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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