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2013年06月15日

詩学 アリストテレス 岩波文庫 その二


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詩学 アリストテレス 岩波文庫 その二

前回『中庸』について書いたが、その後『ニコマコス論理学』を読みはじめ

なかなか面白かったのでブログ更新が滞ってしまった。まだ読みかけだけども。


ニコマコスというのはアリストテレスの息子で、


彼が、アリストテレスの講義の内容や手稿を編集したということらしい。





ニコマコスは、若くして戦死したそうなので、彼がまとめたかどうかも定かではないそう。


ただ、真相はアリストテレスの弟子による争いが絡むそうである。めんどうな話だ。





★悲劇の構成要素


アリストテレスは詩学の第六章で悲劇の構成要素を六つに分けている。


「筋」、「性格」、「語法」、「思想」、「視覚的装飾」、「歌曲」である。





最も重要なのは「筋」であり、出来事の組み立てとしての「筋」は、


悲劇の目的であり、なによりも重要だと言い切っている。





なぜならば、悲劇は人間の再現ではなく、高貴な行為と人生の再現だからであり、


『筋は悲劇の原理であり、いわば魂である』とまで述べる。





さらには、





『悲劇は行為がなしには成り立たちえないが、性格がなくても悲劇は成り立ちうるであろう』





と、ここまで、大胆に宣言してしまっている。おそるべし。





要するに、登場人物の性格などは、二の次であるということだ。


これは、非常にインパクトのある断言であった。自分にとって。





だいたい、文学作品を読むときには主人公やら脇役やらになんらか感情移入したり、


「ああ、こういうこと思うときがあるなあ」なんて身につまされたりして、


いろいろ考えているときが、自分にとっては一番興奮する瞬間だが、


やはり、根源をたどれば、ある出来事=筋があって


そこにさまざまな人物の感情や思惑が絡み合うときに


登場人物の性格の陰影がくっきり現われてくるからこそ、

そこに感情移入したり反発したりして愉しいのである。





なるほど、「筋」のほうが重要である。





当たり前のことだが、なかなか気がつかないことだ。





翻って、性格を最も重視して考えて書かれた小説が、


結局一人称のちまちました身辺雑記みたいになるのはやむをえないのかもしれない。





作家にとって自分の性格の分析から始めるはるかに楽だし、


案外、自分の性格やら感性というものには、


誰もみんなひそかにうぬぼれを抱いているものである。





だから、とりあえず、




「きょう、ママンがしんだ。もしかすると、昨日だったかも知れないが、私にはわからない。やれやれ」




とかいう書き出しで、さもないことを、やたらに客観視して書いてみたくなるのだろう。





誰とは言わないまでも、そんな気持ちで書いているなあという作家はけっこういる。




(ああ、話がまたそれて、やつあたりの批判っぽくなった。

別に現代の小説が面白かろうがつまらなかろうが、


それに対して批判っぽく述べるのは、やっぱり不健康。やめた。)





とりあえずアリストテレスは「筋」を重視した。




そして、問題を「筋」の中で解決し、感情を浄化するのが悲劇であるとしている。




性格設定だけ先走るような作品は、アリストテレスに照らせば、低調な作品ということができる。

人間の性格というのは、正常であろうが、異常であろうが、結局つまらないものなのである。

アリストテレスが高く評価するのは性格ではなく、「高貴な行為」であることは重要だ。




では、いったい人間にとっての「高貴な行為」というのはなんなのかという

哲学的な問題をアリストテレスは、『ニコマコス論理学』で論じようとしている。




それも、イエス・キリストが生まれる以前に、である。ここが意外とすごいポイントである。

神によらずに、「高貴な行為」を定義づける困難さは、現代人にとって計りしれない。




それについては、『ニコマコス論理学』を読了したら改めて論じたい。




ちなみに、アリストテレスは「思想」とか「語法」に関してはほとんど何も言っていない。
「視覚的装飾」にいたっては衣装係の技術が重要だと述べていた。
この生真面目な記述に、アリストテレスのギャグセンスを感じる。





『悲劇の機能はたとえ上演されなくても、また俳優がいなくても働く』と述べる。





この一文を読んで、金を払ってまで演劇を観たいとは思わないが、


戯曲について語りたいという自分にまとわりつく、うしろめたさが払拭された。





とりあえず、劇場にいかなくても、悲劇については語っていいのだ、と信じたい。です。




次回は、また『ル・シッド論争』について続きを書きたい。


コルネイユとスキュデリに対するアカデミーの裁定が面白かった。


日本でいえば、芸術院が、文芸誌の論争に決着をあたえるようなものである。


日本の芸術院会員も、特養老人ホームじゃないんだから、たまには論争に参加して


あえて居丈高に裁定をあたえてほしい。そういう迫力がほしい。




詩学 (岩波文庫)



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posted by 信州読書会 宮澤 at 13:32| Comment(0) | 戯曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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