信州読書会 書評と備忘録

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2013年06月11日

そして殺人者は野に放たれる 日垣隆 新潮文庫

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家族が殺人事件に巻き込まれ、加害者が心神喪失であったなら
被害者家族には事件後どんな屈辱が待ち受けているかを教えてくれる本。


本書は「心神喪失者の行為を罰しない」という刑法39条の
理不尽さを批判しています。


かなりの事件の具体例と判例を交えて、
刑法39条によって日本の法廷が歪められているかが
冷静な筆致と激怒による問いかけによって描かれています。


いったい心神喪失とはなんなのか。
事件時の心神喪失は科学的に証明できるのか。


徹底的に被害者の立場にたつことで、
精神鑑定と刑法39条のいいかげんさを炙り出しています。
心神喪失で量刑が減軽され、出所後再犯するという悪循環を作り出す現状。



精神鑑定人が医者である以上犯罪者=患者というある種の性善説で
加害者の保護にまわり、人権派によって心身喪失という聖域が作られ、
マスコミも取り上げられないタブーが出来上がっていること。


こうした判断が蔓延した結果、加害者が泣き寝入りする土壌が作り上げられた
歪みを綿密な考証と稀有なバランス感覚で暴き出しています。
この問題を文学に関連させて私なりに考えてみました。



日垣氏は日本の犯罪小説が常に加害者の心理分析にかたより、
被害者の視点を無視しているという意味のことを指摘しています。


確かに、加害者の動機の解明を主眼とすれば、
心神喪失を動機とした小説は成り立たなくなります。
加害者の心理的な綾に焦点を当てない限り、現代の小説は
カタルシスのない味気ない読みものになってしまいます。
被害者の視点中心の小説というものはどうしても
被害者を取り巻く社会環境に対する言及にならざるをえない。


フーコーは古典劇における最後の狂人を
本ブログでも以前紹介したモリエールの
『人間嫌い』のアルセストと指摘しています。
(フーコー・コレクション?所収『文学・狂気・社会』 ちくま学芸文庫)


そして、近代の文学では作家が書く行為によって
狂人の分身に重ならざるをえない。
ヴァレリーの『ムッシューテスト』も
作者の分身として狂気を担っています。


ここに至って、狂人を囲い込むという社会的な抑圧が
文学にも働いていることが判明します。



心神喪失者=狂人はすでに法体系とマスコミによって囲い込まれ
言説上は見えないものにされ、社会的役割を奪われ
作家の内面において仮構されることで生き延びるほかない
あるいは精神分析よって分類されて学問の中で生き延びるほかない。


刑法によっても社会的な役割を認められていない以上
そこに司直の手がくだされることはないという
社会的な矛盾を私たちが認める土壌がすでに
出来上がってしまっているのです。


その点を鋭く指摘する作業が現代の日本では
本書のようなノンフィクションでしか成し得ないと言う事に、
文学というジャンルの衰退を感じました。


あまりうまくまとめることができませんが、以上のようなことを感じました。

そして殺人者は野に放たれる (新潮文庫)

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タグ:日垣隆
posted by 信州読書会 宮澤 at 11:44| Comment(0) | ノンフィクション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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