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海軍兵科予備学生の島尾敏雄が、
終戦までの二年間訓練をうけて
遂には、人間魚雷の特攻隊隊長になるまでの
顛末を描いた小説。魚雷艇学生
学生気分の抜けきらぬまま入隊し
軍隊の中で逆説的に人間関係と世間での
処世術を学んでしまう悲哀がユーモアとともに描かれている。
実用性に乏しい体力作りのためだけの訓練や
軍隊秩序維持のために行使される
修正という名の上官の理不尽な暴力
個人的な意見は一切抑圧された非人間的なの愚劣な日々を
予感と不安と体験と習慣というローテーションで甘受した先に
待ち構えていたものは特攻隊隊長への任命だった。
目前に迫った「死」を精神的動揺としてではなく
捉えがたい観念としてもてあましてしまうあたりに
異様なリアリティーが輝いている。
特攻隊になったとたん、怠惰に傾いていく主人公の感情は
意図せざる反戦的態度だ。
この小説はあらゆるエピソードが凝縮されていて圧倒されるが
第七章「基地で」に最も興味深いエピソードが現われる。
基地進出に当たってささやかな壮行会が特攻隊幹部で料亭にて催される。
宴もたけなわになる頃、突然隣の部屋から海軍下士官の一群が乱入し
「特攻隊が何だ、自分たちも何々だ」といいながら殴りかかり乱闘騒ぎになる。
特攻隊への反感感情の爆発という小事件であり、
死を目前にした特攻隊員にこんな仕打ちがあったのかと
当時における特攻隊崇拝の熱狂的な雰囲気を勝手に想像していた
私に鮮やかな一撃をくらわせた印象的なエピソードだ。
だが、私はこのエピソードを読んで、ある直感に撃たれた。
このエピソードだけは、島尾敏雄の創作なんじゃねえか?
という直感である。しかし、証明する手立てはない。
ないとは、いえないが、その前にも料亭での修正のエピソードがある。
私の直感や洞察力をいたずらに誇示したいわけでなくて、
たぶん、こういう肝心なエピソードに島尾敏雄の想像力が入らないかぎり
凡百の個人的な感傷の枠内の戦争体験談と変わらないと思う。
つまり、敢えて小説にしたというのは、島尾の深い企みがあるはずだと信じる。
感傷の泥沼に筆をとられることなく「魚雷艇学生」を書き継ぐには、
そこに想像力の自由が働く豊饒な余白があったからではないのか。
島尾敏雄というのは、そういう剣呑な作家だと私は勝手に確信している。
「死の棘日記」を私は未読だが「死の棘」にはずいぶん創作があると仄聞する。
島尾の作品内部に表れる繊細な感受性には、常に舌を巻きつつも
それだけが取り柄の作家だとしたら、あんなに惹きつけられないはずだ。
大胆な嘘をつく作家であって欲しいと願うのは贅沢な感傷であろうか。
ふつうだったらあんな草食動物が反芻しているみたいな人の作品惹かれないよ。
島尾のユーモアというのは、案外、グロテスクな想像力に根ざしてるんじゃないかな。
いや、そうあってほしい。
特攻隊隊員に殴られて鼻血だらけになった島尾のシャツが、
翌日きれいに拭い取られているというのは華麗な嘘のほころびかも。
島尾の想像力というものを考えながら読んで欲しい作品だ。
もちろん戦争の記録としても充分感興はあるけれども。
魚雷艇学生 (新潮文庫)
続編は「出孤島記 」「出発は遂に訪れず 」
この辺は文体も違って別作品のような印象がある。




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