信州読書会 書評と備忘録

世界文学・純文学・ノンフィクションの書評と映画の感想です。長野市では毎週土曜日に読書会を行っています。 スカイプで読書会を行っています。詳しくはこちら → 『信州読書会』 
Facebookページ
『信州読書会』 
YouTubeチャンネル
YouTubeチャンネル「信州読書会」
*メールアドレス
名前

 

2013年06月15日

嘘つき男・舞台は夢 コルネイユ 岩波文庫 その二


sponsored link






★『舞台は夢』あらすじ
家出息子のクランドールを捜す父プリマダンは、
魔術師、アルカンドルに息子の安否を尋ねる。


すると、アルカンドルは、プリマダンの目の前に
舞台を出現させ、クランドールの家出の遍歴を見せる。


かくしてクランドールが主人公となった
悲喜劇が繰り広げられ、彼は悲劇的な死を遂げる。


殺された息子を見て悲しむプリマダンに
実は、クランドールは有名な劇団の俳優になっており、
あなたの観たのは、すべてその劇団の芝居であると種明かしする。要するに夢オチ。


★感想
ギリシア悲劇の時代から、演劇は五幕物がオーソドックスである。
五幕という形式の規範性こそが、演劇に高度なプロットを発達させた。


私の戯曲への興味は、第一に五幕の形式の展開である。
『舞台は夢』は、いままで読んだことのないような斬新な展開だった。


なにしろ、第一幕がプロローグ、第二・三・四幕は喜劇、第五幕は悲劇という構成で、
「劇中劇」(メタフィフィクション)が二つも挿入されているという実験的な演劇であったのだ。


第二・三・四幕はイタリア経由のスペイン民衆劇の模倣。
第五幕は、コルネイユが得意だった古代ローマ悲劇の模倣である。
そうしてその二つの劇中劇が、結末でただの演劇だと種明かしされる。
この斬新さは、二十世紀の演劇に通じる実験性がある。コルネイユ恐るべし。
ただ、形式の斬新さに比べて、内容の面白さは正直なところ微妙であった。


★バロックと古典主義について
訳者井村順一氏の解説で演劇のおける『バロックと古典主義』について説明している。
この説明がなかなか勉強になったので簡単にまとめて紹介したい。


・「バロック」とは?
流動の感覚を基本的性格とし情念に優位をあたえる非合理主義的文学であり、
「だまし絵」的趣向、変装、取り違えなど錯覚を乱用するという特徴をもつ。


・「古典主義」とは?

(常識と言う意味での)理性を基礎におき、悲劇、喜劇のジャンルの峻別や、
三単一の規則(一日の出来事、一つの場所、一つの筋)を要求する。
また、「真実らしさ(荒唐無稽であってはならない)」
「(周囲の状況への)適合性(例えば反道徳的な言動や残酷な場面を許さない)」を重視する特徴をもつ。


<「バロック」は劇中劇(メタフィクション)の導入>


<「古典主義」は劇中劇(メタフィクション)の否定>
というふうに捉えることができる。


以上の「バロックと古典主義」の定義から私が思ったのは、
「まんが、アニメ」と「純文学」の対立は表現形式の違いを無視すれば、
演劇における「バロック」と「古典主義」の対立とほぼ同義である。
キルケゴールの述べる「空想」と「想像」の対立とも問題圏が重なる。
作品への「メタフィクション」の導入めぐったところに対立があるのだ。


コルネイユは「バロック」と「古典主義」どちらも描いた。
二つの概念が混在した時代に生きていたからだそうである。
ただ、バロックで描くと喜劇、古典主義で描くと悲劇とならざるをえなかった。



メタフィクションの導入は作品のジャンルを規定するということである。


嘘つき男・舞台は夢 (岩波文庫)


sponsored link


タグ:コルネイユ
posted by 信州読書会 宮澤 at 13:57| Comment(0) | 戯曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。