信州読書会 書評と備忘録

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2013年06月15日

アメリカン・ハードコア 続き


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このドキュメント映画にいやというほど描かれているのは、
よれよれのTシャツ、色褪せたジーンズという小汚い姿の若者が
3コードから成る3分程度の曲にのせて、ひたすらシャウトするというライブである。
観客がダイブとモッシュを繰り広げ、一緒に歌うという
暴力的なパフォーマンスばかりであり、みな自暴自棄になって血塗れている


貴重な映像が多いにもかかわらず、彼らから受ける印象は痛々しさだけである。
一歩間違えば、中学生が修学旅行の旅館で枕なげしていたら
本気で殴りあいになってしまったような居心地の悪さがある。
(特に、ヘンリー・ロリンズが客を殴ってるシーンなんかはひどい)


そしてハードコアの楽曲の特徴は、とにかく速い、そして短いことである。
カロリーゼロ。シンプルで攻撃的なのであるが、映像で見てものれない。


ハードコア・シーンというものは、この映画のなかで
ヴィック・ボンディが的確に述べているように、
組織的な左翼活動の存在しない80年代のアメリカにおける
唯一の共同体主義の改革の実践であった。


それぞれのバンドは手作りの音源を手売りし、地方都市の郊外のガレージや教会でライブをし、
バンド仲間の人脈をたよりにツアーしてまわるという
人民戦線のような連帯と助け合いの理念をもとに
活動を繰り広げ、全米を席巻してゆくのである。


重要なのは、それは、商業主義的ロックへのアンチではなく、
郊外に住み、職にあぶれ、希望も抱けない若者たちが、
ハードコア・シーンを形成するということによって、
一瞬だけポジティブになり、主体的に生きたと錯覚したことである。
関係者のインタビューには「やってやった」感が、満ち溢れている。


そういう意味で、アメリカン・ハードコアの理念は、
「遅れてきた実存主義」とも受け取れる。

とにかく、彼らは希望のない社会状況の中で自分の生きてゆく位置を明らかにした。
ただし、あまりにも悲観的に社会状況をとらえたため、未来志向の建設を信じない。
自らを予測不能のカオスに投げ込むことの可能性を追及するあまり自己破壊に至った。

しかし、凡百のアメリカンドリームをつかんだ成り上がりの物語を
彼らが明確に拒否していることには、すがすがしさがある。


人間が生涯を暮らすにはあまりにも抽象的な郊外という
場所において、ドラッグと犯罪とセックスに溺れる以外に
どこにも救いを見出せない若者にとって、ハードコアは唯一の「声」であり、
鬱屈する少年たちの自己解放が、どこにたどりつくか
まったくもってわからないことが、すべての達成なのである。


ハードコアの歌詞は、そのまま現状への怒りと無力感をぶちまけている。
貧富の差を押し広げながら軍事的にも経済的に拡大してゆく
レーガン政権時代の輝かしさの一方で、矛盾のように溢れ出す
不況やインフレや言論の抑圧から生まれる社会不安を
ストレートに訴えるには、3分間の演奏時間で充分である。

どのバンドも、リー・マービン主演のB級アクション映画『殺人者たち』に出演していた
悪役俳優時代のレーガンの映像をコラージュしたフライヤーを作成し、
ライブ会場に張るという知的なアイロニーに富んだ風刺をしたことが映画で語られているが、
彼らは、70年代的な反体制の胡散臭さを知っているからこそ
こうした知的アイロニーを駆使した戦略をとっているのである。


彼らの一部は、DIY(Do It Yourself)を唱え、自己責任を観客に訴えている。
仲間が、ドラッグや犯罪に手を染めても、俺だけはやらない、という自己責任である。
まあ、これじゃアメリカ建国以来の伝統であるピューリタリズムへの回帰でしかないんで、
当然こういうことをポジティブに訴えだした頃には、ハードコア・シーンも


暴力とドラッグで、ぐちゃぐちゃになっており、ギグは、毎回暴動化して、警察沙汰となる。
ダメな奴はやっぱりダメというどうしようもなさを確認して、
シーンを支える中心的なバンドに倦怠感がひろがる。


結局、シーンの担い手たる彼らが、音楽性を転換させたり、解散したりたりして
ハードコア・シーンからの撤退を表明して消えてゆく。
このような転向が、雪崩のように巻き起こり、レーガンの二期目続投が決まった84年を境に
ハードコア・シーンはとめどもなく崩壊してゆく。


まあ、以上のようなことがこの映画では描かれている。
自分でも何を書いているかわからなくなった。
牽強付会な解釈だと思う。こんなブログでまとめきれない複雑さがこの映画にはある。


ただ、一連の流れを見て思うのは70年代後半から80年代前半の
日本の新左翼運動崩壊と状況的に似ているといえなくもないことである。
80年代前半で培われたハードコア・シーンは、その後、オルタナティブ・ロック
として蘇生し、90年代には世界規模の影響力をもつにいたる。

日本ではオルタナに対応したサブカル・シーンをさがすと、
世界的影響力を持っているのが、残念ながらアニメとマンガというジャンルしかない。

だからこそ、日本においては新左翼運動の延長線にアニメ・マンガがおかれる傾向がある。
しかし、それが唯一の世代体験みたいに主張する評論家のしたり顔と党派性は気に喰わない。

それはそれとして、社会不安募る今の日本でこそ観る価値のある作品だと思う。


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posted by 信州読書会 宮澤 at 14:32| Comment(0) | 洋画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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