信州読書会 書評と備忘録

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2013年06月15日

死に至る病 その二 キェルケゴール 岩波文庫

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先日に引き続き、『死に至る病』にふれての感想を。


自己とは反省である、――そして想像力(ファンタジー)とは反省であり、
すなわち自己の再現であり、したがって自己の可能性である、
強烈なる想像力のないところには強烈なる自己もまた存在しない(P49)




とキルケゴールは述べる。
「想像力というのは、自己の反省を基盤としていて、自己の再現である。」
ということになる。


話は変わるが、
私が一般に「純文学」と信じて読んでいる小説は、
想像力が、作者自身の体験に裏打ちされている。
言い換えれば、作者の体験の再現を担保にされた想像力によって描かれたものだ


そういう小説に、心動かされ感動する。
あるいは感情移入を起こさせる小説を「純文学」だと思って読んでいる


少なくとも純文学の「芥川賞」の小説は、
作者の体験の再現を担保になっていた想像力かどうかが、
重要な判断基準になっている文学賞だと信じている。


ところで、キルケゴールは「想像」と「空想」を対立概念として捉えている。


空想的なるものとは一般に人間を無限者へと連れ出すところのものである。
その際それは人間を単に自己から連れ去るだけなので、
人間が自己自身へと還帰することをそれによって妨げる。



「作者の純粋な空想によって描いた物語と言うのは、それがいかに読んでいて愉しくあっても、
読者が自己自身に立ち戻る契機に与えてはくれない」ということになる
無限の空想が野放図に広がった物語というのは
キルケゴールのいう『絶望』の状態に読者を落とし込むのではないか。



『かくて例えば感情が空想的になるとすれば、自己は漸次稀薄になりまさるだけである。
ついにそれは一種の抽象的感情に堕するにいたり、人間はもはや現実的なものに対して
感受性を動かすことなく、むしろ非人間的な仕方でたとえば抽象的な人類一般といったふうな
あれこれの抽象体の運命に多感な思いを注ぐことになるのである』(P49)



「空想というのは自己を稀薄にする」とキルケゴールは言うのだ。


ついでに、ライトノベルとその周辺の作品に現われる「セカイ系」という空想的な物語について。


東浩紀の『ゲーム的リアリズムの誕生』の定義に従うならば「セカイ系」の物語とは、
『主人公と恋愛相手の小さく感情的な人間関係(「きみとぼく」)を、
社会や国家という中間項の描写を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」といった
大きな存在論的な問題に直結させる想像力』によって描かれた物語だそうだ。
「セカイ系」とはまさしく「抽象的な人類一般に多感な思いを注ぐ」非人間的な物語である。
(ちなみに、連合赤軍の主張する「革命」や「殲滅戦」は、「セカイ系」の萌芽だろう)


実際、私も「セカイ系」のアニメを観れば作品世界に少なからず心を領される。
視覚的刺激が強いせいもある。そういう意味で、アニメの技術は確かにすごいと思う。
「エロ」も「暴力」も生々しいが、『一種の抽象的感情に堕する』ことでやり過ごせる。
なので、何時間でも無批判に浸っていられる夢のような物語である。


だが観終わった後の、むなしさというか、
観続けることでしか、そのむなしさを払拭できない麻薬性というのは、怖い。


空想によって自己が漸次希薄になるのが怖いのだ。
空想によって自己が連れ去られるというのは、やはり怖い。
だから避けているのだと思う。関心はあっても。

死に至る病 (岩波文庫)



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posted by 信州読書会 宮澤 at 13:54| Comment(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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