信州読書会 書評と備忘録

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2013年06月15日

彼らはマルローについて語った ミシェル・フーコー思考集成Y 筑摩書房


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フーコーの『汚辱に塗れた人々の生』を読もうと思って、
図書館から借りたのだが、併録されていた
『彼らはマルローについて語った』に結構心打たれたので
全文引用したい。


ちなみに、アンドレ・マルローの死去に際して
1976年12月23日に行われた、フーコーへの電話インタビューである。
丹生谷貴志訳、改行は適当。




語る事柄のほうが、語ること事態よりも彼にとっては重要なことだった。
これは、彼にいわせれば反フローベール的とも言うべき態度で、
人間や事象への思い入れ、文学に対する横柄さが、
彼を作家以上の何者かに見せることになった。


彼のテキストを貫き、時にはそれをだいなしにしている力は、
外部から、ものを書くことに専心するものには
はなはだ慎みを欠くように思われる外部からきていた。



そのことにおいて彼は、ベルナノスやセリーヌとともに、
私たちを困惑させる一族につらなっていた。


物書き以上の何者かだったが聖者たりえなかった男、
物書き以上の何者かだったがたぶん人でなしではなかった男、
物書き以上の何者かだったが
銃殺された二十歳の革命家でも
老いたる国家の要人でもありえなかった男、
こうした者たちについて今日私たちが、
何が言いうるのだろうか?

たぶん、彼らの人生が如何なるものだったかを理解するには、
私たちはあまりに注釈につき合わされすぎている。




ベルナノス、セリーヌ、マルローについて
もうすでに、注釈以上のなにものもつけくわえることのできない
後世の人間の一列に卑屈にも連なっている一人にもかかわらず、
いや、おそらくまたは、そういう立場にしかないという、
屈折した諦めがあるからこそ
フーコーは、電話インタビューでこんないやらしい皮肉を
投げかけているのだが、
はからずも、それが、彼の深い喪失感を表現している。
そこが、なかなか感動的だった。


ミシェル・フーコー思考集成〈6〉セクシュアリテ・真理


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posted by 信州読書会 宮澤 at 14:35| Comment(0) | フランス文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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