信州読書会 書評と備忘録

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2013年06月15日

ブライヅヘッドふたたび イーヴリン・ウォー 吉田健一訳 ブッキング その1


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★第一部『會てアルカディアに』
まず、ライダーのオックスフォード大学1年目の寄宿舎生活が回顧される。
ライダーは、入学そうそう従兄のジャスパーから学生生活のあり方全般について、
訓戒を与えられるのだが、その訓戒に、結構、自分の大学時代の生活を思い出してしまい、笑った。



「成績は一級か四級にならなくちゃだめで、その間じゃ意味がない」


「教授を先生のように扱わないこと、それよりも家にいるときの近所の牧師さんだと思えばいい。」


「二年目の半分は、一年目に出来た好ましくない友人を振り切ることに費やされる」



こんな、プラグマティックな訓戒を与えられる。
そして、寄宿舎生活である。(なぜか、吉田健一は寄宿舎とか寮という訳語を避けている。)


ジャスパーは、部屋の一階に住むと、人が気安く入ってきて、晩に着るガウンを置いていっては、
毎晩、それをとりにきて、シェリーを出しているうちに、無料の酒場を開くことになると忠告する。


そして、そのあとにつづくの記述が面白かった。以下引用、改行は適当。



私は、その日、そうして与えられた注意の一つも実行した覚えはない。
兎に角、部屋を変えなかったことは確かで、その窓の下には
夏にあらせいとうの花が咲いて部屋中をその匂いで満たした



自分が若かった頃を実際以上に早熟なものに、或は無邪気なものに作り変えて回顧し、
戸の縁の背の高さを示して刻んだ印の日付に手を入れることは易しい。



私は、私がその部屋を、ウィリアムモリスが織らせた壁掛やアランデルの版画で飾り、
本棚には、十七世紀の二つ折り版の本や、ロシア産の鞣し革、
或は波紋絹で装丁した第二帝政時代のフランス小説を並べていたと思いたくて、
又時には、本当にそう思うこともある。



併しそれは嘘で、私は炉の上にゴッホの「日向葵」の複製をかけ、
部屋の隅に、ロジャー・フライがプロヴァンスの風景を書いた屏風を立てたが、
これは、オメガ工芸が店じまいをした時に安く手に入れたものだった。



又、マクナイト・コーファーのポスターとポエトリー・ブックショップ版の詩の刷りものを飾り、
それよりも思い出すのが辛いのは、戸棚に黒い蝋燭の間に
「三文オペラ」に出てくるポリー・ピーチャムの瀬戸物の像を置いたことだった。


私の持ってきた本も少なくて平凡なものばかりで、
(中略 ※注 ただ、ここで本の題名が列挙されるがすべてマイナー)
という訳だったから、凡てがその頃、私が友達となった人達によく似合う背景を成していた。






以上のような平凡な趣味の学生だったライダーが、個性の臭いが強烈なセバスチャンに出逢い、
文化的に相当に覚醒されていく様子が、その後綿々と綴られるのだが、それは今後紹介したい。



ブレヒトの「三文オペラ」のポリー・ピーチャムのフィギュアが実在したのか、
あるいは、シュールなギャグとして創作し、嘆いてみせたのかは、微妙なところだが、
ここに描かれているような、学生時代の部屋の恥ずかしさというのは、
誰でも少なからず思い当たる節が、あるんじゃなかろうか。



まあ、『パルプフィクション』や『勝手にしやがれ』のデカイポスターを部屋に貼るとか、
北斗の拳のフィギュアやブルース・リーのフィギュアを本棚の上に飾って、
あるいは、その本棚の中には、宮台真司の自己啓発本や読みもしないハイデガーや
黄色かった頃の講談社現代新書が、こち亀やゴー宣や松本大洋の漫画といっしょにならんでるとか、
そういうことや、それに類することは、往々にしてやっちまうものである。




そして、その部屋に見合った友達ができるというのも皮肉なものである。


どういう友達かというと、松田優作の話で一晩語り合えるような友人である。
要するにおたくとサブカル好きの間にいるような成績で言うと一級でも四級でもなく
まさしく、その間じゃ意味のないというような友人である。


やがて、スタバを襲撃する小説を思いつき、処女作として深夜に書き上げて、
友達に読ませたら、村上春樹の『パン屋再襲撃』パクリだと指摘されて
こっぱずかしい思いとオリジナルの難しさを痛感させられて、大学の一年目が終わるのである。


このように、いろいろ思い出させるやっかいな小説である。
心くすぐる、固有名詞がさりげなく出されて、自分の趣味を難詰されるような錯覚をおぼえる。


村上春樹の小説でも、こういう手法がつかわれていて、
なんか、郊外のドトールで主人公と隣り合った見知らぬ女性がディケンズの『荒涼館』を読んでいて、
やがてセックスにいたるとか、いたらないとか、そんなまるで、『荒涼館』のために書かれたような
変な短編を昔読んだ記憶があるが、村上春樹はウォーに比べてテレがないぶん、


読んでるほうがテレくさい思いをさせられて、やがてその気持ちが怒りの感情に変わるときがある。



ただ、日本において固有名詞を駆使して趣味を語るというのは小説では難しいので、
そういうことに挑戦して、村上春樹はひねりがないながらも半ば成功していると私は個人的に思うし
そういう意味で、村上春樹は相当に力量があるんだと思う。と思っております。はい。すみません。


また、続きを書きたい。


ブライヅヘッドふたたび


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posted by 信州読書会 宮澤 at 14:19| Comment(0) | イギリス文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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