信州読書会 書評と備忘録

世界文学・純文学・ノンフィクションの書評と映画の感想です。長野市では毎週土曜日に読書会を行っています。 スカイプで読書会を行っています。詳しくはこちら → 『信州読書会』 
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2013年06月15日

くまのプーさん「クリストファー・ロビンを探せ!」


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3歳の姪っ子が、不機嫌だったので、借りてきてみせてみた。
しかし、難しかったらしく最後まで観てくれなかった。
もったいないので私が全部観ておいた。確かに3歳児には難解である。
一緒に借りてきたアンパンマンは食い入るように観ていたのに・・・である。



・くまのプーさんについて

ディズニーアニメなのだが、ディズニーがキャラクター権利使用のライセンスを得て
年間くまのプーさんだけで30〜60億ドル売り上げているらしい。

ちなみに、くまのプーさん営業部長の売上は、
なんと!! ミッキー、ミニー、ドナルドダック、グーフィー、プルート
各キャラクターの営業利益を合計したものに匹敵するという。
この売上に匹敵するライバル社の営業はキティちゃんだそうだ。
おそるべし、キティ営業部長。



原作はイギリスで、原作者ミルンの息子クリストファーロビンの大事にしていた
くまのぬいぐるみからこの「くまのプーさん」は生まれたそうである。

以上の情報はWIKIに詳しいのでそっちを読んでほしい。
かなり詳しく書かれていてへぇ〜だった。版権をめぐる泥沼の訴訟とか・・・。



そんなことよりも、うちの姪っ子がくまのプーさんより
アンパンマンのほうが好きなことに、いろいろ考えさせられた。
なによりも姪がショックを受けたのはプーさんの声が、
吹き替えも原語も完全に「おっさんの声」であることだ。これは、まずいと思う。
「プーさんてこんな声なの?」とがっかりしたように姪っ子に詰め寄られて、
夢を壊してしまったような罪悪感をおぼえた。

・くまのプーさんの世界
原作はイギリスで、舞台の100エーカー森もサセックス州の森がモデルだが
ディズニーによってアメリカ化されたことで、
アニメの舞台は完全にアメリカ南部になっている。
よって、ほとんどフォークナーのヨクナパトーファサーガと
同じような前近代的な世界にされている。

要するにくまのプーさんをはじめとする動物キャラクターが、開拓民みたいにされている。
というか、ほんとは、ほとんど黒人農奴みたいな感じにされていて、レイシズムの匂いがぷんぷんする。

森の描き方がほとんどフォークナーの世界である。
あと、イーヨーというロバが出てくるのだが、
これはアイスキュロスの『縛られたプロメテウス』の
牝牛イーオーからパクったんじゃねえかという発見があった。



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posted by 信州読書会 宮澤 at 14:49| Comment(0) | 洋画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

美しさと哀しみと

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川端康成の『美しさと哀しみと 』を原作とした
シャーロット・ランプリング主演の1985年のフランス映画。
この時期のシャーロット・ランプリングは、
大島渚監督の『マックス・モン・アムール 』という
オランウータン主演の映画に出たり
元ボクサーミッキーローク主演の『エンゼル・ハート 』に出たりと
迷走の度合いを深めていた。
デビュー作からずっとそのフィルモグラフィーは、
ファンを裏切りつづけている。つれない人だ。

この映画を観て、シャーロット・ランプリングは、結局
芸術ポルノ映画で脱ぎっぷりのいい脇役以外の
なにものかであったのか? と思わざるを得なかった。

『美しさと哀しみと』のビデオも
『エマニエル夫人』の隣に並んでいた。

彼女は、最近のインタビューによると
一度も整形手術を受けたことがないそうである。

1985年の時点で、彼女の美貌には、もうすでに老いが、充分侵食しているが
なんと、その顔が直木賞作家の石田衣良にそっくりである。
そんなことを発見した自分に対して、私は激しい自己嫌悪に陥った。
整形して、似ないようにするのが礼儀というものだ。もちろん石田衣良のほうが・・・。

内容は、川端康成の原作そのまま。忠実ともいえる。
でも、結局のところ、この作品の監督、ジョイ・フルーリーは、
シャーロット・ランプリングがミリアム・ルーセルの腋毛を
剃毛するシーンを撮りたかっただけなのだと思う。

そういう間違った製作動機は嫌いじゃないが、やはり観るに耐えない。
ちなみにこの監督はこの作品一本で消えた。芸術の国フランスらしい厳しさである。



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タグ:川端康成
posted by 信州読書会 宮澤 at 14:48| Comment(0) | 洋画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

トロイ


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『イリアス』は梗概しか読んでいないのだが、『イリアス』『オデュセイア』を原作とし
アキレスとヘクトールの対決に焦点を当ててトロイ戦争を描いた映画。
それぞれの役はブラピとエリック・バナが演じていていて、まあまあよい。

まあ、ギリシアの神々の戦いへの介入というものを
一切、無視して作られた映画なので、ホメロスおよびギリシア悲劇のような
神々と人間が混在する世界のカオスがなく、性格描写の平板さは、やや、やりきれない。
要するに、気まぐれな神々に翻弄される人間の運命が描かれていないので退屈。

なんだかトロイ戦争が近代戦みたいにされている。
そういう意味で、アカイア勢のトロイア上陸作戦のシーンは
ノルマンディー上陸作戦を描いた
『プライベートライアン』と本質的にはかわりがない。
ただ、戦闘シーンはアメフトのような肉弾戦である。結構迫力あり。

・役者について


ヘレネ→   ただのスーパーモデル。期待はずれ、はなはだしい。がっかり。
       顔立ちは整っているが、男を狂わせる天衣無縫の妖艶な魅力は
       1ミクロンたりともない。こてこてしたイタリア人の女優を使うべき。

アンドロマケー → マイケル・カヤニコス監督の『トロイの女』の
          ヴァネッサ・レッドグレイプのほうが数倍よい。

アガメムノーン → 完全に悪役にされている。ただの因業オヤジ。絵面が汚い。
          アガメムノーンがアメリカ巨大企業の会長みたいにされている。
          たとえば、アイアコッカみたいな企業戦士。
          もう、かんべんしれくれよ!! まったく!! という印象。

パリス → やさ男でよかった。イメージどおりかも。坊ちゃん。
      昔アップルにいた、スカリーみたいな企業戦士の印象。

パトロクロス → この人はやさ男じゃまずいんじゃないか?

プリアモス → ピーター・オトゥール。無意味に贅沢なキャスティング。
        だが、なんだか頼りない。もったいない。

カサンドラー、ヘカベー → 出て来ない。美の競演はこの映画の主題ではない。残念。

ギリシア悲劇が好きな人間にはお薦めできない映画ではある。
アメリカ人が製作するのはやっぱり無理。

問題なのは、トロイ戦争が企業の買収合戦みたいなっていることだ。
働きすぎのエスタブリッシュメントたちの派閥闘争になっている。

こう考えると、パゾリーニの退屈な芸術性のほうが
ギリシア悲劇の映像化としては、はるかに心に残るものがある。
少なくとも、ギリシアの神々を顕在させる雰囲気を作ろうとしている。

ただ、ブラピが好きな人には、この映画は必見である。
肉体美を誇っている。アキレス腱に矢が刺さって痛そうだった。


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posted by 信州読書会 宮澤 at 14:47| Comment(0) | 洋画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

夢の女 永井荷風 岩波文庫

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★あらすじ
三河の没落武家の娘、お浪は16で奉公に出されるが、
奉公先の旦那に手込めにされて、そのまま妾となり、一女をもうける。

しかし、旦那は病死。本妻に手切れ金を渡されて縁切りされる。
泣く泣く娘のお種を養子に出して、お浪は実家に戻るが、
老耄した父が詐欺にあい一家は莫大な借金を負う。


借金返済のため、お浪は深川州崎の遊郭に身を沈める。
何年かして、お浪は美貌ゆえに立派な華魁となる。
しかし、小田辺という商人を廓狂いで破滅させて、
部屋で自殺させてしまい悪評で客足が遠ざかる。


失意の日々を過ごすうちに豪放磊落な相場師利兵衛に見初められ、
身請けされて、待合を営むようになる。


待合は繁盛し、お種を妹として迎え、故郷の両親と妹のお絹を呼び寄せ、
つかのまの幸福な日々を過ごすが、年頃のお絹に関心を示す客がいることに
気がついたお浪は、お絹にも客を取らせてしまう。

やがて、利兵衛は外に女を囲い、お浪と別れる
お絹は、若い俳優と出奔、そのショックで父は発狂し、
往来で馬車に轢かれて死ぬ。



★感想
モーパッサンの『女の一生』を元ネタとしたとおぼしい荷風25歳の作品。
お浪という可憐な女性を、これでもかとひどい目に合わせているのであるが、
繊細な江戸情緒が哀歓を催す文飾で綴られているので、読んでいて心地よい。


モーパッサンのほうが、相当にえげつない設定を露悪的に書くが、
荷風は、例えばお浪が遊郭に売られたあとの辛い日々を
大胆に省略するなど、それなりに配慮している。


最終部分でお浪が、永代橋を渡り、遊郭に売られて初めてこの橋を
渡った時分を思い出すシーンが、なかなか美しかった。
だが、お浪が、妹のお絹を売春婦にしてしまう変節ぶりには寒気を感じる。

優しいお浪の心が、その核心において知らぬ間に残酷な運命によって歪められており、
それがクライマックスの父の発狂と事故死の遠因となるのだが、
こういった因果応報を25歳で描いた早熟ぶりは、信じられない。

ただ、モーパッサンの自然主義を、その根幹にあるキリスト教倫理観との対決抜きで
江戸情緒の中に移植するというのは、やはり無謀であり、徒労であると思った。

お浪の悲惨な運命と倫理観の崩壊の原因が、結局は武家の没落に集約されてしまっている。

外国文学の無理やりの輸入が、日本の近代文学の宿命であることを
証明した作品であると思えば、なかなか無残な読み物である。

ゆえに、晩年の永井荷風の孤独と偏屈もそれなりに頷けるものがある。


夢の女 (岩波文庫)


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タグ:永井荷風
posted by 信州読書会 宮澤 at 14:45| Comment(0) | 日本文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

俺にさわると危ないぜ

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★ あらすじ
カメラマンのマイトガイがキャビンアテンダント松原智恵子と出会う。
松原智恵子の亡き父親は旧陸軍幕僚で、沖縄の民間人から巻き上げた金塊を
どこかに隠したままである疑惑があった。


金塊の在り処を探す暴力団が、松原智恵子を誘拐する。
沖縄出身のブラックタイツ団とマイトガイが三つ巴の戦いを繰り広げながら
松原智恵子の行方を捜す。はたして金塊の在り処は?




★ 感想
エログロナンセンスが渾然一体となった60代日活作品。
長谷部安春がはじめてメガホンを取った作品ということである。
DVDでは、特典として長谷部監督のインタビューがあるらしいが、
私はビデオで見たので、観られなかったのが残念でたまらない。



当時のヒット作『007』のパロディーをやっているらしい。
ブルース・リーのカンフー映画のパロディーである千葉真一主演の
『直撃地獄拳 大逆転』をはじめて観たときの印象に近い。



どういうことかというと、当時パロディーされた元ネタを知らないだけに
この作品の『007』のチープなパロディーに過ぎない部分が、
今改めて観てみると、アバンギャルド!!
と錯覚させるような歴史的倒錯をかかえているということである。



それよりも、今でも松原智恵子が大好きな私としては、
彼女が『昼顔』のカトリーヌ・ドヌーブばりに、縛られて下着姿にされて
顔じゅうに白いペンキをスプレーされているシーンはショックだった。
ひどいことするなあと思いつつも、見入ってしまった。
しかし、あんなきれいな女優に、そういうことをしちゃいけない、と思う。
葛藤を抱きつつも、私の中のハードボイルドな部分がそう命じた。


マイトガイのコミカルな演技のぎこちなさがキムタクそっくりである。
テレビCMにでてコミカルなことをしているキムタクみたいだった。
いや、もっと正確に言えばシュールでコミカルな状況に巻き込まれて、
ハニカミながらとまどうキムタクみたいだった。なんか、下品。媚びてる。
あんなにクールなマイトガイが、下品なハミカミを演じていて、ガッカリ。

マイトガイやキムタクを、おもちゃにして、喜ぶ演出家の安易な想像力は
客をなめきっているとしか思えない。こういうのを勘違いという。不愉快。

ゆえに、この初監督作品の後、長谷部安春は1年以上仕事を干されたらしい。
いまだったら考えられないが、当時はまだ良識があったんだと思う。
でも、オープニングの爆撃シーンの花火はとてもよかった。
ジャケットのマイトガイが長井秀和みたいである。


俺にさわると危ないぜ [DVD]

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posted by 信州読書会 宮澤 at 14:45| Comment(0) | 邦画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

アウレリャーノがやってくる 高橋文樹 


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★あらすじ
岩手の美少年、アマネヒトは上京して「破滅派」というWEB同人誌に参加する。
「破滅派」の同人たちの奇矯な振る舞いが描かれ、
文学主義丸出しの青春群像がコミカルに展開。
アマネヒトは同人の女性を妊娠させてしまう。


★感想
広津和郎の『同時代の作家たち 』(岩波文庫)に
『奇蹟派の道場主義 ――葛西善蔵、相馬泰三――』というエッセイがある。

『奇蹟派』という私小説系の同人誌があり、
その同人の中心的作家であった葛西善蔵と相馬泰三の小説家としての屈折ぶりを、
広津和郎がうんざりしながら回顧したエッセイである。





『奇蹟』の作家、とくに葛西善蔵と相馬泰三は、
文壇に出てからお互いの交友関係を遠慮会釈もなく書きあったそうだ。

その状況を、高みの見物で面白がった宇野浩二は
『奇蹟派は面白い。めいめい道場を持っているから』
と拍手喝采したそうである。



宇野の『道場』という言葉は、葛西や相馬といった連中が、
触るものみな傷つける勢い創作活動に励んでいる点を指す。

彼らは、友情を持ってたずねてきた者が帰ってゆく後から
いきなり背中から一太刀浴びせるような辛辣さでもって創作した。

エッセイには、その辛辣ぶり実例として広津和郎が、相馬泰三によって


小説のモデルとして描かれ、怒り狂った事件の顛末が描かれていている。
以下、その事件を簡単にまとめて紹介したい。


地方新聞で連載した小説『荊棘の道』を単行本にしたい、と
相馬泰三から相談された広津は、新潮社の佐藤義亮に口添えし、
作品はめでたく出版の運びとなるが、出版されて広津が、


新聞書評のため、はじめて『荊棘の道』を読んでみると、
あろうことか、広津や、『奇蹟』の同人がモデルとされており、
相馬の手によって捏造された事実によって、モデル皆が中傷されていた。

相馬は、出版記念会で葛西を始めとする同人から吊るし上げられ、
祝賀会はモデル問題問責会となる。


しかし、やさしい広津は、自らも被害者ではあるにもかかわらず
皆のなだめ役にまわり、逆に大勢からやり込められている相馬に同情し
その晩一晩中、彼の背中をなでさすりながら、慰めてやったそうである。
そんなことがあって、出版記念会のあと、相馬は出奔してしまう。

そして、広津は
「来月の『新潮』に短編小説を書いたから是非きみに読んでもらいたい」
と書かれた相馬からの葉書を受け取る。






やがて『新潮』に掲載された相馬の短編を読み、あの温厚な広津が、激昂する。






短編には、『荊棘の道』出版の経緯が、そのまま描かれており、
さらにヒドいことに、広津をモデルとした文芸評論家に、
『その出版社顧問の第二流批評家』と注釈がつけられていた。
親切を二度仇で返された広津は、怒りで震えがとまらなかったという。



まあ、ずいぶん長くなったが、どうしてこんなこと書いたかというと、
『アウレリャーノがやってくる』という小説に出てくる『破滅派』という
WEB同人誌がどうやら実在し、どうやら登場人物の方々も実在しているのを
『破滅派』のサイトを見て、私が知ってしまったからである。
小説内で読み応えのある挿話、太宰が入水した玉川にみんなで出かけるくだりも、


どうやら実際の出来事であることが、そのサイトでよくわかる。
まあ、興味のある方は小説読んでから『破滅派』のサイトをググッてみて下さい。

(ただ、『破滅派』というサイトが、この作品のための著者単独の仕掛けだとしたら
それはそれで、壮大かつナンセンスなトリックである。まあ、そんなことないだろうが。)
つまりは、『破滅派』が『奇蹟派』みたいで凄いなと感心した。


まあ、この小説内の同人も描き方には、相馬泰三ほどの悪意はないとしても、
同人との交友をそのまま小説にするというのは、とんでもないことだと思う。
なにが、とんでもないかはうまく表現できないが、やはりとんでもない。

あと、小説自体はペダンティックな部分が結構、笑えた。
この作品への選評は、かなりの充実ぶりだったと思う。
私ふぜいが、あの選評で論じられた感想以外に書くことはない。
ただ、阿部和重の選評が、私にとって一番納得いくものだった。



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posted by 信州読書会 宮澤 at 14:43| Comment(0) | 日本文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『内村鑑三』 正宗白鳥 日本の文学11 中央公論社


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日本の文学〈第11〉正宗白鳥 (1968年)何処へ 微光 光秀と紹巴 今年の秋 牛部屋の臭い 内村鑑三 自然主義盛衰史 他



井伏鱒二の『風貌|姿勢』という本に『正宗さん』という、
正宗白鳥に関するゴシップを羅列したエッセイがある。

正宗白鳥の揮毫した書は、すべて「鳥」の字が「烏」(カラス)に
なっているという話がある。志賀直哉も「哉」の字のタスキを
わざとかけなかったらしい。完全無欠を誇示するのではなく、
謙譲の気持ちを保とうとする精神から発したものらしい。

まったく、頭の下がる心がけである。このエッセイとも評論ともつかない、いかにも正宗白鳥らしい本は、
内村鑑三の姿を、いつまでも心の中でたどるようないじましさにあふれている。

そして、内村の思い出を語ることが、彼の孤独な青春時代を回顧になっている。



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posted by 信州読書会 宮澤 at 14:42| Comment(0) | 日本文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『東光金蘭帖』 今東光 中公文庫



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文壇交遊録としては、かなり面白い。消えてしまった作家の貴重な逸話多数。
中公文庫の復刊シリーズ。ただ、文庫のくせに1300円もする。


尾崎士郎の章で、名前を伏せて
福本イズムで有名な福本和夫を罵倒している。
それも唐突に。いったいなんだったのだろう。不思議。


福本和夫は、ルカーチと交友のあった変な日本人で、一緒に記念撮影もしている。
最近、リバイバルして著作集や研究書などが出ている。
自伝なんか読むと、いい加減な人で結構面白い。

福田和也が、週刊新潮の連載において『アドルノ伝』の新刊書評しながら
ルカーチが、『魔の山』のナフタのモデルであったことにふれていて、
へえ〜〜と唸ってしまった。だとすると、ルカーチって気持ち悪かったんだと思う。

今東光が、正宗白鳥を嫌っているのが意外だった。
まあ、川端康成の『文芸時評』を読むと
川端も相当に正宗白鳥を嫌っているのがわかる。


東光金蘭帖 (中公文庫 (R・21))



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タグ:今東光
posted by 信州読書会 宮澤 at 14:41| Comment(0) | 日本文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

南国土佐を後にして



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★あらすじ
ダイス賭博で下獄していたマイトガイ(小林旭)は、刑期が明け、
未亡人の母と恋人ルリ子待つ故郷の土佐へと戻り、
天才的なダイス賭博の技術を封印し、堅気として出直す決意をする。

しかし、ルリ子は死んだ父の借金100万円のせいで、
金貸しのチンピラ内田良平と結婚するはめになっていた。



内田良平は、ルリ子が、未だにマイトガイに心寄せているのに嫉妬し、
マイトガイの前科を暴いて就職活動を邪魔する。


前科者ということが知れて就職できないマイトガイは、
母親さえ養いない身のふがいなさを倦んで、職を求め再度上京する。
特攻隊で戦死した兄の婚約者である南田洋子の経営する待合に身を寄せ、
就職活動を再開する。南田洋子は昔の恋人の面影をマイトガイに見て尽す。



しかし、マイトガイは南田洋子の妹、中原早苗に好かれて、
またまた就職活動を妨害される。


そんなおり、ルリ子がマイトガイを追って上京してくる。

ルリ子を追いかけてきた内田良平に、今晩中に100万円返済しろと迫られ、
マイトガイは、仕方なく賭場に出かけ、金子信雄相手に奇跡的な勝利を上げ100万円を作る。

100万円渡したついでに、内田良平とその一味をボコボコにする。
明け方、マイトガイはルリ子との結婚をお預けにして別れ、去ってゆく。




★感想


森進一の『おふくろさん』事件で最近フィーチャーされた故川内康範原作、脚本。
『渡り鳥シリーズ』の原型となった作品である。監督は齊藤武市。1959年公開。

いや、かなりいい映画で、魅入ってしまった。



マイトガイがテーブルに並べた5個のダイスワンシェイクで
拾って、振って縦に立てるシーンがあるのだが、
これが、なんとすばらしいことに吹き替えなしのマジ演技である。




マイトガイの自伝『さすらい』(新潮社)によると、2テイク目で成功し、

あまりに驚いた西村晃と二本柳寛はセリフを忘れたという。
ふたりが素で呆気に取られているのがそのまま使われている。


そのほかにも、南田洋子のお座敷での踊りとか、(南田洋子がきれいだった)


ダイスでオール6を出した後の金子信雄のとぼけきった表情とか
中原早苗の『ジョージさんきっとお姉さんを好きになってしまう』というセリフとか


いろいろと心に残るシーンがあった。川内康範の脚本はかなりすばらしい。

だが、やはりなんといっても狂気の博徒と化したマイトガイが
ペギー葉山の歌う『南国土佐を後にして』を止めさせ

オール1を出して、去ってゆくシーンが感動的。
マイトガイのどうしようもない孤独に涙した。

堅気になり母親孝行しようとして、苦労したにもかかわらず、故郷から疎外され、
前科者として生きざるを得ないマイトガイに私は感情移入しっぱなしである。


ラストで、マイトガイがルリ子に「まだ行かなきゃいけないところがある」といって
別れを告げるのだ、のんきな私はただ単に、どこかに旅にでるのかと思っていた。


実際は、主人公は警察に向かって去っていったということである。
『さすらい』でマイトガイ自身が、そう述べていた。

そうなのか!! と私はビックリするとともに、自分の不見識に恥じた。

あれは自首したんだ。とおもうとラストは鮮烈である。
そんな救いのない結末だからこそ、マイトガイのラストの笑顔が眩しい。

あと、案外、自分が情にもろいことを再確認した。

南国土佐を後にして [DVD]


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タグ:小林旭
posted by 信州読書会 宮澤 at 14:40| Comment(0) | 邦画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

直毘霊 (なおびのみたま)本居宣長 西郷信綱訳 


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日本の名著 (21) 本居宣長


以前に小林秀雄の『本居宣長』を読んで以来、
和歌と日本文学の関係について、
ずっと、考えて書いてみたいとおもっていた。

『直毘霊』は宣長のライフワークである『古事記伝』の序文であり、
ポレミックな儒教批判を展開し、日本の神の道を説いた小文である。


まあ、短いし、現代語訳なのですらすら読めたが、
これを論ずると柄谷行人の『神神の微笑』論と
同じような結論しか正直書けないのが苦しい。


要するに、外来思想は日本の神々によって変容を強いられて、
もとの姿をとどめるのは不可能ということを言っているのである。


儒教は、道徳や倫理が崩壊している国での人為的な制度であり、
そこで生まれた、聖人の思想などは、支配制度の方便でしかない、
と宣長は批判する。


一方、皇国の神は、天皇の先祖であり、理屈ではなく、
おおらかな御心で、天下を治めてきたのであり、


儒教のように、さかしらに、言挙げしないことで、下剋上もなく
充分用足りて来たのであるから、それがりっぱな神の道であると
大体こんなようなことを、宣長は主張している。


神の道というのは、人為的なものを排除しきって見つかる残余であり、
決して理論付けできないが、さりとて熱狂的な信仰の対象でもなく、
四季とともに移り変わってゆく自然のようなのものだ、と宣長は言いたいらしい。


だからこそ、自然の変化に事寄せて歌を詠むということが、
神の道に通じる尊い行為であり、日本文学の精髄であると、
まあ、勝手に敷衍すれば、まあ、こんなことを宣長はいいたげである。



外国人からすれば、日本文学といえば、まず、和歌と俳句であり、
現代の小説なんかは、まあ、西洋の真似でしかないなと
どうせ、おもわれているに決まっているのである。


ただ、和歌や俳句は、外国人に簡単に理解しがたい部分がある。
今の西欧化された生活の中で暮す現代日本人にとっても
すでに、わかりづらいのと同じように。



どう考えても、日本文学の強烈なオリジナリティーは
和歌と、俳句にしかないだろう。とわたしは思っている。残念ながら。

まあ、俳句は、外国でも形式的には流行るが、和歌は、輸出不可能な部分がある。


あの、無味乾燥さ、意味内容の不可解さ、
それでいて調べだけが、ついつい出てくるような口当たりのよさ
あれは、潜在的に日本人の美的感性と思想性を宿しているだけに
なかなか、翻訳できる物ではないと思う。


なんで、そうなのかは、思うところあるのだが、又改めたい。



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posted by 信州読書会 宮澤 at 14:38| Comment(0) | 日本文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

マリー・ロジェの謎 丸谷才一訳 ポオ小説全集3 創元推理文庫


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★あらすじ


モルグ街の殺人事件の続編。


『モルグ街』のレスパネー夫人とその娘の惨殺事件を、卓越した推理で解決し、
パリの当局からも賛嘆された、陰鬱な勲爵士デュパンが、
今度は、二年後のマリー・ロジェ殺人事件の
真相に迫るべく頭脳をフル回転させる話である。

マリー・ロジェは、今でいうとデパートの一階にいるような美貌のカリスマ美容部員である。
彼女はある日失踪する。
一週間後に彼女は叔母の家に居たとして、戻ってくるが、その五ヶ月後に、再び失踪。
今度は、セーヌ河に腐乱死体となって発見される。

被害者の美貌もあいまって事件は、新聞で派手に報道される。


上流の森の中に、彼女が暴行を受けたと思わしき、
いろいろな遺品やら状況証拠が見つかり、彼女は
複数のならず者によってなぶり殺されたとされるが、
多額の懸賞金がかけられても犯人は見つからない。


パリジャンはもともと警察が嫌いなので
事件がいつまでたっても解決しないことで
警察への反感が一気に高まり、暴動まで起こり、
世論は、この事件を社会問題にしはじめる。
何人か容疑者が出るが、皆証拠不十分で次々と無罪釈放される。

威信が危殆に瀕したパリ警察はデュパンに白羽の矢を立てる。


デュパンは、警視総監から証拠物件に関する講義を一晩聴き、
それからやおら、あらゆる新聞報道を隈なく読み、検死結果や物証、
そしてマリーのアリバイに関する捜査や報道の誤謬を次々とあげつらい、
アームチェア・ディテクティブによる科学的な検証を行いながら、
新聞報道の先入観によって作り上げられた犯行状況に反証を挙げ
まったく別の状況を再構築する。


その結果、事件は、複数による犯行でなく、単独の犯行であると
デュパンは断定する。


さらに、真犯人は、事件を複数犯によるものだと印象づけようとする


大量の投書を、一般市民に擬して各新聞社に宛てて送っており、
捜査かく乱行為までしているような、知能犯であることを、
新聞の投書を読み込むだけで、デュパンは見破ってしまう。



その犯人は……たぶんあの人。

っていうか、推理だけしまくって犯人はつかまらず完。


★感想
メアリー・シシリア・ロジャース殺人事件という実際の事件を元に
作られた推理小説だと、冒頭に書かれているが、
それが、ポーの気の利いたブラフなのか、事実なのか、
そこまで調べてないので、最初はよくわからなかった。


まあ、ネットで調べてみると、アメリカで起こった実際の殺人事件らしく、
ポーは、その事件の舞台をパリに移して、創作したらしい。
ちなみに、この小説の研究書はいくつも出されている。

読みどころは、新聞報道を手がかりに推理していく際の、
デュパンの偏執狂ともいえるような数学的な思考の過程である。



ただ、個人情報保護法よって、マスコミ報道が制限され、
DNA鑑定によって、捜査の精度があがった現在では、
こんな複雑で、野暮ったい推理を駆使されたら、私は困惑するだろう。
それでもやはり、読んでいて、興奮させられる思弁的な面白さがある。



推理小説のなぞ解きの面白さとは別の評価として、この小説は、
語り手の私に、ひたすらデュパンが推理を弁ずるという構成によって
登場人物の自意識の相対化がなされている。


つまりは、語り手とデュパンが、合わせ鏡のように一対となり、
その反射の中で、二人の自意識が消失して
事件をそのまま客観的な主題にすることに成功している。



つまりは、批評を作品に組み込んだ実験的構成が創作されている。
この実験の成功は、やはり文学史に多大な影響を与えていると思う。


そして、マスメディアが無意識に捏造する先入観に対してメスを入れ、
付随的で興味深い細部から、その背後にある事実を探り当て、認識論的布置を、
ひっくり返していくという仕掛けによって、ポーは作品にその時代を反映させた。


うつろいやすい現代性(モデルニテ)、それは、当時のマスメディアあり方である。
たとえば、新聞投書が、世論を誘導しているという設定には、批評的先見性がある。
これは、新聞広告を、事件の解決に用いた『モルグ街』の先見性に匹敵する。


そんなこんなで、この推理小説は、アームチェア・ディテクティブものの古典である。
ちなみに、新潮文庫の佐々木直次郎訳より、丸谷才一訳の方が読みやすいと思う。

ポオ小説全集 3 (創元推理文庫 522-3)



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posted by 信州読書会 宮澤 at 14:37| Comment(0) | アメリカ文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

シベリアの旅  神西清訳 チェーホフ全集13


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神西 清, 池田 健太郎, 原 卓也
チェーホフ全集〈13〉シベリヤの旅,サハリン島 (1977年)



私が好きなロシア文学は、壮絶な環境で、それでもなお、生きている
異星人みたいなロシア人が出てくるものである。
度が越えた悲惨がユーモラスになってしまう国は、
ロシアを於いてほかにはないのではないかと、しばしば思うことがある。


ソルジェニーツィンの小説を開く。
すると、日本の格差社会や、年金がもらえない老後、


非正規雇用の若者の問題など、すべてが贅沢な悩みだと
思えるような悲惨な世界が広がってくる。
その地獄のような世界の背景にはいつも、
シベリアがあり、流刑囚の暮らす収容所がある。



というわけで、チェーホフのシベリア・ルポタージュ
『シベリアの旅』をなんとなく読み始めて、全部読んでしまった。
とはいっても、全集で二段組み44ページほどの短さである。


チェーホフはユーモア雑誌にの掌編を書きなぐる生活に倦んで、
急に、シベリア経由のサハリン旅行を思い立ち、30歳で出かけた。


1890年のことで、もちろんシベリア鉄道なんてない時代である。
周囲の人間も評論かも、チェーホフがなぜ出かけたのかわからなかったらしい。


解説によると兄が結核で早世し、チェーホフも呼吸器系の疾患で
年に二回は喀血するのでもう、先は長くないと思い、
出かけたということである。その他のいろいろ憶測もある。
ドストエフスキーの『死の家の記録』やトルストイの『復活』


あと、私の知る限りで、ソルジェニーツィンの諸作など、
ロシアには『収容所文学』の伝統があり、ロシア人が外国人に、
知られたくないような、ロシアの民衆からすべてをはぎとり、
その野性というか、通常の社会性を喪失した人間の生の姿だけを
直視しただけのロシア文学がある。



まあ、流刑囚にとって、罵詈雑言が日常語となり、食物に意地汚くなり、
人を裏切り、野良犬になり果てるしかないような状況下で
やはり人間だと思わせるような、
ギリギリの一線を保ったような人倫がキラリと光るような
生活が繰り広げられている文学である。



どうやら、チェーホフもシベリアやサハリンの最底辺にしか見えない
真実のロシア人の姿が見たくて、旅に出たんじゃないか、と私は思う。
そうだとしたら、文豪にふさわしい業の深さであると思う。



内容としては、シベリアに暮らす人々の貧しい生活をそのまま写実し、
決して豊かではないのに、捨て子を育ててしまうようなある一家や
芸術家のような職業倫理を抱いた鍛冶屋の姿など、
いろいろな情景スケッチが続き、結構、心温まる。
しかし、細部の面白さのわりにして散漫なルポである。


ただ、なぜ死刑ではなく、シベリアでの終身刑なのかということに関して、
チェーホフは、哲学的な思考を結論の出ないまま、思いをつづっている。


終身刑は、人間社会から犯罪者を永久に追放する。
ただ、同じ飯を食って同じ糞を垂れる人間を人為的に生み出す。




希望も権利もはく奪された人間のありようが、死刑よりもましか否か、
そういった深刻な問題こに関するロシアのインテリ=官僚の無関心を
チェーホフは、途中、感情的に糾弾している。


インテリ=官僚が、犯罪者を裁き、シベリア送りにしながらも、
シベリアが結局何であるかを考えないということに対する
チェーホフの怒りは、当時のロシアの官僚制度のみならず、
ひいては現代の権力機構の深い闇を探り当てていると思う。


これは、ドゥルーズからの孫引きであるが、
晩年のフーコーがチェーホフの小説から着想を得て、
『汚辱に塗れた人々の生』という論文を書いたらしい。



線路の釘一本を盗んだだけで、死刑にされる子供の話など、
光を浴びない、無名の人間がある日、警察や訴えによって
急に、生命と権力が全エネルギーで衝突するような、
とんでもない悲惨な状況下に陥り、目に見えない権力機構が
一気に前景化され、生きることの真理が輝きだす瞬間。
フーコーはチェーホフからそんなものを読み取って哲学化しようとしたらしい。



私たちは、一線を越えること、別の側に移動することがやはり
できないままでいる……相変わらず同じ選択、権力の側に、
権力が言うこと、言わせることの側にいる。




こんなことをフーコーは『汚辱に塗れた人々の生』で書いている。


そう考えると、サハリン旅行に出かけたチェーホフは
やはり『一線を越える』気だったのだろう。
まあ、一線越えた狂気が宿った作品である。

チェーホフ全集〈12〉シベリアの旅 サハリン島 (ちくま文庫)


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タグ:チェーホフ
posted by 信州読書会 宮澤 at 14:36| Comment(0) | ロシア文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

彼らはマルローについて語った ミシェル・フーコー思考集成Y 筑摩書房


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フーコーの『汚辱に塗れた人々の生』を読もうと思って、
図書館から借りたのだが、併録されていた
『彼らはマルローについて語った』に結構心打たれたので
全文引用したい。


ちなみに、アンドレ・マルローの死去に際して
1976年12月23日に行われた、フーコーへの電話インタビューである。
丹生谷貴志訳、改行は適当。




語る事柄のほうが、語ること事態よりも彼にとっては重要なことだった。
これは、彼にいわせれば反フローベール的とも言うべき態度で、
人間や事象への思い入れ、文学に対する横柄さが、
彼を作家以上の何者かに見せることになった。


彼のテキストを貫き、時にはそれをだいなしにしている力は、
外部から、ものを書くことに専心するものには
はなはだ慎みを欠くように思われる外部からきていた。



そのことにおいて彼は、ベルナノスやセリーヌとともに、
私たちを困惑させる一族につらなっていた。


物書き以上の何者かだったが聖者たりえなかった男、
物書き以上の何者かだったがたぶん人でなしではなかった男、
物書き以上の何者かだったが
銃殺された二十歳の革命家でも
老いたる国家の要人でもありえなかった男、
こうした者たちについて今日私たちが、
何が言いうるのだろうか?

たぶん、彼らの人生が如何なるものだったかを理解するには、
私たちはあまりに注釈につき合わされすぎている。




ベルナノス、セリーヌ、マルローについて
もうすでに、注釈以上のなにものもつけくわえることのできない
後世の人間の一列に卑屈にも連なっている一人にもかかわらず、
いや、おそらくまたは、そういう立場にしかないという、
屈折した諦めがあるからこそ
フーコーは、電話インタビューでこんないやらしい皮肉を
投げかけているのだが、
はからずも、それが、彼の深い喪失感を表現している。
そこが、なかなか感動的だった。


ミシェル・フーコー思考集成〈6〉セクシュアリテ・真理


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posted by 信州読書会 宮澤 at 14:35| Comment(0) | フランス文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

蜘蛛の糸 芥川龍之介



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★あらすじ
地獄に落ちた強盗のカンダタは
生前、小さな蜘蛛の命を助けたことがあった。

極楽の御釈迦様は、その善行をひとつのチャンスに替えて、
蓮池から、地獄に一本の蜘蛛の糸をたらさせる。
犍陀多を助けようするが、彼が同じく蜘蛛の糸にすがって
あとから登ってくる地獄の亡者どもを罵ったため、
望みの蜘蛛の糸は切れ、犍陀多は地獄に、くるくると落っこちてゆく。

★感想
教科書に載っている小説。話の筋くらいは誰でも知っているだろう。

犍陀多の了見をためすような御釈迦様の行為は、なんか嫌なものである。
汚い地獄の亡者が蓮池からぞろぞろ上がってきて、酒盛りでもするのを、
御釈迦様が、喜ぶわけないと思うと、気まぐれな暇つぶしとしか思えない。


★原話
岩波文庫の『エスピノーザ スペイン民話集』に『蜘蛛の糸』の原話となった
『聖女カタリーナ』という作品があり、たまたま読んだ。





聖女カタリーナが、逆縁で口の悪い母親より早死にする。

カタリーナは天国へゆくが、罪深い母親はやがて死んで地獄に堕ちる。
カタリーナは聖母マリアに、母親を天国に上げてくれと頼む。

しかし、主イエスに相談するように言われ、
イエスに相談すると、聖母マリアの判断に任せると言われ、
カタリーナがまた、マリアに相談すると、「一緒に地獄に堕ちるか、ここに残るか」
と二者択一を迫られたので、カタリーナは「マリア様にお任せします」と答える。

マリアは、地獄に天使たちを遣わせ、カタリーナの母親の魂を
引き出すが、地獄のすべての亡者の魂もそこにくっついてくる。


カナリーナの母親が、くっついてきた亡者の魂たちに
「天国へ行きたかったら、私のような娘を持つことだ」
と悪態をついたのでに、天使たちはあきれて、母親の魂を地獄に放す。
結局、聖女カタリーナは、母親と一緒になるために、自らの意志で地獄に堕ちる。


★所見
原話のほうが聖女カタリーナの異常なまでの孝行心が垣間見えて面白い。
それに比べると芥川の翻案は、教訓臭さが強くて、なんだか冴えないのである。
母と娘のキリスト教的親子愛というのに、芥川は興味惹かれなかったのだろうか?

キリスト教徒の愛と仏教の慈悲の違いといわれればそうなのかもしれないが、
それでも『蜘蛛の糸』には仏教説話の影響というよりも
芥川独特の審美的ニヒリズムが、濃く漂っており、鼻につく。
「極楽はもう午近くになったのでございましょう。」と白々しく終わるよりは
カタリーナの、あえて地獄に下る、というファナティックな結末で終わるほうが、
説話としての読後感というのは、爽快であると思うのだが……。


芥川龍之介
タグ:芥川龍之介
posted by 信州読書会 宮澤 at 14:34| Comment(0) | 日本文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

赤い夕陽の渡り鳥


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★あらすじ
温泉の湯元をめぐる利権争いにマイトガイが巻き込まれる。

★感想
渡り鳥シリーズ第4弾。適当に借りたので第4弾になってしまった。
元衆議院議員の原健三郎原作。


この作品は、宍戸錠のインパクトが強く、マイトガイが冴えない。
しかし宍戸錠の頬がキ○玉のふくろみたいで実に卑猥である。
その上、椿三十郎みたいに顎鬚をさする。のみならず鬚を抜く。
あれだけ卑猥な顔のヒールというのもなかなかいない。

マキのダンスを観ながら、記憶の糸を手繰る
宍戸錠の表情の気持ち悪さがたまらない。

ルリ子はお嬢様の役である。


一つ苦言を呈するとすれば(偉そうに…)
こういうお嬢様が出る場合は、執事か、小間使いをその脇に従えるのが
劇作のお約束のような気がするのだが、そういう人物がいないので、
ルリ子が、無防備なまま暴力に晒されており可哀そうであった。


「人に頼られる。それが嫌でまた流れる」とマイトガイがルリ子に弱音を吐く。
そのシーンにスターの悲哀を感じて結構グッとくるものがあった。



赤い夕陽の渡り鳥 [DVD]


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タグ:小林旭
posted by 信州読書会 宮澤 at 14:33| Comment(0) | 邦画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

アメリカン・ハードコア 続き


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このドキュメント映画にいやというほど描かれているのは、
よれよれのTシャツ、色褪せたジーンズという小汚い姿の若者が
3コードから成る3分程度の曲にのせて、ひたすらシャウトするというライブである。
観客がダイブとモッシュを繰り広げ、一緒に歌うという
暴力的なパフォーマンスばかりであり、みな自暴自棄になって血塗れている


貴重な映像が多いにもかかわらず、彼らから受ける印象は痛々しさだけである。
一歩間違えば、中学生が修学旅行の旅館で枕なげしていたら
本気で殴りあいになってしまったような居心地の悪さがある。
(特に、ヘンリー・ロリンズが客を殴ってるシーンなんかはひどい)


そしてハードコアの楽曲の特徴は、とにかく速い、そして短いことである。
カロリーゼロ。シンプルで攻撃的なのであるが、映像で見てものれない。


ハードコア・シーンというものは、この映画のなかで
ヴィック・ボンディが的確に述べているように、
組織的な左翼活動の存在しない80年代のアメリカにおける
唯一の共同体主義の改革の実践であった。


それぞれのバンドは手作りの音源を手売りし、地方都市の郊外のガレージや教会でライブをし、
バンド仲間の人脈をたよりにツアーしてまわるという
人民戦線のような連帯と助け合いの理念をもとに
活動を繰り広げ、全米を席巻してゆくのである。


重要なのは、それは、商業主義的ロックへのアンチではなく、
郊外に住み、職にあぶれ、希望も抱けない若者たちが、
ハードコア・シーンを形成するということによって、
一瞬だけポジティブになり、主体的に生きたと錯覚したことである。
関係者のインタビューには「やってやった」感が、満ち溢れている。


そういう意味で、アメリカン・ハードコアの理念は、
「遅れてきた実存主義」とも受け取れる。

とにかく、彼らは希望のない社会状況の中で自分の生きてゆく位置を明らかにした。
ただし、あまりにも悲観的に社会状況をとらえたため、未来志向の建設を信じない。
自らを予測不能のカオスに投げ込むことの可能性を追及するあまり自己破壊に至った。

しかし、凡百のアメリカンドリームをつかんだ成り上がりの物語を
彼らが明確に拒否していることには、すがすがしさがある。


人間が生涯を暮らすにはあまりにも抽象的な郊外という
場所において、ドラッグと犯罪とセックスに溺れる以外に
どこにも救いを見出せない若者にとって、ハードコアは唯一の「声」であり、
鬱屈する少年たちの自己解放が、どこにたどりつくか
まったくもってわからないことが、すべての達成なのである。


ハードコアの歌詞は、そのまま現状への怒りと無力感をぶちまけている。
貧富の差を押し広げながら軍事的にも経済的に拡大してゆく
レーガン政権時代の輝かしさの一方で、矛盾のように溢れ出す
不況やインフレや言論の抑圧から生まれる社会不安を
ストレートに訴えるには、3分間の演奏時間で充分である。

どのバンドも、リー・マービン主演のB級アクション映画『殺人者たち』に出演していた
悪役俳優時代のレーガンの映像をコラージュしたフライヤーを作成し、
ライブ会場に張るという知的なアイロニーに富んだ風刺をしたことが映画で語られているが、
彼らは、70年代的な反体制の胡散臭さを知っているからこそ
こうした知的アイロニーを駆使した戦略をとっているのである。


彼らの一部は、DIY(Do It Yourself)を唱え、自己責任を観客に訴えている。
仲間が、ドラッグや犯罪に手を染めても、俺だけはやらない、という自己責任である。
まあ、これじゃアメリカ建国以来の伝統であるピューリタリズムへの回帰でしかないんで、
当然こういうことをポジティブに訴えだした頃には、ハードコア・シーンも


暴力とドラッグで、ぐちゃぐちゃになっており、ギグは、毎回暴動化して、警察沙汰となる。
ダメな奴はやっぱりダメというどうしようもなさを確認して、
シーンを支える中心的なバンドに倦怠感がひろがる。


結局、シーンの担い手たる彼らが、音楽性を転換させたり、解散したりたりして
ハードコア・シーンからの撤退を表明して消えてゆく。
このような転向が、雪崩のように巻き起こり、レーガンの二期目続投が決まった84年を境に
ハードコア・シーンはとめどもなく崩壊してゆく。


まあ、以上のようなことがこの映画では描かれている。
自分でも何を書いているかわからなくなった。
牽強付会な解釈だと思う。こんなブログでまとめきれない複雑さがこの映画にはある。


ただ、一連の流れを見て思うのは70年代後半から80年代前半の
日本の新左翼運動崩壊と状況的に似ているといえなくもないことである。
80年代前半で培われたハードコア・シーンは、その後、オルタナティブ・ロック
として蘇生し、90年代には世界規模の影響力をもつにいたる。

日本ではオルタナに対応したサブカル・シーンをさがすと、
世界的影響力を持っているのが、残念ながらアニメとマンガというジャンルしかない。

だからこそ、日本においては新左翼運動の延長線にアニメ・マンガがおかれる傾向がある。
しかし、それが唯一の世代体験みたいに主張する評論家のしたり顔と党派性は気に喰わない。

それはそれとして、社会不安募る今の日本でこそ観る価値のある作品だと思う。


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posted by 信州読書会 宮澤 at 14:32| Comment(0) | 洋画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

アメリカン・ハードコア



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ニルヴァーナのカート・コバーンの伝記『病んだ魂』において綴られている
アメリカのハードコアシーンに、いまだに払拭しきれない興味があり観た。

自分自身のことを書けば、高校時代、当時はまだ面白かったMTV経由で
ニルヴァーナを頂点とするオルタナティブロックのムーブメントに触れて傾倒し、
『病んだ魂』やニルヴァーナのCDのライナナーツから得た知識から、
80年代ハードコアシーンのCDをぽつぽつと買いはじめた経緯がある。


ただ、大学に入ると映画や小説(それも三島由紀夫)にもっぱらの関心がシフトしたので
ハードコア自体には、それほど関心は無くなってしまった。
よってそんなに詳しくならないうちに、そんなに聴かなくなってしまった。


まあ、グレン・グールドがクラシック評論家の一面を持つように
カート・コバーンには、ハードコア評論家みたいな側面があり、
かなり偏見に満ちたハイセンスで、愛情の深い批評活動を断片的にだが、していた。
一方、商業主義的なロックには、えげつない罵声を浴びせるので、
その部分に、どうしようもなく影響されてしまった恥ずかしい思い出がある。

そういうわけで、それ以前は、プリンスやガンズやエアロスミスを聴いていたが、
それらのCDを友人にただであげてしまうくらいに急進的にのめり込んだ。
ただ、そういうのを聴いている連中を心底軽蔑し始めたことは、始末が悪い。


そのくらいに、ハードコアへのめり込み方が、半端ではなく、
ほとんど思想的感化ともいえるくらいであったことである。
極左活動にのめり込むくらいの勢いであったことは確か。
そのくらいに政治意識というか若気の至りからくる憤りを
煽り立てるなにかが、ハードコアにはあると思うし、
ハードコアに出逢ってなかったら、自分なんかはもしかしたら


しょうもないアニメおたくとか、コミケの通う同人とかになって萌えていたと思う。
そういう意味で感謝している。(なんの感謝かはよくわからない)

ハードコアやオルタナが唯一絶対の審美的価値基準になりえたというのが
90年代の日本の状況であったということは強ち誇張ではないはずである。(ここは独断)

カートは、ブラック・フラッグのロゴを腕にタトゥーするほど好きで、ニルヴァーナの楽曲の特徴を
『ブラック・サバスとブラック・フラッグに犯されたナックとベイシティーローラーズ』
と、これまたわけのわからない譬えで形容している。

大宮のアルシェという駅ビルの5階にハードコアロック専門店があり、
そこで、ブラック・フラッグの『ダメージド』を購入した思い出がある。



格差社会が露骨になった80年代前半のレーガン時代に揺籃した
アメリカのインディーズハードコアシーンを
関係者の証言と当時の貴重なライブフィルムで回顧したドキュメント映画。
いろいろ思い出して、なんだか感想が書きづらい。

前置きを書いているうちに熱い思いがこみあげてきて、
長くなってしまったので、感想は改めて書きたい。


アメリカン・ハードコア [DVD]



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posted by 信州読書会 宮澤 at 14:31| Comment(0) | 洋画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

イギリスから来た男

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★あらすじ
娘を音楽プロデューサーのピーター・フォンダに殺されたテレンス・スタンプの復讐劇。


★感想
スティーブン・ソダーバーグ監督作品。
この監督はハリウッドに魂をまるごと売りながらも
根っこのところでヨーロッパ芸術映画への憧憬をかくせない、
永遠の純文学青年みたいなところがあってでわたくしはきらひである。
よってこの作品も、実に貧乏くさい。

複雑なカットバックが、芸術映画っぽい
かたっくるしい雰囲気を出している。

テレンス・スタンプが主演。

娘想いの父親を演じると、この怪優も
イーストウッドとそっくりで
あまりオリジナリティーがない。


ルイズ・ガズマンはプエルトリコの川谷拓三である。
テレンス・スタンプを脇で喰っていた。
なんか、小学校時代のできの悪い同級生みたいで親しみをおぼえる。

『バニシング・ポイント』のバリー・ニューマンも出ているらしいが
誰がいったいバリー・ニューマンなのか最後までわからなかった。
カーチェイスをしていた人だったのだろうか、
老け過ぎて顔が変わっていて、わからない。


テレンス・スタンプのかつての主演映画『夜空に星のあるように』が
回想シーンでそのまま引用されている。
若き日のテレンス・スタンプがギターを弾いているラストシーンが、この映画の中で一番せつない。
引用が原作よりいいのは困りもんである。


回想シーンに出てくる幼い娘が、『悪魔の首飾り』の毬を持った少女みたいである。

ソダーバーグの懐古趣味に、無理やり付き合わされたような気分でうんざり。

イギリスから来た男 デラックス版 [DVD]



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posted by 信州読書会 宮澤 at 14:29| Comment(0) | 洋画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

風景について 花田清輝 講談社文芸文庫 『もう一つの修羅』所収


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もう一つの修羅 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)



このエッセイは、花田清輝版の『東京八景』。以下引用。改行適当。



太宰治は、『東京八景』のなかで、十年間のかれの東京生活を、
その時々の風景に託してかいてみたいという計画を、
ながいあいだ、あっためていた、という。


戸塚の梅雨。本郷の黄昏。神田の祭礼。柏木の初雪。八丁堀の花火。芝の満月。
天沼の蜩。銀座の稲妻。板橋脳病院のコスモス。荻窪の朝霧。武蔵野の夕陽。


――とつぎつぎにあげてくると、いささか小林清親の浮世絵の昭和版みたいな
気がしないこともないが、どうやらかれの記憶のなかからうかびあがってきた
それらの雑然たる風景は、彼の断腸のおもいによっていろどられ、
かれの内部世界において一種独特の光彩をはなっていたもののようだ。


しかるに、わたしは、すでに四半世紀以上も、この東京に住んでいるにもかかわらず、
そういう風景らしい風景を、なに一つとしておもいだすことができないのだ。

太宰は、生活を風景に託してかいてみたいというが、
わたしのように、すでに生活を喪失してしまっているものには
風景もまた、まったく無意味なのだ。
わたしは生活を無視した。ほとんど蔑視した。




そんな花田清輝にも、忘れられない風景がたったひとつだけあった。
それは、何の変哲もない赤坂区溜池三十番地の石塀だった。


その石塀の中には戦前、東方会という農本主義ファシズム団体があり、
戦後には、そこに、真善美社という出版社が戦後には生まれた。
花田清輝の主著である『復興期の精神』はここで出版された、


やがて、石塀の中での『曾てアルカディアに花田も』がはじまり、
宮本百合子や中野正剛の息子中野達彦、岡本太郎、大井広介との思い出、
自著の出版経緯などが、太宰の『東京八景』のような速いテンポで、回顧される。


つづいて、久しぶりに、花田は溜池をとおることがあり、見ると、
その石塀がいともあざやかに消えうせていたと述べ、



――不幸だったか、幸福だったか知らないが、
とにかく、『東京八景』をかいた太宰治には、生活があった。
かれには、兄弟があり、恋びとがあり、友達があり、
いずれにせよ、人間とのさまざまな交渉があった。

ところが、わたしには、そういう私的な交渉が、いっさいないのである。
(中略)
それこそわたしのまわりには、ただの一人もいないのである。
これではどんなに頭をひねってみたところで、太宰治のように
かくに値するようないざこざがおこりようがないではない。


“to make a scene”という言葉がある。


ひとつの風景をでっちあげるためにも、
われわれは、相当、泣いたり、わめいたり、
てんやわんやの大騒ぎを演じなければならないのだ。
(中略)
ひるがえって、考えるならば、わたしは、
あまりにシーンをつくることにおそれているわたし自身に、
いくらかアイソがついてきたのかもしれないのだ。
たぶんわたしは、あまりにもお高くとまっているわたし自身を、
一度、台座からひきずりおろしてみたくなったのかもしれないのだ。





かくして、太宰の『東京八景』読み込むうちに


花田清輝は、おもわず、自己否定のような感慨を漏らすのである。


そのあたりに、苦い感傷があふれていて、結構感動してしまった。

世の中には、泣いたり、わめいたりしないと、決して見えてこない風景がたくさんあるのだ。

花田清輝にそういう体験がまったくなかったとはおもわないが、
そういう個人的な感傷を集団のエネルギーに止揚させる運動を
ながいあいだ主導して、表現における個性を軽蔑しきっていただけに、
この告白には、はからずも地が出たような、抑圧された個性の解放のような、
或は、転向声明のような、哀切な響きがあふれている。


まあ、論敵の吉本隆明が住井すゑの『橋のない川』を読んで泣いたと告白した
花田を評して、「アヴァンギャルドと言いながら、あんなので泣く人なんです」
というような感じで腐していた気がするが、それは案外的確な批判である。
気丈に見えて、芯はウエットな人だったのだろう。人間誰しも弱る時がある


もう一つの修羅 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

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タグ:花田清輝 
posted by 信州読書会 宮澤 at 14:29| Comment(0) | 日本文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

東京八景 太宰治  新潮文庫『走れメロス』所収


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★あらすじ
心中未遂、薬物中毒、放蕩、恋人の浮気、
身に余るサービス精神ゆえの膨大な負債などで
数々の迷惑な事件を起こし、裕福な実家から義絶され、
仕送りを止められ、ついに一文士として貧窮のなか
生計を立てるの決心を固めた語り手の私=太宰。

20代の我が身に降りかかった事件が
走馬灯のようなせわしさで東京の風景とともに回想される。


最終部で義妹の夫T君の出征を見送るために、芝公園に出かけ、
みすぼらしい風体の太宰は、T君の親族から冷たい視線を浴びせられるが、



『人間のプライドの窮極の立脚点は、あれにも、これにも
死ぬほど苦しんだことがあります、と言い切れる自覚ではないか。』



と大胆に開き直り、T君の妹の留守中の面倒を引き受ける勇ましい宣言をして
自らは、『東京八景』という作品完成のため伊豆温泉に出かける。


★感想
花田清輝の『風景ついて』(『もう一つの修羅』所収)


というエッセイの冒頭において、
『東京八景』がかなり好意的に言及されていたので読んだ。


というかエッセイ『風景について』は花田版の『東京八景』である。
まあ、その感想は、改めて書くとして、(実は結構感動したのだが。)
久しぶりに太宰治を読んで、何ともいえない気分になった。

まあ、高校時代に『走れメロス』や『人間失格』読んだときは、
それなりに興奮もしたし、部分部分では自分のことがかかれていると
(告白するのも恥ずかしいことだが、)錯覚しないでもないのだが、
やがて太宰の自意識過剰ぶりは疎ましい、という相対化の仕方を学んで、
得意げになっていた20頃も過ぎ、いつのまにか若さの確信も揺らいで
好きでも嫌いでもなくなり、どうでもよくなり、今にいたっている。


太宰の文章というのは、粉薬が、一気に飲み込まないと、飲みこめないように
一気呵成に読まないと、読みきれないようなところがある。久々に読んでキツい。

あの甘ったれぶり、被害者を煽り立てるような弱々しさ、
弱々しさというのに語弊があれば、挑むような柔らかさに、
いちいち引っかかっていると読みきれない。
だけども、太宰が32の頃に書いたこの作品は、
30にさしかかる自分が読んで、また違った味わいがあった。


まさしく『かつてアルカディアに私も』とつぶやいてしまいたくなるような
過ぎ去った青春への、近そうでいて、二度と戻れないの距離感が表現されていた。

『苦しみの綜合代理店』みたいな太宰ほど深刻ではないにしても、
誰でもが、30代にさしかからんとすれば、
この小説のさまざまなシーンに、苦しんでいた頃の自分の姿が、
ちらちらと重なって浮かび上がるような、心もちにさせられるのではなかろうか。

高校生のように、希望に満ち溢れているゆえに
甘い感傷に惹かれてしまうのとは別の意味で、
30目前になると、もはや手遅れだ、という実感が
払拭しがたいだけに、感傷も苦みばしってくる。


『東京八景』は、そういう苦みばしった感傷の味わいを、存分に含んだ短編である。


アヴァンギャルドの芸術運動をしていて、「心臓は犬にくれてやった」と
豪語した花田清輝でさえも、これを読んでかなり感傷的になっていた。


花田清輝版の『東京八景』の、核心にある感傷の苦さについては、また改めたい。



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posted by 信州読書会 宮澤 at 14:28| Comment(0) | 日本文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

業苦・崖の下 嘉村磯多 講談社文芸文庫


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★あらすじ
圭一郎は、田舎に妻子を残して近所の娘、
千登世と駆け落ちして上京する。


駆け落ちの理由は、妻である咲子が、
結婚前に、圭一郎の嫌悪する同級生、山本と関係を
もっていたことが発覚し、不和に陥ったからであった。

圭一郎は、一人息子の敏雄や、迷惑をかけた
郷里の父親、妹に対して罪悪感を覚えながらも、
妻を決して許すことができない。
よって、彼は生皮をはぐような自責の念で懊悩する。

上京後、圭一郎は就職もままならず、
父親から奪った預金も使い果たし
なれない仕事によって消耗し、体調を崩す。
生活上の不如意によって千登世も、やせ細る。

★感想

上京後の同棲生活から過去の夫婦生活を回想した私小説。ほぼ実話。

真面目すぎて救いがなく、ユーモアも皆無のため
物語の構造云々など、のんきな感想は、書きようがない。

人間の煩悩の罪深さが投げっぱなしにされ、
それが、宗教によって罪が浄化されることもなく
実にいやな後味を残して終わっている。


小説内でも言及されているように、事態の打開のために圭一郎は
真宗の僧侶の説法を受けるが、反発をおぼえるだけであった。

ただ、この短編は、連作として続編があり、
そっちを読んでいないのでなんともいえない。

年譜によると、嘉村は23歳の年に
安部能成の薦めでスピノザを熟読したそうである。

そういう意味で、妻の貞操への疑念を、
人間の倫理に関する哲学的な問題として
処理しようとして、躍起になるが果たせず、
さらに、経済的な問題まで抱え込んだために
泥沼に陥っていったと感じられる。


キリスト教の倫理と哲学を統一させようとしたスピノザの著作が、
そういう人間に、生活上の救いを与えてくれるかと言うと
さらさらそんなことはないので、ただに気の毒である。


物語に対して超越的な神の視点を欠いた文学である。
無力な人間が、ひたすら懊悩し、のたうちまわる
地獄が描かれている。これでは結末のつけようもない。

しかしながら、嘉村にとっては、この短編を書くことが、
過去の清算であったとしたら、唯一の救いだったかもしれない。
そういう意味で、読者にとって今でも生命を失っていない小説である。



★『業苦』に関連して思い出した作品

小島信夫の『抱擁家族』
これも妻の不貞の疑惑からなる小説だったと思うが、
すでに主人公の倫理観がおかしな具合に崩壊しているために
SF小説としか思えない、とんでもない境地を開拓していた。


トルストイ『クロイツェル・ソナタ』
殺人によって、妻の不貞への疑惑に、結末をつけた。

太宰治の『東京八景』
やはり、恋人の浮気を取り扱っていたが、
その事件を、薬物と、放蕩と借金、心中未遂などで、
追い討ちをかけるように事態を紛糾させることで、
浮気問題を忘却のかなたに押し込めようとした。
太宰に関しては、やはりキリスト教を頼みにして、
自らを受難者として慰めていたふしがある。

よくよく考えると、イタリア文学やフランス文学なんかで
妻の不貞が、それだけで独立した主題として扱われる小説は、ほとんどない。
日本の純文学は、夏目漱石の頃からこの問題ばかりである。


妻の不貞と、夫の倫理観の脆弱さに、
折り合いがつかないというか、
落としどころがないというのは
日本人特有の「家」の問題と、
ひいては「家」を単位とする日本社会の構造的問題に
帰着するので、大問題になってしまうようだ。
逆に、それが、問題になっていないような不倫小説は、
登場人物の社会に対する開き直りの強さと
それを支える彼らの経済的なゆとりの度合いが問われる。

業苦・崖の下 (講談社文芸文庫)





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タグ:嘉村磯多
posted by 信州読書会 宮澤 at 14:27| Comment(0) | 日本文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

アヴァンギャルド芸術 花田清輝 講談社文芸文庫


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★花田清輝の評論について
ほとんどがペダントリーで成り立っている。
虚空から鳩をとりだすマジシャンのように、
花田が、軽快な手つきで持ち出してくる古典作品に
少なからず通暁していないと、狐につままれたような気分になる。

★写真について
昔読んだ、花田清輝全集の扉に、晩年の花田の写真があり、
若かりしころの美貌が消えうせ、顔面崩壊といった感じでむくみきって
まるで別人といった印象あった。あの写真が本人なのか未だに謎。


★ 『ドン・ファン論』
モリエールの『ドン・ファン』をけなしているのだが、冴えない。

★ 『芸術家の制服』
岡本太郎論。岡本太郎をエドガー・アラン・ポーの『モルグ街の殺人』
探偵デュパンと並べて論じている。力作。



『デュパンが昼の中に朦朧とした夜を持ち込まずにいられ』ず、
『極度に理知的だが、絶えず朦朧とした本能の影につきまとわれている』のに対し、


しかるに、たとえば岡本の『夜』という作品は、夜とはいいながら、
なんとすべてのイメージが、正確で、鮮明に浮かび上がってみえることだろう。


それはまぎれもない本能の世界のなまなましい表現だが――しかし、そこには、
曖昧なものは何ひとつなく、するどい理知の光によって、隅々まで浸透されているかのようだ。
岡本は、夜を描くばあい、どうしても夜のなかに、昼をつつみこまずに入られないのだ。



以上のように述べている。


★ 岡本太郎による花田清輝への弔辞。
開高健が編集した『神とともに行け 弔辞大全?』という本が新潮文庫にあり、
そのなかに、岡本太郎が花田清輝との出会いを回想した弔辞『「夜の会」前後』が所収されている。
この文庫の中では、最も感動的だったので、引用したい。(どうせ品切れだし、改行は適当)


清輝との出会いは、実に偶然なきっかけからだった。
終戦直後、私は周囲を見回して、文化・芸術の状況すべてに絶望した。
だからこそ強烈に、あらゆるものに挑まなければならない。
それは同時に言いようのない孤独感である。単に一人ぼっちということではない。
まるで断頭台にあがっているような、逼迫した思い。どうにもならない。どうしようもない。


あるとき名古屋に行った。ふと友達の本棚に『錯乱の論理』という本があるのを見た。
その題名が私を惹きつけた。パラパラッとめくって、面白そうなので
「これ、借りてくよ」といって持って出た。汽車の中で読みはじめた。

オヤッと思った。当時私はほとんど誰にも理解されず、異質な人間として扱われ、
あらゆる機会にそれを思い知らされたし、また逆にこちらの心にこたえてくれるものは
何ひとつなかったのに。

しかし清輝の一頁一頁を繰りながら、私の心は熱い共感をおぼえた。
ああここに、俺にこたえてくれる人間がいた。

(中略)

その数日後、突然、予告もなく清輝が一人で、上野毛のわが家にあらわれた。
私は窓際にいたが、何かの気配を感じ、ふと外を眺めた。
すると、黒々とした長髪をなびかせて、鋭い眼ざし、緊張した面持ちの彼が、
玄関に向って一直線につき進んでくる。とたんに
「あ、清輝だ」
と思った。まったく顔を知らなかったのに。

(中略)

私が、「二等兵物語」という軍隊時代の体験を書いたことがある。
理由もなく順番に殴られるのだが、そのとき四番目あたりが一番激烈にやられるのだ。
私はいつも、四番目に名乗り出た。
何の意味も、得もない時点で、ただマイナスの運命に挑むためだけに。

清輝はそれを読んだ、と言って、
「やっぱり太郎はインテリだよ。ああいう極限の場で、思想が行動となって出る人間は少ないんだ」
いかにも嬉しそうに笑った。読みものとして、さまざまな反響はあったが、
こんな読み方をしてくれたのは清輝だけ、やっぱり精神の友だった。


花田との邂逅シーンはまるでニーチェの『ツァラトゥストラ』の
第一部のなかの『山上の木』のお話みたいである。そんなことを思った。

アヴァンギャルド芸術 (講談社文芸文庫)



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タグ: 花田清輝
posted by 信州読書会 宮澤 at 14:26| Comment(0) | 日本文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

厨房日記 横光利一 『機械・春は馬車に乗って』 新潮文庫所収


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★あらすじ
ヨーロッパ旅行から帰国した梶は、日本の近代化の幼稚さを痛感。


そんな折、夜になっても帰らない我が息子を
暗闇の中で捜すが、それが日本における
自分の状況とそっくりだと気がつき心細くなる。
知識人階級の苦しみにあふれる作品。


★作品成立の経緯
偶然、パラパラと横光の短編集を開いていたら、
トリスタン・ツァラと会話している短編があり、
驚いて、読んでしまった。

横光は、ほとんど読んだことがなかった。
写真でみると、髷の結えない新弟子みたいな顔である。


昭和11年の2月から8月にかけての6ヶ月間、
横光利一は新聞社特派員としてヨーロッパを訪問している。

その年、ヨーロッパは大ストライキが起こっており、社会不安に後押しされるように
知識人階級を中心としてシュールレアリズムの運動が盛んになっていた。
滞欧中に、横光はシュールレアリストの代表格である詩人のツァラを訪問した。


ツァラに、日本のことがわからない、教えてくれと頼まれ、
横光は、日本では地震が一番の外敵だと、混乱気味に応えた。

その後、ベルリンオリンピックを観てモスクワに寄り、
シベリア鉄道で帰ってきたそうである。


前半には西欧体験が小説形式でレポートされている。
横光は西欧知識人の生活に、よほどショックを受けたらしい。反省ばかりしている。
後半は、日本の地方に残る封建制の残滓をめぐる愚痴めいた考察であり、痛ましい。

筋という筋はなく、ほとんどが西欧体験の告白書。
小説にする必要があったのか不明。


★トリスタン・ツァラについて
ルーマニア生まれの詩人。ダダイズムの創始者。
思潮社から出ている詩集を昔読んだ。


詩句の観念的な飛躍にロマンチシズムがあるぶんだけ
シュールレアリストにしては日本語に翻訳されても、
ああ、かっこいいなと思えるところがあり、読みやすい。
たぶん、相当な美的センスのある詩人だと勝手に思っている。




★横光の描いたツァラの初対面の印象を以下に引用。



ツゥラアは少し猫背に見える。脊は低いがしっかりした身体である。声も低く目立たない。
しかし、こういう表面絶えず受身形に見える人物は流れの底を知っている。

この受身の形は対象に統一を与える判断力を養っている準備期であるから、
力が満ちれば端倪すべからざる黒雲を捲き起す。

猫を冠っているという云い方があるが、
この猫は静かな礼儀の下で対象の計算を行いつづけている地下の活動なのであろう。
まことに受身こそ積極性を持つ平和な戦闘にちがいない。



『表面絶えず受身形に見える人物は流れの底を知っている。』
なかなかの洞察力である。どっかでパクって使いたい言い回しである。

『酒場でつぶやきたいセリフ集』とか『麻雀必勝法』とか、
『部下に一目置かれたいときのセリフ集』とかに収めるべき警句。

この警句からわかるように横光は対人洞察力が過敏であった。
帰朝後、その洞察力を自分自身に向けてみたら、
いままで気がつかなかった日本のなかの空虚な自分を発見して
号泣したくなるような絶望感を味わってしまう。


小説最終場面の梶の「あーあ、もとの黙阿弥か」という独り語りが
彼の妻の笑いを誘うというユーモラスな終わり方が、わざとらしい。

ザ・カルチャーショックな短編。題名の意味がよくわからない。なんの『厨房』?
ツァラの「シュールレアリズムは日本で成功していますか?」という質問に、
「日本ではシュールレアリズムは地震だけで結構ですから、繁盛しません」と
応えようとして、思いとどまった梶=横光に、アドリブの弱さを感じた。

機械・春は馬車に乗って (新潮文庫)


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posted by 信州読書会 宮澤 at 14:25| Comment(0) | 日本文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

夫婦善哉

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織田作之助の『夫婦善哉』の映画化。監督、豊田四郎。1955年公開。

★あらすじ

船場の問屋の放蕩息子、柳吉は、芸者の蝶子を囲った為、


父からを勘当される。病床にあった柳吉の妻は、
一人娘のミツコを残して死去。
柳吉の父は、婿養子をとって家を継がせ死去。


居酒屋やカフェを経営するも、心労から柳吉は腎臓を患い
献身的に看護する蝶子は、自分を捨てて去っていきそうな
柳吉の裏腹な態度に傷き、とうとう自殺未遂する。
あともどりできなくなった柳吉が、実家への未練を断ち切り
腹を固め、蝶子と手をつなぎ、小雪ちらつく往来を歩いて終り。


★感想
原作は昔読んだが、さっぱり忘れた。本棚を捜したが見つからない。
確か数年前に『夫婦善哉』の続編の遺稿が発見されたとかで
話題になっていた気がする。  



陰惨な話であるが、関西弁のセリフの語尾で
すべてが笑いとばされていて、人情喜劇になっている。


森繁久彌の代表作であるそうだが、
森繁演じる柳吉の存在自体がミステリアスである。
実際、何を考えているかよくわからない。


言動はいい加減で、およそだらしなく、変な色気はあるが色男でもない。
ただ単に、あまったれたわがままなボンボンの役柄なのだが、
それだけだったら、林家いっ平でもリメイクできるだろう。
なのに、森繁の演じる柳吉の演技のいい加減さに、まったくスキがないため、
かえって、えたいのしれない凄みを、錯覚させる。


要するに、森繁の存在が、一見平凡なわりに、ミステリアスである為、
対照的に、淡島千景が、非常に健気でいじましい片恋の女に見えようになっている。
よって、一種の探偵小説的な結構をもっている。
主人公であるはずの森繁には、探偵の遊戯性があり、(ことに美食家というところなど)
事件に関して終始、傍観的である。ドラマを生きていない。


逆に主体的に、女の幸せめがけて、事件のさ中を生きているのは蝶子役の淡島千景である。
彼女は終始ドラマチックで、柳吉が好きで好きでたまらず、ガス自殺を試みる。
彼女が、共感を集めるからくりはそんなところだ。
恋愛小説というのは、つきつめると探偵小説に似てくる。
織田作之助は『可能性の文学』という小論で、
志賀直哉を頂点とする日本の一人称心境小説を攻撃して
スタンダールのような三人称の活劇小説の復権をとなえていたが、
そういう意味で『夫婦善哉』はその実践という感じがする。


物語の展開が早いので映画化しやすい作品である。
実際、オールセットで撮影されており、非常に美しい。
そして、話の筋もなにもかもオールセットのつくりものめいた匂いがして
物足りなさを感じるのだが、同時に贅沢でもある。


私は、森繁のエッセイをことあるごとに収集していて、
4冊持っているのだが、すべて未読である。
この映画をきっかけに読んでみようと思った。

夫婦善哉 [DVD]


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posted by 信州読書会 宮澤 at 14:23| Comment(0) | 邦画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

社長太平記






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★あらすじ
太平洋戦争で海軍二等兵だった牧田(森繁)は、
戦後、婦人下着会社の錨商事一族の婿養子となり社長に就任する。

巡洋艦の艦長だった朝比奈(加東大介)を総務部長、
下士官であった大森(小林桂樹)を専務という具合に、
かつての自分の上官を会社に招き入きいれ、
大手デパートの婦人もの仕入担当、間(有島一郎)を
篭絡するために、夜の接待を重ね、
いいくらかげんに、ライバル会社としのぎを削る。


最後に、錨商事の工場が火災にあうが、
加東大介の陣頭指揮により会社は窮地を免れる。

★感想
実は植木等の『ニッポン無責任時代』と並行してみたため、


混乱してしまい、あらすじをよく思い出すことが出来ない。
とくに由利徹がどっちにでていたかわからなくなった。
松林宗恵監督。笠原良三脚本。1959年公開。


社長シリーズとして20作以上製作されている。
基本的に森繁は、狂言回しに徹しており、周りの俳優の演技を


全部うけきって、映画全体に森繁のリズムというべきものを生み出している。
ただ、御大は自然な小芝居を、カットの切れ目切れ目に入れてくるので油断ならない。
なので、見ていて飽きない。かなり面白くて、全シリーズ観たくなった。



まあ、この映画を観た後に、昔読んだ小林信彦の『日本の喜劇人』の
第三章『森繁久弥の影』を読み直してしまった。
森繁という存在の新しさと、後進への多大な影響を論じた小論である。


小林信彦の批評は、個人的な好悪を、ハッキリさせすぎるためか
フェアな感じがしないのと、玄人ぶった自惚れともったいつけがあって、
正直、読んでいて、うんざりするし、懐古趣味がなければ、読後もただ不快である。
この人は、喜劇の見巧者として自分の大半をアイデンティファイしていて、
その自負というものにつき合わされるのは、読者としてシンドイものがある。


ただ、脇役で出ていた、三木のり平や有島一郎、山茶花究のことなども
かなり突っ込んで書いているので、知識欲は一応満たしてくれる。
三木のり平が、下着姿で踊るところや、有島一郎がカンカンを踊るとこなど面白い。



映画の冒頭、二等兵時代の森繁が、飯を喰うのが早すぎて、下士官小林桂樹
員数をつけられ制裁を受けかけ、艦長の加東大介に救われるシーンがあるのだが、
これがあるからこそ、戦後のヒエラルキーの逆転が明瞭になり
森繁の社長としてのいかがわしさが一層、際立つ。このシーンだけでも見る価値がある。

DVD特典に松林監督のインタビューがあり、森繁を絶賛している。



社長太平記 [DVD]


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タグ:森繁久彌
posted by 信州読書会 宮澤 at 14:22| Comment(0) | 邦画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ブライヅヘッドふたたび イーブリン・ウォー 吉田健一訳 ブッキング その3

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セバスチャンとともに夏休みを過ごしたチャールスは
新学期の始まる秋から、深い倦怠に包まれる。





彼らの奇矯な友人の一人である、アントニー・ブランンシュが、
退学したことで、アントニーを取り巻いていた未熟な青年たちは、
一般人の群れに戻っていったために、チャールスは余計に孤独になる。


それは、セバスチャンとて同じであり、彼らは銘々、
友人たちの交際を必要最小限にし、孤独を愛するようになる。



まもなくして、チャールスは、セバスチャンの妹、ジュリアと再会し、
彼女のボーイフレンドであるレックス・モットラムと出会う。
彼はカナダの代議士で、カナダのヨーロッパ派遣軍の元軍人だった。




ジュリアは彼を、誰に対してもその頃のジュリアは
そうだったように、幾分軽蔑しているのが感じられたが、
それと同時に彼に対してかなり我がままに振まった。




食事の途中で彼女は一度、煙草を取りに彼を車まで行かせ、
彼が、あまりにも大きな口を利くと、
「この人は植民地の人間ですからね、」と言って
彼のために弁解した。


これに対して彼は、大笑いすることで答えた。


こんな感じで、レックスは成り上がりの俗物なのだが、
セバスチャンとチャールスは、軽蔑している彼のような人物の
主催する慈善舞踏会に、皮肉にも招待され、冷やかしで出かける。
シャンパンを飲むだけ飲んで、開会前にバカらしくなって抜け出し、
チャールスらは、マルカスターが昔一度行っただけの売春宿に出かけて、
売春婦を同乗させ、ホテルを探して、酔っ払い運転しているうちに


危険運転で警官に逮捕され、一晩ブタ箱に入れられる。


結果、軽蔑しているレックスの政治力により留置場から救い出される。
兄セバスチャンとチャールスが同性愛者だと疑っていたジュリアは
疑惑が晴れて、逆に、彼らへの尊敬の念を深める。



★感想
軽蔑している人間の世話に、警察がらみで厄介かけるほど、
世の中で恥ずかしいことはない。それも下半身の事情で。
思い出すだけで死にたくなるような若気のいたりの恥辱を、
まざまざと小説化してくれた一節である。




「誰に対しても幾分軽蔑的な女性」の魅力というのは、
昨今、男性にとって、よく論議される問題である。
とりあえず、ジュリアはツンデレ。


ブライヅヘッドふたたび


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posted by 信州読書会 宮澤 at 14:21| Comment(0) | イーヴリン・ウォー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ブライヅヘッドふたたび イーヴリン・ウォー 吉田健一訳 ブッキング その2


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★第一部『會てアルカディアに』続き


セバスチャンに感化されたチャールス・ライダーは、従兄のジャスパーの忠告も虚しく
セバスチャンら悪友と付き合い、午後から酒を煽るような、浪費と放埓の生活に溺れてゆく。
チャールスは、夏学期の終りに彼を見かねたジャスパーから最後の訪問と抗議を受ける。


彼は、全くの責任感からだけでその午後、私のところへ来たので、
それは彼にとって非常に迷惑だったと同時に、私にとっても迷惑だった。




ジャスパーは、チャールスの部屋が、風狂に満ちていることを叱る。(以下引用、改行は適当)




「又その点に就いてもだ、叔父さんが君にいくらやっておられるか知らないが、
君はその倍を使っているんじゃないかな。こんな、」と彼は
私の部屋のどこにも明らかな浪費の形跡を手の一振りで示した。


それは、本当であって、私の部屋はそれまでのような寒々とした様子をしたものではなくなり、
それも決して少しずつではなしに、目に豊かに訴えるものになっていた。


「これは支払ずみなのかね、」というのは、
食器棚に載っているパルタガスの葉巻が百本入っている箱だった。


「或は、これは。」それは卓子上の、十何冊かの当時流行の新刊書だった。



「或は、これは、」というのはラリク製の洋酒瓶とグラスで、
「或はこの、何とも言えないものは、」というのは、
私が大学の医科から買ったばかりの髑髏で、
それが薔薇を盛った鉢の中央に置かれているのが、
その時は、卓子の上で最も目を惹くもので、髑髏の額の所には、
「會てアルカディアに私も」という文句がラテン語で彫ってあった。






どくろの額にラテン語の詩句を彫って、バラの鉢に飾るという露悪的なセンスが
通用するような友人とばかり付き合って、チャールスは麻痺していくのである。
こういうことをやって腑に落ちる日本人は、まあ、澁澤龍彦くらいのものだろう。
ジャスパーの叱責を思い出し、チャールスはのちに、こう回想する。








あれから、二十年たった今、私はあのときしたことで、しないで置くか、
或は別な具合にしたほうがよかったと思うものは、先ずない。

私はジャスパーの闘鶏擬いの成熟にもっと逞しい鶏を立ち向かわせることができる。


私は彼に、あの時代に私たちが悪に耽っていたのは、
ポルトガルを流れるドゥーロ河沿岸の純粋な葡萄の液に混ぜる酒精のようなもので、
この色々な暗黒の成分を含む強い酒精がポート酒の発酵を抑え、
酒が何年も酒倉に置かれてついに食卓に出すのに適した状態となるまで、
それを飲めなくしているのと同様に、
私達がしたことは私たちの青春の作用を遅らせるとともに、
それを豊かにしたものだと彼に言うことが出来る。


私は又彼に、一人の人間を愛してその人間に就いてを知るのが
一切の知恵の根幹なのだとも言える。



アルカディアとしての青春時代を過ごした人間のさみしい告白である。


読んでてさみしい。


ブライヅヘッドふたたび


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posted by 信州読書会 宮澤 at 14:20| Comment(0) | イギリス文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ブライヅヘッドふたたび イーヴリン・ウォー 吉田健一訳 ブッキング その1


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★第一部『會てアルカディアに』
まず、ライダーのオックスフォード大学1年目の寄宿舎生活が回顧される。
ライダーは、入学そうそう従兄のジャスパーから学生生活のあり方全般について、
訓戒を与えられるのだが、その訓戒に、結構、自分の大学時代の生活を思い出してしまい、笑った。



「成績は一級か四級にならなくちゃだめで、その間じゃ意味がない」


「教授を先生のように扱わないこと、それよりも家にいるときの近所の牧師さんだと思えばいい。」


「二年目の半分は、一年目に出来た好ましくない友人を振り切ることに費やされる」



こんな、プラグマティックな訓戒を与えられる。
そして、寄宿舎生活である。(なぜか、吉田健一は寄宿舎とか寮という訳語を避けている。)


ジャスパーは、部屋の一階に住むと、人が気安く入ってきて、晩に着るガウンを置いていっては、
毎晩、それをとりにきて、シェリーを出しているうちに、無料の酒場を開くことになると忠告する。


そして、そのあとにつづくの記述が面白かった。以下引用、改行は適当。



私は、その日、そうして与えられた注意の一つも実行した覚えはない。
兎に角、部屋を変えなかったことは確かで、その窓の下には
夏にあらせいとうの花が咲いて部屋中をその匂いで満たした



自分が若かった頃を実際以上に早熟なものに、或は無邪気なものに作り変えて回顧し、
戸の縁の背の高さを示して刻んだ印の日付に手を入れることは易しい。



私は、私がその部屋を、ウィリアムモリスが織らせた壁掛やアランデルの版画で飾り、
本棚には、十七世紀の二つ折り版の本や、ロシア産の鞣し革、
或は波紋絹で装丁した第二帝政時代のフランス小説を並べていたと思いたくて、
又時には、本当にそう思うこともある。



併しそれは嘘で、私は炉の上にゴッホの「日向葵」の複製をかけ、
部屋の隅に、ロジャー・フライがプロヴァンスの風景を書いた屏風を立てたが、
これは、オメガ工芸が店じまいをした時に安く手に入れたものだった。



又、マクナイト・コーファーのポスターとポエトリー・ブックショップ版の詩の刷りものを飾り、
それよりも思い出すのが辛いのは、戸棚に黒い蝋燭の間に
「三文オペラ」に出てくるポリー・ピーチャムの瀬戸物の像を置いたことだった。


私の持ってきた本も少なくて平凡なものばかりで、
(中略 ※注 ただ、ここで本の題名が列挙されるがすべてマイナー)
という訳だったから、凡てがその頃、私が友達となった人達によく似合う背景を成していた。






以上のような平凡な趣味の学生だったライダーが、個性の臭いが強烈なセバスチャンに出逢い、
文化的に相当に覚醒されていく様子が、その後綿々と綴られるのだが、それは今後紹介したい。



ブレヒトの「三文オペラ」のポリー・ピーチャムのフィギュアが実在したのか、
あるいは、シュールなギャグとして創作し、嘆いてみせたのかは、微妙なところだが、
ここに描かれているような、学生時代の部屋の恥ずかしさというのは、
誰でも少なからず思い当たる節が、あるんじゃなかろうか。



まあ、『パルプフィクション』や『勝手にしやがれ』のデカイポスターを部屋に貼るとか、
北斗の拳のフィギュアやブルース・リーのフィギュアを本棚の上に飾って、
あるいは、その本棚の中には、宮台真司の自己啓発本や読みもしないハイデガーや
黄色かった頃の講談社現代新書が、こち亀やゴー宣や松本大洋の漫画といっしょにならんでるとか、
そういうことや、それに類することは、往々にしてやっちまうものである。




そして、その部屋に見合った友達ができるというのも皮肉なものである。


どういう友達かというと、松田優作の話で一晩語り合えるような友人である。
要するにおたくとサブカル好きの間にいるような成績で言うと一級でも四級でもなく
まさしく、その間じゃ意味のないというような友人である。


やがて、スタバを襲撃する小説を思いつき、処女作として深夜に書き上げて、
友達に読ませたら、村上春樹の『パン屋再襲撃』パクリだと指摘されて
こっぱずかしい思いとオリジナルの難しさを痛感させられて、大学の一年目が終わるのである。


このように、いろいろ思い出させるやっかいな小説である。
心くすぐる、固有名詞がさりげなく出されて、自分の趣味を難詰されるような錯覚をおぼえる。


村上春樹の小説でも、こういう手法がつかわれていて、
なんか、郊外のドトールで主人公と隣り合った見知らぬ女性がディケンズの『荒涼館』を読んでいて、
やがてセックスにいたるとか、いたらないとか、そんなまるで、『荒涼館』のために書かれたような
変な短編を昔読んだ記憶があるが、村上春樹はウォーに比べてテレがないぶん、


読んでるほうがテレくさい思いをさせられて、やがてその気持ちが怒りの感情に変わるときがある。



ただ、日本において固有名詞を駆使して趣味を語るというのは小説では難しいので、
そういうことに挑戦して、村上春樹はひねりがないながらも半ば成功していると私は個人的に思うし
そういう意味で、村上春樹は相当に力量があるんだと思う。と思っております。はい。すみません。


また、続きを書きたい。


ブライヅヘッドふたたび


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posted by 信州読書会 宮澤 at 14:19| Comment(0) | イギリス文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ビフォア・サンライズ 恋人までの距離


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★あらすじ
アメリカ人の青年ジェシーとフランス人の女性セリーヌは
ユーロトレインの車内で、知り合い、意気投合する。


途中下車して、ジェシーが翌朝の9時30分の飛行機に搭乗するまでの
一夜をウイーンを散歩しながら過ごし、ふたりは淡い恋に落ちる。


早朝の別れ際に、6ヶ月後に再会することを約束し、
ふたりはそれぞれ、帰途の眠りにつく。



★感想
9年後の再会の映画『ビフォア・サンセット』を先に観ていたので、
先ず、イーサン・ホークとジュリー・デルピーの若さに驚く。


占い師に『人生のもどかしさを受け入れなさい』と忠告されるような
ジュリー・デルピーの、意固地なところが痛々しかった。


知性のあふれる女性ゆえに、9年後もなんだか
人生のもどかしさの中で生きており、お気の毒である。


電車の中で『マダム・エドワルダ』を読んでいる時点で、不幸な女性だと思う。



その後、イーサン・ホークに向かって、占い師に対する態度が気に入らない
と突っかかってゆくあたりは、占い師の忠告が図星ゆえの、八つ当たりという感じもした。


イーサン・ホークが占い師を馬鹿にしたのは、ジュリー・デルピーに対する
フォローのような気がしたのだか、そういう風に受け取れない
意固地なところがとこが、なんだかなあという感じである。


もっとも、これは私が男性の立場で見ているからだろう。


河岸で倒れこんでいる詩人の詩句を、
ミルクセーキを当てはめただけじゃないかと揶揄する


イーサン・ホークの態度のほうが、問題じゃないかと思った。


イーサン・ホークが自分を13才の少年のように感じるといい、
太陽を背に庭に水を撒いている時に、死んだ祖母の幻に出逢ったという話を
まじめにするのだが、こういう話は子供っぽいと誤解を受けるであろうから
平素はなかなか、人には語りがたいものだと思う。



そういう話を、茶化さずに語れるところに彼の誠実さとロマンティシズムを感じ、
ジュリー・デルピーの前で、無理に大人っぽく振舞わないところに、
えらく感心してしまった。アメリカ人にもこういう素直でいい奴がいるらしい。

まあ、でも、半年後に来ないわけですよ。かの人は。


ビフォア・サンライズ 恋人までの距離 [DVD]

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posted by 信州読書会 宮澤 at 14:18| Comment(0) | 洋画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

けものたち・死者の時 ピエール・ガスカール 渡辺一夫・佐藤朔・二宮敬訳 岩波文庫


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Wikiによるとかつて、三島由紀夫は、大江健三郎のことを

「東北の山奥から出てきた小娘が上野駅で女衒にかどわかされて淫売屋に叩き売られるみたいに、
あいつは四国の山奥から出てきて、渡辺一夫という女衒にかどわかされて、
岩波楼っていう淫売屋に叩き売られたんだよ」

と揶揄したそうである



初期の大江が影響を受けたといわれるガスカールの短編集を
大江のかけがえのない恩師である仏文学者渡辺一夫が共訳、編集。



最近、ソレルの『暴力論』とともに岩波文庫で出た。
7つの短編が収められているが、渡辺一夫が初稿を起こした作品はない。
そういう意味で、渡辺一夫の名前が最初に冠されるのも変なものだと思う。





★『けものたち』あらすじ

ドイツ兵の捕虜となった40人のロシア人が、納屋へと押し込められ、
飢餓に喘いでいる冬の日に、6人のウクライナ人の捕虜が到着する。


彼ら6人の新入りは、爆撃で潰れた煙草屋から盗んだ
大量の煙草を持っていたために、捕虜全員に動揺を与える。



かくして、『死の家の記録』や『イワンデニーソヴィチの一日』にも
描かれているとおりに、煙草は貨幣の代わりとして流通しはじめる。



やがて、ふたりの勇敢な捕虜が納屋から抜け出して、近隣の貯蔵庫から
夜な夜な、ジャガイモを盗み出す芋泥棒として活躍する。
盗んだジャガイモは、煙草によって交換され、捕虜たちの空腹を満たした。


その納屋の前には、巡回サーカス団の動物小屋があり、
ライオンや熊が、捕虜たち同様に餓えに苦しんでいた。


動物小屋の番人エルンストは、動物たちに餌として肉塊を与えていた。
そこで、ある捕虜の知恵が、すべての顧客の取引を一手に引き受ける商売をあみだす。


彼は、エルンストが動物たちに与える肉塊を、煙草と交換して仕入れたのだ。


かくして、捕虜は肉を味わうが、一方で餌を与えられなくなった
ライオンや熊によって、激しい飢えからくる咆哮の嵐が巻き起こり、


その啼き声や叫び声に、捕虜たちは本能的な恐怖を感じる。
春が近づき、芋泥棒の足跡が雪の跡から見つかる。警官が納屋にやってきて
芋泥棒のふたりの捕虜を逮捕し、煙草は差し押さえられ、元の黙阿弥となる。


芋泥棒は、ピストルで射殺され、納屋の前に死体が投げ捨てられる。
懲罰として三日間の絶食を課せられた捕虜たちは、
けものたちの餌の肉塊と芋泥棒の死体と交換しようと画策しはじめる。





そのとき、ドイツの前線を破るロシアの大砲が鳴りひびく。完。


★感想
典型的な収容所文学だが、ドストエフスキーやソルジェニーツィンが、
ワンエピソードで扱うような主題で、短編を拵えてしまっている。


立川談志の言葉を借りれば、


セコな根多だねぇ、恥ずかしくないのかねえ、


という感じである。



捕虜たちの人間性を、探求して描いているわけではないので、
けものに人肉を喰わせたとしても、短編のトーンは変わらない。


要するに暗い。



ラストのロシアの大砲は、短編のオチとしてあざとすぎる。

けものたち・死者の時 (岩波文庫)


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posted by 信州読書会 宮澤 at 14:17| Comment(0) | フランス文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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