信州読書会 書評と備忘録

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2013年06月15日

詩学 アリストテレス 岩波文庫 その一


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アリストテレース, 松本 仁助, 岡 道男訳 『詩学 』



『詩学』と銘打たれているだけあって、


「詩の作り方」みたない本だと長年にわたり誤解していたが、戯曲の文学理論である。


とりあげられている作品は、ホメロスの叙事詩とギリシア悲劇である。





ちなみにアリストテレスはアレクサンダー大王の家庭教師をしていたらしい。





私は、恥しいことにプラトンを全く読んでいないので、


哲学者アリストテレスの偉業はさっぱりわからない。


ただ、実在したのかが疑わしいほどに頭のよい人であることはわかる。





★『詩学』 第六章『悲劇の定義と悲劇の構成要素について』


第六章は岩波文庫で5ページほどの論考である。


しかし、後世に多大な影響を与えた鋭い考察がある。


「悲劇の定義」と「構成要素」が簡潔にまとめられている。





★《悲劇の定義》 悲劇とは?


『一定の大きさをそなえ完結した高貴な行為、の再現(ミーメーシス)であり、


 快い効果を与える言葉を使用し、しかも作品の部分部分によってそれぞれの媒体を


 別々に用い、叙述によってではなく、行為する人物たちによっておこなわれ、


 あわれみとおそれを通して、そのような感情の浄化(カタルシス)を達成するものである。』





ここでまず、重要なのは、『高貴な行為の再現』である。


しかし、『詩学』では人間にとって『高貴な行為』とは一体なんなのかは触れられていない。


訳注によると『ニコマコス倫理学 』に詳しいとのことである。





コルネイユの『ル・シッド論争』は、まず、「高貴な行為の再現」があったのかが問題となった。


17世紀では人間の理性に照らして、普遍的な高貴さ存在すると考えられていた模様。





そのへんは、アリストテレスがしっかり定義してないのだが、


訳注から類推されることは『ニコマコス倫理学』に中間の徳(中庸)というのが


論じられているそうな。要するに市井の人間の中庸の徳義を哲学的に論じたものらしい。








コルネイユの『ル・シッド』における「高貴な行為」のなさが、


ジョルジュ・ド・スキュデリが、コルネイユの古典主義無視への批判への端緒となった。





父の仇討ちと恋人への慕情に引き裂かれたシメーヌが、最後の最後で父の仇討ちを放棄し、


父を殺したロドリーグと結婚するのは不道徳だとスキュデリはいうのである。





古典主義の理性は、長年こうした不道徳を断罪して劇を構成したのに、


コルネイユは、理性を無視して不道徳に結末をつけずに


ご都合主義的に悲劇をハッピーエンドにしたのが


気に喰わないとスキュデリ声高に叫ぶのである。





例えば、現在のTVドラマや映画みたいに、安易に「不倫」や「性的倒錯」や「近親相姦」を


取り上げないことは(あたりまえだが)もちろんのこと、そういう行為をした人物は


劇中で破滅するというのが、古典主義におけるお約束であり、倫理であるいうことだそうだ。


こういうのを肯定してしまうと、市井の中庸の徳義が崩壊するということで、具合が悪いのである。

誰に具合が悪いといかというと、治世者に具合が悪いのである。





とにかく重要なことは、理性というか中庸の徳義に照らして、観客の倫理観をを乱すことなく

悲劇の結末のカタルシスが選ばれるべきという主張である。これが古典主義の鉄則である。





『コルネイユさん、古典主義の伝統を踏みにじるような不道徳な真似は許しがたいですよ、


ご婦人や町人ふぜいに媚びて人気を博したからっていい気になりなさんな』


そういうことをスキュデリは言っているのである。小うるさいお節介である。





現在でいえば、子どもに見せたくないバラエティー番組をランキングして糾弾する


PTAの「教育上好ましくない」という御宣託にも似た徳義である。





逆をいえば、現在の日本には、小うるさいことをいうPTA的な組織にしか、理性の残滓、


あるいは市井の中庸の徳義がないという、結構、深刻な理性の形骸化が進行しているのである。





現在で市井の中庸を説くのは、保守主義者か宗教家くらいなものである。

しかしながら彼らは、マスメディアの受けは悪い。雑誌媒体では威勢がいいが

影響力の高いTVや新聞なんかではきつい所に立たされている。


だいたいにおいて日本の都市部では、こうした市井の中庸なんぞは忘れ去られている。





正確には忘れ去られていないが、古くからの地元民


(駅前に先祖代々土地を持っているような地主)が


核家族化して流入してきたサラリーマン(賃労働者)と


彼らをターゲットにてマーケティングを展開して利益をあげ、


昔ながらのコミュニティーを破壊してゆく


チェーン店やスーパーに眉を顰める顰め具合に出てくるくらいのものだ。




要するに、封建主義的な差別感情と市井の中庸の徳義は表裏一体である。

私の住んでいる長野なんかはまさしくこんな感じで中庸が保たれている。


しかし、そういう地主階級もなんだか、なしくずしにモラルを失いつつある。そんな気がする。





話が大分それた。なんだか説教臭い熱さをぶちまけてしまった。


新左翼みたいなことをいってしまったが、私は市井の中庸のほうが好きだ。


ただ、その市井の中庸を裏付けるものは地主の傲慢ではなく


宗教の個人的な信仰であるべきだとは思っている。(宗教団体での信仰ではありません)


最近そういう結論に至った。どうでもいい話ですが。

詩学 (岩波文庫)


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posted by 信州読書会 宮澤 at 13:34| Comment(0) | 戯曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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