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★あらすじ
古典学者ミシェルは四歳年上の敬虔な女性マルスリイヌと結婚し、
北アフリカや地中海近辺に新婚旅行へ出かける。
ホメロスを読みながらの半ば、流浪ともいえる旅行であり、
アルジェリアのビスクラでは灼熱の太陽のもと、アラブ人の少年たちに惹かれる。
プロテスタントであるミシェルは福音書も読まなくなる。
途中、病気になり、パリにもどるが、
旅先での感覚的惑乱によって学者としての生活を続けられなくなる。
マルスリイヌは静脈炎になり流産する。
遺産相続した農地もなかば遊びのように荒らして、処分して、
妻の療養のために再び旅に出る。
ビスクラにたどりつくと、アラブ人相手に背徳的な快楽にふける。
妻は、吐血して死ぬ。
★感想
古典学者ミッシルの友人への告白という体裁をとった物語。1902年発表。
ジッドはこの作品を小説(ロマン)ではなく物語(レシ)と名づけた。
ジッドの作品は、ずいぶん前に『狭き門』『田園交響楽』を読んだだけである。
読後、さっぱり面白さがわからなかった。散文詩みたいな作品だなと思っていた。
『背徳者』も小説としては読みづらく、つまらない。後半は読み飛ばした。
つまらないのだが、ゾラやモーパッサンを読んだ後で、読んでみると、
この作品の先見性に驚かざるをえない。反自然主義文学としては異様な出来栄えである。
この作品を読みながら私は小林秀雄の『私小説論』を読んだのだが、
第三章で、一種のジッド論が展開されており、牽強付会にまとめさせてもらうと、
自然主義が作品の社会性のうちに閑却した作家自身の「私」の問題を、
要するに、社会の生の現実を反映させながら書くことによって失われる作家自身の相貌を、
再び小説内に取り戻す実験を行っていると指摘している。
こういう指摘を含めて読むと意外な新しさを発明した作品なのである。
『背徳者』はジッドの実人生を思い浮かべなければ読めない作品である。
微細な感情を顕微鏡で分析するような告白体は、
登場人物が客観化されていないし、筋の展開も単調で、本当に読むに耐えない。
しかし、古典学者ミシェルが、頽廃に惑溺する描写の中に
生身が割かれるようなジッド自身の苦痛の反映が、色濃く現われているのには驚く。
信仰心なんかに安易に回収されない混乱がそのままに、投げつけられている。
小説の感興からは程遠いが、別種のインパクトがある。
ジュネの『泥棒日記』もサルトルの『嘔吐』もカミュの『異邦人』も
ジッドの『背徳者』なしには現われてこない作品ではないかとすら思う。
それらの作品が持っている問題性を、ジッドが先取りしている。
昨日紹介した『シェルタリング・スカイ』も例にもれない。
作品以上にジッドという作家の存在が大きい。でかい人物だと思う。
日本でいえば佐藤春夫なんかに近いのではないか、と思った。
作品はいいかげんで、私生活も理解しがたいが、その存在ゆえに
他の作家が活動しやすくなったり心の支えになったりするという、
底なしの魅力をもった作家なのではないかと思う。ジッドもそんな気がする。
作品内に簡単に解消されない個性をもっていると思う。
「ジッドにとって私を信ずるとは、私のうちの実験室だけを信じて
他は一切信じないということであった」
と小林秀雄は述べるが、確かに、こういう自我の強い作家は少ない。
逆にいえば、こういう自我のないところに刺激的な作家活動もないのではないか。
全くまとまらない感想だが以上。
背徳者 (新潮文庫)
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ラベル:ジッド